ムハンマド諷刺漫画と表現の自由

islam33


ムハンマドを諷刺した漫画が世界に波紋を広げている。私は、戦後民主主義を信奉される憲法研究者が表現の自由を巡ってこの<事件>をどう論評されるのか、毎日、楽しみに資料を集めている所だ。それらを検討吟味した論稿のエントリーは他日行うとして、今日はこのBLOGを開設して1周年記念日でもあり、文字通り、「Web日記」の記事として表題のテーマについて筆に随い論を進めたい。その主張の核心は、普遍なる人権思想と有限なる人権内容である。

まず諷刺画事件の簡単な整理。発端はデンマーク。ベルギーと並んで世界市民なるものを標榜し普遍的人権なるものを擁護する妄想詐術の輩が跋扈する国である。そのデンマークの「ユランズ・ポステン」紙(Jyllands-Posten)が昨年2005年9月、イスラームの預言者ムハンマドの政治諷刺漫画を掲載した。これに続き、今年2006年1月10日にノルウエーのキリスト教系雑誌「マガジネット」(Magazinet)が「表現の自由」擁護の旗を掲げ同じ諷刺漫画を掲載した。

その後の展開は紹介するまでもあるまい。今日、2006年2月20日現在では、ほぼすべてのイスラーム圏の諸国にこれら諷刺漫画に対する批判が渦巻いている。そして、「表現の自由」を楯に謝罪も反省も諷刺漫画掲載雑誌の撤収さえしない欧州諸国に対する不満と反感がイスラーム世界に蔓延しており、激しい抗議行動の中で日々多くの人命が失われている。

最初に断っておくが、私はイスラームの徒ではない。けれども、思想・哲学としてのイスラームを高く評価している。また、小田急線は代々木上原にあるモスクには多くの知人が通われているし、信仰のシステムとしてのイスラームにはかなりの親近感を抱いている。

私が親しく教えを受け学んでいる限りのイスラームでは、異教徒にイスラームの戒律やイスラーム的な社会規範を強いることはない。8世紀から11世紀にかけて、イスラームの勢力が西はイベリア半島、北アフリカから中央アジア、南アジア、東南アジアを席捲した際の有名な言葉、「コーランか剣か」「コーランか税か」(戦争以前:イスラームの教えを受け入れるか、さもなくば戦争か;戦争終結後:イスラームの教えを受け入れるか、さもなくば税金を支払うか)にも実は含意されていたのだけれども、イスラームは異教徒や他の文明に対して(キリスト教などと比べるのもイスラームの人々に失礼なくらい)穏当で中庸を得た信仰であり社会規範のパッケージである。

これをもし嘘だと言うのなら、近所の古書肆を覗いてみられよ。Amazonで検索をかけてみられよ。現在の新刊本では確かに後ろ姿の像が多数だけれども、例えば、小学生向けの昔懐かしい『伝記・世界の偉人シリーズ』とか『伝記・世界の聖人シリーズ』等では、凛としてはいるが優しそうでいかにも賢そうな人物として、「ムハンマド=マホメット」の挿絵は日本ではいくらでも目にすることができた。

現下の諷刺漫画事件でも明らかなごとく、偶像崇拝を忌避するイスラームでは預言者ムハンマドの「挿絵」「肖像画」は堅く禁じられている。実際、私が見た数本の映画に限っても、イスラーム圏で制作されたムハンマドの生涯を紹介した映画では、大体、「人影」とか「人が動くにつれて動く空気の動きや事物の振動」でのみムハンマドを象徴させているようである。しかし、穏当で中庸を重んじるイスラームの人々は、この極東の異教徒の国の民がそれを行うことを特に問題とは考えない。


◆人権は内容も効力も有限
ムハンマド諷刺漫画問題に関連して、この記事で私が主張したいポイントは次の2点である。すなわち、(1)表現の自由をそこに含む基本的人権の価値は普遍的であったとしても、表現の自由や個々の人権の規範内容はそれが適用される現実具体的な国家や社会によって異なる、次に、(2)表現の自由の制約は憲法論的な「表現の自由の内容確定」という国家権力を規制拘束する憲法体系内在的な演繹操作だけではなく、道徳や社会的な常識などを憲法体系に向けて帰納する操作によっても決定される、と。

・人権思想は普遍的でありえても人権規範は普遍的ではない!
・道徳・常識による表現の自由の規制は憲法を補完する!


「表現の自由は尊重されなければならない」という命題を否定する論者は、21世紀初頭の現在、世界中を捜しても極稀な存在だろう。実際、この日本でも「皇族は黙ってろ!」と言った朝日新聞くらいしか私には思い当たらない。

しかし、「すべての表現が憲法的に許される」という主張と表現の自由は元来無縁である。かって、アメリカの最高裁判事が述べたように「表現の自由は尊重されなければならないとしても、満員の劇場で「火事だ!」と叫ぶ自由を表現の自由として認める人はそう多くはないだろう」から。

例えば、民法の不法行為(709条および710条ならびに723条)に基づく名誉棄損の損害賠償や謝罪広告の掲載;刑法の脅迫罪(222条)・強要罪(223条)・名誉棄損罪(230条)・詐欺罪(246条)、あるいは、通貨偽造罪(148条)・公文書偽造罪(155条)・私文書偽造罪(159条)・虚偽告訴罪(172条)・猥褻物頒布罪(175条)などはすべてなんらかの意味で表現行為の制限である。

本稿で私が主張したい第1点:「人権思想は普遍的でありえても人権規範は普遍的ではない」の意味は、表現の自由の範囲は社会の法意識と国家の実力によって定まるということである。その範囲は<憲法が許す表現>と<許さない表現>の範囲の確定において(=憲法が禁止する、または、国家権力がその表現の実現を応援しない表現の範囲の確定において)、憲法が機能するその社会の法意識と(表現行為を禁止または応援する)国家権力の実力が決定的に重要ということである。

表現の自由の具体的内容は国民の法意識と国家予算をパラメーターとする関数である

こう書くと、おそらく、中途半端に憲法を学んでおられる方から(=日本で販売されている、しかも、日本語で書かれた憲法の教科書を特に熱心に(笑)読んでおられる方から)、「表現の自由の具体的内容は国民の法意識と国家の予算のパラメーターにすぎない」というのは、立憲主義を理解しない発言である;立憲主義からは「国民の多数決によっても奪われない人権の価値を認め、ある意味、民主主義と矛盾してでも国家は少数者の人権を守る責務がある」のだから、というコメントをちょうだいするかもしれない。馬鹿も休み休み言え、と私は言い返したい。

簡単である。国民の法意識に反する人権なるものが憲法の規範内容であり憲法的な価値を持つとする根拠は、教科書執筆者の頭の中の妄想・願望でしかないでしょう、と。蓋し、民主主義と矛盾する立憲主義が実定規範として法的効力を帯びて通用する可能性があるのは、その立憲主義なるものに反する国家権力が支配の正当性・正統性ならびに支配の実効性を失うことだけである。ならば、当該社会内に一切の妥協が不可能な国民の幾つかのグループを現出せしめ社会秩序が崩壊するのでもない限り、国民の法意識と矛盾する人権など土台憲法規範としてなんの拘束力も持たない。畢竟、人権思想は普遍的でありえても人権規範は普遍的ではないのである。


◆人権と人権制約の重層構造
イスラーム圏諸国でムハンマドの諷刺漫画は、まず、神と信仰を冒涜するものであり、また、イスラーム社会とイスラーム世界を見下し嘲る(日本社会における朝日新聞の社説のごとく)傲岸不遜なものと受け取られた。ならば、イスラームの国々の中で、その諷刺漫画が表現の自由を遥かに逸脱するものと解されたのは社会学的観点からだけではなく憲法論的にも妥当なことである。

而して、イスラームの人々が、(残念ながら)その国内法秩序の及ばない西欧諸国に対して、「この諷刺漫画は表現の自由を逸脱していると我々は考える」というメッセージを抗議活動という手段で行うのは当然である。そして、それらの抗議活動がテロや他者の人権侵害に及ばない限り、それらの抗議活動は言葉遊びではなく、そのイスラーム国の国内法秩序が許容する「表現の自由」の範囲内の事象と言うべきである。

では、西欧や異教徒である我々は今回の問題にどう対応すべきなのか。その解答の鍵が、本稿で私が主張したい第2点:「道徳・常識による表現の自由の規制は憲法を補完する」である。蓋し、社会秩序の維持において憲法を含む法規範が直接果たせる役割は極々一部にすぎない。社会の秩序は法・道徳・美意識などの多様な社会規範の重層的で協働的なチームワークによって維持されている。重要なことは道徳・常識の規範内容と社会学的機能もまた実質的な憲法秩序のパーツであるということである。

例えば、今回の世間知らずのデンマークのメディアが引き起こしたムハンマド諷刺漫画問題がアメリカ憲法下で生じたならばどうなるか。ご存知の通り、アメリカ憲法修正1条は表現の自由を定めており、おそらく、あるメディアがムハンマドの諷刺画をその紙面に掲載することを憲法のこの条項は保障するだろう。

しかし、他方、アメリカには「人種・宗教のマターについて他者を見下し侮るような表現は差し控えるべきだ」という強い常識が支配しており、実際にアメリカのメディアが当該の諷刺画を(ムハンマド諷刺画問題の資料掲載の目的を超えて)掲載することは考えにくい。

よって、アメリカのある常識なしのメディアが当該の諷刺画を紙面に掲載しようとしても例えば、大株主からの横槍なり印刷所労組による印刷拒否なりに遭遇してしまい、結局、その諷刺画は日の目を見ない可能性は少なくないと想像する。そして、(幾つかの条件がそろいメディアが表現の自由を求めて憲法訴訟を起こしたとしても)そのような横槍も労組のサボタージュも今度は憲法修正1条に反するものではないと判示されるのではないか。と、これはあくまでも私の想像であるが、このことが「道徳・常識と一体となって社会の実質的な憲法体系が構築されている」という際に私が念頭に置いているイメージである。

復習のために思考実験しておく。これに対して、立憲主義なるものを信じ、それは思想としての人権の普遍性にしかすぎないのに人権にあたかも普遍的かちがあると錯覚する人権原理主義者はどう考えるか? 当然、表現の自由は絶対であり、他者を慮らないそのような稚拙な表現は思想のマーケットで敗退していくに違いないと考えるであろう。

彼等人権原理主義者にとって、憲法規範の内容とは、それが時空を超えて普遍妥当なものである以上、それは人権や平和や国民主権の理念と同値かもしれない。しかし、それら基本理念がなぜ実定法でもあり、かつ、普遍的なのかの根拠はどこにも存在していない。

実際、人権が実定法でもあり普遍的でもあるのならば、(準則的な統治機構の細則を除けば)日本国憲法とフランスや米国の憲法の違いもなくなるはずだ。正に、「その文書がコーランと同じなら無駄だし、コーランと矛盾するなら有害」なのだろうから。しかし、個々の国家権力の則でもある憲法の効力は個々の国家に起因するはずであり、その内容が時間的にも空間的にも普遍的というのはオカルトじゃないかと私は思う。要は、憲法の妥当根拠について彼等人権原理主義者は何も考えていないということである。



(2006年2月20日:yahoo版にアップロード)

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