古賀誠氏に問う。「A級戦犯のために参拝しているのではない」は世間と世界では通用しない理屈か、と

yasukunitemple2


去る1年前の2006年8月15日、歴史に残る素晴らしい靖国神社参拝を行われた小泉元首相は、その約2時間後参拝の真意を国民に吐露された。曰く、元首相の靖国神社参拝を批判する論者の主張は大まかにいって次の三点に集約される、と。

(1)中韓朝の特定アジアが反対していること
(2)所謂「A級戦犯」が合祀されていること
(3)憲法の政教分離原則に反するおそれがあること


私はこのBLOGでも数次にわたり、(1)と(3)の点についてはそれらが大人が真面目に考慮するに値する根拠ではないことを論じてた(その詳細と概要に関しては次の拙稿とそこにリンクを張っている諸記事を参照いただきたい)。

よって、このエントリー記事では残る(2)「所謂「A級戦犯」が合祀されていること」が日本の首相の靖国神社参拝を批判する根拠になるかどうかを吟味したい。加えて、これまたBLOGでも新聞でも時々見かける、「首相が靖国神社に参拝するのが「心の問題」というのなら、靖国神社に不信と怨嗟の目を向けるアジアの人々の「心は問題」にならないのか」という主張についてもコメントしようと思う。もって、A級戦犯の分祀を執拗に持ち出している政匪・古賀誠氏等の議論に対する反撃の前線基地を構築したいと思う。

朝日新聞の靖国参拝批判を使って自家原稿紹介
 

私の大学学部時代の知人・佐藤優氏はある雑誌でこう述べられている。
「少なくとも当該宗教外部の人は教義内容に関する提言を差し控えることが宗教者間あるいは宗教者と非宗教者の紛争の激化を防ぐ有力な方策と私は考える」(『正論』2005年9月号・100頁)、と。

私はこの見解に賛成する。而して、文化と伝統を異にする(よって、来世観念や罪業の責任主体とそれへの因果応報の観念のシステムを異にする)諸外国に対しては、教義内容に関する提言を差し控えることの理由としてこの見解は一層厳格に適用されるべきだと考えている。正に、日本人と靖国神社が誰をどのように英霊として祀るかは特定アジアの関知すべき事柄ではない。そう、それは「It’s not your business.」なのである。

蓋し、宗教に高級も下等もない。基督教・イスラーム教・ユダヤ教・仏教が経典宗教として高級であり、多神教的な神道や希臘-羅馬および北欧神話の世界が原始的であるとも言えない。更に、儒教や仏教や古代インドの宗教には厳密な意味の「人格神」は登場しないからといってそれらが不完全な宗教というわけではないし、浄土系仏教や法華経系仏教は、本来の人倫を切り捨てた地平に涅槃を想定した原始仏教に東アジア的家族道徳の不純物を混入した紛い物であるともいえない。

畢竟、その信仰が、死の問題をよく見つめており、この人生を強く善く生きさせる確信を与え、弱き人間を善く強く生きさせる整合的かつ臨機応変なる規律を具体的に恒常的に与えうる<世界認識と規範倫理の体系>であれば、それはその人にとって良き宗教である。私は、個々の宗教体系は絶対を主張するがゆえに(本地垂迹的再解釈を施さない限り、一個の人格の中で)両立は不可能ではるが、宗教は絶対的なものであるがゆえに逆に相互理解は可能であると考えている。

さて、日本における「あの世観」は儒教や西欧の来世観とはいささか異なっている。また、日本における「あの世観」は重層的であり単一の起源を持つものでもなかろう。梅原猛『日本人の「あの世」観』(中公文庫・1993年2月)が紹介する、この世とほとんど同じ構造をしているあの世の観念も日本人の宗教観の一つの原初的形態であろうし(それは、アイヌおよび沖縄の意識調査から推測するに、仏教-儒教流入以前の縄文期に遡りうる宗教起源の一つであろうし)、他方、死後の世代が重なるに従い順々に「個性を喪失していきついには祖霊集合に吸収されていくというあの世観」もまた日本の典型的な宗教観の一つである(★)。

★註:個性を喪失していくという幸福
この日本的あの世観の理解からは、「家族によくないことが頻繁に生じているのは死んだ祖先の位牌を粗末にしているからだ」という脅迫をその布教の論理とする現在のある新興宗教群は、よって、神道とは無縁のものである(もちろん、別の論理である「輪廻転生」を別にすれば、霊魂の不滅など想定だにしない仏教とも無縁であることは言うまでもない)。

日本の多くの宗教社会学者が報告しているように、日本では漸次死者は世代の重なりを経るなかで「死んだ祖父」→「死んだ曽祖父」→・・・→「死んだご先祖様」→・・・→「祖霊集合」に吸収されることが幸福な死後の魂のあり方と考えられてきた。要は、日本では「個性を失わず漂う死者の霊」が祟る霊であり;生前の怨みゆえに個性を失おうとしない彼等は不幸な存在なのである。



ここにおいて、小泉元首相の記者会見での、「私はA級戦犯のために参拝しているのではない。多くの戦没者のために参拝しているのだ」という発言は、日本的なあの世観から見た場合極めて妥当なものということがわかる。蓋し、「戦場に国民を駆り立てた者」であるとか「戦犯」、他方、「戦場に無理やり送られた者」であるとか「戦争の犠牲者」との区別は生きている時の区別であり、それは百歩譲って歴史学の分類にはなりえても、亡くなられた英霊を日本人が祀る上ではなんの意味もない事柄なのだから。

実に、靖国の社では英霊は英霊の集合として単一の表象対象として扱われている。よって、元首相が感謝の祈りを捧げた中に、所謂「A級戦犯」(と、かって不当にも呼ばれ公務死を遂げられた方々)の霊が含まれていることは、大東亜戦争を国家防衛のためのやむにやまれぬ正しい戦争であったと元首相が考えておられたかどうかとは(そうかもしてないし、そうでないかもしれないが)論理的に無関係なのである。

而して、死後も個性を失わず、最後の審判ではその生前の行いが裁かれるという霊魂の不滅の観点から死者の生前の評価を問題にする西欧的なあの世観;死後も個性を失わず、魂魄が離れ浮遊した後の遺体と魂魄の憑代たる位牌にその個性を見出して、文字通り「死者に鞭する」こともそう珍しくはない支那を始めとする特定アジアのあの世観から、靖国神社への所謂「A級戦犯」の合祀や所謂「A級戦犯」が合祀されている靖国神社への首相の参拝を批判される筋合いは全くない(★)。

★註:神と鬼
元首相の靖国神社参拝を否定的に報じた中国のある新聞に「拝鬼」と書いたものを見かけた。小泉は「鬼を拝んだ」、と。そうなのだ、支那のあの世観では「英霊の霊魂」は「個性を失わず、この世を放浪している死者の超自然的精神エネルギー」である「人鬼」に他ならない。ちなみに支那においては、「神」とは「自然神」ではあるが、それはこの世の秩序を形成する自然的と社会的な原理でも、人々の運命を一義的に定める倫理的な原理の認識表象における顕現ではなく、あくまでも人間に幸や不幸をもたらすいわば摩訶不思議な超自然的エネルギーに他ならない。この経緯は、もっとも簡便には、白川静『常用字解』(平凡社・2003年12月)および下記の拙稿とそこに引用している文献を参照いただきたい。


加地伸行☆儒教とは何か
 

蓋し、佐藤優氏の言葉を再度引用させていただければ、「A級戦犯のために参拝しているのではない」という元首相の発言を「内外にとうてい通じるものではない」と断じる朝日新聞に代表される大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する勢力の言動は、

「少なくとも当該宗教外部の人は教義内容に関する提言を差し控えることが宗教者間あるいは宗教者と非宗教者の紛争の激化を防ぐ有力な方策」
であるという常識から外れたものと言われるべきである。

所謂「A級戦犯」がそこに合祀されていようが、日本の首相が散華された英霊に感謝の誠を捧げるべく靖国神社に参拝することは何の問題もない。そして、あの世観を含めそれに対しては日本には何の説明責任もない。なぜならば、本来、内政の事項の、しかも、あの世観という最も個人の心の問題に関する事柄に対して外国が容喙することはあってはならないことだから。


最後に、この心の問題について一つコメントして筆を置こう。蓋し、「首相が靖国神社に参拝するのが「心の問題」というのなら、靖国神社に不信と怨嗟の目を向けるアジアの人々の「心は問題」にならないのか」という主張についてだ。この主張は噴飯ものの議論である。論証は簡単。すなわち、

首相が何かの行動を行う場合の「心の問題」と、首相にとっては他者でしかないアジアの人々の「心の問題」は全く位相を異にしているということである。後者は、別にアジアの人々の心だけではなく(といっても、それは特定アジア(+lim→0)というアジアの極々一部の人々の心だろうが、彼等の心だけでなく)、自民党の加藤紘一氏や福田康夫氏、あるいは、元首相のご子息や前の奥様の心も元首相にとっては他者の心にすぎない。敷衍すれば、前者は元首相が行動を起こす場合の「状況認識」→「価値判断」→「行動選択」→「行動実行」という一連の行為に一貫して反映される要素であるのに対して、後者は前者の中の「状況認識」の一要素になるかもしれない事象にすぎないということだ。

例えば、私が「飲み屋に行きビールをごくごくと飲みたい」と痛切に思っていることと、「支那のどこかで誰かが、日本でもっと紹興酒の売り上げを伸ばしたいので、日本人にはビールをあんまり飲んで欲しくない」と思っていることを同じ「心の問題」とは言えないということだ。支那のどこかの誰かの心が(私がそれを自主的に重要だと考える場合には)私の行動に影響を与える可能性は皆無ではないにせよ、少なくとも、私がそのような支那のどこかの誰かの心の問題に拘束される筋合いは全くないことは確かではなかろうか。畢竟、元首相が靖国神社に参拝するのは「心の問題」と言ったからといって、靖国神社に不信と怨嗟の目を向けるアジアの人々の「心を問題」にしなければならない道理は全くない。私はそう考える。


(2006年8月22日:yahoo版にアップロード)

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内政干渉

中国・韓国による「内政干渉」この一言に過ぎるのではないでしょうか、ましてや両国との国交正常化時に於いて問題にも成らない「項目」を付け足した様な「言い草」に何を「今更」と言う感じ。
最終的に言葉を選べば?日本人(政治家)がバカに成って居ると云う事でしょう。
戦争当事国の英・米・オランダ・豪が野蛮国でない事の証明と中国・韓国の野蛮国で有る事の「証明書」にも成るのではないかとも思います。
「追記」~中国とは戦争はしていません、(事変)ですね、韓国は当時は日本の「一地域」に過ぎません。

靖国は重層的な問題ですね

紹興酒の売り上げを心配する支那人のたとえは、秀逸ですね。松尾さんの懇切なご説明を私なりに要約させて頂くと、これは 畢竟 日本人の心の問題に帰結するような気がします。「日本人がビールを飲みたいと思えば、飲めば良い」。「靖国神社が大切だと思えば、大切にすればよい」ということになると思います。

日本人のエゴイズムだという見方もできるでしょう。特亜三国との軋轢は起きるでしょう。しかし、人間に心というものや宗教がある以上、文化、歴史の異なる他国人とは、共有できないものが、あるのは止むを得ません。

靖国に対してどう向き合うか、これは、日本人自身が、判断すべき事柄だと思います。ミケ
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