歴史認識の相対性と間主観性--朝日新聞も<歴史の相対性>を悟ったのか(上)




大東亜戦争は日本の侵略戦争だったのか、日本にとって正当防衛の戦いだったのか? 「従軍慰安婦」なるものは存在したのか、「従軍慰安婦」なるものに対して日本は適切な謝罪と補償を行ったのか? 首相の靖国神社参拝はサンフランシスコ平和条約で国際社会に復帰した戦後日本の基本的な歴史認識の枠組みから逸脱する、戦後の国際秩序への挑戦か? 

このような「歴史認識」を巡る議論が執拗に繰り返されているように思います。本稿は、これらの議論を生産的にするべく、些か、考察の抽象度を高めに設定して「歴史認識」一般の性質について考えたものです。

而して、E.H.Carr"What is History?"(1961:清水幾太郎訳『歴史とは何か』(岩波新書・1962年3月)。以下、本書からの引用は岩波新書の該当頁を示しながら、しかし、KABUの訳によります)の中で、E.H.カーはこう述べている。

My first answer therefore to the question 'what is History?' is that it is a continuous process of interaction between the historian and his facts, an unending dialogue between the present and the past.
(「歴史とは何か」に対する私の最初のお答えを申し上げることにしましょう。歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らない対話なのです)(ibid, p.40)

I described history as a process of interaction, a dialogue between the historian in the present and the facts of the past.
(歴史とは現在の歴史家と過去の事実との相互作用の過程であり、対話です)(ibid, p.47)

Objectivity in history -- if we are still to use the conventional term --cannot be an objectivity of fact, but only relation, of the relation between fact and interpretation, between past, present, and future.
(歴史における客観性は--まだ、この伝統的な用語を使い続けるとすれば--、事実の客観性ではなく関係性なのです。歴史における客観性とは、事実と解釈との関係の客観性、過去と現在と未来との間の関係の客観性なのです)(ibid, p.178)


このE.H.カーの叡智を踏まえ、些か結論を先取りして、
私の「歴史認識の認識」を整理しておけば次の通り、

(〇)歴史とは<物語>である
(Ⅰ)歴史の認識は共時的に相対的である
(Ⅱ)歴史の認識は通時的に相対的である
(Ⅲ)歴史の認識はイデオロギーの顕現であり、よって、
   日本と諸外国が共通の歴史認識を戴くことは不可能である
(Ⅳ)国際政治における歴史認識の唯一の正しい取り扱われ方は
   どの国もそれを外交イシューにしないことだ



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日本には日本の歴史認識があり、おそらく、支那や韓国にも各々その歴史の認識があるのでしょう。他方、歴史の認識は--史料・資料の発見、解釈の変更と考古学等の周辺諸科学の発展によってだけではなく、例えば、一世紀余り人類を蒙昧の闇で覆った「唯物史観」が崩壊したことを想起すれば思い半ばに過ぎるように--過去を見晴らす<現在の地平>自体が常に変動しているがゆえに常に書き換えられるべき知の体系と言える。すなわち、普遍的に妥当する歴史の認識など存在しない、あるいは、そのような歴史認識を有限なる人間存在が知ることはできないのだと思います。

けれども、確かに、「いつでもどこでも誰にとっても正しい歴史認識」などは存在しないけれど、「今、ここ日本で、日本国民たる私にとっての正しい歴史認識」--あくまでも、相対的に正しい歴史認識にすぎないにしても、そのような--価値相対主義の哲学と自由の価値から守護される<正しい歴史の認識>は存在する。

蓋し、<クラインの壺>の比喩の如く、<私>にとって相対的に正しい<歴史の物語>を恒常的に<現在の地平>から再構築する実践的な作業こそ<歴史>の営みであり、畢竟、国民や民族の一員としての人間存在は自己のアイデンティティーを獲得し維持強化すべく恒常的にそのような<歴史>を再構築し続ける存在である。<歴史>とは、自身にとって相対的に正しい<歴史の物語>を<クラインの壺>の内部で、自己の責任と覚悟でもって恒常的に編み上げる営みにほかならない。と、そう私は考えます。

通時的にも共時的にも「いつでもどこでも誰にとっても正しい歴史認識」などは存在しない。ならば、そのような「いつでもどこでも誰にとっても正しい歴史認識」の存在を前提にした--「中華主義」や「プチ中華主義」、あるいは、欧米中心の「文化帝国主義」に貫かれた--支那や韓国と日本が共通の歴史認識を採用して、例えば、所謂「従軍慰安婦」なるものや「安重根」の評価を巡る歴史問題を解決するなどは政治的のみならず論理的に不可能。ならば、国際政治において歴史認識を巡る問題を解決する唯一の方途はどの国も他国の歴史認識を外交イシューにしないこと。よって、支那・韓国による日本の歴史認識批判は政治的に下品なだけなく哲学的にも成立しない暴論である、と。私はそうも考えます。


このような私の「歴史認識の認識」から見て大変興味深い主張を目にしました。
朝日新聞の2014年1月22付け社説。あの朝日新聞が一定程度とはいえ
「歴史認識の相対性」を認めたようなのですから(笑)


▽安重根論争―政治が負の連鎖を断て
明治維新の立役者の一人で元首相の伊藤博文を暗殺した朝鮮の独立運動家、安重根の評価をめぐり、日本政府と韓国、中国両政府が非難しあっている。暗殺現場である中国のハルビン駅に、地元当局が記念館を開設したためだ。昨年の安倍首相による靖国神社参拝に対抗した対日圧力の一環とみられる。

いまの北東アジアに何より必要なのは融和の努力のはずだ。なのに、あえて対立の火種を増やし、言い争いを深める事態を憂慮せざるをえない。安重根の評価は、とくに日韓の間で対照的だ。菅官房長官は「死刑判決を受けたテロリストだ」とし、韓国外交省は「独立と東洋の平和のために献身した偉人」と反論している。この落差を埋める手だては、容易には見つからない。歴史とは、同じコインの表と裏を見るように、それを評価する者の立ち位置や考え方によって異なる叙述になりがちだからだ。・・・

どの国の間にもある永遠の平行線の課題は棚上げし、協調できる結節点を探るのが政治の責務だろう。日中韓の指導者たちにはその自覚が欠けている。・・・市民レベルや経済界では無為な対立を続けるよりも、新たな互恵の関係をめざす動きが芽生えているのに、政治のリーダーたちはなぜ、負の連鎖を断ち切れないのか。自国の歴史観を押し通すことで国内の狭い支持層を喜ばすことはできても、複眼的な視座が求められる外交の地平は開けない。日中韓の指導者は、アジアの未来を描く大局観こそを語り合ってほしい。


(以上引用終了)


蓋し、例えば、

>歴史とは、同じコインの表と裏を見るように、
>それを評価する者の立ち位置や考え方によって
>異なる叙述になりがちだ

>どの国の間にもある永遠の平行線の課題は棚上げし、
>協調できる結節点を探るのが政治の責務だろう

これらの認識は、私の掲げた(Ⅰ)「歴史認識の共時的相対性」、(Ⅲ)「歴史認識のイデオロギー性」、そして、(Ⅳ)「歴史認識の外交イシューとしての不適格性」と通底すると言っていい、鴨です。けれども、この社説と私の「歴史認識の認識」の間には小さいけれど深い淵が横たわっている、鴨。

すなわち、①日本の首相の靖国神社参拝、もしくは、②日本の首相が「侵略戦争の定義は定まっていない」と述べること、あるいは、③制度的な性奴隷としての所謂「従軍慰安婦」なるものは存在しなかったし、戦地で日本軍兵士を専ら顧客とした公娼としての「慰安婦」に対する日本政府の責任はまったく存在しないか、いずれにせよ、日韓条約で解決済みと日本政府が表明することは支那・韓国から毫も批判されることではない、より正確に言えば、彼等が日本を批判するのは自由だけれどもその批判を外交イシューに絡めることは許されない。

同様に、日本国民としては癪に障ることではあるにせよ、④韓国がその国内に--国際法でその安寧平穏が保障されている日本大使館前の敷地などは別論として--従軍慰安婦なるものの像を何万個建てようが、⑤支那と韓国がハルピンに安重根の記念館を建てようがそれは彼等の自由であり、当然、日本政府は--朝日新聞に「子供の喧嘩」と嘲笑されようが、逆に言えば、子供でも直観的に理解しているように、ゲーム理論の最適解は往々にして「やられたらやり返す」戦略である以上--それに対して抗議するべきではあるけれど、それらの問題を特定アジア諸国との外交のイシューに絡めることは許されないと私は考えます。


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何が言いたいのか。それは、朝日新聞の社説は「歴史とは、それを評価する者の立ち位置や考え方によって異なる叙述になりがちだ」と(Ⅰ)「歴史認識の共時的相対性」を容認する口振りを取る一方で、「自国の歴史観を押し通すことで国内の狭い支持層を喜ばすことはできても、複眼的な視座が求められる外交の地平は開けない」と歴史認識の相対性を極小化しており、日本には日本の、支那には支那の、韓国には韓国の、相対的にせよ<正しい歴史の認識>が存在している経緯を看過しているということです。

また、歴史認識は常に現在の地平から書き換えられる性質のものであること--よって、東京裁判史観も現在ではそう根拠の確かなものではないこと--、つまり、(Ⅱ)「歴史認識の通時的相対性」の認識も欠けている。「自国の歴史観を押し通すことで国内の狭い支持層を喜ばす」という26文字には、「自国の歴史観」ではない、諸国民が共に受容可能な歴史認識の成立可能性の予想、ならびに、そのような歴史認識を日本も採用すべきだという希望しか読み取れないから。

もし、このような社説の理解が満更我田引水ではないとするならば、朝日新聞の主張の基盤には、<歴史>が<物語>でしかないこと、歴史の認識とは<恒常的な物語の再構築の営み>である経緯、すなわち、(〇)「歴史認識の物語性」の認識が欠落しており、それは、唯物史観と親しいかどうかは不明なものの、少なくとも、地球市民を行動の主体に見立てた、そして、普遍的な人権なるものを導きの糸とする、主権国家を相対化しようとするリベラルの教条の--非相対主義の歴史認識にほかならない文化帝国主義の--鎧が衣の下に覗いたもの、鴨です。

いずれにせよ、朝日新聞がどう呼びかけようと支那と韓国が歴史認識を絡めたその反日策動を止めることは現実的にありえないでしょう。ならば、朝日新聞のこの社説は、日本にのみ、そうすることが日本の自由である--例えば、首相の靖国神社参拝、もしくは、村山談話と河野談話の見直し、更には、安重根のテロリスト認定等々の--行動さえ控えることを求めたもの。すなわち、(Ⅳ)「歴史認識の外交イシューとしての不適格性」を推奨しつつ、結局、日本にのみ「外交イシューと絡めない、歴史認識の表明」さえ抑制することを求めた社説。文字通り、特定アジアの代理人の面目躍如の姑息かつ狡猾な言説であろうと思います。


以下、現代哲学の地平に立って、
歴史の相対性と間主観性という切り口
から敷衍します。眠たくなる、鴨(笑)



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<自身の鏡像観察者たる自己の反芻>


<続く>



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