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旧宮家の皇籍復帰、まずはそこからでしょう:すめらぎのお話・・・臣籍降下から復帰された天皇

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天皇制と国民主権は矛盾するか(上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11136660418.html
 
・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
  http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/b699366d45939d40fa0ff24617efecc4

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すめらぎのお話・・・臣籍降下から復帰された天皇

テーマ:皇統受難
先月30日は旧暦では五月五日の端午の節句の日でしたが、五月五日といえば貞観九年(867年)の光孝天皇の第七皇子定省(さだみ)王が誕生された日です。
 
光孝天皇は、第五十四代仁明天皇の第三皇子の時康親王で、兄である第一皇子の道康親王が天皇になられていました(文徳天皇)から、親王として様々な官職を歴任されていました。この頃皇統は文徳天皇の系列で続いていくと思われていました。
 
 
ところが文徳天皇の孫にあたる陽成天皇の時に事件が起きます。
 
 
「神皇正統記」によれば、陽成天皇は性格が荒々しく帝王の器にふさわしくなかったといいます。また「愚管抄」には、もののけによる災いがひどく、狂気のふるまいは言葉にできないほどだったと記されています。
 
 
そして十五歳の頃、宮中で天皇の乳母の紀全子(きのまたこ)の子、源益(みなもとのすすむ)が殴殺されるという事件が起きたのです。これが殺人か、過失致死か詳細も犯人も不明とされていますが、陽成天皇が・・・、と噂されたのです。
 
 
陽成天皇は乱行・奇行により群臣を悩ましたと伝わり、この事件の後何度も譲位を迫られ、ついに八八四年摂生であり、陽成天皇の母の兄弟でもあった藤原基経により皇位を廃されました。基経は、「花見の行幸」と偽り内裏から陽成天皇を連れだし、二条院に遷されたといいます。
 
 
そしてこの時、陽成天皇の後に譲位の形を受けて即位されたのが陽成天皇の祖父の弟である時康親王だったのです(光孝天皇)。この時時康親王は既に54歳、当時として随分遅い即位です。
 
 
光孝天皇は即位されると、陽成上皇の同母弟で時期天皇として即位される可能性のある貞保親王(15歳)をはばかられて、御自身の皇子は全て臣籍降下させ子孫に皇位を与えない意向を表明されました。この時定省王は臣籍降下により源定省となりました。ところが光孝天皇は次の天皇の候補者が確定しないうちにわずか三年の後崩御されたのです。
 
 
そこで急遽、皇族に復帰され皇太子を経ずに即位されたのが源定省です(宇多天皇)。この時、定省の第一王として誕生していた源維城(みなもとのこれざね)王も皇籍復帰され、後に親王宣下を受けられ改名し敦仁(あつひと)親王となられました。
 
 
宇多天皇は、陽成上皇とは一歳違いと同年代でした。そのため、宇多天皇は陽成上皇のご存在に悩まされたといいます。というのも、宇多天皇は一度臣籍降下をしながら皇族復帰をされ即位された唯一の天皇だったので、陽成上皇に「あれはかつて朕に仕えていたものではないか」と言われてしまう立場だったのです。臣下の頃、陽成上皇が神社行幸の際には舞も踊られたといいます。しかも、陽成上皇には復位を意図しておられるという風説もあったのです。
 
 
本当に陽成天皇に問題があったのであれば、陽成上皇を担ぎ上げようとする者はいないはずでしょう。実は、基経が仲の悪い妹の子である甥を廃すために策を労したというのが、こういう話からも察せられます。そしてそれをご存知であったからこそ宇多天皇は、復位を気にやんだのではないかと思えるのです。そこで基経が死去して数年後、三十一歳にして十三歳の皇子敦仁親王を立太子後即位(醍醐天皇)させました。これは陽成上皇や陽成上皇系との皇統争いが生じないよう、皇統の正統性を示されたものといいます。さらに、この直前、基経の跡を継いだ時平が若いこともあり、菅原道真を権大納言に任じており、時平が次席にされています。これは宇多天皇が親政を目指すための藤原家への牽制でしたが、さらにその藤原家に外戚で繋がる陽成上皇への牽制でもあったのかもしれません。しかし、このことが後に昌泰の変に繋がり、菅原道真が失脚することになるのです。
 


陽成院が残された御製からはそのような狂気も荒々しさも感じられません。院になってから幾度か歌合わせを催すなど歌才があったと言われていますが、陽成天皇の歌と伝わるのは百人一首の歌のみと言われています。その歌は陽成院の次代の光孝天皇の皇女釣殿宮綏子(すいし)内親王への求愛の歌です。二人は後に結ばれ内親王はお后となりました。平安時代和歌は男女の恋の駆け引きに使われたと言いますが、それは男女が対等であればこそ成り立つものです。そしてそれは元天皇である陽成院でも変わらなかった証がこの歌であるといいます。そしてそのどこにも、身勝手さはないのです。

筑波嶺の
峰より落つる
みなの川
恋ぞ積もりて
淵となりぬる

陽成院は、乱行・奇行で廃されたといいますが、そのような者に光孝天皇がいくら元天皇だからと自分の娘を結ばせるでしょうか?その次の天皇も内親王の兄弟である宇多天皇です。また、そこまで乱行・奇行があったというのに、その後長寿だった陽成院に長い間乱行・奇行の話はないようなのです。
 

藤原基経は妹の高子との仲も良くなかったようで、母子ともども疎んじたとも伝わっていますが、陽成院はその基経の陰謀で退位させられたというのが本当のところではないでしょうか。なにしろ退位の時はまだ16歳の少年だったのです。当時そのぐらいの年齢であれば正式な妃が入内していてもおかしくはありませんが、退位の時まで一人も入内されていなかったのも基経の嫌がらせだったのかもしれません。乳母の子の死も、不幸な事故だったのかもしれません。なにかの事故をきっかけに後ろ盾もない16歳の少年が、本来は後ろ盾となるはずの大人達に退位を迫られたというのが真相に思えるのです。
 
 
しかし、もしかしたらそのおかげで陽成上皇は長寿を全うできたのかもしれません。次の天皇である光孝天皇は当時としては高齢で即位されたためかわずか三年、57歳で病に倒れていますが、陽成上皇は82歳で崩御されています。
 
 
陽成上皇と同年代の宇多天皇は、31歳で譲位されその後出家の後は法皇として仏に仕えられて65歳で崩御されましたから、陽成上皇は宇多法皇よりも長寿でした。これは陽成上皇の父帝である清和天皇が27歳で譲位され相次ぐ天災のために出家の後畿内を行幸されわずか32歳で崩御されたのと対照的です。
 
 
宇多天皇は菅原道真を重用しましたから天皇の御在位中の憂いが少なく済んだろうであろうことが想像できますが、清和天皇が御在位の時は藤原氏が皇族以外で初めて摂生の座に就いた時であり、さらに天災が次々に起きた頃でもありました。祈る存在としての天皇として、現在よりも自然現象が畏れ多いと思われていた当時の祈りへの重圧がどれほどであったかを考えると、そのために命を縮められたのではないかと思えるのです。
 
 
そして同様に光孝天皇は年老いてから天皇になられ、宮中祭祀を行われたその厳しさが重圧であったであろうと思えるのです。というのも光孝天皇の時代にも天災が続いていたからです。
 
 
宇多天皇が譲位され皇子の敦仁親王が次の天皇に即位され(醍醐天皇)ると、醍醐天皇の御代は34年と長いものとなりこの時代は後にその後の村上天皇の御世とあわせて延喜・天暦の治と称される天皇親政の理想の時代とされました。第九十六代の後醍醐天皇は父帝が御宇多天皇であったことに絡めこれにあやかり「後醍醐」と遺号されています。とはいえ、醍醐天皇の御代に引き続き菅原道真が活躍されると思われていた時、昌泰の変で菅原道真は左遷され大宰府で死去してしまいます。これは菅原道真の出世を妬んだ藤原氏が、菅原道真がその娘婿である斉世(ときよ)親王を即位させようとしていると讒言されたためです。この後、菅原道真の左遷に関わった人々が次々と亡くなり、清涼殿に落雷があるなど菅原道真の怨霊伝説がどんどん肥大していくことになりました。そして醍醐天皇は清涼殿の落雷直後から病がちとなられわずか3カ月で崩御されています。このことはいかに精神的な負担が大きいものかを物語る事件だと思うのです。
菅原道真公死去
 
 
 
宇多天皇と醍醐天皇は二代に渡り皇籍復帰から天皇に即位されましたが、宇多天皇は即位の際の詔に文句をつけて藤原氏が出仕しないこと(阿衝事件)があり、結局詔を取り下げることとなったことから、藤原氏とは出来うる限り距離を置きたいという心理があったかと思います。一方で醍醐天皇の時代には、その藤原氏の替わりに出世した(と藤原氏が考えている)菅原道真が失脚させられてしまうということになってしまいます。そのような政局渦巻く朝廷と祭祀を司る天皇との両面の負担のあるところに、宇多天皇は皇籍復帰されていき、またその跡を醍醐天皇が継がれたのです。
 
 
皇籍復帰された宇多天皇と醍醐天皇の御世が二代に渡って続いた時代があったことを知れば、現在の旧宮家が皇籍復帰することに何の問題もないことがわかります。歴史を振り返れば、そこから自ずと答えが出てくることは沢山あります。現在の皇室の人数の減少も旧宮家が皇籍復帰することで解決できることであり、我国の歴史を振り返ればそこに異論の入る余地はないのです。そこに異論を挟むような輩は日本人ではないからとしか言いようがないといえます。
 
 
 
 
 
 
 
 
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大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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