国を愛することは恋愛ではなく人としての嗜みである




最近、歳のせいか擦れてきて(?)顔がポーット赤らむようなことも少なくなった。しかし、平成16年6月17日付の朝日新聞社説「教育基本法――愛する国とはどんな国」を読んだ時に久しぶりにそのような感覚を覚えた。もじもじ。それは、若者特有の傍若無人さで恥ずかしげもなく人生の大問題を公衆に語りかける類のもの、あるいは、「愛とは何か」とか「友情とは何か」とかのヘビーな問いを全くの他人に真顔で語りかける類のものと私には感じられた。いい歳をした朝日の論説委員がこれを書いたんだろうからね。凄いよな、と。


この社説の詳細などはどうでもよい。というか論ずるべき内容はほとんどなかった。だから、この社説のどこに傍若無人な鈍感さを感じたのかだけを、著作権侵害にならない範囲で社説を引用しておく(以下、引用開始)。

教育基本法改正についての与党の方針が1項目を除いてまとまった。まとまらなかったのは愛国心をめぐる表現である。自民党は「国を愛する」ことを教えるよう求めたが、公明党は「国を大切にする」に変えるよう主張し、折り合わなかった。(中略)問題は愛国心の表現にあるのではない。愛国心をどうとらえるか、愛国心が育つにはどうすればいいのか、にある。

民主主義の国では、主権者である国民が統治の仕組みを決め、選挙で選んだ代表を通じて国を治める。どういう国をつくりたいかはそれぞれ考えが違うだろうが、自由に意見をたたかわし、妥協が必要なときは妥協して、社会をつくり、国をつくっていくのである。みんなが参加してつくった民主的な社会や国だからこそ、そこに愛情が生まれる。国民一人ひとりが尊重され、その意思が反映される国ならば、愛国心は自然に生まれ、育っていく。国を愛せ、と一方的に教えるだけで愛国心が育つはずがない。(中略)

自分の国をどう愛するかは、人によってそれぞれ違う。(中略)国の愛し方を一方的に決めつけるようでは、ゆがんだ愛国心になってしまう。今の教育基本法が育てようとしているのは「平和な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、勤労と責任を重んじ、心身ともに健康な国民」である。戦後、この法律通りに教育行政がされていれば、愛国心を十分持った国民が育っていたのではないだろうか。
(以上引用終了)


これは一種の<自由恋愛賛美>だよ。即ち、誰を愛するかどう愛するかは(他者の介在なしに)自分が自分の自由意志だけで決めるべきであり、そして、自分の行動を決定するのは究極の所この自発的な愛だけである。また、誰を愛するかを判断する重要な基準は相手もそのような自由恋愛観を共有しているかどうかである、と。これとパラレルな感覚が、<国を愛する>ことを巡るこの社説には伏在しているのではないか。

蓋し、国家が民主主義的であり国家が自分の意に沿う政治を行うのなら、そこには国家への愛が必ず芽生える。否、国家に対する愛とは、自分の意見や主張を反映する限りの国家に対する愛である。そうこの社説は述べているように私には感じられた。もし、私のこの感想が満更間違いではないとすれば、この社説子の主張は、世界は自分を中心に廻っていると考える若者(=子供)の考えと親近的である。このような率直ではあるが未熟な論理を全国紙の社説で読んだ日には、年甲斐もなく顔がポット赤らむというものだ。

民主主義とは、極言すれば、多数による少数の支配を正当化する論理と制度である。

而して、民主主義が正当性を保持しうるのは、(甲)ある紛争に関して修復不可能なほど利害や価値観が分裂していない場合で、(乙)多数決によってある政策が決せられる場合に、判断するメンバー各自に充分な判断のための情報が与えられている限り(もちろんその前提として、判断力を担保する教育が与えられている限り)である。畢竟、宣伝と討論のプロセスを経て、今日の少数派が明日の多数派に転化する可能性が存在していることが民主主義制度を正当化する。ならば、民主主義の国家で必ずしも「国民一人ひとりの意思が反映される」とは限らず、朝日の社説子のいうようには、民主主義の「国ならば、愛国心は自然に生まれ、育っていく」とは言えないのである。

・民主主義とはなんじゃらほい
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65344550.html

・民主主義--「民主主義」の顕教的意味
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65226712.html 

・民主主義--「民主主義」の密教的意味
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65226739.html


どの国に産まれるかを人は選べない。それは運命である。そして、国籍離脱の自由や海外渡航と移住の自由とは別の次元で、人類の大部分は(もちろん、日本人や日本市民の圧倒的大部分は)、運命が割り当てた母国と運命を共にするしかない。もちろん、国家は、ある意味、便宜的なものであり想像の共同体に過ぎない。それはヘーゲルやドイツ浪漫派の哲学者が語るように<民族性の粋>などではないだろう。しかし、21世紀の現在においても、人類の大部分が(もちろん、日本人や日本市民の圧倒的な大部分が)、想像の共同体であるにせよ自分が所属する国家のユニフォームを着ないことには、国際関係の一切の活動に参加できないか、少なくとも、極めて参加が困難であることは事実である(このことを我々は、つい先日、自作自演ではないかもしれないが自業自得の不心得者がイラクで人質になった事件で痛感したのではなかったか)。否、それは国際関係にとどまらない。ある<国家の国民>であるか、ある<国家に住む市民たる外国人>であるかでなければ、人類の大部分を構成する人間にとって(もちろん、日本人や日本市民の圧倒的大部分を構成する人間にとって)、極普通の社会生活を送ることさえ困難である。

国家は人間にとって自然なものではないし、まして、それを愛することや大切にする感情が自然に涵養されるものではない。それは、自分の意志と無関係に与えられた運命である点で本質的に人間にとって疎遠なものである。はたまた、国家は人間が作り上げた観念の共同的な形象であるのに、それは人間のコントロールに服さず、かつ、強く人間の活動を制約する外的な力でもあり(時には、生命を投げ出すことをもその国民に国家は要求する)、国家は人間にとって疎外体であり人間は国家から疎外されている。このような疎遠な疎外体を愛することなど(換言すれば、自分よりも大事にすることなど)、人間にとってはかなり異常な事柄である。蓋し、愛国心とは総て「ゆがんだ愛国心」である。畢竟、そのような異常な事態や本質的にゆがまざるをえない愛国心について、「愛国心は自然に生まれ、育っていく」などと語ることは単なる能天気な恋愛至上主義の告白であるか端的な歴史と哲学の不勉強の発覚かのどちらかでしかないだろう。

アリストテーレースが喝破したごとく、「人間は社会的な動物」である。而して、この社会(=ポリス)とは<国家的>であり<政治的>でもある。蓋し、国家は人間が人間として自然と切り結びながら社会生活を営む上で不可避な存在である。動物行動学の用語を借りれば、それは人類の「拡張された表現形」に他ならず、そのような不可欠で疎遠な疎外体と人間が共生するために編み出された文化的な知恵こそ<愛国心>に他ならない。簡単な話だ。

コスモポリタントとして生きられる生活力と思想性の両者を保持する特殊な人物でない限り、また、ある主権国家やテロリストからの攻撃に対して(母国に頼ることなく)自分と自分の家族の生命・身体・財産・名誉を守ることのできる特殊な人間でもない限り(人類の大部分はそのようなコスモポリタンにはなれないし/なりたいとも思わないだろう)、国家を敢えて愛する文化と規範を後天的に獲得しなければならないのである。畢竟、愛国心は恋愛のアナロジーで理解されるような事柄ではなく、常識や礼儀作法や大人としての嗜みの一種として把握されるべきものである。私はそう考えている。

国に対して個々の国民や市民がどんな感情を抱いているかということと、社会的に愛国心が要求されることとはなんら矛盾しない。朝日新聞の社説子が言う通り、「自分の国をどう愛するかは、人によってそれぞれ違う」だろうし「国を愛せ、と一方的に教えるだけで愛国心が育つはず」もなかろう。

また、朝日新聞の昨年6月18日の社説「自民改憲案――住みたい国になりますか」の中で語られているように、「どんな生き方が幸せか、何を大切にするかは一人ひとり異なる。国をもっと大切にせよ、歴史や伝統を踏まえた国をつくれ、とことさらに言われると、国が国民の生き方や価値観に介入してくるのではないかと心配になる。そんな国はとても窮屈だ」という認識も妥当なものだろう。否、我が国は北朝鮮のような独裁国家とは異なり(私は、自国民の1~2割を餓死せしめるような政治体制を近代的な意味での国家とはとても呼べないと思うけれど、)、表現の自由も思想及び良心の自由も保障されているのだから、日本国民と日本市民には「それぞれ違う」方法と内容で国を愛することが許されているだけでなく、国を愛さない自由も国を敵視する自由をも(その内面から流れ出す行為が法に触れない限り)認められている。

しかし、<国を愛することが大切なことである>とされていることがこの社会の正統な意識であること、あるいは、この国には<国の愛し方については緩やかではあるが伝統に裏打ちされた一定の型が存在している>ことが社会を構成する人々の間で共通の了解になっていることと「自分の国をどう愛するかは、人によってそれぞれ違う」ことは何ら矛盾しない。畢竟、人類が国家生活に入ったということは、個人の人生に喩えれば、恋愛の状態を経過して婚姻の関係に入った際の男女の関係とパラレルであり、国家生活を人間が送るということは、婚姻関係に入る覚悟と同様、本来、「窮屈」な境遇を引き受けるということである。蓋し、自分の内面の欲望や嗜好とは別に、国家生活を選択した者は(コスモポリタンになる道をとりあえず断念もしく延期した者は、)、その社会の国家と個人の正統的なあり方がどのようなものであるかを知らなければならない。よりスムースな社会生活を自己と他者の両方がエンジョイできるために。

再度記す。国に対して個々の国民や市民がどんな感情を抱いていようとも、愛国心が社会的に要求されることは否定されないのであって、<日の丸>と<君が代>をシンボルとし、即ち、皇室を柱とする緩やかではあるが明確な形式に従いこの国の社会構成員の多くが国を愛する意識を抱いていることを日本国民は知らなければならない。まして況や、日本国民と日本市民の子女はこの社会のルールとマナー(寧ろ、「常識」であろう)を教育の中で厳しく躾けられなければならない。これは、この社会で子供達がよりスムースに生きていくことを可能にするために不可欠なカリキュラムである。

蓋し、この愛国心が義務教育や普通教育の過程を通して躾けられるべきことは、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」と規定する現行憲法第1条とも整合的であろうが、何より、社会権的な基本権として教育を位置づける憲法第26条の要請であると私は考えている。 そして、「今の教育基本法が育てようとしているのは「平和な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、勤労と責任を重んじ、心身ともに健康な国民」である」が、昭和22年3月31日に同法が施行されて以来58年近くが経過しても「愛国心を十分持った国民が育って」いないと多くの国民が考えるのならば、同法の抜本的改革は歴史的と社会的に不可避であると同時に、現行の占領憲法の要請でもあると私は考える。



★初出:海馬之玄関第2掲示板・ディスクール de 道場破り(平成16年6月19日)
その後、海馬之玄関に『憲法と教育法学と愛国心』の一部として収録



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