国家神道は政教分離原則に言う<宗教>ではない




朝日新聞の投書欄「声」(2013年10月6日付け)に次のような意見が掲載されていました。
愛知県の64歳のパート労働者の方の投書。

▼伊勢神宮参拝 改憲への序走か
憲法20条が定める「政教分離」は、戦前、政府が「神社は宗教にあらず」として国民に神社崇拝を強要し、国家神道の名の下に軍国主義を支えた反省から、政治と宗教の分断を図ったものである。安倍晋三首相は2日、伊勢神宮の「遷御の儀」に参列した。伊勢神宮は戦前、国家神道の頂点として、靖国神社とともに国民に対する思想統制や無謀な戦争を推進する役割を果たした。

「私人として」と言い繕おうが、首相は政府のトップである。それが公務員の憲法遵守義務を軽んじて憲法の「政教分離」規定に抵触しかねない行動に出たわけである。改憲に向けた環境整備の一環なのだろうか。

自民党改憲草案は、国などに「特定の宗教のための教育その他の宗教活動」をしてはならぬと禁じた上で、「ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない」と例外規定を置いた。(中略)戦前同様、国家神道を国民を束縛する道具にして、なし崩し的に軍国主義化を推し進める危うさを感じている。(以上、引用終了)



蓋し、「一葉落ちて天下の秋を知る:見一葉落、而知歳之将暮」(淮南子)と言うくらいですから、「首相の伊勢神宮参拝を見て、なし崩し的に軍国主義化を推し進める危うさを感じる」のは投書子の勝手でしょう。また、大東亜戦争が--敗北必至かつ開戦を回避可能だった--「無謀な戦争」であったかどうか、あるいは、戦前の日本が果たして「軍国主義」なるものであったかどうかもまた、(その認識の正しさが一重に主観的に決するとまでは言わないけれど、少なくとも間主観的に決するしかなく、よって、その真偽もまた容易に判定できないタイプの)「歴史解釈の問題」であるか、「無謀な戦争」や「軍国主義」などの言葉の定義の問題であり、要は、それもまたかなりの程度に投書子の勝手と言えるもの、鴨。

他方、現行の占領憲法20条が定める「政教分離原則」は--武士の情けで「通説・判例から見ても」とまでは言わないけれど、また、政教分離原則を巡る有名な「目的・効果・過度の関わり合い」基準の説明は割愛しますけれども--多数説・判例から見ても、また、占領憲法の<母法>であるアメリカ連邦憲法およびドイツの諸憲法から見ても、「国家が宗教に関連する事象に関与したとしても、それらが社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない場合には違憲とはされないとするルール」であり、更に言えば、それは「教会組織と政治権力の分離を求めるルール」もしくは「国教樹立禁止のルール」なのです。

つまり、「それを「私人として」と言い繕おうが、政府のトップである首相の伊勢神宮の「遷御の儀」への参列は、公務員の憲法遵守義務を軽んじる、憲法の「政教分離」規定に抵触しかねない行動」であるとする投書子の認識は憲法論的には間違いです。しかし、このことの詳述も別の機会に譲ります。

尚、政教分離原則、就中、首相の靖国神社参拝を巡る私の基本的な憲法理解については、
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・首相の靖国神社参拝を巡る憲法解釈論と憲法基礎論(1)~(5)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144005619.html

・憲法訴訟を巡る日米の貧困と豊饒
 ☆「忠誠の誓い」合憲判決-リベラル派の妄想に常識の鉄槌(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61669703.html


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この投書を目にして、私が投書子の無知、更に言えば、「日本の戦後の憲法教育の不備」を最も強く感じたのは、「神社は宗教にあらず」という、一見、支那の対日批判ばりの強弁や朝日新聞の安倍内閣批判の如き詭弁にも思える言明が、実は、憲法論からは--より正確に言えば、憲法の概念や憲法規範の効力根拠をゼロベースから吟味検討する憲法基礎論や憲法を巡る法哲学からは--満更間違いとは言えないという認識が欠如している点でした。

もちろん、私が今述べていることは、例えば、「法隆寺を建てたのは誰ですか?」というクイズに対して「大工さん!」という解答を正解と考える人はそう多くないだろうこととパラレルに、「神社」は建物であるかそれを運営する人的組織であり「神社は宗教にあらず」というのは当然だとかいうものではありません。

要は、「神社は宗教にあらず」とは、憲法論的には「国家神道は政教分離原則に言う宗教ではない」という意味であり、そして、私はこの「国家神道は政教分離原則に言う宗教ではない」という命題は憲法論的には--就中、言葉の正確な意味での「現代の保守主義」と親和的な憲法論からは--正解になりうると考えています。

畢竟、「神社は宗教にあらず」という言明の憲法論的な是非の判定は「宗教」という言葉の憲法論的語義に収斂する。老婆心ながら申し添えておけば--それは、国語辞典に記されている、一般庶民が織り成す日常の言説空間における「宗教」という言葉の意味、他方、宗教学者や宗教哲学者の思念する「宗教」という概念の内包と外延と無関係ではないものの--「神社は宗教にあらず」という命題の是非が憲法論において取り上げられる場面で問題になる「宗教」の語義とは、一重に「政教分離原則が禁止する/許容する、あるタイプの国家権力の行為」の範囲を確定するものでしかないということです。


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而して、「主権国家=国民国家」が誕生して以降、就中、日本を含むほぼすべての国家が大衆民主主義下の福祉国家となった20世紀半ば以降、そして、グローバル化の昂進著しい中で国家が国民の生命・身体・財産・名誉の守護者としての機能を一層期待されてきている21世紀初頭の現在において、「憲法」は、(Ⅰ)国家権力とその権力行使の制約根拠であると同時にその正当化根拠であるだけでなく、(Ⅱ)本来、想像の共同体にすぎない<民族>や<国民>の与力を受けながらも、人々を国家に社会統合するためのイデオロギー装置でもある。

この「憲法」理解が満更我田引水や間違いではないとするならば、日本においても、そして、現行の占領憲法においてさえも、「天皇制」こそ現行憲法とそれが恒常的に紡ぎ出し編み上げている日本の実定法秩序の核心である。よって、イデオロギーとしての「国家神道」が政治的神話としての「天皇制イデオロギー:皇孫統べる豊葦原之瑞穂国という日本国の自己規定」の不可欠のパーツであるという認識が否定されない限り、「国家神道」もまた現行の憲法秩序の核心的内容なのだと思います。

畢竟、憲法秩序の核心的内容を、単なる制度的保障にすぎない政教分離原則が否定できるはずはない。つまり、憲法論的には、「国家神道を巡る国家権力の行為は--それが、個人の信教の自由を(a)具体的かつ現実的に、(b)社会的に妥当とされるある受忍限度を超えて侵害するものではなく、更に、「国家権力の行為」が立法である場合には、(c)その法規の制定目的と目的達成の手段ならびにその目的と手段との関係という三者のいずれかに「明白な誤り」が認められるのでもない限り--政教分離原則が禁止するという意味での宗教ではない」のです。

よって、冒頭にも述べたように「首相の伊勢神宮参拝を見て、なし崩し的に軍国主義化を推し進める危うさを感じる」のは投書子の勝手でしょうが、そのような個人の美意識に本籍を置く曖昧かつ現存しない危惧を理由に、「首相の伊勢神宮参拝を違憲」と主張できると考えるのは間違いである。逆に言ば、首相の靖国神社参拝は違憲どころか、寧ろ、現行の占領憲法からさえも要請・推奨されている。と、そう私は考えます。

すなわち、「国家神道」は、近代国家が容喙すべきではない、比較不可能な<私事としての世界観>ではない。なぜならば、「国家神道」はこの社会の社会統合のための<政治的神話>として現行の憲法典にビルトインされている実定的な政治イデオロギーなのですから。 そして、「近代国家」や「近代的意味の憲法」などは国家や憲法の分類と認識の枠組みにすぎず、憲法規範の内容としてそれが実定法秩序に優先することなど論理的にありえないのですから。

言葉の正確な意味での「現代の保守主義」(①自己の行動指針としては自己責任の原則に価値を置く、そして、②社会統合のイデオロギーとしてはあらゆる教条に疑いの眼差しを向ける、よって、③社会統合の機能を果たすルールとしては、さしあたり、その社会に自生的に蓄積された伝統と慣習に専ら期待する、換言すれば、その社会の伝統と慣習、文化と歴史に価値を置く態度と心性を好ましいと考える、而して、④その社会の伝統と慣習、歴史と文化に価値を置く態度と心性がその社会のスタンダードな態度であり心性であることを認めリスペクトするような<外国人たる市民>に対しては、逆に--古来、日本が「帰化人」の人々に対してそうであったように--彼等の社会の伝統と慣習、歴史と文化をその<国民>の方もリスペクトすべきだと考えるタイプの社会思想である「現代の保守主義」)の視座から敷衍しておけば、「国家神道」は②教条ではなく、③日本国民と外国人たる日本市民とを問わずこの社会で尊重されるべき伝統と慣習である。


而して、「教条」と「伝統・慣習」を分かつものは、この社会に自生する伝統と慣習を巡る、
遂行論的な言語ゲーム的な人々の営みに他ならない。と、そう私は考えます。


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蛇足ながら申し添えて置けば、④新大久保近辺で「在日韓国人は日本から出て行け!」など叫んでいるらしいグループは--自覚的か無自覚的かはいざ知らず、保守派のイメージを毀損しているという点で--反日リベラル派と特定アジアの別働隊に他ならない。いずれにせよ、彼等が現代の保守主義とは無縁な「教条主義的な社会主義」の徒であることは自明であろうと思います。

国内法的にはもちろん、国際法的にも--数世代に亘り一応平穏に滞在しており、実質的に生活の拠点が日本にあり、ある一人に対する国外退去処分が必然的にその家族の分離を意味する以上、残念ながら--在日韓国人一般を国外退去処分することは認められない。ならば、「在日特権」なるものが問題であるとするならば--私自身も、実際、「特権」と呼ばれても文句が言えないくらいの問題があると考えないではないけれども--新大久保近辺を騒がせているグループは、安倍政権に対して、

(ⅰ)所謂「特別永住権」制度を即時廃止すること。つまり、在日韓国人たる日本市民に対しては、名誉ある「韓国国民」たる外国人になるか日本に帰化するかを選択していただくこと

(ⅱ)雇用保険や健康保険等々のその国籍にかかわらず資格者には認めることが合理的であり正義にかなうもの、あるいは、義務教育サービス等々の相互主義の観点から国籍によっては資格者には認めることが合理的であり正義にかなうものを除き、原則、外国人に対するすべての社会保障サービス(要は、社会権的基本権の各論的具現)の提供を即時廃止すること

(ⅲ)国民主権の原理から見て--国家権力の行使と関連しない場合を除き--外国人たる日本市民に認められている違憲な「住民投票資格」あるいは「政党の代表選挙投票資格」を即刻廃止するべく強いリーダーシップを発揮すること

これら(ⅰ)~(ⅲ)を働きかけることに、よって、これらに反対するだろう朝日新聞やNHKといった反日リベラルとの言論戦に汗をかくべきではないか。そう、「敵は新大久保ではなく築地と永田町にあり」なのです。と、そう私は考えます。


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