朝日新聞「立憲主義」に関する自社の無知を社説で告白するも朝日らしく曖昧に遺憾の意を表明




朝日新聞が、社説(2014年10月15日付け社説)で「立憲主義」に関する自社の無知を認め「ごめんなさい」していました。もっとも、「ごめんなさい」の箇所は日本語ではなく朝日語だから「朝日新聞への批判から逃げようというのではない」という--官僚の「遺憾に思います」の類の--朝日新聞の生態にあまり興味のない向きには意味不明な社説だったけれど。

しかし、間違いなく、これは慰安婦問題および福島原発吉田調書問題に続くもう一つの朝日新聞の「ごめんなさい」でしょう。而して、地味だけれど、保守派がリベラル派を壊滅させていくこれから数年の言論戦のプロセスにおいて、「振り返ればあれが一つの分水嶺だったかな」ということになるかもしれない遺憾の意の表明なの、鴨。

その現物がこれです。
関連する後段だけ引用。


▼新聞と言論 社会を単色にはしない 
このところ、各新聞社の間で社説の主張が大きく二分されることが目立つ。
例えば、集団的自衛権の行使を認める7月の閣議決定。朝日新聞は「この暴挙を超えて」と題する社説で、解釈改憲に踏み切った安倍政権を批判した。一方、読売新聞は「抑止力向上へ意義深い『容認』」との見出しで、自民・公明の与党合意に基づく決定を歓迎した。

こうした違いがあることは、日本の言論空間が健全であることの表れだ。

それでも、自戒を込めていえば、意見の対立が激しくなるほど「我々が正しいのだ」と筆に力が入る。記者が陥りがちな悪い癖かもしれない。行き過ぎればメディアが政治のプレーヤーになりかねない。そうなると、まるで政治闘争であるかのように筆はとがっていく。

安倍首相の憲法への姿勢に対し、私たちは「憲法によって権力を縛る立憲主義に反する」と批判してきた。一方、立憲主義には「多様な価値観の共存を実現する」というもう一つの大きな意味があると憲法学は教える。

朝日新聞への批判から逃げようというのではない。ただ、慰安婦報道に携わった元記者の勤め先の大学が脅迫されるほどに過熱しては、多様な価値観が共存できるはずの社会の基盤が脅かされる。

新聞の役割は、意見の対立をあおることではない。考える材料をいかに社会に提供できるかにある。そのことを改めて確かめておきたい。私たちの社会が、ひとつの色に染められてしまうことに抗するためにも。


(以上、引用終了)


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どうですか、意味わかりました?
朝日語は語彙だけでなく論理も難解かつ難渋。

畢竟、「立憲主義」の間違った理解に基づく社説や記事を散々朝日新聞に読まされてきた読者にとって、「詫び状」として見ればこの社説は単純に次の3センテンスのみ。そして、その箇所だけ取り出せば、それ自体は意味不明とまでは言えない。要は、「立憲主義について散々嘘を書いてきてごめんなさい」、と。

ここです。

安倍首相の憲法への姿勢に対し、私たちは「憲法によって権力を縛る立憲主義に反する」と批判してきた。一方、立憲主義には「多様な価値観の共存を実現する」というもう一つの大きな意味があると憲法学は教える。朝日新聞への批判から逃げようというのではない。


而して、東京大学を停年前に去り早稲田大学に避難した--私の予想では、早晩、最高裁判事になられるのかもしれない--長谷部恭男さんの「立憲主義≒リベラルデモクラシー」の理解を踏まえて憲法学の知見を補いながらこの3センテンスを日本語に訳すと、大体次のとおりでしょうか。すなわち、

朝日新聞は安倍首相の憲法への姿勢を「立憲主義に反する」と批判してきましたが、憲法学の知見からは「安倍首相の憲法への姿勢は立憲主義に反する」とは言えないそうです。

憲法学によれば、「立憲主義」とは「憲法によって権力は縛られなければならない」といった政治闘争で常套される類の力強いが無内容なスローガンではないそうなんですよ。確かにそれだと、司法審査に馴染まないタイプの行政府や立法府の行動を憲法規範として枠づけることは難しいですからね。そうなると残るのは赤裸々な政治闘争のみになるだろうし・・・。

ということで、現在の憲法学の知見からは、「立憲主義」とは「多様な価値観の共存を実現する」ために国家権力は--事実と論理を踏まえた合理的な討議によっては解決できない、宗教間の紛争に典型的な、世界観・歴史観・国家観といったイデオロギーに関わる紛争、すなわち、各自の主張の基盤となるものが相互に--比較不可能な価値観に基づく紛争には容喙してはならない、

また、そのような紛争は--民主主義を錦の御旗に掲げた社会の多数派から要請があったとしても、社会の公的領域で解決する、すなわち、政治によって解決するのではなく--社会の私事領域で、かつ、法の許容する範囲で解決するよう国民に促すべきだという憲法原理らしいんです。

確かにこれならば、司法審査権の限界を導く上でも、また、具体的な司法審査に際しても--就中、民主主義の原理の要請と権利確保の要請が対立する悩ましいケースに関しても--司法府に権利規定を解釈する指針を供給可能な認識かもしれないから。

今まで散々嘘を書いてきてごめんなさい。


(><)


尚、「立憲主義」の意味に関しては
下記拙稿をご参照ください。

・保守派のための「立憲主義」の要点整理
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62554338.html

・立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62198131.html

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、
<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html

・憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する
「法学的意味の革命」か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61963692.html

・立憲主義の無知が爆裂した朝日新聞(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62314363.html

img_2_m.jpg



而して、興味深いのは、そして、リベラル派との今後の言論戦において油断できないと感じたものは、官僚より官僚的と評すべき見事な論理の展開と粉飾。すなわち、この社説全体の流れの中に問題の3センテンスが置かれた場合--実際に置かれているのですけどね--、その理解は必ずしも容易ではないのではないか、ということ。

こんな具合です。ちなみに、問題の3センテンスは「Major Factor 1」を補強するための
二つの例の中の一つ「Minor Factor:例3」という位置づけになろうかと思います。


(Subject)
社会を単色にしない新聞と言論のあり方
┌─
│ (Main Idea)
│ 価値観を異にする複数の社説が存在することは
│ 日本の言論空間の健全性の証左だ←(Minor Factor:例1)
│  ↓  ↓
│  ↓ (Major Factor 1)
│  ↓  価値観を異にする相手に対しても
│  ↓     ・根拠薄弱で過激な言葉←(Minor Factor:例3)
│  ↓     ・暴力を示唆する言葉←(Minor Factor:例4)
│  ↓  は使われるべきではない
│  ↓     ・それらの言葉は多様な価値観が共存できるはずの
│  ↓      社会の基盤を脅かすだろうから←(Minor Factor:思考実験)
│  ↓     ・新聞記者はヒートアップしたとしても筆をとがらせ、自身が政治闘争の
│  ↓      プレーヤーになどなってはならない←(Minor Factor:例2)
│  ↓
│  ↓ (Major Factor 2)
│  ↓  新聞の役割は、意見の対立をあおることではなく、
│  ↓  考える材料を社会に提供することである
│  ↓  ↑  ・新聞が政治闘争のプレーヤーに
│  ↓  ↑   なってはならない←(Minor Factor:反対解釈)
│  ↓  ↑
│ (Main Idea)
│ 日本が単色の不健全な社会になることに抗するためにも
│  (Major Factor 2)をこの社説で再確認しておきたい
└─


繰り返しますが、社説全体の流れの中に「Minor Factor:例3」の3センテンスが置かれた場合、その理解は容易ではない、鴨。それ、鏡に鏡を映したときのような無限に続くあの<仮想空間>の気持ち悪さと一脈通じている、鴨。あるいは、ルビンの壷を見続けないといけないとした場合のやるせなさと通底する感覚、鴨。
と、そう私は思わないではないです。

それはなぜか。
はい、それは、

(Ⅰ)傍論で書かれた遺憾表明
この社説の主題(Subject)や朝日新聞が主に述べたい主張(Main Idea)と「立憲主義について散々嘘を書いてきてごめんなさい」の箇所は論理的には直接の関係がないこと。つまり、当該箇所は社説の主な主張(Main Idea)でさえない、その主張をサポートするための大枝の一つ(Major Factor 1)をサポートする、しかも、取り替え可能な単なる例示箇所(Minor Factor 3)にすぎないこと

(Ⅱ)遺憾表明に対する二重三重の防御措置
「立憲主義について散々嘘を書いてきてごめんなさい」の箇所は社説の理路の展開の中で別の意味も負わせられていること、すなわち、当該箇所(Minor Factor 3)は、読者の錯覚や朝日新聞の詐術では必ずしもなく、これまた論理の階層構造から見て、

①朝日新聞は「立憲主義」を巡る憲法学の知見を否定するものではない、なぜならば、「朝日新聞は価値観を異にする言論の存在を寧ろ歓迎するから」(Main Idea)、また、②朝日新聞の「安倍首相の憲法への姿勢は「憲法によって権力を縛る立憲主義に反する」としてきた批判」は、政治闘争を仕掛けたものでもあるはずがない、なぜならば、「朝日新聞は価値観の異なる相手に対しても根拠薄弱な過激な言葉を用いることを忌避するタイプの新聞」(Major Factor 1)であり、かつ、③「朝日新聞は新聞が政治闘争のプレーヤーになることを厳に禁欲するタイプの新聞」(Major Factor 2)なのだから、ならば、

当該箇所(Minor Factor 3)は「安倍首相に対する朝日新聞の批判をもし根拠薄弱の過激な言論と受け取られた向きがあれば遺憾であるが、それは、記者が陥りがちな筆に力が入る悪い癖が出た結果であり悪気はなかった」という意味にならないこともないということです。

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。


もちろん、社説の主題と主張と理路を決めるのは--ある社説で取り上げる主題(Subject)を選定し、その主題についての自社の主張(Main Idea)を定め、社説の幹としての主張に説得力を持たせるべく大枝や小枝となる材料(Major or Minor Factor)を選択し、もって、幹と枝葉の全体の枝振り(Logic and Coherency)を決めるのは--各新聞社の自由であり権利でしょう。

だから、残念ながら、朝日新聞のこの「遺憾表明」は
論理的に脆弱ではなく詭弁というわけでもない。

けどね、読者に散々嘘を読ませてきておいて、しかも、それを認めておきながら、「まー、ついでに遺憾の意も表しておきますかな」では済まないんじゃないでしょうか、普通。

まして、その遺憾の意は朝日語で書かれた、
「朝日新聞への批判から逃げようというのではない」だものね。
凄いね、いい根性してるよ。

而して、この社説は「官僚より官僚的な狡猾な論理で覆われた遺憾の意の
これまた官僚よりも官僚的な慇懃無礼な表明」ではないか。と、そう私は考えます。

でもね、鏡や壺の中に逃げ込んでも結局無駄というもの。
それは単なる時間稼ぎ、悪足搔きだろうから。ならば、

б(≧◇≦)ノ ・・・朝日新聞はきちんと事実関係を認めて日本語で謝れ!


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