人権を守る運動は左翼の縄張りか? 保守主義からの人権論構築の試み

一昨日の緑の日。扶桑社『新しい歴史教科書』を応援するあるグループの勉強会に参加した。テーマは「北朝鮮の人々の人権を守る運動の現状」。今年4月14日に、日本人を含む外国人拉致問題の早急かつ明快な解決を要請する決議を採択した国連人権委員会(ジュネーブ)でのロビー活動の模様や韓国で行われた人権フォーラムの報告等々、ネットでは得られない生の情報に触れられて有意義だった。また、人権擁護の運動について考える機会ともなった。標題の問い;「人権を守る運動は左翼の縄張りか」についてである。
「人権を守ろう」とか聞くとどうも左翼系の運動のように感じられて引いてしまう。横浜で行われたその勉強会である方がそう言われた。確かに、人権とか平和とか民主主義と言えば、大東亜戦争後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の<専売特許的の呪文>のように私も感じないではない。人権の価値は現実の主権国家を超えたものと考える左翼思想(≒戦後民主主義)は、よって、人権を国家の正当性を相対化する論理とみなし、また、いつでもどんな国家のパフォーマンスでも攻撃できる手段として人権を利用している(そりゃそうさね、自然法的な権利・天賦人権、つまり、<神様がお造りになった人権>を基準にすれば鼓腹撃壌状態の国家でもない限りどんな国家のパフォーマンスも完全ではないだろうからね)。
しかし、本来、人権も平和も民主主義も左翼思想の専売特許ではなかった。それどころか(左翼思想を、政治的には直接民主主義の正当化、経済的には生産手段の公共化と中央集権的な計画経済の推進の傾向、文化的には伝統的の価値の否定と空虚なアトム的人間像を基盤にした「社会主義リアリズム」の推奨の複合体と大雑把に捉える場合)、グロティウス(1583-1645)とホッブス(1588-1679)以降でも4世紀、マキャベリー(1469-1527)とボダン(1530-1596)からは5世紀に及ばんとする近代社会思想の歴史の中で、左翼思想は民主主義の潮流の半分とは親和的であったとしても他の半分とは無縁であり、まして、人権と平和に対しては明らかにそれは不倶戴天の敵の関係であり続けてきたのである。
左翼思想だけではない。左翼思想と親和的な民主主義の潮流の半分;フランス流のデモクラシーあるいはポルポト派的なデモクラシー自体、20世紀の前葉までは平和と人権を脅かす危険思想と見なされてきた。実に、代表民主制と結びつき20世紀前葉以降、「民主主義」という政治的シンボルにポジティブなイメージを付与したものは民主主義の潮流の残りの半分;英米流のデモクラシー(あるいはそのハイブリッドタイプとしてのドイツ帝国憲法/大日本帝国憲法的なデモクラシー)だったのである。フランス流の民主主義の潮流が殺戮と恐怖を人類にもたらしたのに比べ民主主義のもう一つの潮流;伝統と慣習を基盤とする英米流の民主主義は、秩序と平和を諸国民にもたらした(★)。
★註:デモクラシーは危険思想だった
その経緯については下記の拙稿をご参照いただきたい。
・政治と社会を考えるための用語集 民主主義
・政治と社会を考えるための用語集 政治と権力
・政治と社会を考えるための用語集 憲法
・政治と社会を考えるための用語集 国家
要は、日本の文化伝統に価値を置き、皇孫統べるこの豊葦原瑞穂之國のアイデアとイメージをもって近代国民国家を統合するイデオロギー;国民統合のための<政治的神話>、と考える保守的民族主義の立場からは、実は、人権の擁護と平和の希求は、豪も、矛盾するものではない。逆に、その独善性と排他性と観念性によってあらん限りの悲惨と実現可能なすべての恐怖を人類にもたらしたフランス流の民主主義の流れを汲む左翼思想は(それは日本では朝日新聞に代表される戦後民主主義の立場であるが)、人権と平和を唱えるいかなる思想史的な権利も持ってはいないのである。ならば、左翼思想に横領された人権と平和というシンボルを保守の陣営が奪回することにはいかなる遠慮も不要である。いつものように、羊頭狗肉ではないにしても竜頭蛇尾になると思うけれど、結論を書こう。
左翼思想は、人権の根拠を、「天賦人権」として、主権国家を超える自然法や人間存在の本性なるものから演繹するが、その人権の内容は(英米流の人権思想とは異なり必ずしも慣習や伝統としての人権内容ではないから)個々の論者の観念的な表象や願望や妄想を反映せざるをえない。それだけでなく、左翼思想の考える、人権保障の主体は論理的には主権国家に限定されない(それは主権国家を超える何ものか;地球市民とか世界国家とかの常識人には想像さえできないもの、あるいは(論理的には)国際的なテロ組織でもありうる)。
これに対して、保守思想からの人権論は、人権が守られねばならない根拠自体は天賦人権論からも演繹しつつ、人権の具体的な内容を伝統と慣習に求め、人権保障の主体と手段を主権国家に限定する現実的な思想である。考えてみるがいい、社会権的基本権が天賦人権であるとして、では阿弗利加や亜細亜で飢えと病気で今この瞬間も苦しんでいる子供達に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する責務が日本政府にあるというのか? 否であろう(否であるからこそ、逆に、手弁当で彼等に共感しその救済に取り組むNGOの諸君の行為は貴く、また、米軍が攻めてきてくれることを北朝鮮で一日千秋の思いで待っている拉致被害者や日本人妻を救援するボランティアの活動は理屈抜きで他者に感動を与えるのである)。
簡単な話だ。人権総体の価値の根拠や個々の人権の概念は主権国家を超えるものでありうる。この国家権力が人権を保障するという契機は、皇孫統べる我が神州の文化と伝統の維持に次いで、日本の国家権力と憲法秩序を正当化する要因であろう。しかし、個々の人権が現実具体的に当該の社会の中でどのような内容を持つのかは個々の国家によって異なる。また、それは時代と共に異なるのである。極論すれば、人権の具体的な内容は時々の国民の人権意識によって定まるのであり、率直に言えば、それらは国家予算と景気動向によって確定されるのである。
左翼思想からの人権論は、主権国家の権威を相対化するだけでなく、その人権論によって確保されるべき人権の具体的内容を空虚にする。つまり、左翼の人権論は人権の内容の確定と人権保障の指揮系統の混乱の両面において現実の人権保障のパフォーマンスを劣化させる謬説にすぎない。それは、法的安定性と現実的妥当性の両面において、人類が編み上げてきた貴重な社会的インフラとしての人権内容と人権確保の制度とを棄損する不埒な妄想である。
(2005年5月1日:yahoo版にアップロード)
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