渡辺恒雄氏(読売主筆)が朝日と「共闘」宣言?

yasukuni


良きにつけ悪きにつけ日本のマスメディアのプロミネントフィギャー(a prominent figure)たる渡辺恒雄・読売新聞本社会長兼主筆が反靖国神社の持論を語られた。「戦争責任の所在をはっきりさせ、加害者である軍や政府首脳の責任の軽重を問うべきだ」、と。朝日新聞発行の『論座』(2006年2月号)収録の朝日新聞・若宮啓文論説主幹との対談記事「靖国を語る 外交を語る」(同誌pp.26-39)においてである。

読売新聞の主筆としての渡辺氏の主張自体は、しかし、同紙社説にもしばしば掲載さられてきたものであり(読売新聞では主筆は「社論を決定する権限がある」(同誌p.39)ということもあって)、特に取り上げるほどのものではない。講談風に言えば読売と不倶戴天の敵役である朝日の論説月刊誌で持論を展開された所に今回の渡辺氏の工夫があると言えようか。

中韓朝という特定アジア三国の執拗で法律的には支離滅裂、国際慣行からは荒唐無稽な非難や、その特定アジアのお先棒を担ぐ多くのマスコミの批判を歯牙にもかけず粛々と靖国神社参拝を敢行する小泉首相の姿を見て首相靖国神社参拝を支持する国民世論が強まっていることへの危惧だろうか。あるいは、ポスト小泉の有力候補たる麻生太郎・安倍晋三の両氏が共に首相の靖国神社参拝を支持していることへの懸念か。渡辺氏は、大東亜戦争において多くの国民に塗炭の苦しみを与えた政治指導者と軍への批判の帰結たる<首相靖国神社参拝反対>の持論を世に訴えるために悪魔と手を握る決断をされたのかもしれない。

もちろん、大東亜戦争後のこの社会を破壊し国益を棄損してきた戦後民主主義を信奉する勢力の代表たる朝日新聞も岩波書店も今は往時の勢いはない。実際、国会の質疑でも朝日新聞を引用した質問が行われると、「嘘を書いて訂正もしない新聞から引用しても議論にならないぞ」とばかりに閣僚といわず議場から失笑が起こり、質問者も慌てて「これは朝日新聞だけでなく他の新聞でも報じられていることですが」と注釈を入れる風景は昨年平成17年の通常国会から定着している。そして、岩波書店の衰微もまた凄まじい(★)。閑話休題。

衰退凋落著しい朝日新聞とはいえ、世間では「水と油」「源氏と平家」「清水の次郎長と黒駒の勝蔵」ひところまでの「巨人と阪神」に「鹿島アントラーズとジュビロ磐田」の関係とイメージされている朝日新聞の論説主幹と読売新聞の主筆が対談し、しかも、その朝日新聞の論説誌で持論を展開した渡辺氏の戦略は悪くないと思う。単体で客を呼べなくなったプロレスラーが他のプロレスラーとセットで(しかも、過去の遺恨などの<物語>を付加された上で)興行するのと同じである。

渡辺氏の目的は反靖国神社の持論を国民世論にいかに効果的にアピールするかということであり、そのためには使える手段は何でも使う。まして、神通力が衰え我が神州への影響力の低下が著しい悪魔(=朝日新聞)との連携など何ほども問題ではない。渡辺氏はそう考えられたのかもしれない。

★註:岩波書店の衰退
思想のマーケットなる高尚なレヴェルではなくビジネスのマーケットからも岩波書店は撤退しつつある。例えば、岩波書店は完全予約購読の『カント全集』23巻の配本を1999年12月から開始したけれど2006年1月現在でもまだ完結できていない(今2月に第6巻『純粋理性批判(下)・プロレゴーメナ』が出るらしいけれど)。

私は岩波書店に対して都度メールで刊行の遅れの説明を求めている。しかし、次回配本予定日から半年過ぎても配本されない事態が3年以上続いている状況に対して、「ご迷惑をおかけしてもうしわけありませんが、配本の遅れの理由については詳しくは申し上げられません。ただ、訳者の先生方にとっては生涯の業績になる訳業であり慎重をきされておられることをお察しください。そのような全集の企画に係わっていることを我々は誇りと思いながら配本完結に向け業務に取り組んでいます」という、恐らくビジネスの世界では<無条件で落第点>がつく返答が来るだけである。

原稿の遅れにともない新しい研究が内外で次々に発表されその成果を版下段階で数次にわたり織り込むうちに更に刊行が送れるという悪循環、ならびに、資金難が刊行計画破綻の原因であるとは(岩波書店もそこにある)神田神保町の常識である。要は、財務体質にせよプロジェクトマネージメントなりシャビーな経営スキルが原因。そして、原因や理由はどうあれ、ビジネスとはタイム・イズ・マネーでありプロミス・イズ・プロミスである。それは出版業であれ福祉介護ビジネスであれ同様である(ある意味、NPOのマネージメントでもそれが資本主義の市場にプレーヤーとして参入する以上これはあてはまることである)。ならば、この行動規範が内面化できていない組織は市場から淘汰されるしかないだろう。


ansahiyomiuri



渡辺氏の主張はシンプルだと思う。もちろん、今回の朝日新聞との共闘(?)を含む渡辺氏というか読売新聞社の一連の首相靖国神社参拝反対の主張は、ポスト小泉を睨んで、参拝肯定派の麻生太郎・安倍晋三の両氏以外の候補を次期首相に推す策動(あるいは、麻生・安倍のいずれかが宰相の座に就くとしても、彼等に靖国神社参拝を断念することを促す策略)なのかもしれない。首相靖国神社公式参拝を腰砕けに終らせ世の失笑を浴びた中曽根康弘氏と渡辺氏の親しい関係はつとに有名でもあり、今回の読売と朝日との共闘興行を政局との関連で理解することも満更間違いではないかもしれないということ。

けれども、端的な狙いが政局であれ、渡辺氏の真意、すなわち、読売新聞者主筆をして凋落著しいとはいえ朝日との共闘興行を選択せしめたものは、戦前の軍に対する渡辺氏の否定的な評価であり、国民への戦争責任をとることなく現在に至っている政府首脳への氏の激しい嫌悪にあると思う。そして、今声を上げないと、大東亜戦争を巡る軍と政府首脳の責任を日本国民が問うことは永久にできなくなるのではないかという渡辺氏の焦燥感も大きいのかもしれない。『論座』誌上での氏の次のような発言を読むときそう感じられた。例えば、

「僕は学生時代から本当に反戦を主張してきました。先の戦争で、何百万人もの人々が天皇の名の下で殺された。僕も徴兵され、二等兵でしたが奴隷的に酷使された。幸い僕は生き残ったが、ひどかったのは特攻隊です。あれは強制自爆だからね。(中略)僕は戦時中、こんなことを国がやるということは許せないと、本当に思っていた。(中略)戦時中の体験もあって、そういうことを命令した軍の首脳、それを見逃した政治家、そういう連中に対する憎しみがいまだに消えないですよ」(同誌p.28)

「僕も79歳です。僕らがいなくなると、あの残虐な戦争の実態を知らない人たちばかりになって、観念論争になっちゃうんじゃないかと心配だ。中国や韓国の人たちだって、極端な歴史を博物館や何かの形で残して、子孫に伝え、反日運動をあおっている面がある。僕は自分の体験を語り、残しておかないといけないと思っている。日本軍というのは本当にひどいものだったんだということを、どうしても言い伝え、書き残しておかなきゃいかんと思っているわけですね」(同誌p.33)


このような情念の下、渡辺氏率いる読売新聞は大東亜戦争を巡る軍と政府首脳の責任をこれからも問い続けていかれるらしい。「読売新聞は2005年8月13日の紙面から、靖国参拝問題の前に、戦争責任の所在を明らかにすべきだというキャンペーンを始めました。(中略)軍、政府首脳の責任の軽重度を記事にするつもりだ」(同誌p.29)、「死者の責任を追及するというのは嫌な仕事ではあるが、それをしなければ、歴史検証というのはできないんですよ」(同誌p.31)、と。

重要なことは、流石に朝日新聞とは違い、首相の靖国神社参拝に反対し戦争責任の追及を求める(自社というより)自己の姿勢が現在の国民世論の支持を必ずしも得られているわけではないことを渡辺氏は自覚しておられることである。「今の僕の考えていることは少数派に属するかもしれないけれど、徐々に多数派になるんじゃないかと思っています。また、なるようにしなきゃいかんと思っていますよ」(同誌p.30)、と。

おそらく、戦後民主主義を信奉するカルト的な人権論者や世界市民なるものを国際関係の主体であり時代を動かす動因と考える反日論者は、渡辺氏が熱く語られる<軍と政府首脳の戦争責任>が、日本国民に対する政治責任であり道義的責任にしかすぎないことには不満であろう。

実際、首相の靖国神社参拝反対、戦争責任の追及推進に賛成という点では共闘できたとしても、①大東亜戦争の舞台となったアジア諸国(特に、東南アジア諸国)への加害、②まして、国際法的には何の問題もない朝鮮半島の植民地支配に対する加害(?)について③法的な責任を求めるか否かという点では、朝日新聞と読売新聞(若宮啓文論説主幹と渡辺恒雄主筆)との間には溝があるように思われた。その意味では、悪魔との共闘興行という奇策を放ったとはいえ渡辺氏の主張は中庸を得たものと言えよう。

ronzawananabe


結論を書く。『論座』に乗り込んだその異様さに係わらず、渡辺氏の発言自体は穏当なものである;ポスト小泉の政局と連動する可能性はあるものの、渡辺氏の主張は自己の体験から紡ぎだされた真摯なものである。しかし、軍と政府首脳の戦争責任を追及し靖国神社批判するその主張は渡辺氏の私憤から出たものにすぎない。それは、個人の私憤や私怨を歴史認識や政治責任の判断に密輸するものに他ならない。もし、そうでないと渡辺氏が主張したいのなら、政治責任を追及する根拠となる規範を、更に、その規範がなぜに「今の渡辺氏の考えていること」に賛同しない多数派をも拘束する妥当性と実効性を持つのかを説明すべきである。

蓋し、政治家は国政に関して法的には結果責任を負わない。結果責任を問われるのは政治責任/道義責任であるが、もともと「確実に国民を幸福にする/間違っても敗戦に伴なう塗炭の苦しみを国民に味あわせない」などを履行する義務も責務も指導者は負っていない。なぜならば、歴史が人智を超えるものである以上、不可能事を誰も約束もできないし不可能の不履行を責められる筋合いもないからである。ならば、政治指導者の責任を追及する心性は、国は国民を幸せにする責務があるという国への甘えではないか。

更に、日本人は自身の手で戦争指導者を裁いてこなかったという主張も間違いである。戦後60年、日本国民には彼等を裁くチャンスはいくらでもあった。そして、実際には、国会の全会一致で戦時指導者を含む所謂「戦犯」の名誉回復を日本人は選んだ。ならば、これこそ日本人が彼等に下した明確な<裁き>ではないか。それとも、戦時指導者への裁きとは彼等を批判・糾弾するものに限定されるとでもいうのか? そんな限定の根拠はどこにもない。畢竟、戦時指導者を批判的に裁くべしという主張は<私怨>にすぎない。私はそう考える。 


(2006年1月9日:yahoo版にアップロード)

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