<動物裁判>としての宮崎勤死刑判決精神鑑定批判

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平成18年1月17日、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤被告に最高裁は死刑を言い渡した。88年-89年、昭和と平成を跨いで4人の幼女の命が奪われた刑事裁判が18年目にしてようやく終結したわけである。

私はこの最高裁判決を読んで当然の判決だと思った。しかし、この当然の判決が出るのに容疑者逮捕からでも16年半の歳月が本当に必要だったのか;それは遅すぎる法の権威の回復ではないのかとも思う。そして、精神科医や犯罪事件に詳しいジャーナリストの何人かがこの判決の精神鑑定に対して呈される疑義を見聞きするに及び私は少なからず憤りを感じている。

精神科医は人の精神のあり方に関する専門家ではあろう。作家の佐木隆三さんなどは今の日本社会でこのような不条理な犯罪が生じる所以を丁寧に観察しておられる方だとも思う。しかし、精神科医も犯罪ジャーナリストも法律の専門家ではない。また、この死刑判決を批判しオーム真理教(現在、教団名を「アレフ」と改名)の松本智津夫被告の裁判の停止を主張する刑事法研究者は、おそらく、刑法がわかっていない。彼等は刑法の機能が理解できておらず、また、刑法が法として効力を保っていられる根拠が見えていないのではないか。そうとしか私には思えないのである。

刑法はなぜ、「心神喪失者の行為は、罰しない/心神耗弱者の行為は、その刑を減刑する」(39条)と定めているのか? 刑事訴訟法479条1項はどのような犯罪と刑罰を巡る世界観から、「死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によつて執行を停止する」 と定めたのか? 更には、監獄法や監獄法施行規則は犯罪の抑止と犯罪者の更生に関するいかなる想定の上に次のような規定を設けているのか。

監獄法43条
第1項:精神病、感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律ニ定ムル感染症其他ノ疾病ニ罹リ監獄ニ在テ適当ノ治療ヲ施スコト能ハスト認ムル病者ハ情状ニ因リ仮ニ之ヲ病院ニ移送スルコトヲ得
第2項:前項ニ依リ病院ニ移送シタル者ハ之ヲ在監者ト看做ス

監獄法施行規則114条
監獄法第四十三条ニ依リ在監者ヲ病院ニ移送シタルトキハ所長ハ監獄ノ医師ノ診断書及ヒ移送シタル病院トノ協議書ヲ添ヘ法務大臣ニ申報ス可シ
同第115条
在監者ヲ病院ニ移送シタルトキハ所長ハ監獄官吏ヲシテ毎日其状況ヲ視察セシム可シ




◆責任主義とその社会的基盤

刑法・刑事訴訟法等々の刑事関連諸法規が、心神喪失者や心神耗弱者の行為を犯罪としない/犯罪である場合は減刑する/刑の執行につき治療等の措置を取っていることを貫くものこそ<責任主義>である。蓋し、「責任がなければ犯罪は成立しない」「刑罰は責任の重さに比例する」の二つのテーゼが責任主義の内容であり;「責任」とは社会が犯罪者を非難できる可能性とその非難の大きさである。

自分の行為の意味も(ひょっとしたら、自分の行為とそれが引き起こす結果の因果関係も)認識できない人の行為には非難可能性がない(よってこの場合、責任もなく犯罪も成立しない)。あるいは、たとえその行為が犯罪と定められていたとしても、行為者がそのような行為を行ったことについて「それは無理もないことだ」と誰しもが思うような場合には(合法的な行為を行為者が選択することを期待できなかったのであり)、これまた非難可能性がなく、よって、責任も犯罪も成立しない。責任性(非難可能性や期待可能性)を犯罪成立の要件と考える刑法理論はこのような責任主義を基盤としている。

責任主義は犯罪者に優しい人権論の帰結か? 否である。責任主義は人権たる人身の自由のコロラリーにとどまるものではない(人権ゆえに責任主義が遵守されるわけではないのである)。責任主義の思想は、古今東西、人類史に広く観察される現象と思想であり、他方、空虚なアトム化した人権主体の観念とは異なり責任主義の要請には犯罪への怒りと刑罰を求める情念が渦巻いているからである。いささか、朝日新聞的な文学的言辞を使ってしまったけれども、ここで用いた「犯罪への怒り」も「刑罰を求める情念」も朝日新聞の社説の中で使われるような浮遊した言葉ではなく社会的なある実在に対応している。

すなわち、責任ある行為に対して特に社会は「犯罪への怒り」を感じ「刑罰を求める情念」を燃やすのである。而して、もし、刑事法の諸制度が社会のこの「犯罪への怒り」や「刑罰を求める情念」に応えないようであれば、これらは直ちに<自力救済>に向かう社会的な実在である。畢竟、近代法は個人の仇討ちを国家の刑事法のシステムに吸収した。しかし、仇討ちへの社会の欲求は去勢された牡牛の如きものではないのであって(たとえ、仇討ちが違法であり仇討ちは第二の犯罪にすぎないとしても)、刑事法と刑事制度がその欲求を満たさない限りそれは瞬時によみがえる社会的実在である。

なぜそう言えるのか? 簡単だ。人工のイデオロギーにすぎない国家や法や人権と比べるまでもなく、仇討ちを求める人間の欲求は類としての人類に/生身の人間が形成する現実の社会の中にビルトインされているからである。ならば、ここで注意すべきポイントは、刑事責任の有無強弱の判定は社会的判定であるということである(★)。

★註:責任主義と応報刑主義
刑罰は犯罪者の矯正のためにあるのか犯罪への制裁か? 刑事制度の目的は犯罪者からの社会の防衛か、それとも、犯罪によって掘り崩された法と秩序の回復か? これら刑事制度の理念や機能は責任主義と地続きの論点である。大東亜戦争後、犯罪と刑罰を巡るこの社会の意識をスポイルした戦後民主主義への批判も加えて、この点に関する私の基本的な考えについては下記拙稿を参照いただきたい。


 ・野蛮な死刑廃止論と人倫に適った死刑肯定論
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/f996f9250e574acac1173d7b869073b6

・応報刑思想の逆襲(1)~(5-資料編)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11415049470.html


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◆動物裁判のパロディーとしての精神鑑定論議

宮崎被告や松本被告の精神鑑定への疑義を聞くと私はいつも一冊の新書を連想してしまう。その書籍とは、池上俊一『動物裁判 西欧中世・正義のコスモス』(講談社現代新書・1990年9月)である。本書が提供してくれる知見と同書が切り開いた西欧社会を理解するための構図は実に新鮮であるが、『動物裁判』の中でこの記事に関連する箇所を私なりの言葉で整理するとおおよそ次のようになる。

・13世紀から17世紀にかけて西欧では「動物裁判」が盛んに行われた
・それは、例えば民法718条(動物の占有者等の責任)が定める動物の飼い主などが自分の動物が他人に与えた損害に対する裁判などではない! 「動物裁判」とは人間を裁く法に基づき人間を裁く法廷と人間に適用される刑罰をほとんどそのまま「犯罪を犯した動物」に適用したものだった

・一見、神秘と非合理が支配した中世特有の現象のように見える「動物裁判」は、逆に、西欧において神秘と非合理が解体していく過程で生じ始め(13世紀)、近世・近代の直前にその最盛期を向かえ(16-17世紀)、そして、17世紀の後半には消滅した

・ならば、「動物裁判」という現象は、それまで人々に安定した精神世界を保障していた中世のほころびと轍を一にして;すなわち、信仰と神秘に包まれ自然と人間が豊かに共生していた中世世界が近代の合理主義精神によって揺すぶられ寸断される中で生じたとは言えないだろうか

・「動物裁判」;そこには、懐かしくも温かくもあった中世の精神世界にはもう戻れないという意識の中で、中世の神秘と非合理に代わるものと見られた合理主義に対する過剰な期待が反映してるのではないか、と。


宮崎被告や松本被告の精神鑑定論議を聞くとき私が『動物裁判』を連想する理由はシンプルである。大東亜戦争後、戦後民主主義が崩壊させたこの社会の精神秩序の廃墟の中で、戦後民主主義を信奉する勢力は根拠の全くない人間の万能感にのみ支えられた<科学や人権という権威>の基盤の上に新たな秩序を作ろうと模索しているのではないか。そして、本来、科学や人権の<有効射程距離>から遥かに離れている法的な責任能力の有無強弱の判定という領域にまでそれらを適用しようとしている。そのような滑稽と狡猾が現下で繰り広げられている精神鑑定論議ではないのか。そう私は感じている。

畢竟、犯罪の責任能力などは社会的な常識や価値観に沿って判定されるべきものである。もちろん、大方の精神科医の鑑定結果が一致するようなコアの事例に関しては鑑定の結果を裁判官が資料として尊重することは問題ない;それは、そのようなコアケースでは科学の権威を法的思考が尊重することがむしろ社会的な常識に適うというだけのことだ。けれども、例えば、宮崎勤被告の精神鑑定の如く複数の精神科医の鑑定が基本的な点でも齟齬をきたすような事例では科学の言葉は社会の法意識と世間の常識の前に沈黙すべきである。



◆刑事司法の責任観
責任主義の基盤には、自己の行為の意味を人間は理解できるし自己の行為とそれが引き起こした結果との因果関係を人間は理解できるという合理的人間観がある。これは、近代の人権論や古典経済学がその基盤に据える自由で平等で抽象的なアトム的な人間観と親しい。このような人間観は能力においても千差万別で感情においても刻々と変化する生身の人間とは何の関係もないものである。ならば(上にも述べた如く)、歴史的にも論理的にも近代国家と人権に先行する「犯罪への怒り」や「刑罰を求める情念」が、科学の権威を援用する人権論(=科学の虎の威を借りた人権論)にすべて排除されるいわれはない。

蓋し、「人間は誰しも幸福を追求する権利がある」という、おそらく誰も否定しない命題から、「よって、すべての人間は幸福になれる」という神でもない限り導き出せない荒唐無稽な結論を語る人権論も科学偏重の主張と同様妥当ではない。蓋し、「責任なければ犯罪なし/責任なければ刑罰なし」という責任主義の主張は、責任の有無強弱を科学的に合理的疑いがない所まで検察側が証明し裁判所が認定するのでなければならないということはないのである。

畢竟、責任能力の判断は社会的判断であり社会的判断でなければならない。人権なるものを十全に確保しつつその治安と秩序が保たれる社会の到来を刑事事件の発生は待ってはくれない。而して、仇討ちを希求する社会の意識が自力救済に立ち上がることを防ぐ(法と秩序を維持する)現下の必要性と恒なる緊急性を前にしては科学の進歩などを刑事司法は待ってはいられない。また、ドラえもんがポケットから取り出してくれそうな、黙って座れば3分で完全な精神鑑定ができる<どこでも精神鑑定椅子>などを可能にする科学の進歩などを刑事司法は待つべきでもないのである。私はそう考える。



(2006年1月21日:yahoo版にアップロード)

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