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「自虐史観」批判を恐れるのはなぜ

shibasen

【司馬遷】

歴史教育を巡り、面白い投書が朝日新聞の投書欄『声』に掲載されていた。「「自虐史観」を恐れるのは誰」(平成17年4月26日・東京本社版)である。投書子は、さいたま市緑区の41歳の大学非常勤講師の方。以下引用する(尚、引用文中の(A)~(G)の記号は私がつけたものである)。

(A)歴史教科書に関連して「自虐史観」というようなことが言われる。日本の負の側面を強調するような教育をしていると、若者が自国に誇りをもてなくなるというのが、その言わんとするところだが、(B)果たしてそうだろうか。

私は、私塾や大学などで教鞭をとっているが、その実感から、日本の加害責任のことを論じて、日本が嫌いになる若者が多く生み出されるとはとても思えない。

(C)どの国の歴史にも光と陰がある。その両面を知ることは、今後国際社会で生きていく若者のプラスにこそなれ、マイナスになることは決してないだろう。

そして無論、そのことは中国や韓国にさえ当てはまる。(D)中国の反日デモが、行き過ぎた愛国教育の表れというのなら、我々はこれを他山の石とすべきであって、(E)その上に立って言うべきことは言えばよい。(F)それは、グローバル化時代にあって、国連常任理事国入りを希望する我が国の政策にもかなったことであるはずだ。

(G)自虐史観論を説くものに言いたい。もっと日本の若者を信じよ、と。(以上引用終了)


本文416字の投書だが主張は骨太で論理も手堅い。朝日新聞に代表される戦後民主主義を信奉する立場からの最も良質な「自虐史観批判の批判」の一つだと思う。敵ながら天晴れ。153キロ内角高めストレートでまっこう勝負に来たかという感じ。投書の要旨はこう把握できようか(★)。

(A)「自虐史観」批判の定義
(B)「自虐史観」批判は間違いである(1)・・若者に実際に歴史を教えた経験から
(C)「自虐史観」批判は間違いである(2)・・どんな歴史も光と陰を持つという事実から
(D)「自虐史観」批判は間違いである(3)・・中国の愛国教育の滑稽と有害から
(E)「自虐史観」は妥当である(1)・・それも「言うべきことは言える」史観である
(F)「自虐史観」は妥当である(2)・・それは「グローバル化時代」に対応できる史観である
(G)「自虐史観」はデメリットよりもメリットが大きい・・ならば子供達をもっと信じろ

★註:投書の論理の流れ
この投書の論旨の流れを私は以下のように理解した。
(イ):(A)→[(B)∨{(C)∧(D)}]
(ロ):{(C)∧(D)}→{(E)∧(F)}
(ハ):{(E)∧(F)}∨(B)→(G)



この投書が優れているのは、中国の愛国教育をも反・自虐史観として批判する潔さであり、他方、子供達や若者が、実は、結構したたかでたくましい批判精神を持つことを指摘している点にあると思った。また、自虐史観を採ったとしても中韓に対して「言うべきことは言えばよい」という主張は清々しい。

この投書には、「米国の核兵器は悪い核兵器だが、中ソの核兵器は良い核兵器だ」などというダブルスタンダードはなく、「家永教科書への検定は違憲だが、扶桑社『新しい歴史教科書』を検定合格させるな」などいうる痴呆症というか精神分裂病もんの二枚舌を使うこともない。また、確かに子供達は教科書が与える情報を超えて(教科書著者や日教組が刷り込みたい歴史認識には必ずしも拘束されず)、結構、自分なりの歴史観を構成するものだという指摘も、正直、妥当な所だろう(だからこそ、平成17年の今日、戦後民主主義教育に毒された世代(1935年-1985年生まれの世代)が有権者の65%を越える状況下にあるというのに、「自虐史観」を正面から支持する勢力が政権を取る可能性はほとんどないのだろう)。要は、この投書の論理の徹底ぶりというか潔さに好感を持った。詳しく検討しよう。


◆歴史には光と陰がある
この「歴史の光と陰」という<朝日新聞的な文学用語>の意味が私にはよくわからない。国力充実し近隣の諸国を支配下に置くことは「歴史の光」なのか、それともそれは、侵略であり自国民を戦争に駆り立てた非道な行いに他ならず「歴史の陰」なのか? 大政奉還と版籍奉還によって皇孫統べる豊葦原瑞穂之國の国体が明徴されたのは「歴史の光」なのか、それともそれは、講座派的に言えば抑圧的な天皇制絶対主義の確立(あるいは労農派的に表現すれば、国家独占資本主義の萌芽であり資本主義的な搾取と疎外の制度化)であり「歴史の陰」なのか? ことほど左様に、「どの国の歴史にも光と陰がある」という一見常識に適った認識も、少し具体的に考えてみるとその示す内容は多様である。

歴史の光と陰なる二元論にはそう確たる基盤はない。実際、国力が充実し近隣の諸国にまで自国の勢力を拡張したことをもって歴史の陰というのなら、『イリアス』、『オデュッセイア』や『春秋』、『記紀』、『ガリア戦記』の昔から歴史は歴史の陰を描いたものと言えるだろう。100歩譲ろう。どのような立場を取るにせよ歴史認識はモノトーンの発展や終末の史観では一貫できず、相矛盾する要素が周期的に(あるいは不連続に)その認識の表層に現れる、と。ならば、現実と整合的な歴史叙述を目指すならば、光と陰のバランスを取ることはどの立場においても推奨されるに違いない。バランスの取れた歴史認識の推奨だ。これこそいかにも酸いも甘いもかぎわけた大人の態度ではないか。朝日新聞が盛んに主張するこの「バランスの取れた歴史認識」は、しかし、なんらその正しさが保証されているわけではない。


◆バランスの取れた歴史認識と歴史教育の目的
歴史教育においてバランスの取れた歴史認識が妥当とされるのは、歴史教育の目的に対してそれが整合的な場合に限られる。逆に、光ばかりの歴史認識や陰ばかりの歴史認識が歴史教育の目的から見て目的合理性を持つのならば、それらもまた優れた(少なくとも歴史教育においては優れた)立場である。では、歴史教育の目的とは何だろうか?

歴史教育の目的とは、子供達に日本という国と日本を巡る国際関係の越し方を事実に則して学び知らしめ、また、自分をもそこに含む日本社会の行く末を事実に基づいて考える力を養成することにある。更に、子供達に日本国民や日本市民としてのプライドとアイデンティティーを持たしめることを歴史教育はその目的としている。公教育が社会権的基本権を具現するものであり、また、一国の憲法秩序が多様な国民やその社会に住む外国人を政治的に統合する責務を持つことを否定しない限り(それを否定する論者を世間では「アナキスト」と呼ぶ)、歴史教育の目的として、(A)国内外で生起する出来事を事実を基盤として歴史的に考える力の育成と、(B)日本人や日本市民としてのアイデンティティーの涵養を否定することはできないと私は考える。

ならば、何をもって歴史の光や陰と捉えるかは別にして、「バランスの取れた歴史認識」なるものは上記の歴史教育の目的と整合的であって初めてその妥当性を主張できる。簡単な話だ。始めにバランスありきではなく、始めには歴史教育の目的ありきなのである。そして、(ここ15年以上我が国の総ての中学歴史教科書に目を通してきた私の感想を述べさせていただければ)、扶桑社『新しい歴史教科書』を除く他の教科書の近現代史記述は上記(B)の目的の点で問題があるだけでなく著しくバランスを欠いている。それらは、当時の国際法から見ても国際政治のパラダイムから見ても、非道な欧米列強に比べても近現代の日本の対外政策は正当かつ穏当であった旨の理解が欠けており、また、日本が狡猾で姑息なドイツとは違い戦争責任と戦後責任の両面でいかに見事にそれらの責任を果たしたかという事実の記述が欠落している。


◆愛国教育と自虐史観
「中国の反日デモが、行き過ぎた愛国教育の表れというのなら、我々はこれを他山の石とすべき」であるという投書の主張は間違いである。ここで愛国的な歴史教育というものを、投書子に従い「自国の負の側面を強調しないような歴史教育」と定義する場合、中韓の歴史教育は一種「愛国的」ではあるかもしれないが「歴史的」ではない。それらは歴史的な事実を基盤として形成されたものではない(原典を読んでおらず、また、それらの教科書が具体的に教育現場でどのように使われているかについてもセカンドハンドの情報しか持たない以上断定は避けるべきであろうが、日本語に翻訳された中韓の歴史教科書やさまざまなネット掲示板で披露される中韓の若者の歴史認識を見聞きする限り、こう言えると思う)。

ならば、「中国の反日デモ」の問題は愛国的な教育にではなく、歴史教育の名に値しないその学的水準にあると言うべきであろう。また、反日デモと轍を一にして、日本大使館と領事館がこうむった損害に対して受入国に課せられる国際法上の責務をさえ認めようとしない中国政府の態度にもあると言うべきかもしれない。いずれにせよ、中国の反日デモを根拠に自虐史観を正当化することは間違いである。


◆自虐史観が抱える問題の本質
自虐史観の問題は「日本の負の側面を強調するような教育をしていると、若者が自国に誇りをもてなくなる」ことに限定されるべきではない。確かに、自虐史観をこう捉えれば、ご自分が若者に歴史を教えられた経験に基づいて投書子が指摘されたとおり、「日本の加害責任のことを論じて、日本が嫌いになる若者が多く生み出されるとはとても思えない」ということにも一理あるだろう。

自虐史観の問題は、けれども、単に自国に都合の悪い事実を教えるかどうかにあるのではなく、大東亜戦争前の日本の歴史から戦後の歴史を断絶させるその歴史認識の構成原理(=歴史認識の設計図)にあると私は考えている。戦前は総批判され総否定されるべきである、と。日本は1945年8-9月の敗戦を画期として、それ以前の国家や国民とは全く別物になったのだ、と。しかし、この認識は歴史学的にも憲法論的にも間違いである。実際、1945年を境に多少政治体制は変革したとしても日本の文化は連続している。ならば、これらの自虐史観が喧伝する歴史認識が現実と整合的でないのも当然である。

自虐史観の論者がそれへの批判を恐れるのは、それが、単なる歴史叙述の修正要求を超えて戦後民主主義に対する根本的な批判に結びついているからであろう。彼等は、暗黒の反民主主義的な戦前と輝かしい民主主義の支配する戦後が、実は、連続していること、戦後の日本社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の正当性が実はそう根拠のあるものではないこと、これらが明らかになることを恐れているのではなかろうか。「世界市民や地球市民こそ次の時代の政治を担う主体だ」という彼等の願望が妄想にしかすぎず、ならば、日本国家の正当性と正統性は戦前から続く文化と伝統によってこそ担保されるという当然の経緯が自虐史観批判によって表面化することを彼等は避けたいのであろう。

現実と整合的でない以上、個々の歴史的な知識を修正することは子供達にとってもそう難しいことではない。しかし、それら諸々の歴史的な知識を統一的な歴史認識に編み上げる設計図たる歴史認識の構成原理の誤謬は、個々の事実的な知識の改訂によって直ちに正されるものでもない。歴史認識の構成原理自体を疑う作業は難易度と作業量の両面において素人の(しかも、子供の)よくできるものではない。よって、個々の歴史的事実の学習に関しては投書子が言われるように「若者をもっと信じてよい」のかもしれないが、間違った自虐史観自体の打破は次の時代の日本を担う若者のために現在の大人がその義務として行うべきことだと私は考えている。


(2005年4月30日:yahoo版にアップロード)

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