歴史認識の相対性と間主観性--朝日新聞も<歴史の相対性>を悟ったのか(下)




◆歴史認識の相対性
現代哲学の主流である分析哲学と現象学、および、現代解釈学の地平においては--例えば、カール・ポパーの「反証可能性」による科学的な認識の基礎づけ、あるいは、ウィトゲンシュタインの言語ゲームによる言語の間主観性の基礎づけに端的な如く--自然科学と精神科学との間には本質的な差違は認められません。けれども、新カント派の考究を紐解くまでもなく、精神科学/文化科学としての歴史学や法解釈学の主要な部分が、単なる「事実判断」(認識)でも、赤裸々な「価値判断」(評価)でもなく「価値に関係づけられた事実判断」であることは自明でしょう。

つまり、「歴史とは、同じコインの表と裏を見るように、それを評価する者の立ち位置や考え方によって異なる」どころか、「侵略」や「進出」、あるいは、「立憲主義」や「民主主義」、「ナショナリズム」や「平和主義」といった歴史認識の<道具>となる概念自体に端からなんらかの価値が憑依しているということ。例えば、 国際法上「侵略」の定義は<開かれた構造>なのであり、よって、「侵略という定義は、学界的にも国際的にも定まっていない」という安倍総理の認識は正しいのです。蓋し、法的にも、

(a)国連憲章39条「侵略条項:act of aggression」は、ある事態が「侵略」か否かの判断は、国連安保理が個別具体的の案件毎に決定すると定めており、(b)「侵略の定義に関する国連総会決議」には法的拘束力はなく、(a)の国連安保理の決定を拘束しないこと。(c)国連安保理のこれまでの「侵略」決定判断の蓄積からも明確かつ整合的な基準を帰納することはできない。

(d)「不戦条約」(1928年)は「侵略」の定義を欠いており、条約加盟国が一桁に留まった「侵略の定義に関する条約」(1933年)は<確立された国際法>とは呼べない。

(e)土台、「侵略の定義に関する国連総会決議」(1974年)どころか「国連憲章」(1945年)の発効前の事態、すなわち、第二次世界大戦とそれを一応の下限とする「帝国主義の時代」の、武力行使をともなう日本の対外進出を「侵略」と認定するについて(a)~(d)の契機はなんら法的の根拠にはならないのですから。


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ことほど左様に、歴史の認識をゼロベースでこう捉えるとき、<歴史>とは歴史学方法論に従って再構成・再構築された過去に関する<物語>以外の何ものでもない。そう思います。すなわち、支那・韓国の「普遍的に正しい歴史の認識が存在する」といった類の主張は妄想なのです。畢竟、<歴史>とは、価値に関係づけられた言語によってイメージされた自己を反芻する営為、比喩を用いれば、鏡像の中の自分を見ている自己を意識する、第三者としての<私>による、<世界内存在>としての自己の認識以外の何ものでもない、と。

鏡像:価値に関係づけられた言語によってイメージされる自己
歴史:鏡像と自己を<世界内存在>として捉え返す反芻の営み



ならば、まして、「第二次世界大戦を始めたのは誰か」のごとき複雑錯綜した事実関係を価値に関係づけられた事実判断を積み上げつつ、かつ、更に、それらの個々の認識をある特殊なイデオロギーを軸に体系化して初めて解答可能な問題は、論者の歴史観やイデオロギーといった立場が異なればその解答が--「回答」はもとより「解答」も--異なってくるのは自明でしょう。

蓋し、「第二次世界大戦はヒトラーを増長させた宥和政策の英国が引き起こした」、あるいは、「大東亜戦争は日本を追い込んだルーズベルトが始めた」、更には、「第二次世界大戦も大東亜戦争もコミンテルンが引き起こした」という解答/回答が間違いだと言える歴史学方法論は現在存在していない。ならば、「自国の歴史観を押し通すことで国内の狭い支持層を喜ばすことはできても」と安倍政権の特定アジア諸国への対応を揶揄するかの如き朝日新聞言説にはなんの根拠もないのです。

尚、歴史学方法論を巡る私の基本的理解については、
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・定義集-「歴史」(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61007370.html


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◆歴史認識の間主観性
歴史認識の正しさは相対的。けれども、100人いれば100人の歴史が存在するわけでもない。「客観的な知見」などは現代哲学の主流の地平からは自然科学を含めて成立するはずもないのですが、「間主観的な知見」は成立可能だから。その根拠もまた<言語>、および、時代時代の国民と民族の<常識>である。例えば、「時間」の観念について、人類史上次のようなパラダイムが成立していたことは了解される。

(ⅰ)ヘレニズムの時間:円環としての時間
(ⅱ)ヘブライニズムの時間:不可逆的かつ有限なる線分としての時間
(ⅲ)原始共同体の時間:振り子運動体としての時間
(ⅳ)近代社会の時間:不可逆的で無限なる直線としての時間


そして、近現代において<歴史>は多くの論者に共通の(ⅳ)の時間観念という<常識>を踏まえている限り間主観的にも正しい可能性があると了解されるということです。而して、そのような哲学的考察を経て抽出される枠組みと無関係な、論者の恣意的なイデオロギー的前提からなされる「大東亜戦争は日本の侵略戦争だった」「首相の靖国神社参拝は戦後の国際秩序への挑戦である」等の言説は--土台、条約や憲法である特殊な歴史認識を公定するなどは不可能なことは置いておくとしても--、現在の歴史学方法論の地平からは、端的な無知の露呈か単なる「旧戦勝国」の自己弁護、あるいは、その両方にすぎないでしょう。


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再々になりますけれども、歴史の認識が、価値が不可避的に憑依する日常の言語でもって過去の世界を物語る営みでしかない以上、歴史認識に普遍的や絶対の正しさなどは存在しません。しかし、そこには共通の枠組みが存在する。 重要なことはその枠組みとは、歴史的事実の単一性や同一性ではなく、歴史を見る認識枠組みの共通性だということです。「時間」を切り口に更に敷衍します。

例えば、マクタガート(John McTaggart)が『時間の非実在性:The Unreality of Time』(1908)で提示したように、人間の意識する「時間」の観念には「A系:天壌無窮、無限の過去から現在を貫きつつ、あるいは、現在を丸ごと運びつつ無限の未来に連なる時間」と「B系:事象の前後関係」という二つのイメージや解釈(both A series and B series interpretations or images of time)があるのでしょう。

注意すべきは、マクタガートのA系の時間観念は、A系の近代に特有な時間観念の一つにすぎず、A系の時間観念には、少なくとも、(Aⅰ)ヘレニズムの時間:円環としての時間、(Aⅱ)ヘブライニズムの時間:不可逆的かつ有限なる線分としての時間、(Aⅲ)原始共同体の時間:振り子運動体としての時間、そして、(Aⅳ)近代社会の時間:不可逆的で無限なる直線としての時間等々複数のものが、しかも論理的には同じ正しさで併存しているということです。

而して、ベルグソンが喝破した(砂時計や日時計の如く)「人間は時間を空間化して初めて理解できる」という経緯は、マクタガートのA系列の時間観念は、実は、B系列の「事象の変化」にサポートされない限り意識されないし、逆に、B系列の事象の変化そのものは人間がA系列の時間観念を事前に(アプリオリに)保有するのでなければ成立しない経緯とパラレル。

例えば、A系の時間観念を欠く場合、ある事象を「歩いていたら汗をかいた」という因果関係が垣間見える事態としては理解できても、「2時間早足で歩いたら汗をかいた」という時間が介在する事態としては理解できないだろうということです。要は、(マクタガート自身はA系の時間観念を「本質的」と理解していますが、そのマクタガートにおいてさえも)A系とB系の時間観念は相補的ということ。


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A系列とB系列の時間観念の相補性。畢竟、このことこそ、カントが「空間」とともに「時間」を「純粋直観」としつつ--要は、思考する能力たる悟性のカテゴリーと並んで、ある認識の間主観的な正しさの根拠として「空間」や「時間」観念に普遍性とアプリオリ性を認めつつも--、『純粋理性批判』「純粋理性のアンチノミー:二律背反」(p.A426ff=B454ff)で鮮やかに論証したように、「時間」に関する言説はその間主観的な正しさの根拠を人間の認識・思考・反芻する能力の内部には保有していないと論じた経緯とパラレルであろうと思います。

蓋し、ここから、カントの「先天的総合判断」の可能性を求める知的探求が始まり、
先験哲学(「先天的認識についての認識」としての先験的認識を編み上げる哲学)
がここに誕生するの、鴨。閑話休題。


ポイントは、フッサールが喝破した如く「意識とは何ものかに対する意識」でしかない、要は、<世界と意識>は言語でできていること。すなわち、意識とは、鏡像の中の自分を見ている自己を更に認識する<世界内存在>としての<私>の意識でしかなく、更に言えば、意識とは文化と伝統が憑依した言語が紡ぎ出す<私>の意識でしかないことです。

ならば、B系の時間観念の器に盛られるものも独り言語化された事象や事態でしかない。また、逆に、<世界内存在>としての自己認識の現象学的なこの構図が誰にも疑えないものである以上、歴史の認識もまた間主観性を帯びうる。もっとも、その間主観性は日常言語が紡ぎ出す自己意識--すなわち、国家や民族の一員としての自己意識の射程--を超えることはないでしょうけれども。と、そう私は考えます。


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些か、遠回りしました。しかし、<歴史の物語>を編み上げるパーツが日常言語でしかなく、その日常言語には新カント派が述べたように、特に、文化科学/精神科学においては「価値」が憑依する経緯、よって、<歴史の物語>を編み上げる営みはすべからく「価値に関係づけられた事実判断」の営為であること、そして、逆に、その日常言語によって<歴史の物語>の--ある国家と民族の文化と伝統の射程内にせよ--間主観性が基礎づけられる経緯が提示できたのではないかと思います。

而して、<歴史の物語>に間主観性を与え得るものが--謂わば<物語>の圏外にある、つまり、鏡像の埒外にある文化帝国主義のイデオロギーではなく、ましてや、中華主義などではありえず、あくまでも、--言語の哲学的な本性を究明した上で、言語が間主観的な意味を獲得保有する経緯を照射したウィトゲンシュタインの言語ゲーム論、ならびに、現象学および現代解釈学を包摂する現代分析哲学の地平であることは、現代に至る哲学の歴史を少しでも学んだことのある向きには自明のことであろうと思います。

畢竟、歴史の認識は相対的かつ間主観的。<歴史>は不可避的に相対的であるにせよ、その間主観性の度合いを向上させるべく恒常的に再構築されるものでしょう。ならば、歴史の認識とは<クラインの壺>の如く、現実の時間の経過の中で、より間主観性の高い<物語>に恒常的に自己を再構築し続ける運動にほかならない。そして、その間主観性の度合いは、独り、鏡像の中の自分を見ている自己を意識する<私>が判定するもの、鴨。

而して、現在において<私>が地球市民なるものなどではなく、伝統と文化が憑依するある国家と民族の一員でしかない以上、<クラインの壺>の内部で恒常的に再構築され編み上げられる<歴史>は、日本人たる<私>にとっては<日本国の歴史>でしかなく、また、<歴史>が鏡像の中で帯びうるその間主観性もまた<日本国の歴史>としての間主観性でしかないだろう。と、そう私は考えます。



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木花咲耶姫


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