英語のカタカナ表記は「首尾一貫」させるべきか?




英単語をカタカナ表記する場合に散見される不統一や整合性のなさ。あるブログ友の記事がその<揺らぎ>を俎上に載せていた。英語のカタカナ表記は「首尾一貫」させるべき、少なくとも、「首尾一貫」させた方が自分は気持ちが良いのだけれど、と。これは、そう、人口に膾炙している「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」の洒脱に関わるイシュー。当該エントリーをそのまま要約させていただくと、

"World War"(世界大戦)は「ワールド・ウォー」
"Warm"(温かい)は「ウォーム」。そして、
"Star Wars"も、もちろん、「スター・ウォーズ」。

なのに、○○賞、を意味する"Award"が、ほとんどの場合、
「アワード」とカタカナ表記されているのは、どうしてなの?
「アウォード」と書かないのは、どうしてなんだろう、と。


・ちょっとだけ不思議なこと
 http://blogs.yahoo.co.jp/fukufukimama/67096513.html


確かに、大阪や東京の由緒ある建物(ビルディング)は--ここ数年でめっきり少なくはなりましたけれど--「ビルヂング」と表記されている。あるいは、井沢元彦さんが--邪馬台国の「卑弥呼」の発音に関連して--夙に書いているように、ヘボン式ローマ字を考案したヘボン(James Hepburn)の「ヘボン」は、ローマ字ならぬ『ローマの休日』のオードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)の「ヘップバーン」と同じ。また、「バイオリン」も「ヴァイオリン」も「violin」だし、「ベランダ」も「ヴェランダ」も「veranda」のこと・・・。

確かに、--言語史的経緯から発音とスペルが絶望的に乖離している英語ほどではないにせよ--日本語における「英語のカタカナ表記」は無政府状態と言える、鴨。ならば、ブログ友の疑問はもっとも、鴨。


では、英語のカタカナ表記は「首尾一貫」させるべきなのでしょうか?
実は、私はこの問いに対しては否定的です。

以下、カタカナ表記を「首尾一貫」させることの
可能性、必要性、妥当性の順に私見を展開します。



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(Ⅰ)可能か?
言わずもがなのことでしょうが、日本語と英語とでは発音の仕組みが異なる。すなわち、音韻の構造(言語の音声面を構成する「音の部品」の種類と個数)も、そして、発音の構造(言語を発声する際のアクセント、および、「発声される音の単位」である音節)も別物。十数年前には、「英語と日本語では話される音の周波数帯が違うから、例えば、楽器の音でもその周波数帯の違いを補うトレーニングをすれば英語耳が養成できる」とかなんとかの主張も--少なくとも「英語教材」のマーケティング的には--真面目に唱えられていた。而して、周波数帯へのコメントは割愛するとしても(笑)、日英の

(ⅰ)音韻の構造
(ⅱ)発音の構造

は全然異なっている。念の為に敷衍しておけば、例えば、(ⅰ)現代日本語の母音の個数は「ア/イ/ウ/エ/オ」の5個なのに対して、英語には母音が30個以上、大括りにして12個、突き詰めても9個ある。(ⅱ)日本語の「音節」は、等間隔の--謂わば「手拍子」の間隔のような--「拍」(mora)なのに対して、英語の「音節」は--母音が複数個の子音を前後に引き連れることが普通の、よって、全然等間隔ではない--「シラブル」(syllable)であり、他方、アクセントも日本語は原則「音の高低」で強調箇所を示唆するのに対して、英語では強調箇所は「より強くより長く」発声することで明示される仕組みになっています。更に、表音文字もカナとアルファベットとこれまた別物。

つまり、発音面を重視するかスペルに殉じるかの「表記戦略」の選択に関わらず--具体的には、「ヘボン」「メリケン」「ワラー」は発音重視の、「ヘップバーン:Hepburn」「アメリカン:American」「ウォーター:water」はスペル重視の表記法と言えるでしょうか--カタカナで英単語を正確に表記することは不可能。そう私は考えます。

ここで注意すべきは、英語の母語話者の発音を可能な限り正確に写し取るカタカナ表記のアイデアとして、斉藤厚見『英語発音は日本語でできる』(ちくま新書・2000年11月)が新しいカタカナシステムを、他方、池谷裕二『怖いくらい通じるカタカナ英語の法則』(講談社ブルーバックス・2008年1月)は現行のカタカナを使う、しかし、斬新な表記法を提案していること。而して、発音記号が自然言語の音声を近似的にせよ描写可能なシステムであり、かつ、発音記号とカタカナ表記との近似性をそれらがより高める試みであるとすれば斉藤・池谷の提案は満更荒唐無稽なものではないでしょう。

それらは、しかし、ある意味、「ルビ」の工夫にすぎず、実際に現存する英語の音声を前提にして始めて意味を持つものであり、日本語としての「外来語たる英語のカタカナ表記法」とは位相を異にしていると思います。すなわち、それらは、発音記号の代わりに新しいカタカナを導入する、もしくは、発音記号の代わりに現行のカタカナをより有効に活用する表記法の提案にすぎない、と。何を私は言いたいのか。次の池谷さんの著書の一例(ibid, p.83)からだけでもそれは感じていただける、鴨。

Take it easy.
テイケリーズィ


畢竟、「英語のカタカナ表記は「首尾一貫」させるべきか」を判断する上で、カタカナで英単語を正確に表記することは不可能という前提に立つべきだろう。と、そう私は考えます。



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(Ⅱ)必要か?
英語のカタカナ表記とは「英単語を日本語の語彙体系に取り込む技術と営為」に他ならない。而して、冒頭で述べたように、--というか、「言うまでもなく」でしょうか--英語が発音とスペルの乖離の甚だしい言語であることは周知の事実。

古英語(OE)と中英語(ME)を分かつノルマンコンクエスト(1066年)以降、(α)フランス語やフランス語経由で大量のラテン語・ギリシア語が英語に取り入れられたという語彙総体の肥大化と多様化だけでなく、(β)母音変化(~9世紀前半)、開音節長化(15世紀前後)、更に、真打ち登場の大母音推移(~18世紀前半)と、発音のルール自体が激変してきた。そして、(γ)発音の変化ほどにはスペルの方はそう大きくは変わらないから、発音とスペルの<泣き別れ>が英語では頻発するに至った。

畢竟、日本語がそれを自己の語彙体系に取り込もうとする英語の語彙自体が、少なくとも、スペルに殉じていてはその発音を取り入れることは困難ということ。尚、この英語史のドラマ--悲劇or喜劇?--にご興味のある向きには、橋本功『英語史入門』(慶応義塾大学出版会・2005年9月)、または、中尾俊夫・寺島迪子『図説英語史入門』(大修館書店・1988年6月)、手近な所では、中尾俊夫『英語の歴史』(講談社現代新書・1989年7月)のご一読をお薦めします。

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再度記しておきますが、英語のカタカナ表記とは英単語を日本語の語彙体系に取り込む技術と営為。そして、今野真二『百年前の日本語-書きことばが揺れた時代』(岩波新書・2012年9月)が鮮やかに示したように、この100年間でさえ外来語表記どころか日本語自体の表記法も変遷したし、その変遷は現在進行形で進行中と言える。

このことは、日本語の語彙体系において、例えば、第40代アメリカ大統領(Ronald Regan)は、大統領に初当選する直後くらいまでは「リーガン」と表記されていましたが、その後、原語発音により近い「レーガン」に改められたエピソード、あるいは、同じく固有名詞の「朴正煕」や「周恩来」は今でも「ボクセイキ」や「シュウオンライ」と発音・表記されるけれど、韓国初の女性大統領閣下は「パククネ」と発音・表記される現象を想起すれば誰しも思い半ばに過ぎることでしょう。

何より、所謂「漢字音読」における--「明」という漢字が各々「ミョウ・メイ・ミン」と異なる音声をともない順次日本語の語彙体系に組み入れられた如く--呉音・漢音・唐音の併存。加之、湯桶読みや重箱読み--二字の漢字熟語で上下の発音が訓読みと音読みと分かれる現象--の存在。これらを鑑みるに--例えば、「明」というある特定の1語に着目する場合にも、もしくは、その語彙の総体を思念するにしても--、日本語の語彙体系は多様な発音の仕組みを、よって、表記の仕組みを重層的に保持する言葉によって編み上げられているとは言えますまいか。

換言すれば、「日本語としての英語起源の外来語」もまた--その英単語自体の発音とスペルの乖離は捨象するとしても--、異なる時代に異なる発音と表記法の回路を通して日本語の語彙体系に取り込まれたものでしょう。ならば、些か同語反復になりますけれども、英語のカタカナ表記が「首尾一貫」していないのは寧ろ当然であり、それはカタカナ表記法の放漫ではなく日本語の豊饒さの証左でさえある。畢竟、英語のカタカナ表記は「首尾一貫」させる必要はないのではないか。そう私は考えます。


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(Ⅲ)妥当か?
英語にも日本語にも歴史がある。そして、歴史とは文化であり、文化とは伝統であり価値である。ならば、ひょっとすると卑弥呼の時代にまで遡る由緒ある地名を「緑が丘3丁目」に変更すること。そういう「首尾一貫」は、百歩譲って部分最適ではあり得るとしても、全体最適の施策とは限らない。

このこととパラレルに、英語のカタカナ表記を「首尾一貫」させることは幕末の黒船来航(1853年)からでも150年余の英語と日本語の交流の歴史と文化--関ヶ原の年、1600年にリーフデ号で来日したウイリアム・アダムスからは400年余の、英単語を日本語の語彙体系に取り込んできた--伝統と価値を損なうことにはなりますまいか。なりますまいか。と、私はそう危惧します。

比喩を用いて敷衍すれば、その方の年齢によってNHK大河ドラマで見ていた、織田信長や明智光秀、徳川家康や豊臣秀吉を演じていた役者さんは違うでしょう。年齢によって日本では歴史上の人物のビジュアルイメージが異なり得るということ。けれども、例えば、視聴者の世代によって異なる--<高橋英樹>や<藤岡弘>、<緒形直人>や<反町隆史>に刷込まれた(to be imprinted)--織田信長の多様なイメージの併存。すなわち、「織田信長」のイメージにおける「首尾一貫」の不在は、現代の日本社会における<織田信長>の意味の豊饒さの裏面と言える、鴨。而して、英語を巡るカタカナ表記の<揺らぎ>もこれとパラレルな事柄なの、鴨。

もっとも、言語は所詮「情報伝達のツール」。ならば、英語のカタカナ表記にせよ「首尾一貫」させることに合理性が認められる言語行為の領域や場面は確かにあると思います。具体的には、<単一のテクスト体系>においては--例えば、ある同じコンサルティングファームがある同じクライアントに提出する企画書や報告書においては--表記法が揺らぐのは不細工でしょう。

実際、ある大手のコンサルティングファームが新人君に最初に指導することが、「数字表記は半角で統一しなさい」とか、「英単語列をカタカナ表記する場合には「・」を入れるか抜くか統一しなさい」--「スター・ウォーズ」と表記するか「スターウォーズ」と表記するか「首尾一貫」させなさい--とかいう小手先のTipsなのは有名な話。でもね、クライアントに来期もコンサル契約を継続していただく上でこのTipsは結構馬鹿にできなかったりします(笑)。

ほとんどの言語行為の領域や場面では、しかし、英語のカタカナ表記を「首尾一貫」させることにそう実益も合理性もないことは明らかではないでしょうか。この状況認識が満更我田引水的な思い込みではないとするならば、--些か、本稿も竜頭蛇尾の帰結に終わりますが--上記の地平からこの問題を反芻するに、英語のカタカナ表記を「首尾一貫」させることは妥当でもない。と、そう私は考えるのです。


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