憲法の無知が露呈した毎日新聞の「首相の靖国参拝訴訟」紹介記事(下)




◆司法審査-司法の事物の本性-

毎日新聞の記事は判決理由と傍論の認識が逆立ちした杜撰な憲法判例紹介。私はそう考えます。そして、その倒錯した認識の更に基底には--直接には「司法審査」の理解不足が、でしょうけれど--「司法のために憲法があるのではなく、憲法のために司法がある」こと、あるいは、「憲法のために国家があるのではなく、国家のために憲法がある」という単純明快で赤裸々な現実に関する無知が横たわっているの、鴨です。つまり、司法の万能感、憲法の万能感、ひいては、人間と権力の万能感に親しいリベラルの教条と傲岸がその倒錯の遠因なの、鴨と。

蓋し、例えば、立法に与えられる合憲性の推定の度合いが紛争事案のカテゴリーによって--(a)民主的な政治プロセスを立法が阻害する場合、および、(b)「切り離され、孤立した少数者」(discrete and insular minorities)の権利を立法が阻害している場合、ならびに、(c)立法が文面上(on its face)明らかにアメリカ連邦憲法の権利規定(修正1条乃至10条)に反する場合には--異なりうることを示唆したUnited States v. Carolene Products Co.(1938)の有名な脚注4の如き、人間存在と司法権の有限性を自覚した、すなわち、憲法訴訟の司法審査基準を丁寧に権利類型および紛争類型毎にカテゴリー分けした上で主張された大人の穏当な司法積極主義的の主張と比べるとき、--最大級の合憲性が推定される信教の自由の案件に関しても、十把一絡げ的に積極的な司法判断を求める--毎日新聞の倒錯は、お子様が「抜き身の日本刀」を振り回す司法贔屓の戯れ言に近い、鴨。

この倒錯の特効薬でもある、立憲主義を守護する叡智としての「司法権の自己抑制」というアイデアについては下記拙稿をご参照いただくとして、本稿では以下、(Ⅱ)首相の靖国神社参拝が占領憲法の司法審査権限の<射程外>にあることの経緯を敷衍します。

尚、United States v. Carolene Products Co.(1938)の脚注4は法廷意見(opinion of the court)の脚注であり、ある意味、日本の下級審の蛇足型傍論に近いもの。けれども、ホームズ裁判官の反対意見について述べたように、後に所謂「二重の基準論」の源流となったストーン裁判官の手になるこの脚注は、Carolene判決の段階では法的ルールを照射したものとは言えず、脚注の示唆が「二重の基準論」という憲法解釈ルールに昇華するのは--よって、その「二重の基準論」を苗床にして、各権利規定毎に「明白性の原則」なり「明白かつ現在の危険のルール」、あるいは、「より制限的でない他の選びうる手段のルール」等々の憲法訴訟の合憲性判断基準のアイデアが百花繚乱・千紫万紅、アメリカ連邦憲法を巡る司法審査の花園に咲き乱れるのは--後の数多の連邦最高裁判決が判決理由でこのルールを採用したからなのです。つまり、傍論はその傍論が書かれた段階では法的にはインクの紙魚にすぎない経緯はCarolene判決の脚注4についても毫も変わらないということです。

・立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62198131.html

・NHKの「政治的中立」と首相の人事権(上)(下)
(特に、(下)で本稿と関連する考察を展開しています)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62207787.html

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司法審査(judicial review)は、文字通り「司法」の機能です。ならば、それは、--法たる慣習(legal custom)および事実たる慣習(conventional custom)、あるいは、慣行(practice)を含む--事前に裁判所たる裁判官に与えられたルールを、あるいは、事前に裁判官に与えられた「ルールを創造するためのルール」を具体的な個別の紛争事案に適用してその事案を法的に、その事案に関しては最終的に解決する国家権力の機能と言えましょう。司法審査に関して法宣命説的な理解(outlook on declaratory theory)を取るにせよ、法創造説的な理解(outlook on creative theory)を取るにせよ、司法審査はこう理解できるのではありますまいか。

畢竟、これら、①ルールの事前性、②紛争の現実性と現在性、③事案の個別具体性、④紛争事案の法的解決可能性は、--そこから、アメリカの司法審査においては、例えば、訴えの利益が事後的に消滅した場合の司法判断適合性(justiciability)を否定するルールである「ムートネスの法理」(mootness doctrine)、あるいは、紛争が具体性と現実性を欠く場合に司法判断適合性(justiciability)を否定するルールである「ライプネスの法理」(ripeness doctrine)が派生するのですけれども--司法審査の及ぶ範囲に関してアメリカ合衆国憲法3条2節1項に散りばめられた「事件性および争訟性」(cases and controversies)の要件と--あるいは、例えば、Muskrat v. United States(1911)が示唆したものと--通底しているのでしょう。けれども、畢竟、それは「司法の事物の本性」から導き出されるもの。要は、誰も否定できない事柄ではないでしょうか。

而して、私人としての首相の靖国神社参拝は、①の事前のルールたる占領憲法における「信教の自由の保障」の観点から最大限の保護を受けることは当然として、土台、首相の靖国神社参拝を巡る紛争には、②現実性・現在性も、よって、③個別具体性と④法的解決可能性も欠いているのではないか。逆に言えば、原告側には、元来、訴えの利益、原告適格(standing)が存在していない。ならば、それは、司法判断適合性を欠く、合憲・違憲を判定する司法審査の対象外の出来事であろうと私は考えます。


蛇足ながら申し添えておけば、この①~④がゆえに、現実の紛争解決とは無関係に裁判所がある社会的や制度的な問題に関して法的な意見を披露する「勧告的意見」(advisory opinion)は、原則、英米では認められず、他方、具体的な権利侵害が存在しない段階で原告の訴えに基づき権利関係もしくは法的地位の確認を裁判所が認定する「宣言的判決」(declaratory judgement)もまたアメリカでは、--例えば、Nashville, C. & St. L. Ry. v. Wallace(1933)およびAetna Life Insurance Co. v. Haworth(1937)、逆に、Calderon V. Ashmus(1998)が示唆しているように--その事案がこれら①~④を大凡満たしている場合に限り正当な司法審査と看做され認められるのです。

この点で注意すべきは、日本の行政訴訟では、原告の個人的な利益の保護を目的とはしない民衆訴訟(行政事件訴訟法5条)等の所謂「客観訴訟」が、あくまでも、それを認めないよりも認めた方が明らかに公益が増進する場合に、かつ、その法律に沿って訴訟が提起される当該の法律にその訴訟類型を許容する規定がある場合に限られる(行政事件訴訟法42条)にせよ認められていること。蓋し、これは①~④の例外中の例外と考えるか、あるいは、司法裁判所が単に偶さか行政裁判所の機能を果たしているものと考えるか、もしくは、その両方と看做すべき事象であろうと思います。閑話休題。


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首相の靖国神社参拝は司法審査権限の<射程外>にある。なぜならば、それは「事件性および争訟性」の要件を欠いているから。ならば、2006年6月の最高裁判決が憲法判断を示すことなく「参拝で原告の法律上の権利や利益が侵害されたとは認められない」と述べたことは至極妥当な判断であった。白黒はっきり言えば、「首相の靖国神社参拝」に関して、--それが出れば少なくない保守派の同志の中には大喜びをした向きも少なくはなかったと想像しますけれども--この最高裁判決は合憲判決よりも筋のよい判決であったし、それは日本の憲法訴訟をより正常化する可能性を秘めている点で、中長期的に見れば我々保守派にとって筋悪の合憲判決よりも遥かに有利な判決であった。と、私はそう考えます。

逆に言えば、原告が当事者としての適格性を欠いている、よって、司法判断適合性を欠く出来事を門前払い的に処理した最高裁に対して「憲法判断は示さず」とわざわざ明記した毎日新聞の司法審査理解はやはり倒錯していると言うほかない。そして、この毎日新聞の記者の倒錯は単に「首相の靖国神社参拝」や「司法審査」の理解のみならず「立憲主義」の理解にも及ぶ病膏肓に入った倒錯なの、鴨。


繰り返しになりますけれども、社会の諸問題を政治的と一般的に、かつ、将来に向けて可能な限り解決するのではなく、社会に生起した具体的な紛争案件を法的に、かつ、現時点で最終的に解決することが「司法の事物の本性」である。よって、

司法は、(1)「AKB48の新旧のメンバーの中で誰が一番可愛いか」などという問いには--「多数決は美的判断や科学的真理の判断には適用されない」という経緯とは別に--白雪姫の継母の王妃の<鏡>のようには正確な判断ができないだけでなく、(2)政治的問題(political question)--日本では「統治行為」と呼ばれる、例えば、「自衛隊が憲法9条に違反するかどうか」を巡る問題--についても司法は沈黙せねばならない。同様に、(3)司法は原告適格を欠く原告の訴えについては本来一切の司法審査をすべきではないのです。

この三者、すなわち、(1)~(3)を巡る司法の限界は、各々、司法が解決できない紛争、司法が解決すべきではない紛争、そして、司法審査を通して解決されるべきではない紛争の事例であり、それらはいずれも「司法の事物の本性」から導かれる司法権の限界という点では通底している、鴨。

すなわち、(1)は、法的解決可能性の欠如--更には、「比較不可能な価値」に関しては法は容喙すべきではないという立憲主義の基底--から演繹される司法の原理的限界であり、(2)は「政治セクターが専ら判断すべき領域」に関して司法は沈黙すべきだという、--そうでなければ、より民主主義的な手続を通して構成された立法府および行政府の判断をなぜ、非民主的な手続を通して選抜されたテクノクラートが構成する司法府が違憲無効にできるのかというディレンマに陥ることになる--これまた、立憲主義、ならびに、立憲主義のパーツである司法審査制の権威を、司法に対する贔屓の引き倒し的な過大なクレーム(要求)から守るための司法の内在的限界。そして、(3)は--前節で述べた「傍論と判決理由の同一視の弊害」、謂わば「傍論の暴論化の弊害」と同様--、「司法の機能と立法の機能の境界が曖昧になる」ことが惹起させかねない、司法の権威の崩壊、ひいては、三権分立の原則の融解を防ぐための司法の制度的限界であろう。と、そう私は考えます。

畢竟、この毎日新聞の記事には<司法>に対する無知蒙昧が炸裂している。それは、三権分立原則とも立憲主義とも民主主義とも矛盾対立するリベラル派の傲岸不遜の憲法論と言うべきでしょうか。

いずれにせよ、「首相靖国参拝:合憲の司法判断なし」という毎日新聞の主張などは、単に「幕下力士で幕の内最高優勝をした力士は存在しない」と述べる類の主張にすぎないことはだけは明らかであろうと思います。毎日新聞の記者にとって憲法論など「ネコに風船」くらいのもの、鴨とも。

尚、「立憲主義」を巡る私の基本的理解については下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html


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