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<アーカイブ>世界共通語、あるいは、国際政治の舞台としてのサッカー

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テーマ:スポーツ
January 23, 2012 10:56:40

 

 

2011年サッカー女子ワールドカップ・ドイツ大会。なでしこジャパンの優勝。その結果はもちろん嬉しかったけれど、日本代表の戦いを見ていて改めて感じました。日本は本当に強くなったと。

 

国立競技場で行われる(女子リーグなど影も形もない大昔のこと、男子リーグの)優勝決定戦でさえ閑古鳥が鳴いていた日本リーグ時代を知っている私のような世代の者にとっては(それは、メキシコオリンピックの殊勲の銅メダル獲得からジョホールバルの奇跡までの長い長い停滞の季節を知っている世代。TVマンガの『熱き血のイレブン』やTV学園ドラマの『飛び出せ青春』を見て育った世代にとっては)、男女ともワールドカップ出場がフル代表の当然のノルマの如くにさえなった現状は、正に、夢のよう。

 

б(≧◇≦)ノ ・・・にゃー、夢なら覚めないで~♪

 

いずれにせよ、サッカーは素晴らしい。ブラジル人やドイツ人の友人が真顔で語るように「サッカーボールを中心に地球は廻っている」、と。このこともまた、昨年、<2011年3月11日午後2時46分>の年のサッカー女子ワールドカップ、なでしこジャパンの優勝への軌跡を通して再認識したことです。

 


◆「審判」のいないサッカーは単なる野っ原での球蹴りである
イングランドを第8回ワールドカップ優勝に導いたボビー・チャルトンだったでしょうか、「サッカーは戦争のようなものなどではなく戦争そのもの」「昔はサッカーは人生と同じくらい重要だと思っていたが、今は、サッカーは人生よりも重要だということが解った」と語った。例えば、女子サッカーの東アジア大会という地球規模のサッカーの地政学からは辺境で行われる親善試合でさえ、彼の言葉が真実であることをいやでも感じさせる。ヨーロッパには「サッカーは子供を大人にし、大人を紳士/淑女にするスポーツ」という箴言があるらしいのですが、蓋し、それは至言でしょう。

 

それがゆえに、と言うべきでしょうか。例えば、2008年に開催された前回の女子サッカー東アジア大会では、特定アジアチームのトンデモなさ、加之、確信犯的ともいうべき、特定アジアのトンデモ審判のありようも一層目についたというもの、鴨。

 

審判やルールが機能しないのならサッカーは単なる野っ原で行われる球蹴りにすぎません。そうなれば、サッカーは、いい大人がする球蹴り遊びであり、「大人を子供にし、紳士淑女を強盗や売春婦にする悪しき戯れ」にすぎないと思います。ルールと審判が権威を持ちゲームを枠づけて初めて、サッカーはサッカーという世界共通語となり、ワールドカップを始めとする国際試合はその共通語を通して行われる異文化コミュニケーションの場となるのではないでしょうか。

 

ルールと審判がゲームをコントロールして初めて多様な民族の文化はピッチ上で華開く。ルールと審判が権威を保持しているからこそ大番狂わせに観客はカタリシスの涙を流し、敗れ去った優勝候補国の選手はサッカーが人生を超えるsomethingであることを思い知らされる。そう、「サッカーは人生よりも重要なのだ」、と。

 

例えば、2002年日韓ワールドカップ。アルゼンチンの予選リーグ敗退が決定した瞬間、宮城スタジアムのピッチに崩れ落ちたバティステュータは、もし、2002年6月12日、アルゼンチン対スウェーデン戦において審判とルールが審判やルールとして機能せず、審判やルールとしての権威を保持していなかったならば、いい歳(32歳)をして球蹴り遊びの結果に泣き崩れる愚かな大男に他ならなかった。それは、2006年ワールドカップドイツ大会で日本の予選リーグ敗退が決定したとき、独りピッチに倒れこんで泣きはらした中田英寿や、2011年のサッカー女子ワールドカップ準々決勝で日本に敗れてピッチ上で茫然自失状態に陥った何人かのゲルマン娘達にも言えることでしょう。

 


◆サッカーは世界の共通語
サッカーの国際試合は<世界>を身近に感じることのできる<窓>であり<メディア>でしょう。そう私は思います。而して、繰り返しになりますが、サッカーはその<メディア>で話される<世界共通言語>に他ならない。サッカーという言語を覚えることで、人は国際試合という窓を通して世界を感じ取ることができるようになるということです。

 

サッカーという言語によって人は、自己のアイデンティティーと世界の多様性を、そして、逆に多様性を突き抜ける人間性に普遍的なsomethingを感じ理解することができるのだと私は思っています。その意味でサッカーとは総合芸術、就中、舞踏芸術に近いかもしれない。而して、サッカーというその舞踏芸術で表現されるモティーフは民族性であり国民性、民族の誇りであり国民の名誉とプライドである、とも。

 

他方、サッカーは国際政治の顕現でもある。蓋し、サッカーワールドカップは、民族性と民族の誇りというマグマがビジネスや政治という回路を通って人類史の地表に衝き上がってくる4年に一度のイベントなのではないか。世界共通語であるサッカーの本性と、国際政治そのものであるサッカーワールドカップを想起する時、そのようなサッカーを日本人の多くが始めて肌で感じたのが日韓ワールドカップであり、それ以前の日本とそれ以後の日本、すなわち、2002年5月31日-6月30日までの日本人とそれ以後の日本人は何かが、しかし、確実に変わったのではないか。

 

人間そんな簡単に変わるものでも変われるものでもない。けれども、人間のものの考え方や感じ方は文字通りもの心のついた後はそう簡単には変わらないにしても、他者に対する行動パターンや世界像は何歳になっても劇的に変わりうると思うのです。

 

日韓ワールドカップは日本人にとって、正に、そのような世界に関するイメージとそのイメージを基盤とした他者への接し方を変化させたのではないか。この点に関して、私は2002年の日韓ワールドカップの最中、小田急線の車中で聞いた女子大生の会話をいつも思いだします。もう、10年前のことだけれどクッキリと覚えている。

 

●うちのおかん全試合見てるんだよ。最初はルールも解らず見ていたらしいけど、「この間のイタリアと韓国の試合、絶対、審判のミスジャッジだったわよ」とか言ってる。あの審判、韓国に買収されたに決まっているって。


☆ふうーん。あんたんとこのお母さんイタリアフアン?

●うう~ぅん。応援しているチームもないらしい。でも、「今日はいい試合があった」って、「録画しといたからあんたも見れば」なんて感じ。


☆へーぇ。で、それどことどこの試合?


●忘れた。アフリカと中南米の試合だったかな(KABU註:本当はトルコ対コスタリカ戦。もちろん、トルコはヨーロッパの代表である!)。でも、確かに面白かった。パスが正確で攻守の切り替えが速かったから見てて飽きなかった。


☆スリーバック? フォーバック?


●どっちもフォーバックだったかな? ひょっとしたらアフリカの国(KABU註:こら、そこの女子大生。トルコはヨーロッパ代表やちゅーねん!)はスリーバックだったかも。だって、私もワールドカップの1週間くらいに前にオフサイドとかルール覚えただけだしさ。あんただって、ゴールデンウィーク明けに飲みした時には、先輩に「サッカーて何人でやるですか?」って聞いてた人じゃん(笑)


 

サッカーは言語である。それが言語である限り、サッカーにも文法と辞書および語用ルール集があり、音韻的や音声学的な構造が組み込まれているのかもしれません。

 

サッカーを自然言語に喩える時に重要なことは、サッカーが言語である限り(サッカーが言語に喩えられる限り)、それはサッカー以外の何ものかを指し示す記号体系であり記号の運用だということでしょう。また、サッカーが記号の体系でありワールドカップ等の国際試合がその記号が運用される舞台であるとするならば、サッカーにはその記号行為を意味あるものとする構造が組み込まれているかもしれないということです。

 

言語は使うことによって身につく。つまり、ある言語を使えるようになるには実際にその言語を使わなければならないということ。蓋し、2002年の5月-6月以降、多くの日本人は「サッカーを見る」という行為を通してサッカーという言語とそれが使用されるワールドカップを頂点とするサッカーの国際試合という舞台についての知識、更には、サッカーという世界共通の言語使用に関するアクティブスキルを獲得したのではないか。小田急線内の女子大生諸君の会話を聞きながら私はそのことを確信しました。

 


◆サッカーとナショナリズム
サッカーという言語が国際試合、就中、ワールドカップというキャンバスに描くものはナショナリズムです。ワールドカップに熱狂する世界中の人々はその作品に自己の民族の誇りを読み取り、自国の名誉を見立て打ち震える。もちろん、サッカーという言語が描く図柄を何に見立てようともそれは観察者の自由。これが記号行為の多義性であり、意味作用において記号が持つ表示義(denotation)と共示義(connotation)の二面性です(★)。

 

★註:表示義(denotation)と共示義(connotation)
あるもの(記号)が別のあるもの(指示対象)を指し示す(意味作用を行う)とき、その記号は表示義として指示対象を持つ。例えば、ゴールデンゴールの1点(記号)は得点したチームの勝利(指示対象)を意味する。その場合、その1点のゴールはチームの勝利という表示義を持つということ。

 

これに対して、ある記号と指示対象と意味作用を含んだ記号全体が別の高次の記号となり他の別のものを指し示す場合、その高次の意味作用の指示対象を高次の記号の共示義という。例えば、先の例を使えば、ゴールデンゴールに国際政治における勝利国の隆盛を感じ取る時、そこにはそのゴールデンゴールを巡る高次の意味作用があり、ゴールデンゴールには共示義が憑依していることになる。

 

 

記号論の小難しい話などはどうでもよい。簡単な話です。例えば、アジア大会の「日本Vs韓国」戦に日韓の現状を感じるのも勝手なら、単なる食事時の<視角的なBGM>としてゲームを楽しむのも自由ということ。しかし、4年に一度、毎回、TVを含め観戦する延べ450億人の圧倒的多数がサッカーという言語で奏でられる各国チームの民族性と民族の誇りをワールドカップのゲームに読み取っていることは確実でしょう。

 

而して、朝日新聞を始めとする大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する勢力がどれだけナショナリズムとサッカーの関係を分断しようとも、ワールドカップが具現するナショナリズムを矮小化しようとも、サッカーがナショナリズムを表現するための言語でもあることは否定されようもない事実。でなければ、450億もの人々が「野っ原の球蹴り」など観戦するはずなどないでしょうから。

 

サッカーを野っ原で行われる単なる球蹴りから分かつものはサッカーのルール。サッカーという世界共通語を理解することは、スポーツとしてのサッカーという表示義の体系を超えてナショナリズムが躍動する所のより高次の共示義の体系を理解することでもある。「サッカーは戦争そのもの」であり、サッカーが、およそ、単なるスポーツとしての記号作用を超えるsomethingと考えられるべき理由はここにあるのではないでしょうか。

 

「戦争とは別の手段で行われる所の外交の延長である」、すなち、戦争とは兵器という言語を使用して行われる外交的コミュニケーションである。このことを喝破したクラウゼビッツに倣えば、ワールドカップを頂点とするサッカーの国際試合とはサッカーという言葉で語られるナショナリズムの競演であり、それは、サッカーという言語に翻訳された国際政治のテクストに他ならない。これこそがサッカーという言語が世界共通語としての効力を持ちうる妥当根拠ではないか。私はそう考えています。本当にサッカーは素晴らしいとも。


【関連記事】

・<改訂版>サッカーとナショナリズム

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/389a17dae3b3ddc6f272fdc83f4d8458

 

・<追補>ナショナリズムの祝祭としてのオリンピック

 ーー東京2020を朗らかに迎えるために

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0905c089560ac7a625c395ec5e0182ba

 

・濫用される「国際社会」という用語についての断想

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c3e3691fe42c9648d012251a71018c54

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