樋口陽一の文化帝国主義的憲法論の杜撰と僭越(下)


<瓦解する天賦人権論のイメージ>


法理論的な意味と用法において、「憲法制定権力」は事実の世界の実定法秩序の変遷と法規範の世界の憲法体系の交錯を説明する作業仮説にすぎない。だからこそ、カール・シュミットは『憲法論:Verfassungslehre』(1928)の8章で、これまでの現実の政治史において「憲法制定権力」になりえたものとして「国民」や「人民」のみならず「神」や「国王」や「組織された徒党」をも挙げているのでしょうから。

尚、憲法制定権力と憲法改正の限界、及び、憲法の概念を巡る
私の基本的理解に関しては下記拙稿をご参照ください。

・憲法96条--改正条項--の改正は
 立憲主義に反する「法学的意味の革命」か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61963692.html

・保守主義の憲法観
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60996566.html

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繰り返しになりますが、「憲法制定権力」はある憲法秩序を構成する諸規範分類の道具概念であり、かつ、ある実定法秩序の変遷が「憲法の改正」であるか「新憲法の制定」かを判定する道具概念である。少なくとも、この理解からは「神は一度だけ宇宙を揺らす」のか「幾度も揺らすのか」などの、それこそ神学論争にこの用語の使用を限定されるいわれはない。と、そう私は考えます。

日本国民は自国の文化と伝統を反映した、なにより、自国の安心と安全と国益を極大化可能な憲法を制定する憲法制定権を持っており、その憲法制定権の発動の結果が「占領憲法の改正」であるのか「新憲法の制定」であるのかは日本国民にとってはどうでもよい、--勝負の決まり手が「小手投げ」なのか「出し投げ」なのかの判定の如く、勝負の帰趨とは無関係な、憲法研究者コミュニティー内部でのみ意味を持つ--趣味的な論点にすぎないとも。

б(≧◇≦)ノ ・・・小手投げ!
б(≧◇≦)ノ ・・・出し投げ!

ウマウマ(^◇^)稀勢の里、勝利!



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▼フランス革命
樋口さんの発言、「革命勢力がせっかくつくり上げた法秩序」という言葉自体にすでに左翼リベラルの価値観が炸裂していますが、「大革命前夜のフランスで・・・人権宣言と、国民主権をうたう新しい憲法がつくられた」にも目眩がしました。阿呆か、と。この理解は少なくとも読者をミスリードするものではないかと思います。

畢竟、鎌倉幕府の成立時期の解釈とパラレルに「フランス革命」をいつからいつまでの事柄とするかもそう簡単ではない。けれども、名作『ベルサイユの薔薇』を念頭に整理させていただければ、少なくとも、フランスの近現代史において、第一帝政(1804-1814)、王政復古(1814-1830)、七月王政(1830-1848)、第二共和政(1848-1851)、第二帝政(1851-1870)、第三共和政(1870-1940)、ナチスドイツによる占領およびビシー体制(1940ー1945)、第四共和政(1946-1958)、第五共和政(1958ー)の太刀持ち露払いを務める「フランス革命」なるものは、

1789年05月05日--------三部会招集
1789年07月09日--------憲法制定国民議会
1789年07月14日--------バスティーユ監獄の誤爆的襲撃
1789年08月26日--------人権宣言採択
1789年10月05日--------ヴェルサイユ茶番行進
1791年09月03日--1791年憲法(立憲君主制・国王に法律の拒否権)
1791年10月01日--------立法議会
1792年09月21日--------国民公会→王政廃止→ジャコバンのカルト的独裁開始
1793年01月21日--------ルイ16世処刑
1793年06月02日--------国民公会公安委員会をジャコバン派が独占
   →→テルミドール(1794年)までジャコバンのカルト的独裁が猖獗を極める!
1793年06月24日--1793年憲法(カルト的左派憲法。但し、施行はついにされず)
1793年10月10日--1793年憲法の停止(施行されていない憲法の停止!)
  「フランス政府は和平達成のその日まで革命的である」=「人の支配」の宣言!
   1793年4月~1794年7月の間にパリだけでも3000人が問答無用で処刑される!
1793年10月16日--------マリー・アントワネット処刑
1794年07月27日--------テルミドールの正義と秩序の回復
1794年07月28日--------カルト左派の狂人・ロベスピエール処刑
1795年08月22日--1795年憲法(ある意味、典型的な「ブルジョア憲法」)
1799年12月25日--1799年憲法(ナポレオン憲法)
1804年12月02日--------ナポレオンの皇帝戴冠
  「余は、フランス共和国の皇帝である。余は、フランス共和国の領土を外敵から守り、
   信仰の自由、政治的および市民的自由の保障等々、革命の成果を断固守護する」
1815年06月18日--------「ワーテルローの戦い」でフランス完敗
   →→「フランス革命」という名の一連の陰惨で滑稽な騒乱が完全に集結!



という一連の雑多で陰惨で滑稽な事件の束のことでしかないでしょう。蓋し、この陰惨で滑稽な事件の連続、もしくは、その中で泥縄式に制定された諸憲法とその実定法秩序を称して「革命勢力がせっかくつくり上げた法秩序」と呼ぶとは呆れてものも言えない。なにより、樋口さんの言う「国民主権をうたう新しい憲法」とはどの憲法のことなのでしょうかね。真面目に疑問です。

いずれにせよ、フランス革命なる「陰惨で滑稽な事件の連続」を根拠に、--1789年以降、諸外国においても憲法論的に尊重されるべき価値を帯びる--普遍的な人権なるものや普遍的な立憲主義なるものが成立したなどとは到底言えないことだけは間違いないのではないか。よって、日本では(コミンテルン日本支部であった日本共産党と近しい)講座派や隠れ講座派の丸山真男、あるいは、大塚久雄が流布した「日本は市民革命を自前で経験していないから、本当の意味での民主主義も人権尊重の感覚も国民の間に根付いていない」なども与太話にすぎない。フランス革命などは日本にとっては大昔のよそ事なのですから。と、そう私は考えます。


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而して、自民党の改憲草案に対する樋口さんの敵意というか苛立ちの原因はなんなのか。「改憲草案は旧憲法への逆戻りだ、というとらえ方でよいか、それでは甘すぎるのではないか」という主張を見てそう疑問に思いました。なぜならば、「在外国民の保護」(25条の3)等の新しい規定が盛り込まれているだけでなく、現行の占領憲法の曖昧な多くの権利条項を明確化している点で、占領憲法よりも、そして、間違いなく旧憲法よりも改憲草案の方が権利保障においても優れている所もあるはずですから。

あくまでも想像するしかありませんけれども、樋口さんの苛立ちの理由は、(A)旧憲法と改正草案の各々の時点における「ヨーロッパ・スタンダード」との距離、就中、(B)改憲草案が、天賦人権論・社会契約論・個人の尊厳、すなわち、「必要悪としての国家権力」あるいは「安全保障等の公共善を担い、かつ、権利を保障する限りにおいて国家権力は正当性が認められる」という19世紀のフランスの左翼的パラダイムの残滓を払拭していることなの、鴨。もし、この想像が満更私の曲解ではないとするならば、しかし、これら(A)(B)は樋口さんの個人的な美意識のマターであり、それが自民党の改憲草案の是非を判定する上で一般的にそうそう意味のある基準ではないのではないでしょうか。

蓋し、立憲主義は<開かれた構造>であり、憲法を制定し解釈する営みに際しての<足場>にすぎない。つまり、樋口さんご自身が述べておられるように「もとより、人権の普遍性を基本に置く考え方にしても、それぞれの文化の個性を無視していてはその社会に受け入れられない」(『「憲法改正」をどう考えるか--戦後日本を「保守」することの意味』(岩波書店・2013年5月))のでしょう。ならば、これまた繰り返しになりますけれども、具体的な権利の内容は国により時代により異なるのであり、その権利内容を詳らかにするのは「立憲主義」の四文字ではなく司法審査の<言語ゲーム>的の蓄積でしかないだろうから。

まして、「夜警国家」の時代ではなく社会権的権利が認められている「福祉国家」の時代、そして、樋口流の憲法論から見ても、それまた「必要悪」たる諸外国による日本の主権と日本国民の権利侵害が頻発する現在--よって、権利の制約根拠を「権利相互間の調整原理としての公共の福祉」なるものではまかなえないことが自明であり、権利の制約根拠としての「公益」をも導入することが不可避の現在という<時代性>を反芻するとき--いよいよ、私はそう考えるのです。


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樋口流の憲法論は破綻している。それは、例えば、集団的自衛権の政府解釈の見直しについて、朝日新聞が「最高法規の根幹を、政府内の手続きにすぎない解釈によって変える。これは「法の支配」に反するのではないか」(2014年1月3日社説)と書いているのと同じくらい根拠薄弱の議論。なぜならば、現行の「集団的自衛権を日本は国際法上は保有しているが憲法上は行使できない」という噴飯ものの政府解釈もまた「最高法規の根幹を、政府内の手続きにすぎない解釈」で示したものだから。他方、樋口さんの議論もまた、その仲間内でしか神通力のない「立憲主義」「憲法制定権力」「フランス革命」を巡る特殊な語義で編み上げられた<呟き>にすぎないの、鴨。

畢竟、上に引用した樋口さんの主張は単なる「文化帝国主義」の吐露にすぎず、天賦人権なるものに価値を認めない我々保守派のような縁なき衆生にはなんの説得力もないリベラル派の杜撰で僭越な<呟き>にすぎないと思います。樋口さんご自身が次のような真理告白・信仰告白を吐露してから、すなわち、

「<西欧生まれの人権や自由を押しつけようとするのは文化帝国主義ではないか>という反撥がある。たしかに、文化の相対性ということはある」「人間の尊厳を「個人の尊厳」にまでつきつめ、人権の理念とその確保のしくみを執拗に論理化しようとした近代立憲主義のこれまでの経験は、その生まれてきた本籍地を離れた普遍性を、みずから主張できるし、また主張すべきなのではないだろうか」

「文化の相対性という考えをみとめながらも、人権価値の普遍性を主張することがけっして「文化帝国主義」ではない、という基本的考え方を、どうやって基礎づけるかという思想的ないとなみの責任を、日本の知識人は日本の社会に負っているのであり、日本社会はまた世界に対して負っているのである」なぜならば「文化の多様性を尊重することと、西欧起源の立憲主義の価値の普遍性を確認、再確認することとは、別のことがらである。後者の普遍性を擁護することは、だから、けっして、不当にもひとびとがいう「文化帝国主義」の行為ではない」のだから。


と、少し意地悪に要約すれば、「立憲主義の価値の普遍性を主張することは文化帝国主義ではない。なぜならば「立憲主義の価値の普遍性」は人権価値の普遍性に基礎づけられているからだ。そして、人権価値の普遍性を主張することも文化帝国主義ではない。それは文化帝国主義などではないからだ」というトートロジーを、すなわち、循環論法でもって単なる自己の美意識を『自由と国家』(岩波新書・1989年, p.201ff.)に綴ってから四半世紀が経過するというのに、「人権価値の普遍性」なるものが基礎づけられたという話は寡聞にして聞こえてきませんから(笑)。


畢竟、樋口陽一の護憲論議は杜撰な僭越であるか、私的な美意識の披露、
もしくは、その両方にすぎない。と、そう私は考えます。
而して、瓦解した天賦人権論の上に、日本の国柄を踏まえた<憲法>が
木花咲耶姫の如く美しく再生する日も遠くないとも。



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木花咲耶姫



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