酸っぱい葡萄☆『世界』掲載の「Jナショナリズム」論

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これはイソップ童話の「酸っぱい葡萄」だよ。中西新太郎「開花する「Jナショナリズム」 『嫌韓流』というテクストが映し出すもの」(『世界』2006年2月号・pp.104-111)を読んでそう思った。

「開花する「Jナショナリズム」」は高橋哲哉さんの書かれる戦後責任論ほど荒唐無稽ではないけれど、何の根拠も示さずに『嫌韓流』を「あからさまな排外主義的言説」と断定し、それを歓迎した世間の動向を「ナショナルな言動がこれほど急に浸透するようになった」と看做す姿勢は「お宅なに様」ものである。さわりだけ引用しておく。以下、引用開始。

インターネットの世界から生まれたといえるコミック、山野車輪『嫌韓流』(晋遊舎)がベストセラーになったことに、「なぜ?」と疑問を抱く向きは多かろう。ただし、「なぜ」の内容は一義的ではなく漠然としている。なぜ青年層があからさまな排外主義的言説を支持するのか、なぜナショナルな言動がこれほど急に浸透するようになったのか(中略)、等々、疑問の焦点は必ずしも定かではない。

そしておそらく、これらの漠とした疑問の底には、今日の青年層にたいする、その心情や振る舞いの「わからなさ」に対する不安と不満が潜んでいる。(中略)つまり、戦後日本のナショナリズム感情とは異質で、それゆえに既存の批判が通用しないナショナリズムが広がっているのではないか、という危惧である。

『嫌韓流』が扱っている歴史認識、戦後補償問題等には、しかし、「新しい歴史教科書をつくる会」などの既存の右派言論と異なる目新しい内容があるわけではない。したがって、(中略)『嫌韓流』現象に固有の問題はそれでは浮かび上がって来ない。また、『嫌韓流』の読者ももっぱら若年層に限定してとらえることにも留保が必要であろう。マンガという表現形式が通用する読者層は四〇代まで及んでおり、少なくとも三〇代ホワイトカラーはすべて読者層に想定しうる。(中略)

筆者の結論を予示的に述べておく。『嫌韓流』流行現象における「テクスト様式-解読様式」の全過程は表象のコロニアルな暴力を亢進させ、新たな性格を帯びた攻撃的ナショナリズムの出発を予兆している。このナショナリズムは、軍事大国化を遂げようとする現代日本の歴史的段階に見合うものであるとともに、後述するいくつかの位相を持った文化的自閉性の帰結でもある。(以上、引用終了)


吉本隆明さんなんかの読みすぎですかと言いたくなる昔懐かしい文体にはいささかうんざりしたが、中西さんの主張はコンシステントである。私なりの言葉で整理すると大体次の通りになると思う。

・『嫌韓流』流行現象の底には、グローバリゼーションの進行の中で、かっての植民地支配国と被支配国という特殊歴史的で個別的な韓国と日本との関係も世界の他の国との中の一つと見る視点が見える

・このような「クールな視点」からは、被害者である韓国の人々が感情的に日本の責任を言いつのる姿勢はそれだけで説得力の薄いものと感じられつつあり、『嫌韓流』にビルトインされている「理性的日本」対「感情的韓国」という対比:「自らの主張を感情的に言いつのる韓国側に対し、冷静に応答する日本人主人公たちという構図」は、言説の内容以前の段階で日本側の主張に説得力を付与する様式であるだけでなく、『嫌韓流』を受け入れる読者がそうありたいと感じている心性ともパラレルであろう

・しかし、この「ジャパン・クール」という姿勢は、かっての植民地支配に対して怒りを感じないではおられない、よって、クールにもシニカルにもなれない韓国の人々を見下す表象のコロニアルな暴力にほかならない

・『嫌韓流』流行現象の基底には、かっての復古的なナショナリズムとはとりあえず異質な、グローバリゼーションの時代の新たなナショナリズムの萌芽が看守できる。それは、中韓朝という特定アジアの国々と日本との特殊歴史的な関係にあまり関心を示さない「文化的自閉性の帰結たる」「軍事大国化を遂げようとする現代日本の歴史的段階に見合う攻撃的ナショナリズム」である


中西さんが『嫌韓流』流行現象が示唆する日本社会の変容を憂えておられるのに対して、私はそれを大変結構なことだと感じている差はあるにせよ、最後の「文化的自閉性の帰結」や「軍事大国化を遂げようとする現代日本の歴史的段階に見合う攻撃的ナショナリズム」という点を除けば私は中西さんの分析はおおよそ妥当だと思う。

20世紀初頭の韓国併合は国際法上なんら違法ではなく、また、特定アジア諸国を含む日本の戦争処理もすべて完全に終了している現在、まして、戦後生まれの日本人が特定アジア諸国に対して今後も謝罪する必要など毛頭ない。この法律論からは、確立した国際法と国際慣習に専ら従って特定アジアを含む他国と日本が付き合おうとすることは誰からも批判される筋合いはない。

ならば、中西さんが「ジャパン・クール」と呼んで批判される『嫌韓流』を支持する日本人の基底にある心性は、むしろ、世界のデファクトスタンダードなものである。蓋し、「文化的自閉性の帰結」なる言葉は、中華鍋じゃなかった中華思想を振り回す特定アジア諸国に対して向けられるべき言葉ではなかろうか。

中西さんの「Jナショナリズム」論を読んで、どうして私は「酸っぱい葡萄」を連想したのか。これを説明するための補助線としてしばし戦後責任論を俎上に乗せる。

高橋哲哉さんは、『戦後責任論』(講談社・1999年12月/講談社学術文庫・2005年4月)および『歴史/修正主義』(岩波書店・2001年1月)等の著書で、精力的に戦後責任論を展開されている。それは、家永三郎『戦争責任』(岩波書店・1985年7月/岩波現代文庫・2002年1月)等、前世代のカルト的な戦後責任論と比べればエレガントではあるものの大人の真面目な思索に値するものとはいえないと思う。この点に関して詳しくは下記拙稿を参照いただきたいけれどこれらの戦後責任論の荒唐無稽さは概略こう要約できるだろう。

『靖国問題』に見る高橋哲哉の妄想の構図
 

●家永三郎さんのカルト的戦後責任論
「なぜ自分の生まれる前の、自分としては関知せず責任を負うよしもないこと思う行為に対して、恥ずかしさを覚え、それにふさわしい応対をしなければならないのか。それは、世代を異にしていても、同じ日本人としての連続性の上に生きている以上、自分に先行する世代の同胞の行為から生じた責任が自動的に相続されるからである」(前掲岩波現代文庫、p.338)

私がこの戦後責任論を「カルト的」と呼ぶのは、家永さんは本書のどこを見ても「責任が自動的に相続される」根拠を示しておられないからである。ならば、家永さんの論理は、

「日本人は戦争責任がある」→「戦後生まれの日本人も日本である」→よって、「戦後生まれの日本人にも戦争責任(戦後責任)がある」ということに尽きている。

而して、家永さんの主張の是非は初項の「日本人は戦争責任がある」の妥当性の有無に帰着せざるを得ず;それは結局、「日本人」「戦争責任」の定義問題に収斂する。そして、小倉紀蔵さんの言葉を借りれば、その主張の根拠は「良識ある日本人なら戦後責任があると感じるのがあたり前である」というご自分の信念や願望の類のものにすぎない。

結局、家永戦後責任論は「戦後生まれの日本人も戦後責任を感じる限り日本人である」→「戦後生まれの日本人にも戦後責任を感じる限り戦後責任がある」という、カルトを通り越してかなりシュールな様相を呈することになる。蓋し、それは文芸評論の世界の物語にすぎないというべきだろう。しかも、それは「戦後責任を感じる日本人」という同人誌の世界の物語である。


●高橋哲哉さんの飛んで火にいる夏の虫的戦後責任論
高橋さんの戦後責任論は流石に洗練されており二重構造をなしている。すなわち、戦争の悲惨を知ったことに発する(戦争被害者の声に応答する)倫理的責任と法的に連続している日本国の一員としての責任とが形成する重層的な責任の構図である。

(A系列)戦争被害者の呼びかけに応答する倫理的な戦後責任
(B系列)日本国民という法的規定性から導かれる戦後責任


私がA系列と名づけた責任は高橋さんの美意識や価値観にその根拠を置いており;戦争被害者の声を聞いたならどのような行動を取るべきか含め、他者に対して「そのように行動すべき」と命じる根拠を高橋さんは提示できていない。結論から言えば、この系列は家永戦後責任論と同じ運命を辿ることになる。要は、同人誌の世界の甘美で感傷的な戦後責任の物語にすぎないということ。

傑作なのは私がB系列と呼ぶ方の戦後責任である。「日本人」という概念の同一性から「戦争を知らない世代の責任」を導くのは無理筋と感じられたからか(笑)、「法的な連続性を保つ日本国の国籍を持つ者」を「日本人」として高橋さんは再規定される。すなわち、

「日本国が戦争責任を負っていることは明らかだ」→「ならば、その法的構成員たる(戦後生まれの)日本人も責任を負う」(それが嫌なら、日本国民のパスポートを返せ/日本国からの行政サーヴィスを受けようと思うな)、と。

畢竟、法的に連続性を保つ日本国とその構成員としての国民の戦後責任なるものは、当然、法的な責任でしかないだろう。ところで、サンフランシスコ条約や数多の二国間条約を通して日本の戦後処理は完全に終了している。ならば、戦後生まれどころかすべての日本人についても今後何らの戦後責任なるものが発生することはない。これが高橋さんの主張を飛んで火にいる夏の虫的戦後責任論と記した所以である。


戦後責任論を巡って長い横道(=補助線)を辿っていただいた。本道に戻り、中西さんの「Jナショナリズム」論とイソップの「酸っぱい葡萄」の連関を説明しよう。

中西さんの主張は、戦後責任論が堂々と通用していた<古きよき時代>には一応の妥当性をもったかもしれない。しかし、グローバル化の進行にともない戦後責任論がその説得力をなくしている平成17-18年のこの社会では、『嫌韓流』を支持する読者には(戦後責任の点で『嫌韓流』を批判する根拠自体が消滅しているのだから)何のインパクトもない。

グローバル化の進行は最早誰も止めようがなく、ならば、特定アジア三国も早晩、確立した国際法と国際慣習に従い行動せざるをえなくなる。その状況下では上でも触れたように、「ジャパン・クール」的の態度が標準になるのである。

蓋し、中西さんの言われる「ジャパン・クール」や「新たな性格を帯びた攻撃的ナショナリズ」の方向に日本だけでなく特定アジアも動いている。ならば、先んじてその状態に入った日本に対して「Jナショナリズム」というレッテルを貼ることは、例えば、そのお店で買い物をすることは金輪際ない店から、「あんたには物は売らない」と言われたに等しい。「Jナショナリズム」に「酸っぱい葡萄」を感じたこれが理由である。


(2006年1月22日:yahoo版にアップロード)

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