立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論




朝日新聞に星浩特別編集委員の筆になる次のようなコラムが(2013年11月21日)掲載されていました。コラム自体は、一票の格差是正が遅々として進まない政界の現状を俎上に載せたもの。私は、しかし、コラムの中の「統治行為論」に対する星氏の認識に驚きました。

▼深まる憲政の危機 一票の格差、最高裁「違憲状態」 

政治の怠慢が最高裁にまた、突かれた。「国会は国権の最高機関」という権威にあぐらをかき、民主主義の基本ルールである定数是正をサボってきたのだから違憲状態という判断は、優しすぎるとさえ思える。

怠慢の理由は何か。定数配分の見直しを嫌う議員心理、党利党略・・・とさまざまだが、私は日本政治の甘えだと思う。東西冷戦期、いざとなれば米国が何とかしてくれる場面が続いた。裁判所が安保問題などに踏み込まない「統治行為論」も、まかり通ってきた。

冷戦はとっくに終焉したのに、甘えは残った。・・・憲法の理念を踏まえてルールや政策を作る。裁判所が注文をつけたら、速やかにルールや政策を改める。そうした営みこそ政治の役割のはずだ。だが、保守政治家の多くは「憲法改正」を声高に叫ぶ。いまの憲法を生かす試みは怠るが、新たな憲法なら守れるとでも言うのだろうか。・・・(以上、引用終了)



何に私は驚いたのか。それは「まかり通ってきた」という文芸評論的で無内容な言葉遣いは咎めないとしても、(1)「統治行為論」の妥当性は「東西冷戦」などとは無関係だから、加之、(2)統治行為マターの事柄に関しては、最終的な合憲性判断の権限は--憲法規範の有権解釈権は--内閣と国会にあるのであって、よって、それらのマターに関しては「憲法の理念を踏まえてルールや政策を作る。裁判所が注文をつけたら、速やかにルールや政策を改める。そうした営みこそ政治の役割のはずだ」とは言えないから。畢竟、(3)「統治行為論」は司法権の権限を制約することによって、寧ろ逆に、司法と--その司法による権利保障を重要なパーツとする--立憲主義を<暴力>や<革命>から護る憲法保障のための法技術とさえ言えるからです。要は、星氏の主張は憲法論的には完全な間違い。

敷衍しておけば、「統治行為論」は、(α)アメリカ連邦憲法の解釈の伝統においては「政治的問題」(political questions)と呼ばれる一群の領域を形成しており、(β)その「政治的問題」に関しては、司法権行使の結果が重大な政治性を帯びるがゆえに司法審査権は及ばないとされています(例えば、 Luther v. Borden(1849), Coleman v. Miller(1939), そして、「定数是正に関する司法審査は可能」と判断した、謂わば逆の方向からではありますが、明確に「政治的問題」の原理を肯定した--日本でも国会の定数是正を巡ってしばしばその名が挙げられる--Baker v. Carr(1962)等をご参照下さい)。

而して、日本で「統治行為論」が司法における憲法解釈の原理であることを示したとされる諸判決。例えば、「日米安全保障条約は、主権国としての我が国の存立の基礎に極めて重大な関係を持つ高度の政治性を有するものであり・・・裁判所の司法審査権の範囲外にある」と断じた砂川事件最高裁判決(1959)、あるいは、苫米地事件最高裁判決(1960)が述べた「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為は・・・裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負う政府、国会等の政治部門の判断に任され最終的には国民の政治判断に委ねられている。これは、司法権の憲法上の本質に内在する制約である」という認識も、現行の占領憲法の母法の一つたるアメリカ連邦憲法の解釈の伝統を踏まえた穏当なものと言える、鴨。

いずれにせよ、「東西冷戦期、裁判所が安保問題などに踏み込まない「統治行為論」も、まかり通ってきた」などは完全な間違いであることは明らかでしょう。


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本稿の結論を先に述べておけば、統治行為論は、民主主義的要素の希薄な--テクノクラートたる専門家が専ら構成する--裁判所の判断が、なぜ、民主主義的要素の濃厚な「政府、国会等の政治部門」の立法や処分を覆すことが可能なのかを考える鍵である。すなわち、統治行為論に代表される司法の自己抑制がゆえに司法審査権は正当化される、と。

換言すれば、統治行為論は、占領憲法81条「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」が定める違憲立法審査権、および、アメリカ連邦憲法の規範体系にMarbury v. Madison(1803)が導入した司法審査権の憲法基礎論的の根拠--憲法の効力をゼロベースから吟味検討する法哲学的考察の帰結--につながる<導きの糸>なの、鴨。と、そう私は考えています。


簡単な話です。もし、司法による法規の違憲判決や処分の無効判決を立法議会や政府の行政・執行部門が無視する場合、司法には--まして、裁判所が個別具体的紛争の法的解決を通して憲法の解釈を行うにすぎない「付随的司法審査制」を採用する日米の司法には--その判決内容を具現する方途は存在しません。

このことは、例えば、チェロキー族を巡る事件(Worcester v. Georgia(1832))ではジョージア州政府と州裁判所だけでなく、問題の政治的解決--要は、チェロキー族が「涙の道」を辿って郷里の土地を追い払われるまで!--時の、ジャクソン大統領も連邦最高裁の判決をほぼ無視した経緯を反芻すれば思い半ばに過ぎるのではないでしょうか。

而して、奴隷解放に連なる<正義の戦争>と賛美される南北戦争は、ある意味、アメリカ連邦憲法の司法審査を通してだけでは奴隷解放には限界があることを冷静に示したDred Scott v. Sandford(1857)を反故にする政治部門側からの司法への反撃と見るべき、鴨。あるいは、数多の違憲判決にもかかわらず違憲と判断された連邦法と酷似した「ニューディール立法」を議会に作らせ続けたフランクリン・ルーズベルト大統領の行いもまた一種の「立法議会や政府の行政・執行部門が司法府の判断を無視」した事例でしょう。

政府の政治部門が司法の判断を無視する場合、司法府には--国民世論からの政治部門への政治的批判という司法外の回路を除けば--現実政治における自己の判断内容を具現する手段はない。そして、この現実政治における<事実>的の経緯は、繰り返しになりますけれども、憲法基礎論から見れば、民主主義的要素の希薄な司法府の判断が民主主義的要素の濃厚な「政府、国会等の政治部門」の立法や処分を覆すことが可能になる<法論理>的の経緯の裏面であろうと思います。ならば、これらのことを直視するとき、司法が自己の権威を守るために司法審査可能な領域に自己制約をかけることは寧ろ当然のことではないでしょうか。


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蓋し、統治行為論は立憲主義を守る<安全弁>である。この私の認識は、司法審査権の正当化の源泉を「天賦人権」なるものに求める論者には容易に頷ずけないもの、鴨。しかし、「天賦人権論」--すなわち、人間であることだけを理由に認められる普遍的な権利が存在するというアイデア--は成立可能としても、具体的な内容を持つ普遍妥当な<天賦人権>なるものが存在し得ない以上、「天賦人権論」による司法審査権の正当化は、すでに死んでいる<北斗の拳>、もしくは、循環論法による自己正当化、あるいは、その両方にすぎないと思います。

司法審査の正当性を巡る循環論法
・天賦人権論→天賦人権の存在根拠
・天賦人権の存在→司法審査の正当性の存在根拠
・司法審査を通した具体的な権利内容の発見→天賦人権の認識根拠
・司法審査を通した天賦人権の認識可能性の根拠→天賦人権論



ならば、学習院大学の青井美帆さんの次のような主張。

「明治憲法には、人々の自由や人権という概念や、その保障のための制度が、大いに欠けていた。そもそも、<人が生まれながらにして自由であり、人格において対等である>という考えや、<人が人であるという理由のみで人権を有する>という考えを、明治憲法はとるところでは・・・なかった。

しかしながら、わが国も含めて第二次世界大戦後の諸国は、近代市民革命の理念を改めて評価し、個人の自由や人権を基本に据える憲法観を追求してきている。

ある言明は、<わたし>と<あなた>の立場を入れ替えてもなお、正義に合致する場合に、普遍性を標榜できるところ、天賦人権という思考は、ヨーロッパ由来ではあるものの、右のような普遍性を認められるがゆえに、わが国も含めて多くの国において「普遍的価値」として掲げられているのだ」

『世界』(2013年6月号)所収
「憲法は何のためにあるのか-自由と人権、そして立憲主義について」pp.87-88)

という主張もまた--別稿でも記した如く--それは、①確定不可能な「正義」観念の基盤の上に、②自説と整合的な個人モデルと社会関係モデルを間主観的なものと看做す恣意的なロジックは--世界観を異にする諸個人を交換可能な<わたし>と<あなた>に見立てる手法と理路は--、ロールズばりの杜撰で強引なロジックでしかなく、また、③プレーヤーにすぎないご自分が審判を兼ねて「天賦人権という思考は、ヨーロッパ由来ではあるものの、右のような普遍性を認められる」と呟いているにすぎないもの。畢竟、この主張もまた根拠薄弱かつ無内容な循環論法の一種なの、鴨です。


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天賦人権論を信奉する論者から見れば、国家権力は権利を侵害する実力と傾向を持つ<必要悪>なのかもしれません。けれども、諸外国から--それらもまた天賦人権論からは<必要悪>でしかない諸外国から--自国民を専ら守護する実力と意志を持つものは独り自分の属する<国家>のみ。すなわち、憲法が正当化する政治権力としての<国家>は、諸外国やテロ集団、更には、天変地異--支那や韓国、アルカイダやガミラス、巨大台風や小惑星の衝突--からその自国民を護る存在である。

ならば、(ⅰ)行政サービスと治安の維持のみならず、(ⅱ)安全保障、および、(ⅲ)国民の<国家>への社会統合をも担う、国家権力の正当性を吟味検討する憲法基礎論においては--専ら(ⅰ)を念頭に置く立憲主義とは違い--その考察に登場するプレーヤーは「国家権力」と「国民」だけではないし、その両プレーヤーの関係も必ずしも敵対的一色ではありません。

畢竟、いずれにせよ、国家権力は立憲主義がカバー可能な範囲を超える守備範囲をも担っている。ならば、国家権力がその政治的の裁量によって国民の権利の幾ばくかを制約する場合もあることは当然のことでしょう。そのような<国家>の事物の本性と存在意義から見て、蓋し、統治行為論とは立憲主義--および、司法審査権--に適正な守備範囲を配分する法の技術であり法の智慧である。と、そう私は考えます。

尚、<天賦人権>の不存在、および、「天賦人権論」による立憲主義の正当化が破綻している経緯、そして、憲法の概念については下記拙稿をご参照いただきたいと思います。

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html

・憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する「法学的意味の革命」か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61963692.html

・保守主義-保守主義の憲法観
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60996566.html



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木花咲耶姫


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