草稿・科挙としての留学の意義と無意味(下)




(ⅲ)人脈、あるいは、<人脈>が重要だという認識。かって、長州の俊輔の頃から、岩倉使節団の副使、そして、元勲としての数次にわたる<留学>を通して伊藤博文が得た体験は、間違いなくアメリカ正規留学に期待してよい果実だと思います。

実際、ある大手電機メーカーの人事部長は「人事屋の端くれとしては毛色の変わったいろんな大学に社員を送りたいとは思う。切にそう思う。けれども、MBA留学のほとんど唯一の成果が海外人脈の構築拡大である現実を踏まえるとき、毎年、そこそこの水準のアメリカ人学生や日米以外の国からの留学生が集まるであろう当たり外れのない無難な線に--例えば、「Top20-MBA」(Best 20 of Business Schools)あるいは Second Tier Business Schools等々に--派遣先を絞らざるを得ない」と個人的に語ってくださった。

他方、ある大手重機メーカーの人事部長の方は、留学先から合格通知(a letter of admission)も無事届き、秋からの留学が決まった自社の若手社員を送り出す宴席のスピーチでは、「皆さんの少なくとも半数は留学後、ヘッドハンティングされて他社に移られると思います。けれども、その新天地におかれましても当社をよろしくお願いします」という冗談というか恫喝というかをしばしば口にされたということ(←小泉構造改革スタート直前の15年近く前の縄文中期の大昔の話ですが、実話です)。

蓋し、これら両人事部長の発言の基底には、おそらく、「人脈、あるいは、<人脈>が重要だという認識」の会得こそアメリカ正規留学の得難い果実の一つという認識があるの、鴨。と、そう私は考えます。而して、<人脈>こそ次の<自己認識>を知りうるほとんど唯一の鏡でもあるということもまた。


(ⅳ)「自己規定性の変更」とは正確には「他者認識の変化を媒介にした自己認識の動態的な変更」です。これは、明治・大正期の<留学>経験者が、政官財軍のすべてにおいて<聖別>され、今から思えば破格の社会的の処遇を受けてきた事実を想起すれば自明な現象。逆に言えば、例えば、「鳩山さんとこのお坊ちゃんは留学された経験があるらしい--どうりで英語も話せるみたいだし、話すその内容は間違いなくまともじゃないものね」と--世間では往々にして受け取られるあの現象。

あるいは、理研の<小保方晴子>の業績の認識について例の<割烹着>というアイテムの他に、「またまたノーベル賞!?30歳の「リケ女」がSTAP細胞を発見」(2014年1月30日)と、あの天下の朝日新聞も見事に見誤らせた事柄でしょう。要は、アメリカ正規留学には「箔が付く」ということ。それがなんらかの学位取得まで行き着いた場合、アメリカ正規留学には世間は一目置くし、よって、それは学歴ロンダリングの効果さえも認められるということです。

相互補完的な事柄であろう(ⅰ)~(ⅳ)、就中、(ⅳ)「自己規定性の変更」を睨むとき、私は<留学>は<科挙>とパラレルな制度でありツールなのかもしれないと思うのです。つまり、

それは(α)広く天下に門戸が開かれている世界観の練度を競うテストであり、(β)社会階層移動のためのそれなりに強力なアイテムでもある。よって、(γ)その<記号>を入手する以前と以後とでは世間の彼や彼女を--科挙の場合には「彼女」は原則いないとしても、例えば、留学し学位を獲得した彼や彼女を--見る目が質的に変化する点で両者はトポロジー的に同様なものではないか、と。而して、アメリカ正規留学の効用とは<科挙>としての属性に収斂するの、鴨とも。

いずれにせよ、(ⅰ)~(ⅳ)は相互補完的であること--だから、(ⅱ)異文化体験、ならびに、(ⅲ)人脈は、(ⅰ)(ⅳ)を具体的に肉付けするものであり、単なる「グリコのおまけ」ではないこと--、加之、繰り返しになりますけれど、(ⅰ)「英語運用スキル」の点では、国内に秀逸かつ廉価な代替財が豊富に存在している以上、少なくとも現在では上の(γ)「学位取得を境に世間の留学経験者を見る目が変わること」の原因を、専ら(ⅰ)「英語運用スキル」の向上に求めるのは間違いである。と、そう私は考えます。


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(Ⅱ)留学は科挙ではある
ご存知のように、随・唐期に形成され彫啄を施された科挙制度は清末に廃止されるまでの約1300年間(581/589年~1905年)、支那のほぼすべての王朝が採用してきた皇帝の官僚選抜試験であり制度でした。その意味では「科挙」は、寧ろ、現在の日本では国家公務員総合職試験・制度と対応させるべきかもしれません。

支那の王朝は--近代以降の産物である「主権国家-国民国家」すなわち「国民国家-民族国家」がそれこそ地球上を隈無く埋めている現在の地平からは--逆に、二重の意味で理解しがたい<国家>なの、鴨。すなわち、それは、(1)諸民族やそれらが形成する諸国を天のように覆う<帝国>であり、それは、寧ろ、一種のミクロコスモスだった。他方、(2)煎じ詰めれば、支那の王朝においては<国家>とは皇帝の家産にすぎず、よって、科挙の秀才・進士達もその皇帝の個人的な資産の管理に預かりお零れを頂戴する存在でしかなかったとも言える。

蓋し、これらの(1)(2)を念頭におけば--支那の王朝と現在の日本の国との位相差を睨むとき--、実は、「科挙」を現在の日本の国家公務員総合職試験・制度と対応させることは連想ゲームの言葉遊びの類の無意味なこと。

・<中国>という現象☆中華主義とナショナリズム(上)(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11153763008.html


けれども、<科挙>には単に人材登用の試験や制度という側面を超えて、支那の王朝にとっては社会統合のイデオロギーでもあった。皇帝の德が帝国という小宇宙を遍く公平に照らすというイデオロギーと「その皇帝の官僚になる道が広く天下に門戸が開かれている」という事実というか立前というかは表裏一体のものだったのではないでしょうか。ならば、一捻りして、<科挙>を<留学>と対応させることは朝日新聞の社説ほどには我田引水ではなく満更間違いでもない、鴨。と、そう私は考えるのです。

▼科挙の二つの貌
・皇帝の官僚採用試験とその制度
・帝国の社会統合のイデオロギー



アメリカほどではないにせよ日米ともに<学歴社会>ではある。しかし、日本の<学歴社会>が<受験>を通して専ら形成されているのに対して、アメリカの社会は<受験社会>ではありません。実際、MBAにせよロースクールにせよ、メディカルスクールにせよ、出願に際して提出が要求される諸々の適性テスト(aptitude test)という名の学力テスト(achievement test)のスコアにおいて、アメリカ人合格者のほとんどは最高レンジのスコアを取っており、それはその数倍のアメリカ人不合格者においても同じですから。要は、彼の地での合否は<受験>以外のsomethingで決まるということ。それは、寧ろ、価値観や世界観の練度の競争と言うべきである。

ならば、<科挙>の社会統合のイデオロギーの側面に注視するとき<留学>こそ近代以降の日本において<科挙>と極めて近しいものと言うべきではないか。なぜならば、それ自体としてはイデオロギー的に無色透明な能力審査であった<受験>と比べた場合、<留学>にはイデオロギー的色彩、世界観的色彩が不可避的に付着するがゆえに<受験>よりも<留学>がより<科挙>に近しい。

逆に、<科挙>の帯びる<技術としての世界観>の権威というテーストは、イスラーム社会やユダヤ社会における宗教的な権威によるイデオロギー支配、あるいは、旧東側諸国や日本共産党内部におけるマルクス主義の宗教的な権威によるイデオロギー支配と比べてより世俗的であり、それらの教条よりも<留学>との親和性が高いのではないか。と、そう私は考えます。


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いずれにせよ、「広く天下に門戸が開かれている」にせよ、科挙に合格するには膨大な時間と学資が不可欠だったのだから、その恩恵に預かれるポテンシャルを持っていたのは支那社会の極一握りの富裕層にすぎないなどという--折角、他店では350円するトマトカレーを期間限定で100円で提供しようというお店に対して、「でもやはり100円はいるのですよね」と呟く類の--朝日新聞的な揚げ足取りは看過するとして、<科挙>も<受験>も<留学>もある種の公平性を通して、その「合格者-学位取得者」を<聖別>するイデオロギー的な機能があったのだろうということもまた。

重要なことは、--「秀才・進士といった科挙合格者にも無能な者は少なくなかった」とか、「留学経験者でも英語が苦手な向きは実は少なくない」とか、要は、<科挙>をして肩書きだけで実力を見ようとしない社会を再生産する滑稽で醜悪なsomethingなどと認定する、それこそ朝日新聞でなくとも中高生でも夏休み明けの小論文で書きそうなことは置いておくとして--「自己規定性の変更」の更にその基底には、自己のキャリアゴールを自分自身でデザインするスキルと意志が横たわっているに違いないこと。実際、アメリカの大学・大学院の場合には出願者の、そのスキルと意志の練度と具体性と強烈さを重要な判定基準にしてますから。


・アメリカの大学院留学のための「Tips」または「心得」のようなもの
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11149214816.html

・ピグライフは勝れものの「マネージメントスキル開発ツール」かも(上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11421300439.html


而して、この「自己規定性の変更」の基底に横たわるsomethingこそが、--「東京大学合格437名」とか「医学部合格137名」という塾・予備校の宣伝文句に端なくも露呈している如く、<受験>の目的を大学入学後に先送りする、あるいは、大学という存在自体に丸投げする<受験>と比べて--目的自体を構築するところから競争のゲームが始まる<留学>の特徴であり、<技術としての哲学>であり<技術としての世界観>の練度をコンペティターが競った<科挙>と<留学>の類似点なの、鴨。

繰り返しになりますが、確認しておけば、現在の世界の支配的なイデオロギーの言語たる<英語>に関する(ⅰ)英語運用スキルのみならず、(ⅱ)異文化体験、(ⅲ)人脈、あるいは、<人脈>が重要だという認識、そして、(ⅳ)自己規定性の自己改革スキルを基底に据えた自己規定性の変更という<留学>の果実のコングロマリットを見るとき、<留学>は<科挙>に限りなく近しい。ならば、あるタイプの日本人志望者にとって、


б(≧◇≦)ノ ・・・留学の目的は<英語>だけではない!
б(≧◇≦)ノ ・・・留学は<科挙>ではあり、悪い選択肢とも言えない!


・イデオロギーとしての英語とイデオロギーを解体するものとしての英語
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11157781746.html



留学の効用の源泉は、単に(ⅰ)の「英語運用スキル」に収斂するものではなく、なんらかの技術としての世界観獲得を期待されてのものということ。ならば、公教育に「実社会で使える英語」なるものを求め、他方、<留学>の効用として(ⅰ)を過大視する見方の背景にはある種の<ファンタジー>が横たわっているのではないでしょうか。

それは、①英語のnative speakerの英語力を暗黙裏に前提に据える妄想、②善玉の「英会話」-悪玉の「受験英語」という錯覚、③公教育に対する万能感といった、いずれも、技術性と論理性を欠いた--ある意味、日本が第二次世界大戦で敗北した遠因と通底するsomething--というもの、鴨。と、そう私は考えます。



<(_ _)>

お粗末さまでした



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