素人の素人による素人のための<技術>としての哲学入門





アメリカ大学院留学のカウンセリングに長らく従事してきて、よって、毎年、数百のアメリカのビジネススクールを調査してきた者として最初は意外に感じたことがあります。それはアメリカ人MBA学生の学部時代の専攻の分布。経済学・経営学とならんで--アメリカには学部レベルの「法学部」は存在しませんから法学専攻者はもちろんほぼ皆無なのですけれど--哲学専攻者の割合が低くないこと。日本では、哲学専攻と言えば、やはり今でも--個々の学部学生の志向は捨象するとして哲学科総体を覆おうイメージとしては--好事家的で些か浮世離れした「哲学・学」の様相を呈しているのと比べてこの点、彼我の差は歴然。

哲学の教授なりがTVで政局についてコメントするにつけ、哲学科の学部生が高田馬場や渋谷、百万遍や北白川の居酒屋で時事政局を論じるに際しても、なにがしか高尚な蘊蓄を披露しつつ、結局、論者の解釈や感想を呟いているにすぎない日本と比べて、--アメリカ人MBAの学部時代の専攻分布という小さな<窓>から垣間見える--アメリカ社会における<哲学>のありようを想起するとき、そこには小さいけれどかなりクッキリした<哲学>に対する日米の差を私は感じました。蓋し、日本では哲学は<教養であり芸事>にすぎないが、アメリカではそれは<教養かつ技術>なのではないか、と。


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◆技術としての哲学
哲学とは--事実と規範、存在と当為を峻別する新カント派の方法二元論、もしくは、歴史の弁証法的展開を織り込んだマルクス主義の唯物史観に端的な如く--世界認識の方法論や世界認識のパラダイムではありましょう。それは間違いない。そして、<哲学>、すなわち、哲学する営みは単に「私はこう思う」と語る言語活動ではなく、端的に「私はこれこれの根拠に基づいてこう思う、よって、その根拠が否定できないのなら貴殿も私と同様にそう考えるか、少なくとも、対案が提出できるまでは沈黙していなさい」と他者に迫るかなり高飛車な言語行為でもある。

けれども、哲学とは、「哲学・学」を遥かに超える一般的な思考の枠組み、あるいは、論理展開のモデルに関するアイデアの束であり、なにより、それら諸アイデアの運用の技術ではないか。ならば、<哲学>をそのような公共の言説空間における<論理の技術>と捉えるとき、カントやマルクスのテクストもそのような諸アイデアを知るためのケーススタディー集と理解できる。そう私は考えています。

畢竟、あらゆる技術がそうであるように、技術としての哲学にも過去の先達の工夫と叡智の蓄積がありましょう。ならば、それは囲碁や将棋とパラレル、または、日本料理やフランス料理の伝統ともパラレルなの、鴨。ただ、哲学が囲碁・将棋と違っているのは、あるいは、物理学・医学・心理学、経済学・法学・歴史学という個別科学と異なっているのは、それが世界を認識する自己の能力を根本から疑い、よって、ゼロベースから構築された世界を認識するための技術体系ということでしょうか。

蓋し、哲学の体系性や論理性は--論理と公理に従い事実に基づいてのみ議論するという点では--他の諸科学とそう差はない。けれども、それがゼロベースから積み上げられている徹底性の点では、そして、なによりそれが<自己を含む思念の全対象世界>をカバーする包括性という点では他の諸技術や諸科学と鮮やかな対照をなしている。

実際、哲学の内容にはイデオロギーの構築からあらゆるイデオロギーの批判までが含まれている。敷衍すれば、宇宙論、世界観、歴史観、国家論といったイデオロギーの構築から、他方、逆に、--憲法を対象とする哲学的な考察である憲法基礎論の領域に限っても、例えば、「憲法」や「立憲主義」や「自衛権」の諸概念の究明、および、具体的な個々の憲法体系に内在するとされる「天賦人権論」なり「社会契約論」なりの--イデオロギー分析と批判が哲学の内容には包摂されている。

哲学的に取り扱われる限り、すなわち、ある事象が体系的・論理的に、かつ、徹底的・包括的に思念される限り、AKB48も英語教育も、サッカーワールドカップもカップラーメンもこの世に<哲学>の主題にならないものはない。蓋し、ある言説が哲学的かどうかを決めるものは--新カント派が喝破した如く「方法が対象を決定する」のでしょうから--独り、その言説の根拠性がゼロベースから組み立てられているかどうかの徹底性の度合いにある。私はそう考えます。


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教科書的には、哲学の内容は、大体、認識論、存在論、価値論に区分されています。蓋し、これは偶さかのことではなく、また、学界の惰性と怠慢だけでもない(多分)。ゼロベースから自己の世界認識の立場と自己の哲学的な世界観を構築する際、人間の認識能力の吟味(認識論)、人間存在の定礎(存在論)、社会的行動の指針の措定(価値論)というこれらの内容が、更に言えば、それら三者の連関性の究明が哲学をする誰にとっても大凡不可避であった事情のこれは裏面なのだと思います。畢竟、哲学することと伝統的に蓄積されてきた技術としての哲学の諸アイデアを学ぶことは流石に無縁ではないということです。

而して、法哲学の内容・仕事についてまとめられた矢崎光圀先生の次の有名な知見(例えば、『法哲学』(筑摩書房・1975年),pp.26-37)も、そのような歴史の試練に耐えて現在に至っている定跡や定石のリストアップと言えるかもしれません。乱暴に整理しておけば、(1)と(2)が認識論、(3)と(5)が存在論、そして、(4)が価値論にその場を専ら占めていると言える、鴨です。いずれにせよ、哲学各論としての法哲学は--あるいは、そのまた一部分としての憲法基礎論は--哲学総論との有機的連関性を保ちながら形成されて現在に至っていることは間違いない。と、そう私は考えています。


法哲学の五つの仕事
(1)法の説明の問題--法概念論--
(2)法学方法論の問題
(3)法の社会的機能、役割の問題
(4)法の目的、価値の問題
(5)法と言語、論理の問題



逆に言えば、これまでの人生で哲学書などこれっぽっちも読んだことのない論者が、しかし、世界と世間についてなにほどか聞くに値する知見や主張を公共の言説空間で述べている場合、彼女や彼の言説の多くは、大概の場合、哲学の言語に翻訳可能ということ。敷衍すれば、認識論、存在論、価値論の区分自体には何の必然性もない。けれども、それらは<技術としての哲学>の定跡や定石として歴史の試練に耐えて現在に至っているのだろう。ならば、好き勝手に自己流で囲碁・将棋に戯れ、料理を楽しむのは論者の勝手だけれど、より上手いより美味い<作品>を目指すのなら過去の定跡や定石を学ぶのも悪くはない、鴨。と、そう私は考えます。

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◆哲学は進歩するか
哲学を技術と捉え、そして、過去の哲学の古典を技術を知るためのケーススタディー集やアイデア集と捉えるとき、「そもそも哲学の言説に正解はあるのか」とか「哲学は進歩するものなのか」というこれまた些か浮き世離れした問いの解答も自ずと明らかになる。

囲碁の世界では江戸時代の本因坊秀策の棋譜のレベルは現在のプロ棋士のそれを遥かに超えているとか。しかし、そんな例外中の例外は置いておくとして、哲学を技術と捉える立場からは「哲学は進歩するか」の問いに対する返答は「Yes」です。

考えるための技術、あるいは、考えるための考え方の技術と哲学を捉える場合、アリストテーレースやソークラテ-スはもちろん、ヘーゲルやマルクス、そして、カントの作品さえも現在の水準から見れば--すなわち、ウィトゲンシュタインとフッサール、要は、分析哲学と現象学の地平から振り返れば--稚拙で杜撰、牧歌的で脳天気な言説と言わざるをえません。

例えば、カントが万人に共通の思考の形式と看做した「量・質・関係・様相」の純粋悟性概念(カテゴリー)なるものは、単に18世紀当時の論理学の通説--要は、アリストテーレース由来の論理学--の微修正にすぎず、また、カント哲学の前提たる「物自体」もかなり恣意的な想定と言わざるをえません。同様に、19世紀当時の英国古典経済学の通説から労働価値説を無批判に受け入れたマルクスの思想も『資本論』第一巻のその初手から、本来成立不可能な普遍的な価値の存在を想定する誤謬に陥っている。この意味ではその時代その時代の哲学水準に応じて「哲学の言説に正解はある」。


けれども、逆に、哲学を世間や世界を考えるための技術と捉えるとき、実は、誰にとっても哲学は一種の<比喩の体系>でしかないとも言えるのではないか。そして、比喩としての<哲学>を使い、有限なる人間が無限なる世界に臨む場面では哲学の営み自体には進歩があるとは思えません。畢竟、作品としての哲学は進歩するけれど、精神活動としての<哲学>にはそう大きな進歩はなく、寧ろ、時には退歩することさえも希ではなかったかもしれない、と。要は、この意味の<哲学>においては「哲学の言説に正解はない」のでしょう。

例えば、現在の日本のリベラル派が「天賦人権論」や「立憲主義」という言葉をかなり曖昧な意味に用いて展開している粗忽かつ僭越な議論を見聞きするとき、私はそこに<哲学>の退歩を感じないではない。少なくとも、トンデモな議論が咲き競うそこには、人間の有限性を自覚した上で、対象世界の認識から180度進路を変えて人間の認識能力の根拠と限界の究明に向かったカントの「先験哲学」登場以前の牧歌的で居丈高な独断の微睡みを感じないではないということです。

・立憲主義の無知が爆裂した朝日新聞(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62314363.html

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html


ならば、諸々の過去の哲学も<哲学>として見た場合、これまた囲碁や将棋の流派や戦術のようなもの、鴨。すなわち、論者が各自、好みの戦型を選ぶことに--他人事ながらそれは現在では得策ではないよと心配にはなるものの、例えば、彼や彼女がマルクスのアイデアを選択しようとも--他人からとやかく言われる筋合いはなかろうということ。

富士山登頂に喩えれば、21世紀初頭の現在も、世間と世界を考える上でのアイデアの体系やテンプレート、すなわち、<比喩の体系>として古典的なカント哲学を採用するか、最先端の分析哲学や現象学を採用するかには、富士山を御殿場方面から登るのと山梨側から登るのとの差しかないのかもしれないということです。

いずれにせよ、その論者が、人間の有限性・世界の無限性・哲学の技術性をきちんと踏まえている限り、歴史の試練を潜って生き残ってきた作品としての哲学は<哲学>のためのよいアイデア集であり便利なレシピ集でないはずはない。と、そう私は確信しています。


尚、哲学に興味のある初心者には、私は今でも『哲学のすすめ』(講談社現代新書・1966)および『カント』(勁草書房・1958)、『カントからヘーゲルへ』(東京大学出版会・1977)といった岩崎武雄先生の一連の入門書、そして、それらの解説書としての石川輝吉『カント 信じるための哲学』(NHKブックス・2009)を推薦します。

英訳すればこれらはMBA進学志望のアメリカ人学部学生にも
それなりに好感を持たれる好著だと思いますから。

なに、じゃ、お前が英訳しろって?

ヽ(^o^)丿



・海馬之玄関推奨--素人でも読めるかもしれない社会を知るための10冊--
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62345736.html

・書評:はじめての言語ゲーム
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62324812.html



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