平和主義とは何か--戦前の日本は「軍国主義」だったのか?--(上)





安倍総理がその実現を目指す「率先して平和に貢献する存在に日本をすること」、所謂「積極的平和主義」(to become a Proactive Contoributor to Peace)を巡って、反日リベラルのメディアには、集団的自衛権を容認して米軍と自衛隊の共同の軍事行動を容認するような姿勢は、いかなる意味でも「平和主義」(pacifism)ではないなどと述べる社説や投書が見られるようです。例えば、朝日新聞は、2013年9月17日付と28日付の社説で概略こう述べている。下線はすべてKABUによるもの。


▼集団的自衛権の行使―憲法の根幹にかかわる
日本の安全保障政策が岐路を迎えている。安倍政権が、集団的自衛権をめぐる憲法解釈の見直しに向けた議論を本格化させる。

憲法9条のもと、自衛のための必要最小限の防衛力しか許されない。日本が直接攻撃されていないのに他国を守るのはこの一線を越えており、憲法に違反する――。

歴代政権が一貫して示してきたこの解釈を変え、米軍などへの攻撃に対しても、自衛隊が反撃できるようにする。これが安倍首相の狙いである。戦後日本の基本方針の大転換であり、平和主義からの逸脱と言わざるをえない。憲法改正の厳格な手続きを省いたまま、一内閣による解釈の変更だけで、国の根幹を変えてはならない。

首相の諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」がきょう議論を再開し、年内にも9条の解釈を改めるよう提言する。政権はそれを反映して新たな見解を出し、必要な法整備に着手する。・・・

実現すれば、自衛隊は「普通の軍隊」に限りなく近づく。法律で縛りをかけるとはいえ、政治の意思で活動範囲が際限なく広がり、海外での武力行使にもつながりかねない。

平和主義は国民主権、基本的人権の尊重とともに、憲法の3大原則とされている。多くの日本人は、これを戦後日本の価値観として受け入れてきた。 自衛隊は今日まで海外で一人の戦死者も出さず、他国民を殺すこともなかった。9条による制約があったからだ。それを変えれば、9条は歯止めとしての意味を失う。・・・

たしかに、中国の軍事力増強や、北朝鮮による核・ミサイル開発は日本に緊張を与え続けている。一方、かつての圧倒的パワーを失った米国内に、日本の役割増強を求める声があることも事実だろう。

だが、・・・9条には戦争と植民地支配の反省を込めた国際的な宣言の意味もある。安倍政権の歴史認識が問われるなか、性急に解釈変更を進めれば、近隣国との一層の関係悪化を招きかねない。そんなことは米国も望んでいまい。米国が何より重視するのは、中国を含む東アジアの安定だ。日本が中国との緊張をいたずらにあおるようなことをすれば、逆に日米同盟に亀裂を生む恐れすらある。

安倍政権がまず取り組むべきは、中国や韓国との冷え込んだ関係を打開することである。そのために粘り強い外交努力を重ねる。同時に、現在の日米同盟の枠組みのもとで、連携強化を着実に進める。この両輪がかみあってこそ、地域の安定が図られる。・・・


2013年9月17日


▼首相国連演説 平和主義と言うのなら
安倍首相がニューヨークでの国連総会の一般討論演説で「新たに積極的平和主義の旗をかかげる」と表明した。国連平和維持活動(PKO)に積極的に参加を図るという。

首相の掲げた「積極的平和主義」とは何を指すのか。念頭にあるのが、国連の「集団安全保障」的な措置ならば、方向性は理解できる。その代表的なものがPKOであり、日本も90年代以降、実績を積み重ねてきた。国連が十分にその機能を発揮していないという現実はあるにせよ、国際貢献をさらに進める道はあるだろう。

自衛隊が任務の幅を広げ、より積極的にPKOに参加することはあり得る。戦闘に参加しない方針を明確にしつつ、国連の承認のもと、自衛隊が中立、公平な立場で平和構築にかかわるのは意義深いことだ。だが首相の言う積極的平和主義は、そこにとどまるのか

気がかりなのは、首相が前日に米国の保守系シンクタンクで講演した際、「集団安全保障」だけでなく「集団的自衛権」にも触れながら、積極的平和主義を唱えていたことだ。日本にとって集団的自衛権は、主に日米同盟にかかわる概念である。国際社会が一致して取り組む集団安全保障とは性格が異なる。・・・

安倍政権が集団的自衛権をめぐる憲法解釈の見直しをめざすのは、中国の軍事大国化に対応し、日米同盟の抑止力を強化する狙いがある。世界に展開する米軍と一体化した自衛隊の支援にも道を開く。さらには多国籍軍への参加も視野に入るかもしれない。

しかし、米国主導の軍事介入に深入りすることが、はたして平和主義と呼べるのか。憲法9条のもと、日本は紛争への直接介入とは距離をおく平和主義を掲げてきた。その条件下で自衛隊はPKOに参加し、高い評価を得てきた。こうした平和主義と、集団的自衛権の行使を含めた積極的平和主義は、全く別物である

いま首相が平和主義という言葉を使うのは、集団的自衛権への理解を求め、憲法解釈の変更を実現するための方便のようにみえる。集団的自衛権の行使を容認すれば安全保障政策の大転換になる。その議論を、積極的平和主義という言葉をあいまいに使って進めるべきではない。


2013年9月28日、以上、社説引用終了)


正直、これらの社説の中で使われている「平和主義」の意味内容こそ「あいまい」ではないかい、と思わないではありませんでしたが、次の長崎県の78歳の方の投書(2013年10月3日付)になると、その「平和主義」や「平和国家」なる言葉の意味は、最早、常人の理解を超えていると言える、鴨。いずれにせよ、この投書子の「平和主義」と現行の占領憲法の「平和主義」なるものとが全く別物であることは確実でしょう。


▼「積極的平和主義」矛盾を感じる
安倍晋三首相は同盟国の米国の軍事行動に連帯する集団的自衛権の行使容認に意欲を示している。集団的自衛権の行使は、長年、憲法上認められないというのが政府の見解であり、国民の認識でもあった。国際社会でもそう受け止められ、評価されてきたと思う。

しかし、首相は集団的自衛権行使の容認が国民に理解されない現状を見て、先般、訪米中に耳新しく、聞こえがいい「積極的平和主義」なるものを強調した。それは「世界の平和・安定・繁栄に今まで以上に積極的に貢献すること」らしい。

ならば、「積極的平和主義」と「集団的自衛権の行使」は矛盾しないのだろうか。日本は集団的自衛権の行使容認で、憲法9条で禁じられている武力行使が可能になり、「戦争ができる国」になる。これは平和主義に値しない。「積極的平和主義」とは、平和国家から戦争をする国家に変容することを隠す言葉ではないだろうか。


(以上、投書引用終了)


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所謂「集団的自衛権」や「集団的安全保障」の、実定法としての占領憲法上と国際法上の意味内容に関しては下記拙稿をご参照いただきたいのですけれど、少なくとも、占領憲法からも国連憲章においても、「戦争する国家」なるものは「平和主義」や「平和国家」という概念と矛盾しない。

なぜならば、占領憲法においても「自衛権」が放棄されていない以上--というか、より正確に記せば、ある憲法典が条規でもって「自衛権の放棄」を明記したところで、憲法の事物の本性からみて、そのような「放棄」は法学的には「自衛権の行使の際には熟慮しましょうね」という努力目標の規定にすぎない以上--、そして、自衛権には当然に、先制攻撃と報復攻撃を含む「戦争をする権利」が内包されているからです。

・集団的自衛権を巡る憲法論と憲法基礎論(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444575.html

・国連憲章における安全保障制度の整理(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57964889.html



畢竟、占領憲法の謳う「平和主義」なり国連憲章を導いている「平和主義」は、どのような場合にも武力を行使しない、もしくは、どんなタイプの戦争も行わないというタイプの「非戦主義」や「絶対的平和主義」ではないのです。

例えば、現在の日本の憲法学の通説を代表する長谷部恭男さんにしてからが、「絶対平和主義-例外を認めない非戦主義」は、個人の私事に属する<世界観>に他ならず、そのような「比較不可能な世界観」を憲法規範の内容に持ち込むことは--それが具体的な国家の行為規範や司法に対する裁判規範としての「準則」ではなく、単なる、努力目標としての「原理」としても--現代の立憲主義理論からは容認できないと述べられている(『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書・2004年4月)参照)。

長谷部説に対する表立った反論がそう多くはないことを見れば明らかなように、反日リベラルの憲法論の論者が夙に掲げてきた、占領憲法の所謂「三大原理」なるものの一つとしての--国民主権と基本的人権と並ぶ原理としての--「平和主義」の意味内容は、実は、それほど明確ではなかった。まして、その憲法規範としての根拠はそう確かなものではない。蓋し、安倍総理の言われる「積極的平和主義」に比べて、上に引用した朝日新聞の社説が用いている「平和主義」なる用語が、その意味の曖昧さ--指示対象の不明確さ--が少ないとは言えないことだけは確かだろうと思います。

この「平和主義」の意味に関する積極的考察は別稿に譲るとして、本稿では以下その考察の前哨とするべく、占領憲法の原則として「平和主義」なるものを想定する論者の多くがそう理解していると思われること、すなわち、「9条には戦争と植民地支配の反省を込めた国際的な宣言の意味もある」の如き認識、すなわち、(ⅰ)戦前の日本は軍国主義であった、(ⅱ)占領憲法の「平和主義」はその戦前の軍国主義に対する反省に立って憲法典に組み込まれたものだとかなんとかいう暗黙の了解事項について検討しておくものです。

もっとも、以下に述べる消極的考察--図と地を反転させる考察--の内容は、実は、現在では左右両翼の論者にとってもほぼ常識となっている事実関係を一部年表形式でまとめた<確認>にすぎないのですけれどもね(赤面)。


けれどもね。

けれども、例えば、私達の郷里、福岡県の大牟田市で今夏催された「戦争を語り継ぐ」とか系のイベント--「平和の朗読会」(朗読座おおむたによる朗読劇・2013年年8月11日@カルタックスおおむた)などに出てみると、ありゃー、エンジンが片翼1個ずつしかない飛行機の画像パネルを頭上に掲げて、「これが、あのB29です!」とか堂々とのたまう大学生ボランティアさんとか(←あのー、B17でさえエンジンは片翼2個なんですけど?)。

ほにゅー、

真っ赤な画用紙に墨黒々と印字したsomethingを掲げて「これが赤紙、召集令状です!」とか口走る元公立中学校教諭のおばさまとか・・・。あのー、これ枝葉抹消の事柄ではなく、要は、このおばさまのイメージの提示は、彼女が「赤紙」--物としてと情報ツールとしての重層的な意味での「赤紙」--がなんであったかをご存じないことの赤裸々な証拠なんですけど・・・。

そして、極めつけは、そのボランティアグループの中でも数少ない戦前生まれの方からの「食糧拠出を対価もほとんどなしに強要され、農家も、自分の実家だけでなく近隣の農家もみんな戦時中はひもじい思いをした」(←うちの実家や寛子ちゃんの実家は、あなたの実家と同じ地区だけど、戦時中・終戦直後はロジスティクスが破たんしていたから、逆に、米が余って余って--つまり、さばけなくてどうしようもなく--一族総出で死ぬほど米を食べて、KABU一族は、だから、今でも米よりパンや饂飩が好きだったりするんですけど・・・)とかの発言。

要は、リベラル派の専門研究者も弁解を断念する水域に突入している--東京の都市部のホワイトカラーの終戦後2年ほどの飢餓体験(「食い物の恨み」とも言う?)に基づく--<戦争体験のお伽噺>の再生産ともいうべき言説が、この社会にはいまだに流布していることを鑑みれば、現在の通説の<確認>も満更無意味ではないの、鴨。と、そう思い以下の叙述を続けます。


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<続く>


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