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海馬之斬鉄剣:朝日新聞の素人憲法論批判――改憲のための改憲、所謂「改憲の自己目的化」は立憲主義と矛盾するか(余滴)

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本稿は下記拙稿の続編というか余滴(「解題」的な後書き)です。而して、実は、朝日新聞の「(憲法を考える)「改憲」ってなんのために? 本来はどうあるべきか…ケンポウさんに聞く」(2017年10月31日)という記事を目にしたとき、「改憲」についての朝日新聞というか日本のリベラル派の本音――衣の下の鎧の狙い――がストレートにまとめられていると感じていました。ということで、例によって、些か、下記の本編記事は「背景的の説明が割愛されていて難解」というコメントを頂いたこともあり(涙)、補足説明する材料にその朝日新聞の美味しい記事を使わせてもらいます。

・海馬之斬鉄剣:朝日新聞の素人憲法論を一刀両断
 ――改憲のための改憲、所謂「改憲の自己目的化」は立憲主義と矛盾するか
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/e372d22758b73b9f66f9e94aa94f6e48


畢竟、朝日新聞の「衣の下の鎧が狙うもの」。
そのようにわたしが考えるものは、

(1)日本に特有な所謂「近代立憲主義」からの改憲動向の批判
(2)「近代立憲主義」に基づく憲法観保持の要求

蓋し、わたしは朝日新聞等の日本のリベラル派がこれら2点を主張されるのは彼等の勝手であり、改憲の是非は最終的に「憲法改正の国民投票のアリーナ」または「国会および内閣による占領憲法の破棄宣言と国民のそれに対する賛同」で決着がつく類いの遂行論的な政治マターであるとそう謙虚に理解しています。古来、国難の際を除けばおおよそ日本国には信教の自由があるのですから、「日本国=天壌無窮、皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」というこの国の<憲法=実定法秩序の核心>さえ踏み外されない限り、リベラル派の方々が狸と踊ろうが狐を拝もうが鰯の頭を珍重されようがそれは自由というもの。

例えば、「立憲主義の古典的な考え方からすれば、主権者=国民の意思を持ち出しても踏み越えられぬ【権力行使の】限界を定めるのが憲法である」(樋口陽一『いま「憲法改正」をどう考えるか 「戦後日本」を「保守」することの意味』(岩波書店・2013年, p.127)とリベラル派の方が思われるのは全く自由。だけれど、そのような――「憲法」や「国家」を巡る――表象や認識はハンス・ケルゼンの使う言葉の正確な意味で単なる「イデオロギー」にすぎないとわたしは見ています。そして、このことは、現在の世界の唯一の現役の社会科学方法論たる分析哲学系現象学流新カント派の憲法基礎論(≒ゼロベースから「憲法」の概念やその法としての効力根拠、ならびに、実定憲法の具体的な規範意味を間主観的に発見・設定する方法論を究明する法哲学的な思索体系、鴨。)からも検算されるだろうということもまた。

・法哲学の入門書紹介 でも、少し古いよ(笑)
 https://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11147077543.html

わたしが、よって、朝日新聞を始め日本のリベラル派の改憲動向への批判に傲慢さと狡猾さを感じることはただ1つ。それは、現在では日本に特殊で特有のものとしか思われない、かつ、リベラル派の仲間内でしか神通力を持たない「近代立憲主義」「近代立憲主義からの憲法観」という単なるイデオロギーを、①普遍性を備えた世界のスタンダードであると詐称し、②日本の有権者国民よって国会と内閣と司法の三権を拘束する規範性があると喧伝し、③敗戦利得者の巣窟であるマスメディアを動員して、――日本の有権者国民の2割りにも満たないリベラル派以外の――保守派の有権者国民に押しつけていることです。

 


◆朝日新聞の「衣の下の鎧」を観賞しましょうコーナー

▽「改憲」ってなんのために? 
 本来はどうあるべきか…ケンポウさんに聞く
 (監修=高見勝利さん⬅本編記事でも大活躍だった方)
 尚、【xx】の部分はKABUの補足説明です。

■憲法を考える 視点・論点・注目点
衆院選では自民党が大勝し、公明党とあわせて憲法改正発議に必要な定数の3分の2を超える議席を確保しました。安倍晋三首相は2020年の新憲法施行をめざしていますが、憲法改正って「数」さえそろえばやっていいんでしょうか。日本国憲法を擬人化した当欄のキャラクター「ケンポウさん」と考えました。

■国の設計図…変えるのは最後の手段に
――衆院選の結果を受けて、憲法改正議論が加速しそうだと言われているね。ケンポウさん、憲法は変えた方がいいの? 変えない方がいいの?
その質問、いつもちょっとイラッとします。私は前文のほか、補則を含め全103条もあるのに、何のためにどこをどう変えるのかという前提抜きに、まるっと改憲に「賛成」か「反対」かって。中身を示さず「民法を変えることに賛成か反対か」と聞きます? 私のこと、いったいなんだと思っているんですか。

――うーん……。一番大事な法律? よく「国の最高法規」って言うよね。
・・・私は、国のしくみと政治のあり方についての基本を定める法です。国を「建物」とするなら、私はその「設計図」。さらに私は思想や信仰、表現の自由など、一人ひとりの権利を守っています。何を信じるか、どのような価値を大切に思うかは、多数決で決めるものではなく、一人ひとりが自分で判断すべきことです。「最高法規」の本質もここにあります。・・・

――でも、時代は変わっている。君も変わった方がいいんじゃない?
私は基本的なことだけを図面にして、時代の推移と現実の変化への対応は法律に委ねているんです。新しい法律をつくったり法律を手直ししたりして変化に対処すればいい。法律で対処できる問題を、私を変えることで解決しようとするのは憲法改正の本質に反する改正権の乱用です。

――じゃあ、どういうときなら変えていいの。
法律をつくって対応しようとしても、私が明らかなハードルとして立ちはだかるとき。乗り越えるには憲法改正しか手のない場合です。ただ、その場合でも、私をうまく使って法律をつくれないか、確かめるのが先です。・・・

■「変えたい」「大事に」…おもちゃにしないで!
・・・自分で言うのもなんですが、私を変えるには膨大な政治的エネルギーとコストがかかります。最後は国民投票にかけなきゃいけませんし。首相自身が「国難」だなんて言っている今、私を変えることにエネルギーを注ぎ込んでいる場合ですか? 教育無償化を進めたいなら、法律をつくってやればいい。参院選の合区解消も、選挙制度を変えれば済む話です。私は何も止めていませんよ。できることからコツコツやるのが政治なのに、みんな私に執着しすぎです。私を変えたって、世の中良くなりませんよ!・・・

「憲法改正に賛成ですか、反対ですか」という意味不明の問いから早く脱して、私のことをもっと理解してほしいです。

(以上、引用終了)


 


◆朝日新聞の「衣の下の鎧」を検討しましょうコーナー

蓋し、「憲法改正」を巡るこの記事の主張の要点
――衣と鎧のパーツ――は次の如きものでしょうか。

立憲主義からの改憲に関する帰結
(衣1)改正是非の一般論ではなく何条を改正するかが問題なのです
(衣2)憲法の改正は――法律の制定や憲法解釈の変更等によっては――現実の問題がどうしても解決できない場合にのみ許されるのです

立憲主義の基盤となる思想的根拠
(鎧1)憲法は人権を守るために国家権力を縛るものです
(鎧2)個人の尊厳が――よって、そこから演繹される諸々の人権が――最上位の価値を帯びるということの普遍性の前提のもと、現在の憲法(立憲主義的な憲法)はその条項の内容と構成が定められており、また、その条項は解釈・運用されなければならないのです

実は、(衣1)(衣2)に関しては本編記事で些か詳しく反駁しています。よって、ここでは本編の繰り返しになりますけれど2点申し添えておきます。

穂積八束御大の「民法出て忠孝滅ぶ」の決め台詞が炸裂した、所謂「ボアソナード民法」の民法典論争(改正・施行延期論争)、あるいは、サヴィニーとティボーによる信玄・謙信の川中島での一騎討ちが如き白熱の論争が伝説化しているドイツにおける法典論争を持ち出すまでもなく、「「民法を変えることに賛成か反対か」と聞きます?」の問いは「Yes」でもあるのです(笑)。

そんな些細なことには目を瞑るとして、問題は、本編でも述べたように「立憲主義」という言葉は――大正期の我が国ではそれは「藩閥打破➡衆議院に責任を負う議員内閣制」の要求とほとんど同義語であったのに対して、現在の日本のマスメディアでは、良くて「リベラルデモクラシー」、而して、実際のところは「反安倍政権」の語義であるように、――実に、ソ連崩壊後や<9・11>以後、または、英国のEU脱出達成以降の<現在>でも極めて多義的。また、「憲法」という言葉は多義的のみならず重層的(⬅要は、玉ねぎの皮が作る玉ねぎ的)。

・保守派のための「立憲主義」の要点整理
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9256b19f9df210f5dee56355ad43f5c3

・保守主義-保守主義の憲法観
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144611678.html

よって、実定法秩序の基盤体系たる<憲法>はそう大きくは変わらずに、そのワンノブパーツ(a part of the constitution of a nation-state)に過ぎない憲法典を「まるっと全面改憲」することも、――実際、フランスの憲法史を想起すれば明らかなように――しばしば起きることであり、起きてきた以上、それなりにその国のその時代ではそれは意味があったことなのだろう。と、そう、わたしは思います。

第二。憲法を改正を避けるための法政策的や法技術的な手段があろうとも、――例えば、(a)「アメリカさんも「そろそろ、まともな憲法典に変えはったらどうですか」言うてくれてるみたいやし、土台、「押しつけの占領憲法」では気分が悪いちゅーねん」とか、あるいは、(b)「法政策的とか法技術的に可能やちゅーたかてやな、リベラル派の憲法研究者が70年も文化帝国主義の色彩濃厚な解釈の塵ぎょうさんこの社会に積み重ねてきたんやで。ほなら、それ1つひとつ修正するよか、一遍に憲法典差し替えてもうた方が合理的ちゅーもんやがな」とかとか――国民が憲法の改正や新憲法の制定を選択することは十分にありうる。

そして、ありうる以上、憲法論的にも、就中、「有権者国民の抱く法的確信」を媒介にして、法の効力根拠の点でそこにはなんらかの意味と意義があるのだろう。と、わたしはそう思います。なにより、現在では――実は、日本では古来なの、鴨ですけれども――<憲法>も「憲法」もそれを作るのは憲法研究者ではなく有権者国民であり有権者国民の代表たる政治指導者コミュニティなのですから。【次の段落(**)はちょびっとマニアック、鴨。憲法基礎論または法哲学に馴染みの少ない方は飛ばしちゃってください。以下、同様】

**畢竟、憲法典に対する「改正権の乱用」などという概念は――実定法秩序の分析においては、例えば、(x)ケルゼンの謂うところの「動態的な法の概念≒現実の正当な手続きを経て成立する規範」という意味でも「静態的な法の概念≒「制裁」とのリンクをメルクマールとした、謂わば「法」の本質的な特徴と機能の観察から確認される規範」でも、あるいは、(y)H.L.A.ハートの謂うところの「第2次ルール」によって法として確認される規範というでも、「内的視点と外的視点によって重層的に謂わば言語ゲーム的な「家族的類似性」が確認される規範」という意味でも、実定法秩序の圏内においては――成立しないだろうということです。**

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義

要は、有権者国民の法的確信がその国の実定法秩序の最終的の効力根拠である以上、その有権者国民の情念と美意識を制限できる「憲法の原理」などその当該の実定法秩序圏内には存在しないということです。実際、誰が「改正権の乱用」か否かを判定する権限を持っているというのでしょうか? まさか、ルソーに魔界転生してもらって「立法者」のスカウトの仕方を教えてもらうとか? あるいは、「一般意志」を日常語で語れる腕っこきの霊媒をインドの山奥から連れてくるとか? まさかね❗

而して、リベラル派が総掛かりで「改憲権の乱用」と認定し反対したある改憲が行われた場合、賛成した有権者国民が処罰されるわけでもないし、その改憲条項は「憲法」の一部として機能し始めるだけのこと。そう言うと、大体ここでリベラル派からこんな抗弁が来る(笑)。

そう、こんな(➡)「ヒトラーも日本の民主党も民主的手続きによって政権を奪取した。つまり、有権者国民の自由意思による民主的な選択が常に正しいわけではないでしょう。ならば、有権者国民の改憲権力にもなんらかの制限が必要ではないでしょうか」、とかとか。この類いのリベラル派の抗弁は選択の後付けの評価と選択権限の範囲確定根拠を故意か過失か、あるいは、その両方かによって混同している素朴かつ粗忽、姑息かつ狡猾な抗弁でしかない。そう思われませんか?

畢竟、「改正権の乱用」なる言辞で安倍政権による改憲動向を批判するなどは、謂わば、『仮名手本忠臣蔵』の「大星由良之助」の行動によって、元禄の赤穂浅野家家老「大石良雄(内蔵助)」の1703年1月30日の行動を評価するようなお茶目な無意味でしかないのではありますまいか、ありますまいか。閑話休題。



◆鎧系を検討しましょうコーナー
前述の如くこの余滴記事で特にコメントしたいと思ったのは「鎧」系の事柄についてです。蓋し、(鎧1)(鎧2)の内容をより明確にする上で便利な朝日新聞の社説がありました。これです。

朝日新聞社説「憲法70年 先人刻んだ立憲を次代へ
 (2017年5月3日)

・・・「すべて国民は、個人として尊重される」。日本国憲法第13条は、そう定めている。

【Article 13. 
All of the people shall be respected as individuals. ・・・】

根底に流れるのは、憲法は一人ひとりの人権を守るために国家権力を縛るものである、という近代立憲主義の考えだ。・・・

個人の尊厳をふまえ、幸福を追い求める権利をうたいあげた13条の文言には、洋の東西を超えた先人たちの思いと労苦が息づいている。・・・

【自民党の】改憲草案に流れる憲法観【は】――憲法は歴史や伝統などの国柄を織り込むべきもので、国家権力を縛るものという考えはもう古い――である。

だから、人は生まれながらにして権利を持つという天賦人権説を西欧由来のものとして排除し、憲法を、国家と国民がともに守るべき共通ルールという位置づけに変えようとする。

これは憲法観の転覆にほかならない。経験知を尊重する保守の立場とは相いれない、急進・破壊の考えと言っていい。

明治憲法を起草した伊藤博文は、憲法を創設する精神について、第一に「君権(天皇の権限)を制限」し、第二に「臣民の権利を保護する」ことにあると力説した。むろん、その権利は一定の範囲内でしか認められないなどの限界はあった。

だが、時代の制約の中に身を置きながら、立憲の何たるかを考えた伊藤の目に、今の政権担当者の憲法観はどう映るか。・・・

70年前の日本国憲法の施行で改めて命が吹き込まれた【「個人」「権利」「自由」等々の】これらの概念と、立憲主義の思想をより豊かなものにして、次の世代に受け渡す。いまを生きる私たちが背負う重大な使命である。

(以上、引用終了)


▼鎧1
>権力から人権を守護することが最高法規性の根拠なのです
>憲法は1人ひとりの人権を守るために国家権力を縛るもの

畢竟、「憲法は一人ひとりの人権を守るために国家権力を縛るもの」というセンテンスが、「国難緊急時を除けば、憲法は国民一人ひとりの憲法的権利を守るために国家権力を縛るものでもある」という意味ならば、我々、保守派も賛同するにやぶさかではないと思います。

[鼈]憲法は一人ひとりの人権を守るために国家権力を縛るもの
[月]国難緊急時を除けば、憲法は国民一人ひとりの憲法的権利守るために国家権力を縛るものでもある

逆に言えば、憲法典の機能とその最高法規性の根拠を独り「国家権力の権力行使を制約することによって、国家権力から人権守護すること」とは言えない。なぜならば、――**もちろん、18-19世紀型の「憲法」が、取引の安全を、契約自由の原則・過失責任の原則を制度化することで「所有権の不可侵」という「自然法が認める人権」の保障をより確かなものにしたのに加え、20-21世紀型の「憲法」では、社会権的権利の成立にともない、それらの<既得権>を制限すると同時に、福祉政策をその裏面に含めながら国家の経済的競争力の維持向上をもその内容としていることは周知の事柄でしょうけれど、この経緯はここでは捨象するとして、**――<憲法>については論外として、憲法典たる「憲法」についてもその機能には当該の国民国家の他国等々からの防衛を十全なさしめること。加之、その国民国家の<民族国家>としてのイデオロギー的な社会統合が――ある意味、人権なるものの守護などよりも遥かに高いプライオリティで――含まれているだろうからです。

憲法の機能と最高法規性の根拠
(甲)戦争の遂行と国境防衛を含む国家の安全保障への貢献
(乙)国民を「民族国家:nation state」に社会統合する役割
(丙)国民の憲法的権利の守護と社会の安寧秩序の保持増進

**敷衍します。所謂「社会権的な権力」の成立や、財政金融政策の確立などはここでも捨象するにしても、その誕生以来、国民国家の国家権力の機能は――リベラル派の論者が、マルクスなりの「市民革命―市民社会」認識の流れのままに! 例えば、(a)教会勢力や領主勢力、あるいは、ギルド組織等々の「中間団体」の重層的かつ属人的な支配構造を消滅させ、ついには、「ラスボス=絶対王制」を粉砕すること、次に、(b)当該の市民社会から分離された(⬅要は、それが果たす機能のみで定義される常に官僚的で没個性的な「普通名詞」としての)、最新かつ唯一の政治権力として、刑罰の実施を含む公共的なサービスをその国家の領土内で権力行使に従う個々の「個人」に提供することという――「1国内的」「市民社会から分離した」ものに限らることはないのです。

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
 -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139986000.html

・「左翼」の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~ (4)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11148165149.html

ならば、立憲主義的な憲法の機能も、(c)近代の「国民国家」の国家権力を市民社会から分離させると同時に、(d)その今や人権侵害の能力と蓋然性を唯一持つその国家の政治権力の権力行使の乱用を予防することに収斂するわけでもないということ。これは、――第二インターナショナルが第一次世界大戦の勃発とほぼ同時に多くの今でいうリベラル派が「母国支持」に雪崩をうって行く中で崩壊した如く――戦争の事態を考えれば自明でしょう。

実際、あのフランス擾乱[1789―1799―1814]。1793年6月2日にカルト集団ジャコバン派が国民公会公安委員会を独占して以降のことにせよ、ついぞ施行されなかった1793年6月24日に採択された憲法さえ1793年10月10日の「フランス政府は和平が達成されるまで革命的である」という宣言によって停止されたのですから。而して、1793年憲法の採択からテルミドールの正気のクーデター(1794年7月27日)までの僅か13カ月間にパリ革命裁判所だけで3000人近くが、控訴・上告はもとより、最後の3カ月余りは証拠調べも証人尋問も廃した<裁判>によって死刑に処せられたこの擾乱における殺戮の嵐を想起するとき、「法は緊急時には沈黙する」「法は不可能を誰にも要求しない」という法学的の箴言は憲法典範においてこそその智恵の輝きを増すのではないかと思います。**


国民国家の国家権力は、①イスラム国からも支那からも、北朝鮮からも南朝鮮からも、ガミラスからも銀河帝国軍からも、巨大ハリケーンからも富士山大噴火からも、史上最大規模の恐慌からも正体不明の疫病感染パンデミックからも、文化帝国主義の巣窟たる国連人権理事会からもEU評議会人権委員会からも、②その国民の生命と身体と財産を、文化伝統と民族の運命共同体たる<国家>の威信を日夜守護しなければならないのです。ならば、その成立から現在に至るまで、国民国家の憲法がその機能の範囲と根拠を独り1国内的な「人権なるものの守護」に限定されるはずはないのは当然ではないでしょうか。

而して、――原理原則的には「普遍性」をその本質的の属性とするらしい「人権」享有の、同じ有資格者という点で、国民と外国人を区別したがらない節もあるリベラル派の善男善女の切歯扼腕と悲憤慷慨を尻目に――ナショナリズムが「主権国家=国民国家」成立以降の国家社会では必然性に近い規範的拘束力を帯びていること。否、21世紀に入って益々その拘束力を強めているにようにさえ感じられること。これらの経緯を理解するについては、古典的定番ですけれど――また、下記URL記事にも同文を引用していますけれども(笑)――、我々、保守派にも次のゲルナーの認識が参考になる、鴨です。

民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。確かに、ナショナリズムは、以前から存在し歴史的に継承されてきた文化あるいは文化財の果実を利用するが、しかし、ナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも、多くの場合それらを根本的に変造してしまう。死語が復活され、伝統が捏造され、ほとんど虚構にすぎない大昔の純朴さが復元される。・・・

ナショナリズムがその保護と復活とを要求する文化は、しばしば、ナショナリズム自らの手による作り物であるか、あるいは、原型を留めないほどに修正されている。それにもかかわらず。ナショナリズムの原理それ自体は、われわれが共有する今日の条件にきわめて深く根ざしている。それは、偶発的なものでは決してないのであって、それ故簡単には拒めないであろう。

(アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(1983年)、但し、引用は同訳書(岩波書店・2000年, pp.95-96)から)   

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/87aa6b70f00b7bded5b801f2facda5e3

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/141a2a029b8c6bb344188d543d593ee2

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html

・ナショナリズムの祝祭としてのオリンピック
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/996393535306da1e98ca58ca37c31e17



▼鎧2

>個人の尊厳が最上位の価値を帯びるということは普遍性を持つ
>現在の憲法(立憲主義的な憲法)は、個人の尊厳および人権を
 国家権力の権力行使の乱用から守護するために存在する
 国家権力の存在とその権力行使は憲法の授権を受け憲法の制限の
 範囲内でのみ正統かつ正当である

個人の尊厳なるものの価値の普遍性など誰も論証できないことです。
要は、天賦人権論は瓦解している。そう断言できます。
実際、あの樋口陽一さんが、

「<西欧生まれの人権や自由を押しつけようとするのは文化帝国主義ではないか>という反撥がある。たしかに、文化の相対性ということはある」「人間の尊厳を「個人の尊厳」にまでつきつめ、人権の理念とその確保のしくみを執拗に論理化しようとした近代立憲主義のこれまでの経験は、その生まれてきた本籍地を離れた普遍性を、みずから主張できるし、また主張すべきなのではないだろうか」

「文化の相対性という考えをみとめながらも、人権価値の普遍性を主張することがけっして「文化帝国主義」ではない、という基本的考え方を、どうやって基礎づけるかという思想的ないとなみの責任を、日本の知識人は日本の社会に負っているのであり、日本社会はまた世界に対して負っているのである」なぜならば「文化の多様性を尊重することと、西欧起源の立憲主義の価値の普遍性を確認、再確認することとは、別のことがらである。後者の普遍性を擁護することは、だから、けっして、不当にもひとびとがいう「文化帝国主義」の行為ではない」のだから

と、(少し意地悪に要約すれば、「立憲主義の価値の普遍性を主張することは文化帝国主義ではない。なぜならば「立憲主義の価値の普遍性」は人権価値の普遍性に基礎づけられているからだ。そして、人権価値の普遍性を主張することも文化帝国主義ではない。なぜならば、それは普遍的価値を持っているからだ」というトートロジーを、すなわち、無根拠な単なる自己の真理告白・信仰告白を)『自由と国家』(岩波新書・1989年, p.201ff., 前掲『いま「憲法改正」をどう考えるか 「戦後日本」を「保守」することの意味』(岩波書店・2013年, p.148ff.再録))に記してから30年近くが経過すると言うのに、「人権価値の普遍性」なるものが基礎づけられたという話は寡聞にして聞こえてきませんから(笑)。

ならば、これまたリベラル派がしばしば口にする「改正権の乱用」に関するロジック。すなわち、

1)「立憲主義」は権力を制限する憲法の原則である
2)憲法の改正の場合、有権者国民こそ権力である
3)よって、憲法の改正にも踏み越えられぬ限界がある
4)その限界とは「個人の尊厳」を核とする人権の制約の一線であり
5)「立憲主義」はこの一線を死守する原理であるがゆえに憲法の原則となっている

このロジックも、無根拠な個人の尊厳なるものの「価値の普遍性」を唯一の根拠にして自己の願望を呟いているだけのもの、鴨。いずれにせよ、これもリベラル派の仲間内でのみ笑われずに聞いてもらえる類いの音声の無内容な連続であろうと思います。それ、非ユークリッド幾何学的世界の存在を認めず、ただひたすら、自分達のユークリッド幾何学の世界で「公理:個人の尊厳の普遍的な価値」とかと戯れているのと似ているような。「平行線は交わらないのです:立憲主義は改憲権の乱用を許しません」とかとかも。正直、例えば、渋谷秀樹『憲法への招待・新版』(岩波新書・2014年)などの読後感と本当この滑稽さは似ている、鴨。

・<アーカイブ>樋口陽一の文化帝国主義的憲法論の杜撰と僭越
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/75d33f6bb999e22cf4234345aa9b5f3d


 


▼憲法は歴史や伝統などの国柄を織り込むべきもの❗
朝日新聞が書いてくれているように(愉)「【自民党の】改憲草案に流れる憲法観【は】――憲法は歴史や伝統などの国柄を織り込むべきもので、国家権力を縛るものという考えはもう古い」のだと思います。

繰り返しになりますけれども、①ある国民国家は民族国家としてしか存在しえないからです。加之、②――ケルゼンの「法と国家の同一説」を補助線にした場合、――法学的に観察されたある「主権国家:国民国家=民族国家」は単一の実定法秩序であり、その実定法秩序の圏内で法体系の究極の効力根拠は当該の有権者国民の法的確信でしかないから。

敷衍すれば、ある国民国家の有権者国民は「アトム化した1人ひとりの個人」などではなく、その国の歴史と文化を目一杯呼吸して育った――「エスにシティ」とは位相を異にする「ナショナル」な――2つの相貌を持っているという点でヤヌス的な、その民族国家の自国民でしかないでしょう。

畢竟、現在、世界に、国連加盟国数で見て193+αの国があれば193+αのタイプの<憲法>と「憲法」と「立憲主義」があり、日本が承認している国の数字で言えば196+βのタイプの<憲法>と「憲法」と「立憲主義」があるということです。実際のところ、端的に見て、わたしが些か馴染みのある米英の社会を鑑みるに、日本のリベラル派が世界のスタンダードの如く喧伝しているタイプの日本特産の「立憲主義」などは金輪際遭遇したことはありませんから(笑)。

要は、それがフランス起源であれドイツ起源であれ、国際競争力向上のため、文明開化のため(苦笑)、隣国への見栄のため、トランプ大統領が派遣した営業担当に勧められ・・・、いずれにせよ西洋風の憲法典を導入した場合。而して、その西洋風の憲法典をどう使おうがそれは輸入国・導入した国の有権者国民の勝手でしょう

そう、それは、例えば、支那の現地では普段使いの日用品であった「磁州窯」を日本の茶道家が<高級茶器>に見立て、あるいは、現地では差し障りのあるシュチュエーションで小用をたすための器具を詫び寂の/可憐凛凛さの漂う花器に使う例も室町以降魯山人まで枚挙にいとまがないこととパラレルなの、鴨。と、わたしはそう考えます。


 

<余滴の余談>

いやっー。リベラル派の人達って、口ではそれを日々相手構わず連呼されている割には、その「多様性」とか「寛容さ」とかとは、本当は、最も縁遠い人達じゃないですかね。彼等の教条的な改憲論議読んでいてそう思いました。

星新一『白い服の男』の領域も軽く越えてそうな、
日蓮宗や創価の人達も裸足で逃げるレベル、鴨。

間違いなく、現在のイスラム原理主義の方々や、
16世紀末はスコットランドの長老派(カルビン派)の
おじ様方といい勝負されると思いますよ。

所謂「多様性」なるものの価値や素晴らしさというもの。それを保守派も必ずしも否定はしないでしょう。わが国も、古来、数多の「帰化人」の方々を<新しい仲間>として受け入れてきたし、日本の文化伝統なるものの多くは彼等とのコラボレーションの果実であることを否定するような向きは「保守」などではなく、単なる、無知なのだと思いますから。

しかし、「多様性」なるものを具現する道のりやスタイルは、リベラル派がしばしばそう口にするように、別に、すべての国が「その市民社会を<地球市民的>なる無国籍の色合いに染める」ものばかりではないのではなかろうか個々の国家が、各々、独自の文化と伝統を競いあうことによって、世界の総体としては百花繚乱・千紫万紅の<コラージュ>状況を現出する道のりもありはしないか。而して、保守主義に親和性のある「多様性」は間違いなく後者のスタイルであろうと思います。

畢竟、いずれにせよ、リベラル派が主張するような「多様性」だけが<多様性>ではないことは明らかでしょう。「立憲主義」についても「憲法」についてもそんな予感がします。各人各様、個性と野心を競いあうことで、多くのごく普通の少女たちに自信と将来の「そうなっていたい自分」についての具体的なイメージを提供した<AKB48>グループのように。我々、保守派はそんな、本当の意味で多様性に満ちた活気のある日本と世界を求めているの、鴨。多様性を求めて憲法改正。実現しましょう。


>占領憲法の
>破棄または改正に向けて
>共に闘わん❗

 

・宗教と憲法--アメリカ大統領選の背景とアメリカ建国の風景(序) (破)(急)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/3a1242727550e8e31a9133aa154f11bf

・英文読解 one パラ道場
:英語教材として読むトランプ大統領就任演説(英文全文)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/2b023b24c6f7644fa8473ce785df03ac

・大統領の裁判官批判は「三権分立」を逸脱する異常な言動?
 --偏るのは勝手だけど、憲法もう少し勉強して記事書いてね朝日新聞さん
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5855999d2d6c1a2b759c741848a30f18

そして、これもよろしければ!

・<改訂版>自薦記事一覧:保守主義の憲法論と社会思想
 -憲法学の再構築と占領憲法の破棄・改正を求めて 
   http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5f7bef87927eae129943ca8b5bb16a26

 

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