アーレントの言葉でアーレントを否定した毎日新聞の<脱原発ファンタジー>コラム(上)




あーれぇ、アーレントの言葉を引用しておいてアーレントの思想を否定してないかい、これ。と、そう感じたエッセーを目にしました。毎日新聞のコラム、山田孝男「風知草:思考停止から抜け出せ」(2014年1月27日)。そのコラムのどこが問題と感じたのか。

それは、アーレントの思想的関心の核心は--主著と目される『全体主義の起源:The Origins of Totalitarianism』(1951), 『人間の条件:The Human Condition』(1958)を反芻する限り--孤立した大衆をまるごと吸収可能なイデオロギーの教条を、しかも、組織的・計画的に運用する全体主義体制に抗して、いかにして人間は幸福な生活を--私的領域と公的領域の二個の重層的な人間の生活における自由(freedom)を--手に入れることができるかという点にあったと思うから。

すなわち、<脱原発ファンタジー>などはアーレントの不倶戴天の敵とも言うべき<全体主義>そのもの。ならば、アーレントの--全体主義の危険性の告発、および、公的領域での人間の取るべき活動についての--片言隻句を用いて、都知事選挙において有権者を脱原発の投票行動に誘導しようなどは唖然とする言説。それこそ、あのゲッベルスも裸足で逃げ出す論理の飛躍ではなかろうか。と、そう私には感じられたということ。これです。


▼風知草:思考停止から抜け出せ
「原発ゼロ」は東京都知事選(2月9日)の争点にふさわしいか−−。世論は歩み寄りの余地がないほど割れているが、先週末、近所の映画館で遅ればせながら見た映画「ハンナ・アーレント」(2012年)が重要な視点を提供していると思った。

哲学者、アーレント(1906〜75)の、人間がなす悪についての考察が、原発と東京の有権者の責任という問題につながる−−と思われたのである。アーレントはドイツ系ユダヤ人女性だ。ナチスに追われ、アメリカへ亡命。第二次大戦後、ユダヤ人虐殺に深く関わったナチス親衛隊中佐、アドルフ・アイヒマン(1906〜62)の裁判を傍聴した。

アーレントは、アイヒマンを「どこにでもいる平凡な人物」と見た。戦時下では誰でもアイヒマンになり得たのであり、イスラエルの法廷で被告席に座っていたのは人類全体だとも言える−−と米誌「ニューヨーカー」で論じた。これが激しい議論を呼んだ。アイヒマンは冷酷、残忍、狂気の極悪人−−という、戦後の支配的な歴史認識を侵したからだ。・・・

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アーレントの断定。
「世界最大の悪(600万人以上とされる20世紀のユダヤ人虐殺)は平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も、悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです」

戦時のホロコースト(大虐殺)と平時の原発事故に何の関係がある−−といぶかる向きもあろうが、似た側面があると思う。思考停止のまま、未完の巨大技術への依存を続ければ、時に途方もない惨害を招く。福島の原発事故を見よ。直接被ばくによる死者こそ出なかったものの、故郷を追われた避難民は約14万人にのぼる。

そういう中での都知事選である。なるほど、エネルギーの選択は国策には違いない。だが、難しいことは国が決める、専門家が決める、上司が決める、オレは知らん、自分さえ無事なら後は野となれ山となれ、という構えでよいか。現実の戦争だろうと、経済戦争だろうと、巨大なプロセスに巻き込まれるうちにモラルが見失われ、人を人とも思わぬ判断が繰り返されることがある。・・・

東京都は電力の最大の消費地だが、原発はない。核廃棄物の最終処分場は存在せず、計画もない。悪いのは東京電力だ、原子力ムラだ、政府だ−−とうそぶき、福島の14万避難民の苦難など眼中にない東京であってよいか。アーレントは米誌への寄稿「エルサレムのアイヒマン/悪の陳腐さについての報告」の最後でこう言っている。被告には殺意も憎悪もなかったにせよ、絞首に値する。なぜなら「政治においては服従と支持は同じもの」だから・・・。都知事選に限らず選挙に臨む有権者が胸に刻むべき言葉ではないか。


(以上、引用終了)


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アーレントの「政治において人間が取るべき行動」を巡る主張は--「全体主義」成立に至る社会の思想的な風景の素描ともいうべき『全体主義の起源』、そして、「全体主義」に抗し得る人間行動(労働・仕事・活動)の可能性の吟味を説いた『人間の条件』を謂わば<両界曼荼羅>とするアーレントの主張は--いかなるものか。蓋し、私は、それを、(α)自己とは異質な<他者性>を持つ人々に、(β)言語で働きかけることによって、(γ)彼等から評価・批判されることの価値の称揚と理解しています。

すなわち、公的領域に参加する活動--選挙運動にせよ、消費者運動にせよ、あるいは、ブログ運営にせよ、直接もしくは純粋に労働と仕事が占める私的領域の外部での自己の<言語行為>--が他者から賛成・反対、秀逸・拙劣、喝采・罵声、軽視・無視等々の<評価>を受けることの肯定。加之、この公的領域を構成する<他者性>と<言語行為>、ならびに、その公的領域への参加から得られる満足感こそが--古代ギリシアの市民がポリスの政治に関わることをその幸福の不可欠の条件と考えていた、文字通り、「ポリス的存在」であったように--人間の幸福の条件であり、もって、その公的領域への参加とそこで得られる幸福感が<全体主義>に対抗可能な人間存在の条件でもあるというもの、鴨。

蓋し、アーレントは、言葉の正確な意味での「現代の保守主義」の信奉者でしょう。すなわち、(1)自己の行動指針としては自己責任の原則に価値を置く、そして、(2)社会統合のイデオロギーとしてはあらゆる教条に疑いの眼差しを向ける、よって、(3)社会統合の機能を果たすルールとしては、さしあたり、その社会に自生的に蓄積された伝統と慣習に専ら期待する、換言すれば、その社会の伝統と慣習、文化と歴史に価値を置く態度と心性を好ましいと考える。而して、(4)その社会の伝統と慣習、歴史と文化をリスペクトする<外国人たる市民>に対しては、逆に、彼等の社会の伝統と慣習、歴史と文化を<国民>もリスペクトすべきだと考えるタイプの社会思想を信奉する論者と言える。

尚、「保守主義」を巡る私の基本的理解については
取りあえず下記拙稿をご参照ください。

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444711.html

・「左翼」の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1) ~(4)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60904872.html

・保守主義-保守主義の憲法観
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60996566.html


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いずれにせよ、アーレントは、1971年のニクソンショック、および、1973年のオイルショックを嚆矢とする人類史の本格的なグローバル化の黎明を見ることなく亡くなった。ゆえに、彼女の思索の枠組みは、あくまでも、(ⅰ)「国民国家」の形成、(ⅱ)「帝国主義」の成立、そして、(ⅲ)「全体主義」の勃興という20世紀前半までの人類史に限定されたものだったでしょう。アーレントの天稟は、しかし、「全体主義」がナチスドイツや社会主義の崩壊によって終焉するようなものでもないことを見据えていたの、鴨。

而して、(a)現代社会が大衆社会/大衆民主主義下の社会であり、(b)現代国家が福祉国家という全体国家--権威主義的で家父長的色彩が濃厚な「全体主義国家」ではなく、国民の経済活動や市民生活の多くの部面に行政サービスを提供する「全体国家」--である限り、更には、(c)グローバル化の昂進の中で、いよいよ、多様な文化を担う人々がある一個の国民国家の内部--しかも、グローバル化昂進の波濤の前には相対的にその力が逓減した「国民国家-主権国家」の内部に--等質な<国民>として組み込まれ包摂されざるを得ない限り、<全体主義>は常に魔界転生の機会を虎視眈々と狙っているのだ、と。

蓋し、「国民国家」が単に人間に等質な<国民>たることを要求する一方で--「国民国家」の成立にすぎないフランス革命の殺戮の嵐やアメリカ南北戦争の悲惨を想起するまでもなく--、等質たり得ないと看做す具体的な<市民>を<国民>のリストから暴力でもって排除する体制にほかならないのに対して、「全体主義」は--ルソーの説く「一般意志」、あるいは、ヘーゲルの唱えた「絶対精神」や「時代精神」の如く、もしくは、『風の谷のナウシカ』でナウシカにオームが自らの一族のことを述べたように--、異質なものもまるごと「全にして一、一にして全」と看做す体制であり、よって、「全たる一」になり得ない具体的な<国民>は<非国民>として暴力的のみならず論理的にも抹殺される体制なのでしょう。


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大凡、アーレントの思想の骨格とその思想的関心の核心をこう捉えることが満更曲解ではないとすれば、アーレントが「全体主義」に対抗するための橋頭堡として設定した、「公的領域-政治活動」への参加の推奨から片言隻句を切り出して<脱原発ファンタジー>を基礎付けるなどは、ほとんど正気の沙汰とは思えない破廉恥な言説ではないか。と、この毎日新聞のコラムについてそう私は感じたのです。

それは、原発を争点にすることが主体的に政治に参加することであり、そして、原発を争点にする限り「脱原発」が正解である。すなわち、「原発推進」や「原発容認」の候補に投票することは、主体的に政治に参加しない「平凡な人間が行う悪」である。それは、法的にはいざしらず、アーレントの地平においては倫理的な批判に値する。なぜならば、「政治においては服従と支持は同じもの」だからと主張していると。

畢竟、都政であれ国政であれ、多岐に亘る争点に対してどの程度の重要さを認めるか自体、有権者の自由であり、その価値判断こそ政治に主体的に参加するということではないでしょうか。ならば、この毎日新聞のコラムのような主張。国政のみならず都知事選挙においても、原発が争点になるべきだ、原発が争点になるということは「脱原発」の候補が勝利することだ--つまり、「脱原発」の候補が敗北するということは、原発が争点にならなかったということだ--という、お宅何様ものの言説が<全体主義>と隣接していることだけは明らかでしょう。アーレントの不倶戴天の敵の<全体主義>、と。敷衍します。


尚、私の<脱原発ファンタジー>に関する認識については
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・放射能の恐怖から解脱して可及的速やかに<原発立国>に回帰せよ!
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60935787.html

・放射能と国家-脱原発論は<権力の万能感>と戯れる、民主主義の敵である
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11138967625.html

・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11138964915.html


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<続く>




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