アーレントの言葉でアーレントを否定した毎日新聞の<脱原発ファンタジー>コラム(下)




カール・シュミットは、大衆民主主義下の福祉国家を念頭に置いて「国家は全体国家(totaler Staat)に堕している」と喝破しました。而して、「全体国家」とは、人間の生活の全体を支配する強力で権力主義的な政府という意味ではなく、「全体化」したがゆえに、社会の種々諸々の雑多な国民大衆の要求をすべて顧慮せざるを得ない、図体は巨大であるにせよ主体性の乏しい弱々しい国家という意味。

畢竟、現実の国家は、内政・外政ともに到底完全などではありえない。つまり、それは有限な能力しか持たない「全体国家」である。他方、現実の国家は「国民国家-主権国家」として国民の社会統合においても完全でもない。正に、「全体主義」はこの不完全さの隙を、ないものねだり的に突いてくる。

すなわち、(a)現代社会がその社会の構成員全員に原則選挙権を付与することによって、社会を構成する大衆一人ひとりの政治的影響力が極小化した社会、要は、すべての大衆が政治から疎外されている大衆民主主義下の社会であり、(b)国際競争の激化とケインズ政策の積み重ねの中で財政硬直と財政均衡の破綻が常態化した多くの国で--ギリシアやイタリアや韓国の杜撰と滑稽、あるいは、スウェーデンやフィンランドやデンマークの偽善と悲惨を見れば思い半ばにすぎるように--、その行政サービスには限りがあるだろうし、更には、(c)グローバル化の昂進の中で「国民国家」の社会統合は漸次困難になってきている。

他方、政治政党も--生身の市民の欲望や要望、怨嗟や嫌悪を、法的な国民有権者の意見に変換する<装置>であったはずの政党も、それらが政権獲得を狙う限り--これら(a)~(c)の現実を看過しない限り、社会の過半から嫌われる事態は何としても避けざるを得なくなる。而して、どの政党も社会の広汎な層からの支持を求める「包括政党」に移行してしまい、結局、アメリカの共和党と民主党、ドイツのCDUとSPDに顕著な如く、政党間の政策の違いが極小化し収斂化する。要は、すべての国民有権者に対して、どの政党もほどほどにしか、あるいは、よりましにしか満足させることができなくなってきているということです。

よって、皮肉なことに、政権獲得を目指すほどの政党は、国民国家内部に鬱積する大衆の欲望や憎悪、而して、それらの社会心理学的要因と交錯する社会内の紛争、ならびに、国際紛争を解決する能力を失っていき、ついには、左右を問わず教条的なイデオロギーの<ファンタジー>を弄する全体主義の政治運動や体制に国民有権者の支持を根こそぎ奪われる危険性がある、と。

畢竟、ナチズムや社会主義といった歴史的に特殊な「全体主義」ではなく、寧ろ、ルソー『社会契約論』に顕著な<全体主義>そのものの<ファンタジー>が--<脱原発ファンタジー>に典型的な物語の教条性こそが--「全体主義」の明白かつ現在の危険の源泉である、と。アーレントはそう睨んでいたの、鴨です。


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▼資本主義の浸透
アーレントの死後、(a)大衆社会化、(b)全体国家化、(c)グローバル化は、益々、その強面の相貌を明らかにしてきていることは言うまでもないでしょう。而して、これら三者の基底には、更に、(d)資本主義の拡大浸透、そして、(e)科学技術の専門化の昂進という現象があるの、鴨。

蓋し、「主義」の2文字がついているから紛らわしいのですが、「資本主義」には「制度」の側面と「その制度を容認する理路・心性・行動様式」の二面がある。而して、制度がすべてそうであるように、それは規範と状態の重層的な構造であり、かつ、言語や家族という自生的な制度がすべてそうであるように、交換を巡る制度たる資本主義の制度もまた時代によってその内容が変遷してきている。

何を言いたいのか。それは、現在の資本主義の制度は、例えば、①所有権の制限、②契約の自由の制限、③過失責任の制限、および、④所得の再配分の導入、⑤ケインズ的な財政と金融における国家権力の政策の導入、⑥種々の国際的な制約という修正または変容を経た後のものということ。而して、これらの資本主義の変容を与件をとして踏まえるとき、サッチャーもレーガンも、フリードマンもハイエクさえもある意味立派な「社会主義者」でないとは言い切れないのではないでしょうか。

家屋の賃借人にほとんど無制限の厳格責任を認めていた19世紀末までの英国のコモンロー。あるいは、労組の活動どころか労組の存在自体を容認しただけの連邦法・州法を憲法違反と断じた、加之、生活必需品の料金の買い占めによる価格引き上げや、「談合」などではない、鉄道等の公共交通機関の料金の(その地域のサービスを独占する)鉄道会社による裁量的決定を制限する州法を憲法違反と断じた19世紀末のアメリカ連邦最高裁の判決群を見るとき、私はそう感じざるを得ません。

ならば、(d)資本主義の拡大浸透とは、制度の側面よりも、寧ろ、その制度を容認する理路・心性・行動様式の地球儀規模での拡大浸透と捉えるべきでしょう。畢竟、物象化した資本の論理は--「疎外」もしくは「物象化」ということの言い換えにすぎませんけれども--人間が容喙できない独自の法則性と自己実現性を帯びている。ならば、そのような資本の論理にハイエクの言う意味での「設計主義的な施策」でもって人間が抗うことが可能とする<ファンタジー>は人間の有限性の自覚を忘れた、人間と国家の万能観に根ざす<全体主義>に親しいものではないか。と、そう私は考えます。


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▼専門化の昂進と専門家の政治的な権威化
原子力発電の再稼働の是非の問題を見るにつけても、科学技術の専門知の支配--マルクスの顰みに倣い換言すれば「疎外された専門知」、すなわち、--それを作り上げた人間の制御から離脱して独自の存在と流通の法則性を獲得した専門知が猛威を振るっている。このことは間違いないでしょう。そして、科学技術に仕える<神官>としての専門家、逆に言えば、それら<神官>の用いる<秘儀>としての専門知が、最早、主権国家や国際機関のオフィシャルな統制の枠には収まらなくなってきているということもまた。

すなわち、ミシェル・フーコーが予言した「素人を沈黙させる<権力>としての専門知」が跋扈している。而して、疎外された専門知の--権力と化した科学技術の--あり方を反芻するとき、加之、他方、現在ではすべての人が「ほとんどの知の領域に関しては素人でしかない」状況を想起するとき、そのような「国民国家-主権国家」を超える専門知の、少なくともその一斑ではあるだろう原発政策に関しては、直接民主制的な政策決定、就中、素人による国民投票や住民投票が、ある意味、最も馴染まないこともまた自明ではないでしょうか。

なぜならば、誰も知らないことについては判断できないでしょうから。そして、逆に、
政治責任を問われることのない専門家が政治的判断に容喙すべきではないでしょうから。


アーレントは、<全体主義>の苗床としての大衆社会の危険性を高める「民主制」には懐疑的であり、寧ろ--古代ギリシアの政治の実情、および、アメリカの建国期の政治思想を模範にしつつ--、社会の各成員が主体的に政治にコミットする権限と責務を帯びている、かつ、自由の理念が代表制によって単一な法体系に具現する、更には、法の前の平等が担保されている「共和制」に好意的だったと思います。


而して、この点はあるいは、カントが『永久平和のために:Zum Ewigen Frieden』(1795)の「国家間の永久平和のための確定条項」の第1確定条項で「共和制」の要素として記した内容と親しい、鴨。

一、社会の成員が自由であること
二、社会のすべての成員が、唯一にして共同的な立法に(臣民として)従属する
三、社会のすべての成員が(国民として)平等



ことほど左様に、あらゆる<全体主義>が紡ぎ出す物語の教条性を忌避するアーレントは、而して、その現実の政治においても、不可能を誰にも求めないでしょう。ならば、--全体主義に抗して幸福を手に入れるにも厳しい条件があり、また、全体主義体制下においては平凡な人間が世界最大の悪を動機も信念も邪心も悪魔的な意図もないまま平気で行うという--人間の有限性を直視した保守主義者としてのアーレントが、(d)資本主義、そして、(e)科学技術の専門化に好意的ではなかったにせよ、アーレントの思想の延長線上からは、これらの現実に対しては「平和的共存」の線しか導き出せないと思います。


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現代の民主主義を--共和主義とも保守主義とも協働可能な社会思想、かつ、--<全体主義>と鋭く対立するもとして捉える場合、それがどのようなイシューであれ、政策を「正か邪か」の基準で選択することは価値相対主義を基盤とする現代の民主主義とは相容れない。ならば、原発問題に関しても、畢竟、我々は次のような<常識>に立ち返るべきなのではないでしょうか。

(ⅰ)絶対の安全性などはこの世に存在しない
(ⅱ)低線量・中線量の放射線被曝の危険性は証明されていない
(ⅲ)原発にかわる安定的な代替エネルギーの実用化は困難    


これらの<常識>を踏まえて、原発再稼働に踏み切ることこそ、人間の有限性を自覚する、現代の民主主義および現代の共和主義とも、なにより、現在の保守主義とも整合的であろうと思います。実際、そろそろ日本も、<脱原発ファンタジー>から覚醒して原発立国路線に回帰すべきではないか。少なくとも、<脱原発ファンタジー>は民主主義の否定である。と、そう私は考えます。


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孔子が『論語』(顔淵篇)で喝破した如く「古よりみな死あり、民信なくんば立たず」。ならば、究極的には、低線量放射線被曝の「確率的影響」など恐れる必要もなく実益もない。それは人間が究極的には左右しうるものではないのですから。実際、「福島の原発事故を見よ。直接被ばくによる死者こそ出なかったものの、故郷を追われた避難民は約14万人にのぼる」と言うのなら、寧ろ、そろそろ、放射線被曝線量基準自体の非合理性を直視すべきだと思うのです。

他方、今現在、生存と生活に困窮している避難者・被災者・羅災者、あるいは、飢餓に苦しんでいる世界の子供たちの<現存在>というリアリティー、文字通り、餓死せしめられた数万数十万の福島県浜通りの牛さんや豚さんや犬さんの<命>のリアリティーを想起するとき、人間が、そして、その作る政府が些かなりとも左右しうる「死-生」のカテゴリーにおいて、3年後、あるいは、13年後、または、30年後に、例えば、白血病や甲状腺癌になる危険性、しかも、確率的な危険性の増大などは、人間やその作る政府が取り組むべき社会的問題のプライオリティーとしては限りなく最下位に近いだろう。と、そう私は考えます。

蓋し、IAEA(国際原子力機構)が2013年の10月21日に提言した通り、被曝線量基準年間1ミリシーベルトなるものには何の意味もないこと、そして、放射線被曝の「確率的影響」に関する「非閾値-連続直線仮説」--要は、どのような微量の放射線被爆も確率的にはDNAを破壊することによる健康障害の原因となりうるという主張--がいみじくも指摘している通り、この世に安全なものなどない。

ならば、安全が確保できない事態を<異常>な事態と捉える感覚こそ
文化帝国主義、西欧中心主義の世界観の顕現である。


そして、その感覚は、繰り返しますけれど、人間存在の有限性の自覚を欠いた、人間と権力に対する万能感が<福島>に投影している妄想であり、すなわち、それは<脱原発ファンタジー>の教条に絡め取られた<全体主義>の苗床にほかならない。畢竟、<脱原発ファンタジー>は、アーレントの思想、および、それと親しい価値相対主義を基盤とする現在における保守主義とは相容れない。と、そう私は考えます。


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