決定! 東京オリンピック2020--筋違いの<五輪幻想>から解脱して素直に喜びませんか(中)





本稿冒頭に記した「原発事故の汚染水から薬物へ争点をそらす」といった--「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」でもあるまいに、安倍総理がその誘致に貢献したからには、五輪の誘致成功に対しても斜に構える--反日リベラルの姿勢には嗤ってしまいます。けれども、<五輪>を巡っては反日リベラルとは思えない論者からもトンデモとまでは言わないけれど、些か支離滅裂な言説を聞くことが少なくない。

例えば、「オリンピック誘致には誰もが納得する開催理念が不可欠」とか、「オリンピックの開催権は五輪による国威発揚をその指導者も国民も願っている新興国に譲るべきだ」などという主張のことです。「開催理念の普遍性」と言って思い出すのはバルセロナオリンピック1992の開催理念。確かその一つは「コロンブスによる新大陸発見500年記念」だったと記憶していますが、「新大陸」での大量殺戮の開始を記念するようなフレーズが「誰もが納得する開催理念」というものなのでしょうか。


(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。


このバルセロナの開催理念や、「環境に優しい五輪」を標榜した北京オリンピック2008のそれは武士の情けでジョークと看做すとして、他人事ながら心配になるのは、こんな主張をする方々は(空襲の焼け野原から奇蹟の復興を成し遂げ、高度経済成長期[1955年-1973年]のど真ん中で開催された東京オリンピック1964、あるいは、ヒトラーのオリンピック『民族の祭典&美の祭典』と謳われたベルリンオリンピック1936の印象に絡め取られているのか)、白黒はっきり言えば、夏季と冬季を問わずオリンピックが--もちろん、諸条件を満たしている限りそれ以外のエリアからの参加も大歓迎にせよ--「欧州と北米の運動会」である事実が見えていないのではないかということです。

例えば、ロンドンオリンピック2012年までの夏季30回、冬季21回のオリンピック大会は--第一次世界大戦と第二次世界大戦のため中止された3回の夏季五輪を除く--夏季全27回中の21回、冬季に至っては札幌と長野の両大会を除く全21回中の19回が欧州または北米で開催されている。同じく2012年現在で、五輪開催経験国は夏季が18カ国、冬季は10カ国にすぎず、かつ、非「欧州または北米」の五輪開催経験国は夏季がオーストラリア、日本、メキシコ、韓国、支那の5カ国しかなく冬季は日本だけなのですから。

畢竟、オリンピックムーブメントとは--欧州貴族の美意識に根っ子を持つ--「欧州と北米の運動会活動」。加之、オリンピックとは--1974年にオリンピック憲章から「アマチュア規定」が削除され、ロスオリンピック1984以降、就中、アトランタオリンピック1996以降、商業化が著しくなったとかの<五輪の段階論>や<五輪の現状分析論>とは位相を異にする、謂わば<五輪の原理論>において--単なる民間の任意団体がオーソライズしている「運動会の興行」にすぎないのです。これらのことが看過され誤解されているからか、日本ではオリンピックを巡る少なくない言説に--五輪を讃える方向と叩く方向のいずれにおいても--<五輪幻想>が憑依しているの、鴨。と、そう私は考えます。

▽<五輪>とは・・・
・欧州と北米の運動会活動
・欧州の民間の任意団体が勧進元として発給する運動会の興行権、
および、その興行権に基づく運動会の勧進興行



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蓋し、<五輪>は「主権国家の枠組やしがらみをしたたかにしなやかにくぐり抜けてきた地球市民的ムーブメント」なるカルト的オリンピック理解とは金輪際無関係なsomething。

敷衍すれば、「オリンピックは平和の祭典」とか「オリンピックムーブメントはナショナリズムの対極にある地球市民的の共同体を志向する文化運動」などという<五輪>の認識は--新カント派の認識論、もしくは、分析哲学や現象学からの<テクストとしての対象世界理解>の構図を引き合いに出すまでもなく--、オリンピックの歴史を一瞥するならば、あるいは、オリンピック憲章とオリンピックの大会運営プロトコールを一読すれば、それが<五輪>とは縁もゆかりもないことは自明でしょうよ、ということです。

まして、「政治とスポーツは切り離されるべきであり、就中、オリンピックは政治から独立した存在だ。ならば、政治色濃厚な招致活動自体に皇族が関与するのは問題ではなかろうか」、あるいは、「オリンピックは平和運動でもあるのだから、集団的自衛権の政府解釈の変更を狙い、憲法改正を目指している--日本を戦争のできる国に変えようとしている--安倍政権下の日本には五輪を誘致する資格がない」、はたまた、「原発事故処理が完全に終わらない限り五輪は日本で開催されるべきではない」などの言説は、オリンピズム(Olympism)なるものの我田引水的な援用であるか、オリンピックムーブメント(Olympic Movement)の曲解に基づく贔屓の引き倒しの類の言説、もしくは、その両方、いずれにせよ噴飯ものの戯れ言にすぎない。私はそう考えます。

確かにオリンピック憲章(オリンピズムの根本原則2)には、オリンピズムの目的は「平和な社会を推進すること」(promoting a peaceful society)と書いてあります。けれど、実際、夏冬いずれかの五輪を開催した国(22カ国)に限っても、英国・ロシア・スペイン、ギリシア・米国・韓国・支那、フランス・ユーゴスラビア等々--国連のPKF活動への参加はカウントしないとしても--五輪開催経験国の半数以上が第二次世界大戦後も戦争・内戦を経験しており、他方、同じく五輪開催経験国(22カ国)の7割以上が--「引退表明」したドイツとスイスを除いても--現役の原発保有国なのですから。


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日本に特有な<五輪幻想>の片鱗は上述の朝日新聞の小見出し「原発事故の汚染水から薬物へ争点をそらす」にも垣間見えている、鴨。そこには「安倍首相は集団的自衛権の政府解釈の変更に前のめりだ」とかの「前のめり」ならぬ「高飛車」な口ぶりとパラレルな天動説的かつ教条主義的なリベラル派特有の傲岸不遜が炸裂しているということ。

なぜならば、五輪開催地決定に関して「原発事故の汚染水問題」は「薬物問題」に比べてより重要な考慮要因(major factor)であることが明らかでもない限り「そらす」などというフレーズを朝日新聞から頂戴する筋合いは安倍総理にせよIOCメンバーにせよ誰にもないから。そして、両問題の重要性の順位が誰にとっても明白などということはないのですから。

しかし、<五輪>を巡るこの朝日新聞の言説にはもう一つ別のバイアスも組み込まれているの、鴨。それは、<五輪>に関しては--オリンピズムを顕揚称揚してやまない、よって、オリンピックムーブメントを取り仕切るIOCメンバーには--リベラル派の「脱原発論」が受け入れられるはずだという根拠不明の思い込みです。朝日新聞の同日の紙面(2013年10月10日)にはこうあります。

「分岐点は9月4日、東京招致委の記者会見は、原発絡みの質問が6問中の4問を占めた。竹田恒和理事長の答えは要領を得ず、海外の通信社も「福島問題が東京に暗い影」と配信した。流れを変えようと、東京招致委は翌5日の会見で過去の五輪、パラリンピックで日本に一人もドーピング違反者がいない実績をアピールした。薬物禍に悩むライバル2都市を意識した戦略は当たり、海外メディアの関心は薬物問題にも移った」、と。

私はIOC委員に一人の知り合いもいませんので、この記事が正しいのかどうかはわかりません。けれども、間違いなく言えることは、①朝日新聞が「海外メディアの関心」と「IOCメンバーの関心」が連動しているはずと考えていること、しかし、②その両者の連動性の想定にはなんの根拠もないだろうことです

蓋し、③この連動性を朝日新聞に想定させているものは、<五輪>の世界観はリベラル派のそれと親和性があるはずだという上に述べた根拠不明の思い込みなのではないか。そして、④この思い込みの更に基底に横たわるものこそ「オリンピックムーブメントはナショナリズムの対極にある地球市民的の文化運動」といった、これまた根拠皆無の、贔屓の引き回しでさえある<五輪幻想>なの、鴨。と、そう私は考えます。

バンクーバーオリンピック2010の期間中、朝日新聞(2010年2月24日)が配信した次のような西村欣也編集委員の署名記事を踏まえれば、上述の如き、反日リベラルからの<トーテムポール>を連想させる「物象化した五輪」のイメージ。すなわち、「自分達が勝手にこしらえた<五輪幻想>に自分達の認識と行動が制約されている」と看做す、そんな反日リベラルの五輪を巡る言動の理解は満更間違いではないのではないでしょうか。


▼薄らぐ「日の丸」意識
五輪憲章に「オリンピック競技大会は個人種目または団体種目での選手間の競争であり国家間の競争ではない」と規定されている。しかし、過去の五輪を取材してきて、「日の丸」の重圧に押しつぶされて、最後に実力が発揮できなかった選手を多くみてきた。

今回の五輪は少し様子が違う。「国家」をあまり意識しない大会になっているのだ。フィギュアスケートだけに限ってもそうだ。ペアの川口悠子は2009年1月にロシアの国籍を取得して、ロシア代表として出場、4位に入賞した。長野五輪でエレーナ・ベレズナヤの滑りにあこがれ、コーチのモスクビナに何度もファクスを送り、この道にたどり着いた。越えてきたものは「苦労」などという言葉では表しきれないだろう。「でも、私はコーチがアフリカ人ならアフリカまで行ってましたね」ボーダー(国境)を越えることに特別な意識はなかった。

父が米国人、母が日本人のキャシー・リード、クリス・リード姉弟はアイスダンスで日本代表として出場した。着物や扇子を小道具にした演技に会場が沸いた。女子には米国代表として16歳の長洲未来が出場。両親ともに日本人だが、米国に住み、米国人としての出場だ。「私は日本式のルールで育てられた。日本のファンにも応援してほしい」

スポーツのボーダーレス化は歓迎すべきことだろう。スポーツという言語によって国境がなくなっていく。

その舞台がバンクーバー五輪というのも特別な意味があるのかもしれない。カナダは移民による多民族国家だ。モザイク社会とか、サラダボウルのような社会と言われる。サラダボウル社会とは、それぞれの民族がサラダボウルという器の中に、それぞれを主張しながら、存在しているという意味だ。いろんな野菜はカナダというドレッシングをかけても、調和しながら、にんじんとしての中国、キャベツとしての韓国、大根としての日本という個性を失わない。さらに先住民族がいる。

五輪で国は深い意味合いを持たない。浅田、安藤、鈴木はその重圧とは無縁のままフリーまでの演技を終えてほしい。



(以上、引用終了)



б(≧◇≦)ノ ・・・<<呆れて言葉が出ないんですけど>>


確かに、『オリンピック憲章:Olympic Charter』(2010年2月11日版)の(Ⅰ章6-1)には、「オリンピック競技大会は、個人種目もしくは団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」(The Olympic Games are competitions between athletes in individual or team events and not between countries. )と書いてあります。


けどね、けれども、


オリンピック憲章と「五輪で国は深い意味合いを持たない」という認識は無関係。ならば、このようなミスリーディングな言明は無知を通り越して無謀、姑息を通り越して滑稽というものではないかしら。と、私はそう思います。


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<続く>



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