民主主義--「民主主義」の密教的意味




民主主義:
語源はギリシア語のdemokratiaで、demos(人民)とkratia(権力)とを結合したもの。すなわち、人民が権力を所有し、権力を自ら行使する立場をいう。古代ギリシアの都市国家に行われたものを初めとし、近世に至って市民革命を起こした欧米諸国に勃興。基本的人権・自由権・平等権あるいは多数決原理・法治主義などがその主たる属性であり、また、その実現が要請される。(広辞苑)



数少ない弊ブログのほとんどの読者の方は、「曼荼羅に織り込まれていた民主主義の暗号」とか「民主主義とは大日如来の隠喩だった」とかいう類のファンタジーが本稿で展開されるとは思われないでしょう。それが、超マイナーブログとはいえ「ブログの信用」というもの。そして、そんな読者の信頼が裏切られることはありません(笑)。

蓋し、ある言葉をどのような意味に使うかは、かなりの程度、論者の自由。けれども、冒頭に引用した広辞苑の定義を読み返すまでもなく、「民主主義」という言葉自体にはそれほど明確な「意味内容-指示対象」はないらしい。いずれにせよ、戦後の、文字通り、戦後民主主義の欺瞞に覆われていた頃の日本では、政治的にせよ社会的にせよリベラル派の観点から見て推奨されるべきことは「民主的」であり、逆に、家長制度や地主制度、あるいは、世襲議員や累進課税の緩和の如きは「非民主的」なものと断定されてきた節もあるから。

もちろん、前稿で展開した如く、「民主主義」という言葉にもそれなりの指示対象があるという前提に立った上で、歴史的かつ論理的な観点から「民主主義」を言語分析すればそれなりの具体的な意味内容は--「顕教的意味の民主主義」は--抽出可能であり了解可能ではある。而して、「顕教的意味の民主主義」の語義の裏面には、--<我々>以外の他者を排除し殲滅し尽くしてやまないテロルの思想という意味での--デモクラシーのデモーニカルな相貌が織り込まれていた。

・民主主義--「民主主義」の顕教的意味
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62677500.html


本稿は、(α)「民主主義」という言葉にはそれほど明確な指示対象は存在しておらず、(β)「民主主義」とはある政治的支配体制を正当化する/批判するための諸々の概念や理念を恒常的かつ適宜生み出す所の--それ自体は無内容な--理念生産装置的の概念である。すなわち、(γ)「民主主義」とは現実政治の世界に<民主主義>を紡ぎ出し織り成す動因としてのあるタイプの世界観や人間観、なにより、社会観にほかならないという理解を基盤にすえたもの。畢竟、(α)~(γ)が本稿でいう「密教的意味の民主主義」ということです。



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◆リベラル派の密教的意味の民主主義
畢竟、「民主主義」あるいは「民主的」の語義がなぜかくも無内容なのか。このことの背景には「密教的意味の民主主義」とでも呼ぶほかない、ある特殊な人間観・社会観・世界観が「民主主義」の四文字に潜んでいるの、鴨。而して、それは、ルソー流の「社会契約論」の人間観・社会観・世界観にほかならない。と、そう私は考えるのです。すなわち、リベラル派は、就中、日本のリベラル派はこう考えているのではないか、と。

近代国家とは、個人の尊厳なる価値を保有している点では平等な人間が--よって、外観上はアトム化した個人が--、常に正しいとされる「一般意志」の具現を求めて締結した社会契約(Social Contract)が産みだしたものであり、よって、「一般意志」の実体的権利への翻訳である「天賦人権」を確保することが近代国家の唯一の存在理由である。

そして、英国の「議会制度-自由主義」が具現してきた「個別意志」および「全体意志」と、近代国家一般がその具現を目指すべき「一般意志」の差違を踏まえるとき、念の為、『社会契約論』の中の有名なフレーズを引用しておけば

「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いである。彼等が自由なのは、議員を選挙する間だけのことであって、議員が選ばれるや否や、イギリス人民は彼等の奴隷となり、無に帰してしまうのである。その選挙という自由な短期間の間に、彼等が自由をどのように行使しているかをみれば、彼等が自由を失うのも当然といえる」 (『社会契約論』第3編15章)

とするならば、「民主主義」という言葉は多義的で曖昧なのでも空虚でもなく、それは塵芥と汚濁にまみれた現実の政治社会に「一般意志-天賦人権」を具現する--「個別意志」と「全体意志」から自由と平等を抽出するための--論理的と思想的の回廊にほかならない、と。蓋し、このようなルソー流の人間観・社会観・世界観がリベラル派の懐く密教的意味の民主主義なの、鴨。


尚、密教的意味の民主主義をこう理解するとき
それは一種のグノーシス主義と言えるかもしれません。


グノーシス主義
1)二元論--至高者と汚濁にまみれた現実世界の断絶
2)至高者と世界をつなぐ啓示者の存在の確信
3)啓示者が与える知識の救済の手段としての重要性


すなわち、それは、「一般意志」と「全体意志」の断絶を踏まえた上で、常に正しい「一般意志」を社会のメンバーに示してくれる「立法者」の存在を確信するものであり、天賦人権を具現するためには「立法者」のアドバイスとサジェスチョンが死活的に重要と考える点で、ルソー流の「社会契約論」はグノーシス主義的な思弁である。と、そう私は考えています。


・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、
<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html

・憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する
「法学的意味の革命」か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61963692.html



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◆密教的意味の民主主義の神通力の正体と限界
テロルの思想であり全体主義の思想である民主主義が、現在、日本だけでなく世界でもポジティブな政治シンボルとされるに至った背景には、--直接的には、第二次世界大戦において連合国側がこの戦争を「民主主義と全体主義の戦い」と位置づけたプロパガンダ戦略に起因するにせよ--二つの事情が与して力あったの、鴨。それは、18世紀-19世紀における資本主義の離床化、および、19世紀-20世紀における大衆社会下の福祉国家の出現であろう。

前者において、契約の自由と所有権の不可侵を両輪としていた黎明期の資本主義にとって、その法的価値において均一なアトム化した個人という民主主義の人間観は整合的だったということ。また、後者については、普通選挙制度が具現した新たな騒々しくもがさつな風景を説明する上で民主主義の社会観は利用可能だったということです。

しかし、民主主義は--ロジックというかレトリックとしては「一般意志」よって「立法者」を媒介にするにせよ--人間と国家権力の万能感を志向するものであり、それは、--人間をアトムと看做すことは論者の勝手であるにせよ--人間が英語なり日本語なりのある特定の言語で思考する、よって、ある特定の文化と伝統に憑依された存在である点を文字通り捨象している。そして、結局、現実の政治の局面では国家一般なるものは存在せず、存在するものは独り「国民国家-民族国家」としての特定の主権国家でしかない現実を看過しない限り、論理的には等価にせよ、「アトム化した個人」と「ある特定の言語でもって思考する主権国家の国民」という人間観の、現実政治の局面での優劣は明らかに後者にある。グローバル化の昂進著しい現在こそそう言える。と、私はそう考えます。

加之、国家権力がおよそ社会のありとあらゆる行政サービスを担うことになった大衆社会下の福祉国家においては、行政サービスの正当性と妥当性を判断する専門家や専門知の比重もまた加速度的に増大した。すなわち、<我々>の認識や判断も専門家の力を借りなければ毫も判明するものではなくなっているということです。

すなわち、<我々>に専門家は含まれているのかが死活的に重要な問題となってきており、いずれにせよ、ミシェル・フーコーが予言した「素人を沈黙させる<権力>としての専門知」が跋扈している現代社会のリアルな相貌が、21世紀の現在、否応なく浮き彫りになったの、鴨。こう考えれば、ポルポト派が知識層を根絶やしにしたこと、あるいは、毛沢東が知識層を下放したことは満更筋悪の施策ではなかったの、鴨。


(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。



・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60588722.html

・放射能と国家-脱原発論は<権力の万能感>と戯れる、民主主義の敵である
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60908495.html




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◆密教的意味の民主主義に残された可能性
民主主義には、しかし、別の密教的な位置づけも可能かもしれません。而して、それは①自由に価値を置く、②プロセス的な正義のルールとして民主主義を捉え返す、③英米法および英米の保守主義と親和的なものではないか。逆に言えば、①平等偏重の、②具体的な価値の内容の判定までも期待する、③フランス法およびルソーやポルポト派や毛沢東の思想とは異質なもの。

いずれにせよ、近代の「主権国家-国民国家」成立以降の政治の文脈でこの言葉が用いられる場合、「民主主義」は、(ⅰ)制度論においては「代表民主制」とほぼ同義であり、(ⅱ)社会思想としては、自由主義および価値相対主義の政治哲学的の言い換えであることは間違いないと思います。 

畢竟、この(ⅱ)を喝破した、ハンス・ケルゼン『デモクラシーの本質と価値』(1920-1929)は、ある意味、それまでのルソー的やボリシェビキ的な全体主義としての民主主義の概念を<脱構築>した、20世紀社会思想の地味だけれど最大の果実の一つと言っても過言ではないと私は考えるのです。要は、密教的意味の民主主義に残された可能性とは保守主義と価値相対主義からの「民主主義」の再構築であり、それは、グノーシス主義としての民主主義の打破である。それは、人間の有限性を踏まえた、かつ、「誰もがそれなりに重要な人物として誰かには処遇されることを希求する人々が織り成す社会」という大衆社会のイメージとも整合的な対案ではなかろうか。と、そう私は考えます。

結局、「立法者」の登場・登壇を期待する神秘主義的かつ他力本願な密教的意味の民主主義ではなく、各自が日々の政治的な営みに責任負い誇りを持つ<言語ゲーム>としての民主主義こそ<民主主義>に残された唯一の可能性ではなかろうか。もしそう言えるなら、21世紀の日本の保守主義者としてもウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)卿の箴言に残念ながらも激しく同意できる、鴨。


It has been said that democracy is the worst form of government
except all the others that have been tried.
(民主主義は最悪の政治形態と言えよう。
ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすれば)




蓋し、社会思想という営みは--例えば、保守主義からの「民主主義の再構築」という作業は--、すべからく、(甲)ある思想群がどのような<相互討論>の経緯を経て現在に至ったのか、ならびに、(乙)現在の地平から見ればそれらの思想群はどう空間的かつ整合的に把握されるのかという、謂わば「両界曼荼羅」的な重層的な作業なのでしょう。而して、本稿もこの「両界曼荼羅」を胎蔵している。と、そのことを私は希望しています。


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