樋口陽一の文化帝国主義的憲法論の杜撰と僭越(上)





集団的自衛権の政府解釈の見直しや自民党の憲法改正草案は、「旧憲法への遡行」どころか、旧憲法さえ尊重していた「立憲主義」を破壊しようとするものだ、そのような動きを「保守」と呼べるのだろうか。このような言説が少なくないようです。蓋し、その多くは「天賦人権および立憲主義にアプリオリな価値を密輸する」誤謬を犯したもの、鴨。

その代表的論者、樋口陽一さんは、例えば、『世界』(2013年12月号)所収の「なぜ立憲主義を破壊しようとするのか」(pp.63-68)でこう述べている。

「安倍政権が成立して、まず96条、憲法改正手続を定めた条項を改めようという主張を押し出してきました。自分たちがやろうとする全面改憲をやり易くするために改正手続きのハードルを下げてくれという話ですから、試合をやり始めながら途中で自分たちに都合よくルールを変えるということのいかがわしさが、あぶり出されることになりました。その際に議論のキーワードとなって浮かび上がってきたのが、立憲主義(constitutionalism)という言葉です。

憲法(constitution)を基準にして権力を縛る、ということがその意味です。・・・【旧憲法時代にも「立憲主義」はいきづいていました】帝国憲法の下で初期には藩閥政府の権力、やがて軍という権力に対する抵抗の中で、立憲主義を盾にして権力を非・立憲、反・立憲と弾劾して攻めたてるのが、帝国議会の役割だったからです。・・・

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国民主権を掲げることになった戦後、・・・国民が主人公になったのだから国民がつくった権力を制限する必要はない、もはや「立憲」の時代ではなく「民主」の世の中だ、という感覚が広がったのです。・・・それならば、【憲法改正の】国民投票をする国民は万能なのでしょうか。96条の定める憲法改正権も権力である以上、制限されなければならないのが、立憲主義ではないでしょうか。

そのような抵抗力を持つはずの立憲主義という枠組みをこわしてゆこうとするときに持ち出されるのが、実は「国民の憲法制定権力」というシンボルです。歴史を遡りましょう。大革命前夜のフランスで、目の前にある既成の法秩序を全面的に解体して新しい法体系を作り出すときに、「憲法をつくる力」を国民が持ち、それはどんな法的制約にも服さない、という主張が威力を発揮しました。そのようにして、人権宣言と、国民主権をうたう新しい憲法がつくられたのです。

ところが、国民の憲法制定権力がヌキ身で万能のままだと、革命勢力がせっかくつくり上げた法秩序が、万能の憲法制定権力によってまたひっくり返されてしまうでしょう。そこで出番が終わった国民の憲法制定権力は、勝手に動き出さないように封印・凍結されます。こうして、憲法を変えるにしても、それは万能の権力によってではなく、憲法自体の規定する約束事によってしか出来ないことになりました。憲法改正権(96条です)は、「憲法をつくる権力」ではなく、立法、司法、行政、そうであるように、憲法によってつくられた、従って憲法上のルールに縛られた権限のひとつなのです。・・・

ですから、「国民が憲法制定権力を持つ」という議論の仕方に、うっかり「だまされ」ないようにしましょう。たしかに、一方でそれは「憲法をつくる権力」と「憲法によってつくられる権限」を区別することによって、憲法を変えようとする権力をも制限しようとする立憲主義と結びつくことができます。ところが他方で、憲法を思うがままに作り変える万能の権力、という魔性の本能を発揮すると、一切のルールや手続をなぎ倒し、「いやこれは国民が決めたのだ」として、立憲主義を根こそぎ否定するために使われるからです。・・・

繰り返しますが、改憲草案は旧憲法への逆戻りだ、というとらえ方でよいか、それでは甘すぎるのではないか。明治憲法は、その本文各条に関する限り、基本的に19世紀ヨーロッパ・スタンダードに沿っています。・・・対照的に、改正草案は、見てきた通り【天賦人権を否定する基本理念の逆転、国防の役割を超える「国防軍」、打ち捨てられる「公共の福祉」等々】、20世紀後半に人類社会がたどりついた国際基準からあえて離れて「日本は日本は」という道に入ろうとしている。そこをきちんと見すえなければならないはずです。・・・」


(以上、引用終了)


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冒頭でも述べたように、樋口さんの如き主張は、その価値の普遍性が証明も論証もされていない立憲主義や天賦人権から--しかも、彼等の特殊な「立憲主義」のイメージから--改憲のうねりを批判しているにすぎないのではないでしょうか。つまり、樋口流の憲法論などは、詐欺師の裁縫師の作った「裸の王様」の衣服なの、鴨。

尚、天賦人権論と立憲主義を巡る私の基本的な認識については
下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html


いずれにせよ、現在ではヨーロッパの憲法典や憲法論の主流は、例えば、スイスの2000年の新憲法を紐解くまでもなく、憲法は国家権力を縛るだけでなく、国家権力と国民が協同関係にあるという憲法観に到達していると言える(cf. 『文藝春秋』2013年7月号所収「憲法改正大論争」pp.132-150、就中、pp.148-149の西修さんの指摘)。

ならば、樋口流の憲法論は、「個人の尊厳を核とした権利の普遍的な価値の受容と、そのような権利を保障するための立憲主義に貫かれた国家権力機構の創出、そして、国家権力の権力行使はそのような権利を保障するための立憲主義に則っている場合にのみ正当化される。なぜならば、そうとでも考えなければ国家権力や憲法の正当性を誰も説明できないからだ」といった、実は、かなりシャビ-な根拠しかもたない議論。換言すれば、それは「立憲主義は普遍的だ、よって、立憲主義に貫かれている限り国家権力は正当性を持つ。なぜならば、立憲主義が確保しようとする権利の価値は普遍的なのだから、そして、権利価値の普遍性はそれが認められなければ国家権力の正当性が説明できないのだから自明である」という循環論法の基盤の上に建てられた砂上の楼閣、もしくは、空中楼閣にすぎないと思います。

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蓋し、帝国主義のチャンピオンであった英米さえもが本格的な常備軍を保有していなかった19世紀半ばの「夜警国家」の時代とは異なり、--その後、一世紀程の帝国主義の時代、および、社会主義が跳梁跋扈した70年余の時代を経て--主要国が常備軍を抱え、他方、社会権的基本権が権利として認定される一方、その濃淡は別にして主要国がケインズ政策を採用する--主要な「資本主義国」の多くでそのGDP総体に占める公的財政支出の割合が優に60%を超えている!--「福祉国家」となった現在、立憲主義を専ら権力の制約原理として捉え、「立憲主義」の四文字で権力の不当な行使が制約可能と考えることは現実的ではないでしょう。

畢竟、立憲主義は権力の制約原理であると同時に権力の正当化原理でもある。加之、不当な権力行使の予防と救済の道は「立憲主義」の四文字を睨んでその是非を判定するが如き憲法研究者の名人芸によってではなく、司法を始め有権解釈者が憲法の具体的な権利規定から遂行論的に積み上げる解釈の蓄積しかないのではないでしょうか。

すなわち、現在では、権力制約原理の側面においてさえも、立憲主義は国家権力の規模の規制原理ではなく権力行使のガイドラインなのであり、就中、立法・行政の政治セクターに対して司法権が容喙できる範囲を判定するためのガイドラインにすぎない。いずれにせよ、立憲主義がそれだけでは権利の具体的な内容、もしくは、--三権分立という大雑把な分類を超える--国家権力機構間の権限の具体的な配分のあり方を導き出せない、抽象度の高いタイプの法理念であることは間違いない。と、そう私は考えます。閑話休題。


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立憲主義にアプリオリな価値を密輸する樋口流の議論は、他方、「立憲主義」と「憲法制定権力」、および、「フランス革命」についてのかなり根拠の怪しい理解によって編み上げられたもの、鴨。

(Ⅰ)立憲主義の特殊な理解
(Ⅱ)憲法制定権力の特殊な理解
(Ⅲ)フランス革命の特殊な理解

▼立憲主義
「立憲主義」にせよ「憲法制定権力」にせよ、あるいは、「フランス革命」にせよある言葉をどのような意味に用いるかはかなりの程度論者の自由に属することでしょう。而して、例えば、「立憲主義」の語義は大凡次の4個に分類できる、鴨。

(1)天賦人権を前提とする「権利の保障」と「権力の分立」を要請する主張
(2)天賦人権を前提としない、しかし、一般の制定法を無効にする効力を帯びるなんらかの普遍的価値が憑依する「権利」と「上位の法」に沿った権力行使を要請する主張
(3)天賦人権を前提としない、しかし、なんらかのルールで決まった権利を、かつ、社会の多数派から守るための統治の仕組みと権力行使の運用を要請する主張
(4)統治機構が憲法や慣習に従い構成され、権力の行使が憲法や慣習に則って行われることを要請する主張


ならば、樋口流の立憲主義なるものは、論理的に同じ資格で成立可能な4個の中の(1)のみを「立憲主義」と恣意的に呼んでいるだけの杜撰で僭越な議論なの、鴨。そして、(1)のフランス流の立憲主義が「天賦人権論」または「社会契約論」というこれまた根拠薄弱のイデオロギーが神通力をまだ維持しているリベラル派の仲間内でのみ、他の三者--(2)英国流の、そして、現在の世界の憲法論の主流の一斑と言える、「古典的立憲主義」もしくは「新しい保守の立憲主義」、あるいは、これまた、(3)現在の世界の憲法論の主流の一斑と言える謂わば「新しいリベラルの立憲主義」、更には、(4)旧ドイツ流の、つまり、旧憲法の「外見的立憲主義」--に対しての優位性を僭称できるもの、鴨。

畢竟、普遍的な価値を帯びる権利が存在すると考える「天賦人権論」は存在可能だけれども、そのような普遍的かつ具体的な内容を備えた「天賦人権」は存在しない。よって、「天賦人権」を前提にする(1)は破綻している。すなわち、樋口流の立憲主義は、リベラル派の仲間内だけで通用する謂わば夜間限定の<百鬼夜行>的な議論、鴨。もっとも、現在の日本ではそれは<夜>に限らず<百鬼昼行>の趣すらありますけれどもね。

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。



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▼憲法制定権力
樋口さんの記述、「国民の憲法制定権力がヌキ身で万能のままだと、革命勢力がせっかくつくり上げた法秩序が、万能の憲法制定権力によってまたひっくり返されてしまうでしょう。そこで出番が終わった国民の憲法制定権力は、勝手に動き出さないように封印・凍結されます」を目にして私は唖然としました。

畢竟、「最初に一度だけ神が宇宙を揺らし、その後、力学法則に従い宇宙は動いている」といった<ニュートン的宇宙観>でもあるまいに、「最初に一度だけ憲法制定権力が発動した結果、天賦人権が顕現して立憲主義が確立した。その後、憲法制定権力は封印・凍結され憲法改正権になった」という認識は極めて恣意的なものだろうから。

フランス革命時、確かに、シェイエスは「憲法制定権力論≒憲法制定権力の保有者は第三身分であるという主張」を唱えました。けれども、フランス革命なるものが憲法論において--まして、フランス以外の国の憲法論において--<神の最初にして最後の世界を揺らす一撃>であったとする根拠はどこにもない。而して、少なくとも、カール・シュミットの如く、法理論の領域で、「憲法制定権力」を憲法改正の限界指標--すなわち、ある憲法典の変更が「現憲法の改正」なのか「新憲法の制定」なのかを説明する指標--と捉えることは誰からも毫も批判される筋合いのないことでしょう。


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<続く>


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