憲法と常識(下)



 【Common Law and Equity】


■憲法としての常識
「憲法」という言葉には様々な意味があります。而して、常識と憲法の連関性を考える場合には「実質的な意味の憲法」と「形式的な意味の憲法」を区別しておくことが肝要だと思います。蓋し、「形式的な意味の憲法」とは所謂「憲法典」のことであり、「実質的な意味の憲法」とは国家権力の正当性と正統性の根拠や国家権力の行使運用の基本的なルールを定めている規範のことです。例えば、マグナ・カルタ、権利の章典、議会法等々から構成されている英国憲法の主要部分は不文法であり、毫も、『英国憲法』という成文憲法典があるわけではありません。つまり、英国では「憲法=実質的な意味の憲法」なのです。同様に、「憲法典」としての『日本国憲法』に含まれない日本国の憲法規範も存在しうる。そして、そのような日本国の実質的な意味の憲法の諸規範の多くは通常の国会の立法にかかる法律(現行憲法41条・59条)の他、慣習や条理という形態を取ることになると思います。

すなわち、聖徳太子の『十七条の憲法』はここで言う意味での(憲法の内容と形式から見た場合)「憲法典」ではないけれども、それは7世紀前半のこの国の「実質的な意味の憲法」の一部ではあり「常識としての憲法」であった可能性はある。而して、現行憲法は9条に代表されるように非常識な条規を含んでいる点で、「常識としての憲法」とは言いづらいものの現行憲法下においても「憲法としての常識」は法理論的に存在し得るのであり、実際、国会の運営慣習等は正にそのような「憲法としての常識」に他ならないと私は考えています。

内容や形式とは別にその法的効力の側面から憲法は(「形式的意味の憲法」は)他の法規をその効力において凌駕する(つまり、憲法は他の諸法規、法律・政令・条例・規則に優越し、憲法と矛盾する諸法規の効力を無効にする)。また、その政治的機能を鑑みた場合、憲法は(「実質的意味の憲法」は)、国家権力の権限を限定し権力の行使と運用の手順を枠付け制約する規範であり、他方その裏面として、国家権力がその憲法的な制約を遵守する限り国家権力に対して正当性と正統性を付与する規範です(★)。

★註:立憲主義的憲法理解の不完全性
この立憲主義的な「国民ではなく国家権力に義務を課す規範としての憲法」という理解は、憲法も国民も国家の成立と概念を政治的のみならず論理的の前提としている経緯を看過する極めて一面的で皮相な理解と言えるでしょう。つまり、憲法は国民にアイデンティティーを与え、社会を統合し国法秩序を形成する機能を果たすものでもあり、この側面からは憲法が国民に対して義務を課し、国民としてのアイデンティティーを保持することを要請することも当然であろうと私は思います。


憲法は(「形式的意味&実質的意味の憲法」は)、憲法を頂点とする国法秩序全体の正当性と正統性を担保する最高位の授権規範であり制限規範(下位の法規範に正当性を付与する規範であり下位の法規範の内容を自己と適合するべく制約する規範)であると同時に、時々の国家権力の権力行使を制約し、他方、に正当性と正統性を与える最高位の規範でもある。すなわち、憲法は法が自己を実現するプロセス、法的プロセスの頂点であると同時に権力の分配とその全過程という政治的プロセスのキーストーンでもあるのです。

実定法は国家権力が強制によって実現する可能性のある社会規範です。而して、実定法が法として機能するためには(法としての効力を発揮するためには)二つの性質を保持していなければなりません。蓋し、実効性と妥当性。誰も従わない法は六法全書のインクのシミであって法ではないでしょう。また、法が支配するある社会のメンバーが、当該の法規範に対して法的確信を持つのでなければ、その法がたとえ当該の社会において遵守され実効性を保持していたとしても、それは暴力や利益による行動の誘導にすぎず社会規範としての法の機能の顕現ではない。そして、法の実効性と妥当性を担保するものは国民の法意識であり法的確信、すなわち、国民の常識に他なりません。尚、法の効力:妥当性と実効性の意味に関しては、尾高朝雄『法哲学概論』(学生社:2章)を参照してください。

蓋し、法的な言語体系において、<~憲法>と区別される<憲法>という概念が世の中の森羅万象から切り取ってくる法的諸現象に特徴的な性質は、(Ⅰ)独特の規範内容、(Ⅱ)最高の授権規範&制限規範、(Ⅲ)法体系内部での最高の法的効力、(Ⅳ)国家権力の制限と国家権力に対する正当性と正統性の付与ということになると思います。そして、(Ⅴ)これら(Ⅰ)~(Ⅳ)の性質を担保するものこそ、法の実効性と妥当性の切り口から観察される国民の常識と言える。そう私は考えています。


■常識と憲法

所詮、「憲法」という用語も憲法研究者が形成する憲法論的言語体系において始めて憲法論的意味を獲得するのだから、憲法の規範内容は、<憲法>と<~憲法>の組み合わせによって措定される<憲法>概念が世の森羅万象から切り取ってくる個々の憲法的現象に共通する特徴的な性質から演繹される憲法の意味(憲法の概念)に制約されます。他方、憲法も法規範である限り、その規範内容は慣習や条理によって具体化される。畢竟、現行憲法(「形式的意味&実質的意味の憲法」)の規範内容は、成文憲法典(形式的意味の憲法)や実質的意味の憲法の内容を構成する成文諸法規のみならず、憲法の概念と憲法としての常識によって多元的重層的に構成されていると私は考えています。

◆現行憲法の法源、あるいは、現行憲法の規範意味の構成要素
・日本国憲法
・その他の成文諸法規
・憲法の概念から演繹される<憲法>の特徴的性質
・確立され間主観性を獲得した憲法慣習・条理(=「憲法としての常識」)


もっとも、憲法は国法体系全体の最高法規ですから、(民事・商事の法的紛争解決において、しかも多くの場合、「任意規定」に慣習が優越することを定めたにすぎない)法例2条、商法1条、民法92条、明治8年太政官布告103号によって慣習や条理が形式的意味の憲法に対する優位性が基礎づけられることなどあり得ません。よって、慣習や条理という法学の世界における<常識>の法的な効力は、憲法の場合には(憲法の概念は別にして、<法>と<~法>の組み合わせから演繹される)法規範の性質一般から基礎づけられるしかない。而して、その法規範一般の性質なるものの代表例こそ前節で述べた、法の実効性と妥当性なのです。では、常識は具体的にはどのような論理的なプロセスと法的な手続を通してその具体的内容を法規範の中に顕現するのでしょうか。 




■法的プロセスと常識
法的プロセスを推進する営為が法の解釈。20世紀の最高の法学者の一人ハンス・ケルゼンはその主著の中でこう語っています。「ある法機関により法が適用されうるとすれば、その時には常にこの機関は自分が適用する法規範の意味を確かめねばならず、つまり、これらの法規範を解釈せねばならない:Wenn das Recht von einem Rechtsorgan anzuwenden ist, muß dieses den Sinn der von ihm anzuwendenden Normen feststellen, muß es diese Normen interpretieren. 」(Hans Kelsen,"Reine Rechts Lehre" Zweite Auflage, 1960, s.346)、と。

法が扱われるあらゆる場面で法の解釈は行われる。よって、「常識はどのようにしてその具体的内容を法規範の中に顕現するか」と「法的プロセスの諸段階で常識はどのような機能をはたすべきなのか」を考察する場合に大切なことは、常識が法規範に顕現する場面はすべからく法の解釈の場面であるということです。畢竟、常識は有権解釈の蓄積の中に漸次遂行論的に自身を顕現する。そもそも、法的プロセスなるものは法の解釈の営みに他ならないのですから。

では、法解釈とは何か。法解釈は何のために行われるのか。蓋し、法解釈は、不特定多数の個々に非対称的な人々が引き起こす無限に多様な法的紛争を、万人に妥当する均一なルールを事前に提示することで解決しようとする法規範の本性から見て不可避的な営為です。なぜならば、法規範は不可避的に曖昧かつ抽象的であり、更に、(それが裁判規範であれ行為規範であれ)法規範は論理的に常に「死者の生者に対する支配:過去に作られた法規による現存する人間の行動規制」でしかなく、法規の意味は本質的に現在の人間には漸次疎遠な事象にならざるを得ないからです。

近代解釈学の創始者、シュライアマハー(1768年-1834年)は、解釈という人間の営みは、外国語の壁であるとか文化的背景の差異の存在とかの理由で「テクストの意味が現在のこの社会の人間に疎遠になった状況」において開始されるのであり、そして、あらゆる解釈の目標は「著者を、彼が自らを理解したよりもよく理解すること」にあると喝破しました。畢竟、法解釈とはそのような疎遠な法規範と具体的現実を橋渡しする作業に他ならず、また、時代状況の変化や社会状況の変化に必ずしも立法の作業が対応できない場合には、(法的安定性と具体的妥当性の両者をバランスよく実現する法的紛争処理は一刻も停止することはできないのですから)法と現実との隙間を埋める責務をも法解釈は負っている。すなわち、法解釈には、(甲)法規範の本性からして論理的に要求される責務と同時に、(乙)政治的な責務の両者を帯びていると言ってもよいと思います。

法解釈を導く指針は法的安定性と具体的妥当性の同時実現です。而して、常識が法的安定性と具体的妥当性のいずれにより強く貢献するかは、法的プロセスの段階論だけでなく、状況論とも言うべき個々の案件の個性によって異なるものと思われます。

蓋し、英国法制史に例を取れば、コモンロー裁判所で伝統的に形成されたコモンローは「古き良き伝統」を体現するものとして、他方、大法官裁判所によって形成されたエクイティーは厳格で硬直したコモンローをより現状に適合させる「合理性」を具現するものとして、これら二つの判例法体系は、相補的に法的安定性と具体的妥当性のバランスの実現に尽してきたのであり、よって、「コモンロー」と「エクイティー」は共に<常識>を法的プロセスに導入するchannelであったと私は考えています。繰り返しになりますが、法的プロセスに作用する常識は法的安定性と具体的妥当性のいずれかではなく、常に同時のこの両者のバランスのよいブレンドの中に自己を具現するものである。そう私は考えるのです。

而して、例えば、テロ対策特別措置法や海賊対処法の国会審議において、首相や立法府の構成員が常識を法案の根拠に持ち出すことは、法が常識を基盤にしていること、すなわち、法と常識の本性から見てなんら問題はなく、法の適用における常識の使用はそれが法的プロセスにおいて法的安定性と具体的妥当性をバランスよく実現するものである限り法解釈的には正しい思考だと言うべきでしょう。そして、そこで持ち出された常識が「法としての常識」「憲法としての常識」の内容となり法的効力を帯び得るかどうかは、間主観性を追求する有権解釈確定のプロセスで漸次定まることだと思います。よって、序で抽出した三番目のポイント、「ある法規が国民の常識と乖離しているのならその乖離は常識に従い埋められるべきではないか」という主張は正しい見解ではないかと私は思っています。

■憲法と常識
ある法規が国民の常識と乖離しているのならその乖離は常識に従い埋められるべきである。この命題を拳拳服膺するとき、憲法自体が国民の常識と乖離して久しく、かつ、その憲法条規に反する状態が継続しているのであれば、その憲法規範は国民の常識により<変遷>したと考えるべきです。そのような形式的意味の憲法の条規は国家権力の正統性と正当性を担保しないものだからです。

而して、憲法としての常識の典型的な顕現が所謂<憲法の変遷>であり、畢竟、変遷の有無のチェックポイントは法としての常識の確認の手続きと同様に、(イ)当該憲法条規の法実現のプロセスに従事する人々の多数が(憲法の場合、その「人々」は国民全体です。)共通かつ間主観的に持つ法的確信の存在と、(ロ)より上位の諸法規範との間に矛盾がないことと言えるでしょう。後者の場合、より上位の諸法規範とは現行の憲法秩序および確立したあるタイプの国際法体系になる。例えば、憲法9条と自衛隊の存在および集団的自衛権の問題は、橋本公亘『日本国憲法』(有斐閣・1980年)が述べているように憲法変遷論によっても、最早、解決済みの争点であると考える余地も十分にあるのです(尚、私は現行憲法の施行以来、集団的自衛権と後に自衛隊となるような組織は毫も違憲ではないと考えています。よって、憲法9条に関しては変遷論は採用しませんが、変遷論は論理的には十分に検討に値する主張ではあると認識しています)。

ところで、形式的意味の憲法と国民の常識との乖離は、個別日本の場合、ほぼ戦後一貫して政権与党の座にあった自由民主党の怠慢ではないのでしょうか。否です。政治社会学的には、政権党は自己の権力の正統性と正当性を維持するためにのみ憲法を遵守するのであり、政権党が<国民の常識>に従った方が自己の権力の正統性と正当性をより維持強化できると考えるならば、政権党は形式的意味の憲法を墨守する政治的な義務を負う謂れはない。而して、法的な観点からも形式的意味の憲法を巡る解釈変更は、それが国民の法的確信に合致し、かつ、他の上位規範(実質的意味の憲法と確立したあるタイプの国際法体系)との整合性がとられている限りなんら問題はない。畢竟、憲法99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」の意味はこのように理解すべきだと思います。蓋し、イエーリングが喝破する通り「法は誰にも不可能を強制できない」からです。

敷衍します。「形式的意味の憲法と国民の常識との乖離」という認識は、憲法を形式的意味の憲法とのみ捉える誤謬を犯している。畢竟、形式的意味の憲法の一箇条に違反することに比べて<国民の常識>に従うことが(例えば、国民の生存や国家の社会統合を守るということが)憲法秩序の擁護として相対的に大きな正統性と正当性を国家権力に与えるのならば国家権力は<国民の常識>に従うであろうし、また、従うべきである。そう私は考えています。


■参考記事
・樋口陽一の文化帝国主義的憲法論の杜撰と僭越(上)(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/45e30175093f17dfbbfd6b8234b89679

・国連憲章における安全保障制度の整理(上)(下)
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9a5d412e9b3d1021b91ede0978f0d241 
 
・護憲派による自殺点☆愛敬浩二『改憲問題』(1)~(8)
 
http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-25.html
 
・憲法改正の秋-長谷部恭男の護憲派最終防御ラインを突破せよ!
 
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-12148850500.html
 
・戦後民主主義的国家論の打破☆国民国家と民族国家の二項対立的図式を嗤う(上)~(下)
 
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65344522.html
 
・法哲学の入門書紹介 でも、少し古いよ(笑)
 
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65231207.html
 
・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65231299.html
 
・憲法無効論の破綻とその政治的な利用価値(上)~(下)
 
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11396110559.html
 
そして、これも、カナ。
 
・自薦記事一覧:保守主義の憲法論と社会思想-憲法の再構築を求めて
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/bc7751bca3d34263e8a2ebb27b235b02


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