統一地方選☆郷里のブログ友が市会議員に立候補した。地方創生のため頑張れ<森りゅう子>候補!





今日が投票日の統一地方選挙。郷里つながりのあるブログ友が市会議員選挙に立候補されていた。そのブログ友、森りゅう子さん(自民公認、当選すれば2期目)の実家と私の実家は凄く近い。走っても、歩いても、ウサギ跳びでも約300メートルくらい。



そして、りゅう子さんのご実父は長らく市議会議長を務められた方で、実は、手鎌地区や明治町地区の(←超ローカル!)教育問題等々を巡っては、父と先代の藤田次夫先生は頻繁ではないが連絡し合う仲ではあったらしい。要は、友達ではないけれど、なんらかの責任あるレスポンスを「互いに期待できるプレーヤー」ではあったらしいということ。なら、森りゅう子さんとKABUとは親子二代の縁だったということ、鴨(笑)。



・竜の軌跡 ~市政と家族、故郷大牟田 時々和菓子~
 http://ameblo.jp/mori-ryuuko/



ヽ(^o^)丿
ヽ(^o^)丿





市会議員という属性を捨象するとき「森りゅう子」とは、はい、ごく普通の「和菓子屋の若奥様にして一児のママ」。年齢から見れば上背は立派なほうだけれど、今時はそれも普通かなくらい。そんな普通の人が<実家の家業>を引き継いで郷里に地方政治の道で貢献している。なんか、自然で穏やかな風景がそこにある。



実際、安倍自民党政権が掲げた2015年政策パンフレットの神髄は「地方こそ、成長の主役」ということなのだもの。つまり、地方創生。地方創生は穏やかな風の中でしか実現も成功もしないように思うから。だって、しゃかりきで「地方再生」ができてきたのなら、今更、誰も「地方創生」などのコンセプトに移行しないだろうから。換言すれば、シュリンクする地方は、逆に、拡大し創生するしか生き残る道がないということでしょうか。



蓋し、「森りゅう子」は--二重の意味の重層的存在であるがゆえに--保守主義と親和性の強い行動選択サンプルなのではないか。就中、社会思想の抽象度において、保守主義から民主主義を眺める場合、それは顕著なのではないかとそう私は考えます。保守主義は純化する教条を嫌い多様な要素の共存を望ましいと思うタイプの思想でしょうから。



本稿の狙いを先に書いておけば、全国の<地方>で保守派の同志の皆様が各々の<森りゅう子>を応援するロジックのデッサン、というか、応援したくなるような<森りゅう子>発見・発掘の方法論を提示しようとしたものです。



б(≧◇≦)ノ ・・・畢竟、地方こそ、成長の主役だから!




・マンハッタンで書店が激減--そこに垣間見える日本の地方創生のヒント
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11983857899.html



・母校の福岡県立三池高校は少しだけど素敵に変わっていた
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/71f6ffa23e71684dd4624991f3ae3fcb


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問題はなにか。



蓋し、二重の意味の重層的存在である<森りゅう子>に憑依している
その問題性というか魅力は次の点に尽きている、鴨。



>政治家を家業とする候補者の立候補の是非



つまり究極的には、



>民主主義の理解から見て<普通の人>とはどういう人なのかという問題



20世紀後半以降の民主主義--すなわち、代表制である自由主義と民主主義が合体した議会制民主主義--においては、<議員>というのは現在次のような3個の位相を重層的に帯びているのでしょう。そうイメージの鼎立状態。



①他者に比べても、ある意味、どこにでもいる普通のくだらない、
しかし、誰かにとっては大切な候補者
②予算をきちんと<郷里>に前例通り誘導してくれる候補者
③自分の得意の政策に関する専門性の高い候補者




・民主主義--「民主主義」の顕教的意味
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/m/201408



・民主主義--「民主主義」の密教的意味
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0364792934f8f8608892e7e75e42bc10




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▼鼎立状態の総論的検討
①’候補者も市民も均一なアトム的存在と看做したルソー『社会契約論』(1762)の思いつきとは違い、なにより、それなりの人望がある方--ちなみに、前回2011年4月24日の統一地方選挙の得票総数は大牟田市では54,045票程度であり、要するに、大牟田市議会選挙の当選ラインは2000票で鉄板、1500票で多分大丈夫らしいです--ということ。畢竟、現在の大衆社会状況下の福祉国家においては、被選挙権をもつ市民は誰もが立候補することが可能であり、逆に、立候補しないのも自由。また、候補者も<アトム>ではない<大衆>の一人なのであり、それはルソーの思いつきとは異なり個々が具体的な欲望や価値観を憑依する存在でしょうから。



ならば、「被選挙権をもつ市民には誰もが立候補する権利がある」というテーゼと、しかし、被選挙権をもつ市民はほとんど立候補しないという現実は矛盾するものではないのです。実際、大牟田市の場合、被選挙権者ではなく選挙権者ですけれども、今年の3月の段階では101,235人(2015年3月2日)。他方、立候補したのは25のポストに対してたった29人なのですから。



つまり、候補者とは、他者に比べてもどこにでもいる普通のくだらない、
しかし、他方、誰かにとっては大切な人。
そして、また世間でも人望のある人物ということ。



なにより、101,235人の中から30人弱しか手を挙げない現実を見るとき、供託金の没収リスクを含む選挙費用も馬鹿にならないだろうから周りを心配させる、逆に、その行動選択に世間を熱くするsomethingが憑依している。そう私は考えます。そんな資質は地方政治家としての現実のロールモデルを身近に抱えたか、もしくは、政治にまつわる日常言語が具体的に飛び交うような人間関係の中で育まれるものだとも。



そして、間違いなく、日常言語が頻繁に飛び交うような人間関係で育った人物や<世襲議員>にはsomethingが憑依している蓋然性は高いのではないか。もちろん、この大衆社会状況下の福祉国家の状況においては、論理的にはどこまでいっても、その人物さえも他者に比べてもどこにでもいる普通のくだらない候補者なのでしょうけれどもね。



・<再論>世襲批判の批判的考察
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11354799337.html



・「派閥」批判はどこへ行ったのか?
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11870526642.html





②’予算誘導してくれる候補者とはどのよう表象イメージか。それは昔懐かしい<竹下登>氏に代表される--55年体制はなやかり頃には、芸術の域まで到達していた--予算を前例踏襲型でとにかく地元に持って帰る候補者。而して、それは現在では、グローバル化に日本も<地方>も対峙している以上、年々変化する政策リスクを睨みながらもトポロジー的に前例踏襲型の予算配分を行える人物ということ。



トポロジー的とは、要は、メロンパンとドーナツパンの形状の違い。<メロンパン>の性質を帯びる事象から<ドーナツパン>には間違っても越境しようとはしない。しかし、そのトポロジー的硬直化の良し悪しには疑問がつくでしょうけれどもね。



大東亜戦争の戦後といわず日本ではそれは大正政変(大正2年-3年:1912年-1913年)から引き続くモードなのかも。大正政変が原敬内閣の成立(1918年)に至ったこと。そのかわり--藩閥システムから経済の軍事統制主義に軍部がイデオロギー的にシフトしたことなどもあり--軍部・政党・財界・藩閥の均衡が悲しいほどトポロジー的に硬直化した。農地解放やエネルギー資源への予算傾斜配分等々を始め、実は、55年体制は1935年体制以来のもの。戦争のためか硬直化のためか戦前には実現できなかったけれど。



ならば、<全体主義>、要は、「ナショナリズムを称揚する社会主義」に鑑みれば、その利益誘導の硬直化スタイルもまた戦前からの宿痾と言えるのでしょうかね。ならば、やはり、「地方創生・女性の活躍」の具現を期す現在の安倍政権の姿勢も貴い。と、そう私は考えます。そこには、<メロンパン>から<ドーナツパン>への越境現象が垣間見えるから。



答えは簡単。候補者の予算の誘導が、全体最適と個別最適のいずれかが極端にシャビ-であり、あるいは、全体最適と個別最適の双方ともにシャビ-になっている状況下では、多くの普通の有権者もまた、予算の<メロンパン>から<ドーナツパン>への越境的誘導を支持するだろうということ。はい、反面教師的な例ですが、民主党政権が打ち出した「コンクリートから人へ」というスローガンは空虚だった、鴨。それは、全体最適と個別最適の双方ともに見事にシャビ-なものだったと思いますから。




③’専門性の高い政策領域を持っている候補者とは何者か。それは、政策プロパーの専門家である国や県の担当者、更には、外部コンサルタントと自分の<郷里>をより高いコストパフォーマンスでつなぎうる候補者である。畢竟、世の中に摩訶不思議な話があるわけはない。ならば、蓋し、市会議員のコストパフォーマンスはノウハウ並びにノウフーに収斂するのでしょう。



ルソーが「社会契約」を夢想し、ロベスピエールが<社会契約>を無惨に推進した時代。「夜警国家」が国家権力の標準のイメージとされていた。だから、今から振り返れば、「フランス革命:1789年-1799年」なるものは単なる陰惨な暴力のディケードにすぎませんでした。蓋し、この「フランス革命」という名の騒乱事件を反芻するとき、ルソーの妄想においてさえ、国家権力は「夜警国家」のイメージを遵守していることが逆に検算できる。要は、<社会契約>などは端から現実的ではなかったということ。



而して、現在の、グローバル化の昂進著しい中で、かつ、大衆社会状況下の福祉国家においては、国家権力は単に「夜警国家」ではない。それは国民経済の相当な部分にも、事後的な訴訟という形ではなく、企画と予算の計画にも事前に関与している。高校・中学の復習のようですけれど、これが「夜警国家」から「福祉国家」への移行ということ。



グローバルの潮流の進む現在、国家権力が--司法・立法・行政の三権が--国民に責任を負う分野も漸次拡大している、かつ、精緻になっている、多分。就中、支那の非常識な対外進出動向を睨んだとき、寧ろ、グローバルコンペティションに高いコストパフォーマンスで対応するためには「専門化の拡大と精緻化の度合いも適度にした方がよい」という話さえ少なくない。そう、専門化の拡大と精緻化も予算的にタダではないから。まして、状況変化リスクを睨みながら、個々の政策企画の立案には膨大な人的と時間的の資源が投入されるから。



ならば、繰り返しますが、「福祉国家」の現況を直視すれば、やはり「全体最適と個別最適の良好なブレンド」こそ穏やかな健全な落としどころ、鴨。と、そう私は考えます。



ミシェル・フーコーが喝破した如く、20世紀後半以降の現在は、<専門家の権威>が素人に対して横暴に振る舞う時代。だから逆に、素人側の<ドンキ・ホーテ>は滑稽。例えば、原発テクノロジーにおおよそ門外漢の裁判官が「高浜再稼働の即時差し止めを認める仮処分」(福井地裁の樋口英明裁判長による2015年4月14日の仮処分)したのもまた、程なく<専門家の権威>の前に、単なる、非常識で悪趣味な行いであることが自明になるでしょう。その非常識で悪趣味な行いは、おそらく、リベラル派の琴線には触れるのでしょうけれども。



専門性の高い政策を持つ候補者が自己のパフォーマンスをどこまで競うのか。繰り返しますが、それは、最早、「専門化と精緻化の望ましい度合」を巡ってだということ。例えば、ある弁護士事務所のパフォーマンスの度合いは、その事務所が抱えるパラリーガルの方の専門性と経験値に比例する。そう私には思われるのです。ならば、個々の、よって、諸々の政策企画エリアにおいて、日本全体および<郷里>の双方の観点からは、政策企画を巡る候補者の<パラリーガル>的専門性と経験値が肝要なのは当然ではありますまいか。市民にとってはもちろん。



閑話休題的感想。それ「専門化と精緻化の望ましい度合」の一つの判定基準。すなわち、「全体最適と個別最適の良好なブレンドが希求される人類史の時代状況」に突入しているというのに、所定の手続に沿った形で粛々と国家権力が導入している<専門家の権威>は不当だという論者もおられる。すなわち、計画が決定した段階では--最早、市民派から見れば勝負は終わっていたことになりかねず--常識にも正義にも反するというリベラル派の論者もおられなくはない。



ならば、すべての政策企画について企画段階から、<市民の目線に立つ専門家の権威>を参画させるべきだと、リベラル派の一部は主張している。予算も時間も人的資源も企画リスクも無視して良いのなら彼等の主張は論理的ではある。でもね、これ要は、公の費用で国のすべての政策企画マターに対してもうワンセット--市民の目線に近しい--専門家集団を用意しろということ。蓋し、これこそ、非常識で悪趣味なもの言いではないか。と、そう私は考えます。皆さんもそう思われませんか?



実際、国家権力が抱える<専門家の権威>と<市民の目線に立つ専門家の権威>はどう区別されるというのか。「高浜再稼働の即時差し止めを認める仮処分」なりを想起するにそれは単にリベラリズムと親和性の高い専門家というだけのことでしょうかね。この見方が満更間違いではないとするならば、この問題は、保守主義とリベラリズムが鋭く対立するイデオロギー的のマターであり、リベラリズムと親和性の高い専門家を企画段階からもっと登用することの必然性はないと思います。もちろん、保守主義と親和性の高い専門家を企画段階からもっと登用することも必然性はないはずですけれども。







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▼鼎立状態の具体的検討
我らが<森りゅう子>。その値打ちは如何。一言で言えば、件の3点に関してすべて及第点、カナ。そう、①~③が織り成す三次元空間のバランスに私は心地よいブレンドを感じています。



①どこにでもいる普通の、しかし、誰かにとっては大切な候補者
②予算をきちんと<郷里>に前例通り誘導してくれる候補者
③自分の得意の政策に関する専門性の高い候補者



森りゅう子候補はそのリーフレットでこう述べています。


▽将来に向け確かな一歩を
大牟田市では街づくりの指針となる、第5次総合計画(マスタープラン)が平成27年度【2015年度】に策定されます。三池港港湾整備、有明沿岸道路整備、九州新幹線新大牟田駅、いわゆる、3大プロジェクトによる基盤整備は整ったものの、現状では街の活性化につなげているとは言い難い状況にあるなか、ひとつの歴史的節目とも言える世界遺産登録も目前です。
これからの街づくりをどう進めていくのか、しっかりと見極めなければなりません。いまこそ正しい舵取りが必要です。



(以上、転記引用終了)





保守主義を信奉する私にとって--すなわち、論者が帯びるナショナリズムの濃淡ではなく、政策指針として提示されたものに自生的かつ手続的な手順が踏まれたかどうかを重視する私にとって--どのようなものであれ教条的なイデオロギーは忌避されるべきもの。よって、恒常的に、かつ、取り敢えずの所、前例をリスペクトする英米法の<プロセス法学>的な森りゅう子候補の姿勢には好感が持てたということ。



3大プロジェクトによる基盤整備は整ったものの、現状では街の活性化につなげているとは言い難い。他方、ひとつの歴史的節目とも言える世界遺産登録は目前であり、大牟田市議会議員は重層的な政治戦と思想戦から逃げることはできない。そんなスキーのノルディック複合や陸上の10種競技の如きタスクから逃走する者がこれからの街づくりをどう進めていくのか極めて疑問ではないか。ならば、森りゅう子こそ今の大牟田市民にとっての正しい舵取りだと自負していますよ、と。私は彼女のリーフレットの言葉をこう理解しましから。畢竟、



①普通の、しかし、誰かにとっては大切な候補者
②予算をきちんと<郷里>に前例通り誘導してくれる候補者
③自分の得意の政策に関する専門性の高い候補者



①’’その存在を貫く重層性と両義性の魅力は半端じゃない、鴨。二重の意味の重層的存在性。すなわち、(ⅰ)新聞記者経験と和菓子屋経営の双方、あるいは、(ⅱ)大牟田市域でも辺鄙な<手鎌>から、結婚を期に--かっては大牟田の<銀座四丁目>だった--ハイソな<大正町>の双方を経験したこと。加之、日常言語が具体的に頻繁に飛び交う世襲議員的の人間関係。その魅力はこれら実体験によるものなのかしらん。



いずれにせよ、森りゅう子さんは話し好きの若奥様であり、日常言語が飛び交う世襲議員的の人間関係を二重の意味で見てきたの、鴨。候補が実父から獲得された洞察力というか覚悟には、その行動選択が世間を熱くするか心配させるようなsomethingが憑依している。そう言えると思います。



そう感じた経験がある。昨年の地区年次総会(←兼懇親会)の席で
彼女が地元の治水対策の話をされたこと。



あのー、この白銀川は毎年ではないというのが盲点なのか、しかし、2~3年に1度は溢れてきた。昨日の砂漠が今日は特大の蓮根池状態。賭けてもよいけれどこの治水企画は盲点だった。地元民であればあるだけ、甘木中学校辺りに精通している人なら、寧ろ、その原因や背景は不明なもののそれが当たり前の風景と感じてきたと思います。



その普通の風景を私達が知る限り40年前、ということは、おそらく、100年も前からこの「異常な日常」は継続してきたということ。要は、この「異常な日常」と遭遇した際には--山側と川側と--選択していたルートによっては1キロ以上の「双六の振り出し」もあったから(悔涙)。



これこそ洞察力。地元民でも洞察できる人はそう多くはいないということでしょう。いずれにせよ、この白銀川の氾濫を政治が解決すべき事態と直感したのがりゅう子さんのセンス。反対側から言えば、問題を発見したりゅう子さんに備わっているなにがしかの資質が他の候補者と際立っていた。



実際、他の候補者の中にはこの選挙期間中、結局、煎じつめれば「大牟田を元気にする」「子供1人は大牟田で仕事を見つける」とかベーグなことを明瞭に述べたにすぎなかったから。蓋し、彼我の洞察力の高さ、問題意識の鋭さには小さいかもしれないが、質を隔てるような差があると感じるのです。





②’’前例通りの予算誘導は<世襲>のメリットの一つなのでしょう。今回、大牟田市市議会選挙では--りゅう子さんとこの藤田次夫先生と比べても遜色のない--大物市会議員だった祖父の地盤を引き継ごうと、一念発起、25歳で立候補した人もいる。そう、山中孝助先生の孫の<田中なおき>という表象。要は、事務的かつ散文的とさえいえる利益誘導の現実に取り組むロールモデルの闘う姿勢、その姿勢からノウハウを怜悧に吸収したとすれば、25歳の素人の世襲議員の方がルートは持っている上に悪い手垢はついていないので、寧ろ、上出来かも。まして、2期目を目指す世襲議員の<森りゅう子>においておや。鉄血宰相ビスマルクが喝破したように、政治の基幹は予算審議であり、そしてその審議をスムースに運ぶために死活的に重要な核心は人事なのでしょうから。




③’’最初から経験値のある新人候補というのは論理矛盾。而して、初当選議員はもちろん、2期目以降のベテラン議員も恒常的に自分の得意の政策に関する専門性を伸ばすべきことは当然でしょう。大牟田においては<徳永春男>がそれを象徴するイコンと言えるでしょうか。



綺麗事的な物言いを止めれば、専門性向上にあまり努力しないながらも、世界と世間に幾らでもいるだろう「本当の専門家」を適宜使えるノウハウとノウフーを持った議員を除けばというところでしょう。要は、<友達>ではないけれど、「責任あるレスポンスを互いに期待できる人脈」をいかに各分野で手持ちにできているのかということ、鴨。




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本稿を書くに従い--①~③をしかも三層から眺めたとき--市民にとって好ましい候補者とはおそらく次のような人物と漸次イメージが結晶してきました。畢竟、それは、




>政治の散文的な散漫さを間違いなく貫く政治の貴い本性の洞察
>政治の世界を覆う散文的な状況に対するポジティブな経緯を嗅ぎつける怜悧
>議員候補・議員にとつては日々専門性強化が必須という認識と覚悟



この①’’~③’’が織り成す三次元空間において、<森りゅう子>には心地よいブレンドを感じるということです。畢竟、森りゅう子さんは普通の人の洞察力ではなくて、洞察力に秀でた普通の人の洞察力が備わっているかも。まあ、いずれにせよ「自民党公認」なんだから良いんでないかい。



実は、地方ならではの話、大牟田も、25の市議会議員ポストを他党と阿吽の呼吸してトポロジカルに配分されてきたから、寧ろ、推薦を含まない「自民党公認」の候補は極少数者なのですから。



б(≧◇≦)ノ ・・・自民党公認なら良いんじゃないの!



・自民党に入党しませんか--支持政党の選び方に関する覚書
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11764121326.html



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大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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