保守派のための「立憲主義」の要点整理




憲法は権力を縛るものであって
権力者が憲法を勝手に解釈することは
立憲主義から見て許されない


かくの如き言説、すなわち、「集団的自衛権の政府解釈の見直しは立憲主義に反する」という類のリベラル派の言説が世に溢れているようです。而して、本稿は「立憲主義」を巡る私の理解を整理したもの。リベラル派の「言うたもん勝ち」「言うだけならタダや」的な言説に我々保守派が効率的かつ効果的に反論する上で本稿が少しでも役に立てば嬉しいです。本稿の要点は次の4個。

(Ⅰ)立憲主義は憲法を説明する原理であり憲法解釈の指針ではない
(Ⅱ)立憲主義は民主主義と緊張関係にある
(Ⅲ)立憲主義はこの百年間で変化した
(Ⅳ)リベラル派の「立憲主義」にはある特殊な人間観・国家観が憑依している



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(Ⅰ)立憲主義は憲法の原理であり憲法解釈の指針ではない
近代立憲主義の要諦を記したとされるフランス人権宣言16条「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されないすべての社会は、憲法をもつものではない」に明らかな如く、「立憲主義」とはそもそもあるタイプの憲法制定の要求であり、そんなタイプの憲法典の諸条項を説明する原理です。

而して、立憲主義的な憲法では、(a)国家権力によっても侵害されることのない権利の存在を前提としつつ、(b)権利を保障するための統治機構の分立、および、三権間の抑制と均衡が組み込まれている。加之、(c)ある範囲の立法に関してはそれらを違憲無効と判定する司法審査権を司法府に認めること、あるいは、(d)権利保障をより十全かつ慎重にするべく、憲法の改正には通常の立法手続きよりもより高いハードルを課す憲法の硬性性もまた立憲主義から説明されましょう。

しかし、例えば、国民主権の原理から直ちに国政選挙の妥当な選挙権年齢が--現行の20歳は違憲で18歳なら合憲などと--決まることはないのとパラレルに、「立憲主義」の四文字から「妥当な硬性性の度合い」なり「個別の事案から自由に、かつ、事前に立法の合憲性を審査する憲法裁判所としての権能を最高裁判所に与えること」の是非などが導かれるわけでもありません。白黒はっきり言えば、立憲主義は憲法の説明の原理ではあっても、少なくとも、単独では憲法解釈の指針として作用することはないのです。

繰り返しになりますが、「立憲主義」のみならず、例えば、国民主権・民主主義、自由と平等、あるいは、国家の生存権、そして、日本国を社会統合する軸としての天皇制といったあらゆる憲法の原理は、ほとんどの場合単独では憲法解釈の指針としては作用しない。それらの諸原理は現行憲法の諸条項を説明するロジックであり、ならば、具体的な憲法解釈においては、それら諸原理は具体的な個々の憲法の諸条項や憲法の慣習を経由してその意味内容を照射するものでしかない。と、そう私は考えます。

而して、司法審査を通した権利保障に際しても「立憲主義」は、1次的には司法権の権限と権威の根拠なのであって、--表現の自由の制約にせよ生活保護の認定基準や給付内容の決定にせよ--それら具体的なケースでは占領憲法の権利諸規定の解釈から権利保障の妥当な範囲が導き出されるしかないのです。

いずれにせよ、例えば、民法の解釈でも、信義則の尊重や権利濫用の禁止、公共の福祉による権利制約といった一般条項(1条)を法的紛争の解決に際して持ち出すのは最後の最後の手段とされましょう。曖昧な原理や原則は、他に適用可能な具体的なルールが見当たらない場合、もしくは、具体的なルールをダイレクトに適用しては紛争解決の結果の妥当性が危ぶまれる場合の最後の手段ということ。ならば、これとパラレルに、憲法解釈の指針としてそれを捉えるにせよ、これと同様な禁欲的姿勢が「立憲主義」を持ち出す論者には求められるのではないでしょうか。


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(Ⅱ)立憲主義は民主主義と緊張関係にある
(Ⅲ)立憲主義はこの百年間で変化した

現在では多くの主権国家の憲法典とその実定法秩序には国民主権と民主主義のイデオロギーが組み込まれています。つまり、現在では、立憲主義が縛る「権力」や「権力者」なるものは、立憲主義によってだけでなく民主主義によっても自身を正当化しているということ。ならば、立憲主義は--テクノクラートが構成する非民主的な裁判所が、よりデモクラティックな色彩の強い国会と内閣の立法や処分を違憲無効にできる場合もあるというロジックでもある限り--、民主主義あるいは国民主権の原理と対立する、少なくとも、緊張関係にあると言えます。

・立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62198131.html

何を言いたいのか。すなわち、この側面からも「立憲主義」の四文字からだけでは「集団的自衛権の政府解釈の変更」が憲法的に許されるか否か、あるいは、憲法改正条項(占領憲法96条)の改正が許されるかどうか等の憲法の解釈は導き出されることはない。それは--(Ⅰ)で述べた如く、憲法の具体的な諸条項や憲法の慣習を通して見いだされるのみならず--、民主主義や国民主権、更には、国家の安全保障や日本国の社会統合という他の諸原理との折り合いの中で決まるしかないということです。


西欧諸国においてさえ国民主権も民主主義もまだ実定的な憲法原理とは到底いえなかった18世紀末~19世紀半ばの頃と、世界の大方の国がイデオロギー的に「主権国家-国民国家」としての体裁を整え、更には、普通選挙制度が行き渡った20世紀前半では「立憲主義」の意味内容も変化せざるをえませんでした。

更に、国家権力の容喙を拒む「自由権的基本権:国家からの自由」が権利の内容であった時代から、20世紀後半以降、国に社会保障や財政金融政策の出動を求める「社会権的基本権:国家への自由」もまた権利として認められるにおよび、立憲主義の内容も「権力を縛る」原理だけでなく「権力を働かせる」原理としての役割も担うことになった。

敷衍すれば、大凡の主権国家が実際に憲法典を保有してしまった20世紀半ば以降、元来、憲法典の制定を求める政治的主張でもあった「立憲主義」は、「国家権力や社会の多数派によっても侵害されるべきではない権利の存在を前提として、国家権力によるそのような権利の侵害を制約し、他方、社会の多数派からのそのような権利への侵害に対する<守護神>であることを国家権力に求める原理」と理解するのが今では妥当であろうと思います。

つまり、立憲主義の根拠はそれが守護する権利の普遍性--ここで「普遍性」という誤解の多い言葉を避けて敷衍しておけば、権利の中には取りあえず国会の立法によっても侵害されるべきではないものがあるというアイデア--にあるということです。

而して、このように「立憲主義」を発展的に読み換えるにしても、具体的な権利が現実に侵害されるわけでもない「集団的自衛権の政府解釈の変更」について、それを批判するに際して「立憲主義」を持ち出すことは筋違いである。まして、安全保障という「統治行為マーター:political questions」については、裁判所ではなく、原則、内閣と国会が有権解釈者なのですから、三権分立を求める原理という立憲主義の中核的意味内容からみて、正当な有権解釈者による憲法解釈をその「立憲主義」から批判することは筋悪でしかない。

換言すれば、立憲主義とは、国家権力が憲法に従うことを通して国家権力の恣意的な運用を制約する原理である裏面では、それは国家権力の権力行使を正当化する根拠でもありましょう。すなわち、立憲主義自体は--権力分立と権利の確保という回路を別にすれば--弱い国家権力や権力の消極的な行使をアプリオリに要求する原理では最早ないということです。ならば、国民の社会統合とならんで国家権力の最優先のタスクである安全保障について、内閣が自己の解釈を変更することは、国の安全と繁栄の実現を積極的に国家権力に求めるに至っている現代の立憲主義が寧ろ歓迎することものではあっても否定するものではない。と、そう私は考えます。


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(Ⅳ)リベラル派の「立憲主義」にはかなり特殊な人間観・国家観が憑依している
日本のリベラル派の使う「立憲主義」という言葉には、--おそらく、アトム的個人観・社会契約論・天賦人権論といった--現在では世界的に見てもかなり特殊なイデオロギーが憑依しており、それは、最早、万人を拘束するような<神通力>を持つものではないと思います。加之、彼等の議論は、占領憲法の意味内容が国際関係や国際政治と無縁に憲法典から演繹されるとする、空間的にも時間的にも<閉じた体系としての憲法>あるいは<結晶体としての憲法>のイメージに定礎されているとしか思えない。

フランス革命という名の陰惨な一連の騒乱事件当時、すなわち、「主権国家-国民国家」が人類史に登場する場面で、当時、神通力を消失していた「中世的な立憲主義」をモデルチェンジするに当たって--国家を超えるsomethingでなければ国家を正当化することはできないでしょうから--アトム的個人観・社会契約論・天賦人権論というイデオロギーが考案されたのは自然なこと。これは、インターナショナルな「万国の労働者の祖国」を詐称することで、ソビエトロシアがやっと「一国社会主義体制」という名の「主権国家-国民国家」に移行することができた事情ともパラレル、鴨。

けれども、「主権国家-国民国家」が与件として存立割拠するに至っている現在、アトム的個人観・社会契約論・天賦人権論は国家権力と憲法秩序の正当化の唯一のロジックでもないしその正当化のパフォーマンスもそう優れたものではない。例えば、日本の文化と伝統、日本の歴史と国柄に価値を置き、皇室を戴く国民の運命共同体として<日本>を捉えるやり方と比べてそのパフォーマンスが優れているとは必ずしも言えないでしょう。

アトム的個人観・社会契約論・天賦人権論が単なる机上の想定であるのに対して、<日本>を核とした日本国民と日本国の理解には国民の法意識の中で間主観的な妥当性があること、よって、国家権力の正当化に関しても国民の法的確信をより高いパフォーマンスで具現可能なことだけは確かなのですから。

いずれにせよ、--それはリベラルな憲法秩序を担う主体としての「地球市民」なる<メシア>の出現をいまだに信じているからでしょうか--<日本>という特殊性を忌避するリベラル派にとって、アトム的個人観・社会契約論・天賦人権論、そして、それらと整合的なこれまたかなり特殊な意味内容の「立憲主義」なるものは、リベラル派の立場からはそうとでも考えなければ、国家権力も国民の行動を制約するその権力行使も正当化できないという、彼等の仲間内でしか通用しない根拠のかなりシャビイな議論であろう。下にURLを記した拙稿「瓦解する天賦人権論」で些か詳しく検討したように、そう考えなくとも保守主義からの国家権力とその行使の正当化は十分に可能でしょうから。と、そう私は考えます。


尚、(Ⅰ)~(Ⅳ)に関するより詳しい説明は下記拙稿をご参照ください。

・立憲主義の無知が爆裂した朝日新聞(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62314363.html

・解釈改憲なるものについての雑感
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62383748.html

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html

・憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する
「法学的意味の革命」か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61963692.html


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