防衛省Mag☆MAMOR:特集「英語力を装備する自衛隊」--英語好きにはお薦めだったりする(転)


 


▽日本の英語教育は駄目なのか、
 --駄目だとすれば、なぜ、駄目なのか

>中学・高校で6年間も英語を学んでいるのに大部分の高校新卒者が
>簡単な英会話もできないのは英語教育が間違っているからではないか

問題はやはりここ、鴨。それは、上のような主張をされる論者が、その所謂「簡単な英会話」なるもので、どのようなこと/どの程度のことを英語のオーラルでできることと考えておられるか自体に、実は、初歩的な/致命的な(crucial or critical)「英語力」に関する誤解があるのではないかということ。蓋し、「中学・高校で6年間も英語を学んでいるのに大部分の高校新卒者が簡単な英会話もできないのは英語教育が間違っているからだ」という認識は間違っています。考えてみてください。英語が中学・高校で通算何時間教えられているかを。

平均的な公立校では(「1時間」=50分)、中学校では年間105時間、3年間で315時間。高校では175時間、3年間で525時間(中高一貫の名門校では630時間~780時間)。これを年35週に振り分けて提供している(しかも、あの「ゆとり教育」の時代には中学・高校で学ぶべき単語数は最大2200語に減らされていたのです!)。

而して、--少人数のグループ形式にせよ一斉授業形式にせよ、要は、50分のなかで一人の生徒が発話応答できる自分の(exclusively, my own)時間は「5人のグループレッスンだとしても平均10分にしかならない」ことは度外視するとしても、なぜならば、一斉授業形式は、自分より優れている/劣っている仲間の応答を見聞きすることで自分だけの個人レッスンよりも理解が深まる利点は侮れないですからね--中学・高校の6年間の学習とは840時間、すなわち、アメリカのESLコース(例えば、6時間レッスン)に換算すれば140日、要は、半年足らずの研修なのです。

例えば、カリフォ-ルニアやニューイングランドでの6カ月のESL研修で身につく英会話力が「簡単な英会話」ができるスキルであるかどうかは置いておくとしても、その6カ月のESL研修の、しかも、その「6カ月」を「6年間」に12倍に希釈して行われる研修に相当するものが。加之、アルファベットの識別もまだ怪しいメンバーもいる<子供達>に対して、肯定文と疑問文と感嘆文のイントネーションの特徴、可算名詞と不可算名詞の区別(≒定冠詞と不定冠詞の区別)、be動詞の人称変化・時制変化、あるいは、三単現の「s」から始まる840時間の英語研修。「簡単な英会話」なるものをどのようなものと論者が理解されていようと、この<840>で、そのようなスキルを、かつ、ほとんどの<子供達>が研修納期の高校卒業時に身につけることができるようになるのは難しいのではありますまいか、ありますまいか。

蓋し、--冒頭に書いた「保守派の日本人と日本市民にとって英語力は死活的に重要になってきている」という認識と表裏一体の現実として、現在でも、しかし、大部分の日本人にとっては生活の糧を得るために英語力が必ずしもマストではない状況、要は、英語スキル習得のモティベーションが必ずしも高い<子供達>ばかりではなく、よって、研修に向けたマインドセットが整っているとは言えない<子供達>が少なくない状況を鑑みるとき--この840時間だけで「大部分の高校新卒者が簡単な英会話ができる」ようになるとすればそれは奇蹟に近く、ならば、そうなっていないのは日本の「英語教育が間違っているからだ」考えるのは、100円もってマック(←関西では「マクド」)に行ってフレンチのフルコースが注文できないのはおかしいと思うのと同じくらいおかしい認識ではないでしょうか。



現在、保守派の日本人と日本市民の子供達に求められている英語力とは英語でのコミュニケーション能力のことである。この主張や認識を是認するとしても、しかし、コミュニケーションツールとしての英語なるものは、結局、--もちろん、音声面を加味した上でではありますが--文法・構文・語彙の<情報>以外には存在しない。この認識が日本の英語教育に批判的な多くの識者(笑)に欠けているのではないか。と、私はそう考えます。

畢竟、所謂「受験英語」なるものは「入学選抜ツール仕様」に組み立てられた、しかし、普通の英語にすぎないのです。而して、この経緯は大なり小なり、TOEICでもTOEFLでもIELTSでも、SATでもACTでも国際バカロレアでも、GMATでもGREでもLSATでも、あるいは、プレゼンテーションやパブリックスピーキング、ビジネスライティング、そしてなにより英会話なるもの自体において扱われる「普通の英語」の加工作業と全くかわらない。

これまた簡単な話であって、例えば、英会話ができないというケースのほとんどはリスニング能力の不足がその原因であり--会話とは言葉を使った「キャッチボール」なのですから、相手の投げた球を捕れなければその段階でゲームセットになるということ--、そのリスニング能力の不足とは、音声の形式をとった、語彙力・構文の知識、そして、文法の知識の不足なのです。ならば、畢竟、「文法=答辞論」を、(a)語の配列のルール、および、(b)語の変化のルールの総体と捉えるとき、文法と無縁な英会話などがこの世に存在しえないことは明らかではないでしょうか。

敷衍します。例えば、あの新宿駅西口の雑踏(呆)の中でも、英語のネーティブスピーカーが英語アナウンスをなんなくを聞き取れるのはなぜか。また、凄まじいあの中央線快速の満員電車(怒)の中でも、彼等が欧米のインテリさん向けの英語雑誌なんかも斜め読みできるのはなぜか。はい、その理由はただ一つ。それは、彼等の、①--音声の形態をも含む--語彙力と、②「今聞こえている/今見ているセンテンス・フレーズ・語の次にどんな<球:センテンス・フレーズ・語>が来るか予想できる」能力--そう、「さっきが内角高めのストレート、その前が外角高めのすっぽぬけのくそボールやったさかい、次は外や、それも低め、ストライクゾーンぎりぎりボール気味のツーシームや、間違いあらへん」てな予測する力--があることです。で、あのー、これって(もちろん、語彙の音声面をも含むものの)「単語「構文」「文法」の<知識>の優位性そのものではないでしょうか。そうではありますまいか。

 

・鳥飼玖美子『TOEFL・TOEICと日本人の英語力』
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/4cb2bf2c2ab2f76d99b6471ea4890ac0

 


検算。大事なことなので検算しておきます。私の上の主張に対しては、「確かに、どんな英語も--「このセンテンス/フレーズは非文である」という判定を含めて--文法的に説明可能なのでしょう。けれども、例えば、日本人が日本語を使うとき、この語句は「サ行変格活用だ」とか「間投助詞の敬語的用法かも」とかいちいち考えていないのと同様、文法的な知識とは位相を異にする、別位相でのコミュニケーションスキルは存在するのではありませんか。そして、もしそうならば、あるべき英語教育も、もちろん、文法的知識と無縁ではないにしても、逆に、文法・構文・語彙に英語教育を特化したり、それらに傾斜配分することが正当化されるわけではないのではないですか」、という反論を予想します。このような反論は、自分が英語を話せなかった頃をきっぱり忘れている、英語が好きで好きでたまらなかったかっての少年/少女系の論者にまま見られるもの。でもね、ですけれども、所謂「言語習得の臨界期仮説:critical period hypothesis」を前提にするにせよしないにせよ、ある自然言語(a certain Natural Language)のネーティブスピーカー(NS:NS of a certain language)とノンネーティブ(non-NS:non-NS of the language)の差違を看過した謬論にすぎない。と、そう私は考えます。

チョムスキーの生成文法論パラダイムとの関連はここではパスさせていただきますが、(α)自分の内面世界とは本質的に疎遠なある言語を--すなわち、「意識とはなにものかに対する意識である=自分の意識は言語の形式でしか自己に認識されえない」というフッサールの「志向性」の概念が喝破した経緯、換言すれば、自己の意識を形成する母語、換言すれば、自己の内面世界を形成している言語ではない非母語を--、かつ、(β)大人が真面目に議論するに値する内容を盛り込んだ主張・認識・情報をやり取りできる程度にまで、(γ)どう遅くとも10歳以上の生身の人間が、(Δ)母語に加えて習得しようとする場合(「学習」ではなく「習得」に限ったとしても:not learning but acquisition)、文法的な知識は不可欠だろうからです(★)。

★註:コミュニケーションスキルとしての英語力の精髄--文法力の風景

例えば、もちろん、池袋や錦糸町で屯する、偏差値50以下の下位校や40以下の底辺校の女子高校生でも、おそらく、日本語は話せる、多分。なんとか頑張れば新聞の社会面くらいは読んで理解できるかもしれない、少し不安。けれども、そう、「講談社現代新書1冊、①どれでもいいから1冊読んで、②内容を要約して、③aその書籍が論じていたイシューに対する自分の意見を、③b根拠を添えて、④400字原稿用紙2枚にまとめなさい、⑤作成制限時間は講読時間は除き45分」という課題を与える場合、その悲惨な結果は言うまでもないでしょう。まして、いわんや、30未満の最底辺校の子供達の場合にはほとんど<冗談>か<前衛劇>か<朝日新聞の社説>的の光景が展開されることは確実ですから。

他方、例えば、アメリカでアメリカ人の学部学生が、彼女や彼が自国のMBAやJDプログラム(ロースクール)に進みビジネスや政治の世界で活躍しようとする場合、--名門のプレップスクールやボーディングスクールの卒業生、あるいは、「ディーンズリスト、ごっさんす、うす!」常習の優秀な学生というわけでもないのならば--英語のNSの彼等も英語に関する(a)語の配列のルール、および、(b)語の変化のルールを、『これでばっちり! MBA Topスクール合格虎の巻』(←このタイトル名は「イメージ」です)とかのテキストを使って<学習>しなおしているのですから。





▽検算-敷衍
換言敷衍します。お気づきになられた読者の方も多いと思いますけれど、上で述べた反論と私の再反論には、「英語の教育の目標→英語教育の目的」に関して異なるレベルのものが含まれています。逆に言えば、それは、高校新卒者の大部分ができないとかいう「簡単な英会話」ということの意味を巡る認識の違いでもある。

(甲)簡単な英会話ができるようになる
(乙)ビジネスシーンで主張・認識・情報をやり取りできるようになる

日本の英語教育に批判的な識者(笑)の多くは、暗黙裏に、(a)「原則、すべての高校卒業生」が、(b1or2)(甲)なり(乙)を達成することを目標と考えておられるように思います。けれども、私は、「すべての生徒がどんな科目でも満点取れるポテンシャルを持っている」などという--彼等も今現在は流石に公言はしていませんが、昔は広言して毫も憚らなかった--日教組・全教の「教師を詐称する教育を放棄した反日活動家」が<条理>と称していた教育論の基盤的前提を否定します。すなわち、「英語教育」、否、学部以上の高等教育のみならず、初等中等教育においても、<子供達>の適性と希望、その家庭やスポンサーの意向と方針を尊重しつつ、英語を学びたい<子供達>、換言すれば、<英語力を武器に将来世過ぎ身過ぎしたいと考える子供達>と、そうではない<子供達>とでは達成目標は違ってしかるべきである。と、そう考えているということ。何を言いたいのか、それは、例えば、

>灘・櫻蔭・武蔵等ではない普通の進学校から東大理Ⅲに現役で合格するような生徒
>「高校に合格したらなんでも買ってやる」という親との約束に俄然奮起、そいでもって、
 優秀な家庭教師を目一杯つけてもらい1年頑張ったけど、底辺校しか合格できなかった生徒

>曾祖父の代から親族で東大卒・京大卒・防衛大卒でないメンバーはいない、
 かつ、自分は、商社か銀行か、中央官僚を真剣に目指している生徒
>祖父の代から親族メンバーは鳶か任侠・神農系の仕事を生業とされており、
 刺青アトリエか小料理屋のどちらかの家業を継ぐことを熱望。いずれにせよ、将来のため、
 高校卒業後は鳶か佐官の見習(an apprentice)、神楽坂の老舗和食厨房で働くつもりの生徒

・全国学力テスト結果の非公表には「盗人の三分の理」さえない
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a715b9011208afc6f22a800a0e088731

これらの目も眩まんばかりの多様さの乱舞が現実でしょうよ、ということ。これら、能力の軸と志望進路の両軸において--更には、「進路選択決定」判断のデッドラインを中学2年の夏休み明けくらいには置いている家庭と子供達、高校卒業後2~3年の内に決めればいいんでないの、と考えている家庭と子供達の存在と分布。そういう分布が形成する第三の軸を加えれば、その<青春の三次元空間>において--<子供達>は神々しいほど多様である。ならば、英米や印度・露西亜、また、戦前といわず昭和もルーズソックス(←「loose socks」は和製英語、本当は「boot socks」。ちなみに/loose/は「るー」ですからね!)がはやり始める1990年頃までの昭和の日本の如き、「有限なる人間存在」という人間性の本性を踏まえる健全な社会ではない、英米を除く世界のリベラルな「先進国」という名の、その社会が各々の子供達の進路を責任をもって決めるのではない社会、すなわち、リベラリズムの欺瞞に満ちた国や地域は、この目も眩まんばかりの多様と有限なる人間存在という現実、換言すれば、人間の現存在性が見えていない社会ともいえる。それは、「危機に際して砂に頭を入れることでその場をすごそうとする駝鳥」の如き薄っぺらな社会なの、鴨。蓋し、畢竟、

б(≧◇≦)ノ ・・・単一・均一な研修目標を設定すること自体が、
б(≧◇≦)ノ ・・・<子供達>、否、人間性の本性と相容れない前提ではないのか!

ということです。この私の認識と主張。換言すれば--現在の「習熟度別研修」という、謂わば「目標は均一ながらそこに至る研修プロセスを多様化」する綺麗事の詐術ではない--、「目標自体を多様化することの提言」。これは戦後の本格的な英語教育論争の先駆けとなった、「渡部昇一 vs. 平泉渉」論争(『英語教育大論争』(文藝春秋・1975), cf. 鳥飼玖美子『英語教育論争から考える』(みすず書房・2014))の両先生が共に前提とする、その論争の基盤となる前提的な主張でした。而して、実は、--教育課程審議会答申(1987)、高等学校学習指導要領(1989)、そして、中央教育審議会の第一次答申(1996)自体が、戦後初めて「すべての生徒はどんな科目でも満点取れるポテンシャルを持っている」という妄想を打破したものだから--「ゆとり教育」路線にも、ある意味、もちろん良い意味での、このような<差別化-個性化>の哲学が含まれていたはずなのです。しかし、・・・。

現場にそれが降ろされた段階では、しかし、日教組・全教の「教師を詐称する教育を放棄した反日活動家」や「船橋西図書館で焚書事件をしでかした土橋悦子の如きリベラル司書」の抵抗だけではなく、「我が子にだけは高いレベルの教育を与えて欲しい」という--これは、あの英語嫌いのフランスでも、ほとんどの親は我が子にだけは英語をしっかり教えて欲しいと訴えるくらいですから、これを「エゴ」と評するのは不遜であり、それは人の親として当然の欲求・要求なのでしょう--、保護者からのその要求のパトスが強烈だったこともあり無理だった。よって、「ゆとり教育」路線もその哲学が目指した、<平等妄想>と<均一の前提>の粉砕はできなかった。

而して、2002年の学習指導要領は総花的な八方美人さんになってしまい、結局、それは、左右両翼から不人気な、単なる「スカスカのカリキュラム」の設計図になった。それは、英語に飢えている子供達には圧倒的に物足りない。他方、英語に関心のない子供達にはあいかわらず無味乾燥で、しかもご丁寧に、将来、彼等が英語に関心を持ったとき/英語力をつける必要が生じたときに、彼等が「英語再出発」するための<原資=財産>になるべき、文法・構文・語彙という英語の基礎基本の紹介が芸術的なくらいに削られた--軽めの英会話体験レッスンもどきの、誰にとっても無駄な something の--レシピになったのだと思います。

これらの認識は、私の、保守派の英語教育屋さん(笑)の印象論的言いたい放題ではないです、多分。実際、--例えば、端的には「公文式メソッド」、より実践的には東進ハイスクール・東進衛星予備校、あるいは河合塾さんが定式化している「学習諸項目間の連関関係図表」を踏まえるならば、例えば、--名詞節を導く接続詞のthatを理解できていない英語の非母語話者(non-NS)に、前節全体を先行詞(先行節)とする関係代名詞whichの非制限用法や二重関係代名詞の機能を理解してもらうなどは、不可能ではないにせよ、ものすごく無駄で滑稽な営為であることは自明でしょう。

あるいは、英語のシラブル型音節とは違い日本語の音声は手拍子の如きモーラ型音節で構成されていること。この音韻・音声の差違構造の基本に関する認識が欠落している段階での「英会話」研修は、だから、よくて、2~3センテンス単位の英文をそれなりには発声できるようになる、九官鳥さんや鸚鵡さん用のレッスン、人間用としては英語の楽曲をカラオケで上手に唄えるようになるための準備でしかないこともまた自明であろうと思います(★)。

ことほど左様に、英語の基礎基本の展示紹介と同時並行的に、自己紹介/他己紹介、道案内、お買い物の際の応答から始まって、よくて、旧センター試験や英検2級程度の内容の会話文を題材に--NSのALTが同席するにせよしないにせよ、しかも、各生徒の持ち時間は最大10分のレッスンを--6年間かけて840回やったところで、それが、原理的には、読み・聞き・話し・書く(+唄う!)の全技能に関して、かつ、誰にとっても--そう、教育力の高い家庭の子女や本人が英語に関心があり「自習歓迎!」「隙間時間&フレックス下校上等!」の生徒にとってさえも--非効率な研修でしかないことは明らかではないでしょうか。

★註:英語と日本語の違い-音としての言葉

あらゆる自然言語(any Natural Language)は--極論すれば「手話」でさえ--、その本体は音声でありその本質は(とりあえず、ソシュールの言う意味での)差異(化)のシステムです。而して、日本語では、音節は原則、開音節。つまり、日本語の音節は、「V:/あ/い/う/え/お/」、あるいは、「CV:/な/か/じ/ま/み/ゆ/き/」という、いずれも最後に母音(V)が来る「音節=音の単位」でなりたっている。また、その音節は同一の時間(拍:mora)で発声され、よって、必然的にそのアクセントも高低型。

対して、英語はシラブル型音節(syllable)でなりたっている。つまり、音節、要は、1個の母音・母音的に振る舞う「/l/m/n/r/」の如き音節主音的の子音を核にした音の単位自体に、日本語の「V:母音」「CV:子音+母音」のみならず、「VC:母音+子音」「CVC:子音+母音+子音」の閉音節が加わる(更に、「oven:VCC」「stove:CCVC」「desk:CVCC」「street:CCCVC」等々、「CV」「VC」「CVC」の中の「C」も最大3個のCでもって構成されることもある)。よって、必然的に、英語の1音節(one syllable)が発声される時間の間隔も異なってくるし、ならば、そのアクセントも--話者の気分や文体価を表示する「高低」はもちろん存在するけれど、原則、就中、ワンワード単位では--、大凡、強弱型(強勢型-音の大きさと音の長さによる強調)になっていること。

これらのことを頭と体の双方で<体得>できていない段階で、100ワード前後の情報内容を英語として発声する研修などは全く非効率。ならば、実は、--鸚鵡さんや九官鳥さんほどではなくとも、流石、万物の霊長(?)、人間なんですから私たち保守派の市民とその<子供達>は、だから私達にとっても--例えば、あの「L」と「R」音の違い(/l/と/r/の違い)などは、LondonとRome、Los AngelsとOregonをナチュラルな英語音源に倣って100回繰り返せば比較的容易に使い分けでき始めるものだし、典型的な「連結:liaison」「脱落:elision」「同化:assimilation」パターンの模倣もこれと同様なのですが(だって、八王子でも町田でも、下位校や底辺校の高校生が洋楽曲を横田基地や座間基地の米軍のみなさんと同じくらい上手に唄ってますから!)、只管打坐的な、あるいは、念仏三昧的な、ただひたすら英語風音声を繰り返し発話するがごとき研修は資源と青春のシュールな無駄遣いでしかないのだと思います。


ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿





<続く>


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大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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