ナショナリズムの祝祭としてのオリンピック




日本のリベラル派の言論の中では、「右傾化」とか「前のめり」とか、「偏狭なナショナリズム」とか「政治的中立」等々の意味不明の言葉が流布しているようです。蓋し、朝日新聞の社説を見ればこれらの指示対象を欠く<詩的言語>の展示即売会状態。そして、例えば、安倍政権の右傾化を危惧する朝日新聞元主筆の若宮啓文氏も、毎日新聞特別顧問だった岩見隆夫氏との対談(「論争対談・憲法改正は是か非か」中央公論 2013年 4月号所収)の中で、岩見氏に「右傾化ってなんですか」と聞かれて、それがはっきりした意味を持っていないことを認めていますものね(笑)。そして、最後には「右傾化とか、右翼と左翼という区別にあまり意味はない」(p.85)と口走っている(爆)。

ならば、リベラル派は、例えば、集団的自衛権の政府解釈見直しとか、憲法改正、河野談話および村山談話の見直しとか、首相の靖国神社参拝、公立学校での日の丸・君が代の尊重等々のポレミックなイシューで自分達の主張と反対の動きに便宜的に「右傾化」というレッテルを貼ってるだけということ、鴨。ならば、この言葉、「AKB化」とか「裏千家風」とか、なんでもいいんじゃないんでしょうかね。

而して、本稿はこのような<言葉>に対する問題関心を軸にして、オリンピックとナショナリズムを巡る関係を一瞥するものです。というのも、日本では、いまだに、「ダルビッシュ投手は、・・・日の丸の重みになど負けず、ボールを言語として野球というスポーツを戦おうとしている。日の丸はただチームの象徴であるだけだ」(朝日新聞・2008年8月12日)とか「五輪憲章に「オリンピック競技大会は個人種目または団体種目での選手間の競争であり国家間の競争ではない」と規定されている。・・・五輪で国は深い意味合いを持たない」(朝日新聞・2010年2月24日)などという無知蒙昧の反日リベラルの言説が堂々と全国紙の紙面に掲載されているから。

敷衍します。確かに、『オリンピック憲章:Olympic Charter』(2010年2月11日版)の(Ⅰ章6-1)には、「オリンピック競技大会は、個人種目もしくは団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」(The Olympic Games are competitions between athletes in individual or team events and not between countries. )と書いてあります。では、なぜ、無知蒙昧とまで書くのか。

はい、それは--論証は下記拙稿をご参照いただきたいのですけれど--、五輪憲章においてさえ「五輪で国は深い意味合いを持たない」ということは全くの間違いだからです。きっぱり。

蓋し、オリンピックは民間の法人(IOC)が勧進元として運営する大会、よって、土台、オリンピックが国家を代表する選手で運営されることはないのです。けれども、オリンピックの出場選手は各国のオリンピック委員会(NOC)が選択した選手に限られており、また、NOCと国との関係は五輪憲章上からも不可分というか表裏一体のものということ(Ⅳ章27, 30, V章II-40, 41)。よって、この「五輪と国」の関係を巡る現象はオリンピックやサッカーワールドカップを契機にして「ナショナリズム」を政策的に高揚させる国もあれば、それほどでもないかなーという国もあるという、程度問題にすぎないのだと思います。

・決定! 東京オリンピック2020--
 筋違いの<五輪幻想>から解脱して素直に喜びませんか(上)~(下)
 (中の後半から下で「五輪と国」の位置づけについて詳述しています)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62122133.html 


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いきなり結論に行きます。蓋し、(ⅰ)オリンピックをどう位置づけるかは五輪憲章などに拘束される筋合いはなく、各国、各人の自由であるということ。ならば、五輪憲章に「オリンピック競技大会は、個人種目もしくは団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と書いてあろうが、あるタイプの国が--例えば、支那とか韓国とか北朝鮮のような国が--オリンピックやサッカーワールドカップを契機にして「ナショナリズム」を政策的に高揚させることは悪趣味としても自由であり、また、あるタイプの国では--例えば、日本や米国や英国では--その国民が「ナショナリズム」を満喫する、すなわち、ある種のカタルシスとアイデンティティの確認を国民総出で体験する--時空をまたぐ<行く年来る年→速攻の初詣>ともいうべき--イベントとしてこのスポーツコンテンツを消費するのも自由であろうということ。

而して、「ナショナリズム」とは何か。

と、そんな大仰な議論はここでは割愛して--逃げるわけじゃなかです。詳細は下記拙稿をご参照ください、眠たくなるのはほぼ確実でしょうけど(泣笑)--、(ⅱ)オリンピックやサッカーワールドカップという契機を通して消費される「ナショナリズム」とは、文字通り、「国民国家-主権国家」に憑依するものであり、厳密に言えば、エスニシティ―に憑依するものではないということ。

ならば、(ⅲ)エスニシティ―とは異なり極めて歴史的に特殊な観念表象である<国民>が、そう自然な存在ではなく人工的なものであるとすれば、その<国民>を社会統合することが「国民国家-主権国家」の最大級のタスクであると考える場合、オリンピックやサッカーワールドカップを利用するか借用するかの差は置いておくとしても、オリンピックやサッカーワールドカップという<場>が「ナショナリズム」の祝祭になることはなんら問題ではない。と、そう私は考えます。

畢竟、オリンピックやサッカーワールドカップは<戦争>なのです。ならば、<戦時国際法>を順守する限り、オリンピックやサッカーワールドカップなどはなんでもありの世界である。だから、ノーベル平和賞とかに公平性や普遍性をなにがしか期待する以上に、究極のところ、オリンピックやサッカーワールドカップに公平性などを期待するのは愚かなことだ。と、そう私は思います。


而して、英国の平和主義者、ジョン・ラスキン(John Ruskin;1819年-1900年)が喝破した如く、「戦争はすべての技術の基礎なのだ。というのも、戦争が人間のあらゆる高い徳と能力の礎だという意味でもある。この発見は、私にとって何とも奇妙で、非常に怖ろしいことだったが、けっして否定出来ない事実に思えた・・・。簡単にいえば、偉大な国民はみな、その言葉と真実と思想の力を戦争で学ぶこと、戦争に養われ平和に消耗させられること、戦争に教えられ平和に欺かれること、戦争に鍛えられ平和に裏切られること、要するに戦争で生まれ、平和で息を引き取ることがわかった」という認識。

よって、戦争を直視すること、すなわち、戦争を含む非常事態が惹起する恒常的蓋然性から目を背けるべきではなく、それに常に備えるべきなのだという認識がそう満更間違いではないとすれば。「国民国家-主権国家」とその<国民>は、オリンピックやサッカーワールドカップという<戦争>に真面目に取り組まねばならない、とも。


(ⅰ)オリンピックやサッカーワールドカップをどう位置づけるかは見る側の自由である
(ⅱ)「ナショナリズム」とは「国民国家-主権国家」単位に成立する観念表象である
(ⅲ)オリンピックやサッカーワールドカップが「ナショナリズム」の祝祭なのは当然である



・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html

・天皇制と国民主権は矛盾するか(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60944485.html

・国家神道は政教分離原則に言う<宗教>ではない
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62105204.html


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オリンピックやサッカーワールドカップを巡ってリベラル派は何を危惧しているのか。リベラル派になったことは一度もないので想像するしかありませんけれど、それは、おそらく、「国民国家-主権国家」を超える<地球市民>という彼等の諸々の主張を支えるイメージがそれらのイベントコンテンツを通して、ますます、その神通力を失うことなの、鴨。と、そう感じます。

敷衍すれば、グローバル化の時代、ある「国民国家-主権国家」が果たせる行政サービスの領域や能力は逓減している、そして、だからこそ、「国民国家-主権国家」の必須のタスクたる<国民>の社会統合における「国民国家-主権国家」への期待は大きくなってきた。こんなパラドキシカルな状況を前に、「国民国家-主権国家」も<国民>も、リベラル派が喧伝してきた<地球市民>なるものからますます離れ、<ナショナル>なものに向かうことに彼等は茫然自失しているの、鴨。まー、想像ですけどね。

蓋し、ナショナリズムとは元来、多様な民族を百花繚乱的に包摂していたより普遍的な--ある意味、一個の宇宙とでも言うべき--<帝国>が解体した後、それの民族よりは同質性の高い--言語・文化、歴史認識において同質性の高い--幾つかの民族を囲い込むための<政治的神話>だったのだと思います。

だってね、英国のスコットランドとか、スペインのバスクとか、あるいは、アイヌの方とか沖縄の人とかを想起するまでもなく、あのー、九州や関西と神奈川や山形ではね、お餅や味噌だけでなく、結婚の際の新居の準備を新郎新婦のどちら側が負担するかさえルールが違いますから。つまり、ナショナリズムを、アーネスト・ゲルナーの言う如く「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」と定義するとしても、その「民族的単位」には幾分の多様性はあるということ。


而して、重要なことは、はっきり言えば<嘘>である、<日本国民>や<フランス国民>の一体性や等質性なる<政治的神話>は、しかし、グローバル化の中で資本主義の暴力と、あるいは、東アジア地域における特定アジア諸国の脅威にさらされている日本国民を想起すれば自明なように、現在の人類史においては人々にとって<役に立つ嘘>であるということ。そして、繰り返しになりますけれど、だからこそ、その<嘘>の効果を維持強化することは冗談抜きに重要な国家のタスクであり、ならば、その国民がオリンピックやサッカーワールドカップを契機にナショナリズムを満喫することに反日リベラルはいちゃもんつけるんじゃねぇー! と、そう私は思います。


畢竟、<国民>の権利と<外国人>の権利が異なるのは当然なのです。ただし、オールオアナッシングではなく当然に<外国人>に認められる権利は存在する。よって、問題は正当な<外国人>の権利の侵害であり、それは実は、ナショナリズムとは無関係。なぜならば、権利の正当性を決めるものはナショナリズムに底礎された憲法秩序でしかないからです。

而して、所謂「ヘイトスピーチ」を規制する立法というものは、実は、あたかもメシアの出現を待ち望むかの如く、<地球市民>なるものの到来を指折り数えて待っている日本独特のリベラル派の色彩よりも、間違いなく、些か多様な人々を「国民国家-主権国家」につなぎとめる極めてナショナリズムの色彩が濃厚なものでしょう。ならば、<国家>に対する<国民>の社会統合のパフォーマンスが、そんな立法が必要な欧州各国程にはお粗末ではない日本ではそんな--表現の自由を表現内容を基準に一律に規制するなどという、英米の憲法訴訟論の見地からはほとんど<ナチス>や<スターリン>や<毛沢東>ものの--立法は不要。

そして、「偏狭なナショナリズム」なる指示対象のない意味不明の言葉で語られる事象に、本当に何か社会的に解決すべき問題があるとすれば、その行為者の行動を個別に批判すればよい。畢竟、「偏狭なナショナリズム」なり「偏狭なAKB48」なりの意味不明の言葉で、十羽一絡げ的に「ナショナリズム」自体に問題があるとするリベラル派の言説は論理的にも思想的にも破綻している。と、そう私は考えます。


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