アーカイブ☆外国人がいっぱい

gaikokujin



[壱]
今、ハワイやグアムは日本人という「外国人」で溢れている。日本で「ガイジン」と言うとまだアメリカ人を連想されかねないが、実際、日本に定住している外国人の大部分は韓国人・朝鮮人である。また、外国人労働者や不法入国者・滞在者として現在日本で問題になっているのは、主に東南アジア・南アジアの国々や中華人民共和国の人々であり、ドイツではトルコ人が、フランスではアフリカ北岸の旧フランス領諸国からの流入者が、アメリカ合衆国ではラテンアメリカからの不法入者をいかに処遇するかが「外国人労働者問題」の中心的課題である。そして、今後10数年間、西欧諸国では、89-90年に始まる東欧社会主義諸国の崩壊によって、これらの旧社会主義体制圏から流れ込むであろう諸民族とEC統合に伴なうEC域内の諸国民の移転が「外国人問題」の中心の一つとなろう。蓋し、各々の国で政治的と社会的の課題性をもって語られる<外国人>という概念は、相対的かつ具体的な範疇である。

即ち、外国人とは基準となるある国家と国民にとっての外国人である。一方、外国人が現実の社会問題や政治問題の内容となる場合には、外国人一般とかではなくて、ある文化と人口とを現に抱える所の、独自の質と現実的な量とを持つ具体的な外国人の問題として立ち顕れざるを得ない。


現在の日本では、単純労働を目的とする外国人の入国と滞在及び就労を認めるか否かが、中小企業に顕著な労働力不足を背景にして政治の争点になっている。そして戦後最長の好景気と3Kの職場を嫌う若い日本人の意識の変容とがこの社会・政治問題を一層抜き差しならないものにしている。出生率の著しい低下。即ち、子供を生まない若い夫婦の増加や子供をあまり作りたくないという若い女性そして男性の価値観の変化を鑑みると、この外国人労働者を渇望する中小企業における「ヒト不足」は今後も継続するものと予測される。しかも、これは単純労働力市場だけの問題ではなくなるかもしれない。

米国では、理科系の大学院博士過程の学生と大学教授の過半数近くが外国人であり、米国を支える科学技術の向上はこれらの外国人によって推進されている。このことは、この国の解放性の一つの現れと受け取られる向きもあるのだけれども、比較的安い収入しか見込めない研究職に就くよりビジネスマンとしてウォールストリートやシカゴの先物マーケットで、カッコよく、綺麗に、高収入で働きたがる「アメリカ人」が増えたことの帰結でもある。米国のこの知的労働力市場の傾向と同じものが、ここ10年ぐらいで日本でも見られる様になったし、ここ5年くらいで顕著になったと私は思う。そして、この傾向と前述の出生率の低下を併せて推論させてもらえば、あと10~20年後の日本では、現在よりもより広範な産業の分野で企業の規模を問わず人手不足であり、外国人労働者の問題は更に拡大しているに違いない。

一方、70万人を優に越える在日韓国人・朝鮮人に代表される定住外国人の問題も現在の日本の社会的かつ政治的な論議の争点になっている。否! それは現在だけの争点ではない。外国人登録の指紋押捺を廃止すべきか否か、地方自治体のレヴェルの選挙権・被選挙権を認めるべきか否か、公務員への就職を困難にしている所謂国籍条項は憲法違反か否か、国民年金・生活保護の受給資格を認めるべきか否か等々の問題、換言すれば「日本国民の権利義務の中には定住外国人にもその権利・義務の性質上認められるべきものがあるのではないか、そしてその権利義務の再構成においてはその当該外国人の属する国家と日本との歴史的背景をも配慮すべきではないか」の主張を巡る議論は、在日韓国人・朝鮮人の場合には実に1910年の韓国併合以来、80年以上の間、問題であり続けているのである。更に、ドイツ憲法が規定する所謂政治的庇護権や難民の受け入れは、非定住外国人を定住外国人として受け入れる基準の問題であり、日本人的氏名なるものに改名を要求することで悪名高い日本の帰化行政の問題は、定住外国人を「日本国民」に移行させる基準と手続の問題である。現在国際化の潮流を背景にして、この二つのタイプの問題とも日本における重要な争点になっている。

外国人問題は、以上の記述に示す如く、非定住外国人の問題と定住外国人を巡る諸問題、外国人労働者問題と日本人以外の日本社会構成員の政治的・社会的地位の問題とに大きく分けて考察できよう。しかし、非定住外国人の問題も、将来的には知的労働分野への外国人の導入が不可避な状況では単に「外国人労働者問題」では収まらず、「外国人問題」への深まりを見せるであろう。そして、外国人の問題は、「外国人」という概念が論理的に「非外国人」を前提としている以上、定住・非定住の単なる外国人問題を越えるより広い、他の様々な問題と密接に連関した課題性をもっている。

「外国人」は相対的な概念である。
日本で外国人と語られる時には、だから、その話者の意識の裏側には必ず日本の国家や日本人のイメージが横たわっている。だから、外国人を巡る社会的・政治的な問題に真剣に答えようとするならば、日本なり日本人をも同時に考慮しなければならない。而して、外国人労働者の問題や在日韓国人・朝鮮人の社会的や政治的地位の問題が、現在、日本のホットイシューであるのならば、外国人という言葉と背中合わせの日本と日本人のイメージを検討することは同じく緊急かつ不可避である。

そして、もし、現実の社会的・政治的な問題を真に解決する為には、結局はその問題を課題として受け止め、思想的に乗り越えなければならない、という見解が正しいとするならば、外国人の問題は、イクォール日本人の自己同一性の問題であり、「日本とは何か、日本人とは何か」の問題への解答作業の一斑を成するものと解される。逆に言えば、日本人のアイデンティティーの問題は外国人問題のコロラリーの一つである。例えば、天皇制論は日本論を経由して外国人問題への解答の一部分を構成している。蓋し、外国人の問題は思想的の実践性を持っている。

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[弐]
外国人問題は日本論と通底している。
現在繰り広げられている外国人労働者の受け入れを巡る様々な議論も、結局は「日本と日本人の自己同一性の内容を如何に考えるか、そして、その維持を肯定・否定のいずれに解するか」の一点に収束しているように思われる。外国人労働者導入賛成派の石川好はこう述べている。

★ 石川発言①
われわれは、いつも口先や観念だけが火傷をしただけで、本当の火傷をしたことがないのではないか。人間には、本当に、この自分の体と生活が、やられることによってしか、理解できないことがあるのである。国際理解、異文化理解なんぞ、そうしたものの最たるものだろう、と。<Voice 1988年2月号 所収>

★ 石川発言②
しからば、日本の中に、数多くの外国人を移住させよ、ということを主張する。(中略)そのように外国人が流入すれば、きっと日本人は不機嫌になるだろう。しかし外国はすでに、日本からの流出によって不機嫌になっているのである。国際社会で生きるとは、そうした各国、各民族の不愉快さを引き受けて生きることの同意語ではないだろうか。(後略)そのような異質な人々の流入を多くすることになれば、わたしたちが誇らしげに語っている、あの「日本の伝統文化」や感受性も大きな危機に陥るであろう。しかし、そうした異文化に生きた人々が、「日本の風土」という特殊性の中で、それが本当に特殊なものであるのか否かをも、わたしたちに教えてくれるだろう。(後略)わたしたちは、世界の人間にも市場を開放すべきである。その結果、わたしたちが信じてきた日本的特質や日本の伝統が解体するとしてもである。その時、わたしたちは、はじめて自らの肉体で答えを捜すことになるであろう。もし守らなければならないものが人間にあるとしたら、汗をかいて働き、心に汗をかいて考える肉体だけのはずである、と。<『鎖国の感情を排す』 1985年>


即ち、日本の社会規範や価値規範、日本の伝統的文化も日本人と異質な文化と習俗を持つ様々な外国人と多くの日本人が接触することで、より新しく面白いものに変容するであろう。長い目で見ると今の日本人がより普遍的な文化と価値体系を獲得するにはそれがベストの道である、との認識が導入賛成派の基盤にあると私は思う。一方、反対派の立論の根幹には、「正に問題は日本人のアイデンティティーの確保・維持であり、非定住外国人も欧米諸国の例をみると必ず定住化する傾向をもつ。

そしてこれはなにより日本人のアイデンティティーと日本固有の文化が汚染され破壊されることを意味する」との主張がありはしないか。導入反対論者の西尾幹二は、賛成派の主張を、「今日まで日本が本格的に開国しなかった為に文化の同質性が守り続けられ、それによって国は大をなしたけれども、おそらくその純粋度の高さのために日本はいずれ衰退するであろう」と言いたいのだ、と括りかつ以下の如く言い放つ。

★ 西尾発言
よろしい! そう考えていっこうに構わない。じつは私自身もそう考えている一人なのである。
日本や鎖国によって培ってきた「文化的自己同一性」のある一定の高さのゆえに、統合力の強さを手に入れ、世界各地で人種や宗教が摩擦し合うこの現代に、有利な条件下に置かれている。ただし、(中略)一元性が弱さの条件になるかもしれない。それが百年後になるか二百年後になるかは分からないが、しかしそれはそれで仕方がないのではないか。(中略)衰退するときが来ないような文明はあり得ない。衰退してもこの列島に日本人は住みつづけるし、文化伝統は守られていくだろう。そしてかえって安定するだろう、と。<『労働鎖国のすすめ』 1989年>



寛永年間から嘉永・安政(1633年~1854年)と二百二十年程続いた「鎖国」政策が、果たして日本文化の自己同一性を作り上げる主な要因であったかどうかは大いに疑問のある所である。何故ならば、現在の日本文化の大枠は鎌倉末期から室町中期にかけて形成されたと考えるから。けれども、一般的に外国人問題がある基準となる国家と国民の自己同一性の問題に連なることは諸外国の事例からも自明である。

例えば、1986年の米国における所謂移民法改正時のレーガン大統領演説においても、明確に「合衆国の国境を外国人の不法な侵入から、将来の国民のために守る」こと、すなわち米国と米国人のアイデンティティーの確保が改正移民法の実現すべき法益とされた。また、70年代後半から本格化した旧西ドイツにおける定住トルコ人の問題では、より端的に「トルコ人の独自の文化・習慣を保証しつつドイツの文化と主権下に彼らを統合するにはどの様な政策が最適か」という所に、当時の政策論争は集中したのである。

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[参]
「外国人」は具体的・個別的な概念としてのみ社会問題や政治問題の要素たりうる。そして、外国人が具体的かつ現実的なのだから、同時に考察されるべき「日本人」も具体的、現実的でなければならない。つまり、この問題は歴史的・具体的な現実の中で解決されなければならない問題であって、吉本隆明『共同幻想論』の提示するが如き思弁的な国家論や観念的な日本論・日本人論、又は既成のアカデミズムによる抽象的な人権論、政策論抜きの経済学説で説明し尽くされるものではない。それは、最終的には言葉の正確な意味での「政治」によって解決されなければならない課題である。

換言すれば、外国人の問題は日本人のみによって構成される文芸サークルによって解決可能な閉じた問題でも静態的課題でもないのであって、1991年の現在における日本人がいかに自己の文化と自己同一性を将来に向かい再構築していくか、日本国の国家統合の原理を如何に変容していくのか、その為にはどのような対外国人政策が最適かを抽出し決定する、国際化の潮流を背景にした国家的な政策プロジェクトの論点なのである。而して、その論議の核心は政治的な価値判断・政策の選択であり、それは政治哲学論争・法哲学論争なのである。この政策決定にはグローバリゼーションのより進む世界の中での「あり得べき日本、あり得べき日本人とは何か」という世界観と価値の体系が、即ち思想が前提とされなければならないと私は信ずる。

石川好が言うように、アメリカ合衆国に文化的な観点で日本が見習うべきものがあるとするならば、それは第一にアメリカが多様な文化・習俗を抱える多くの民族を統合したことに起因しようし、日本にしてからが、5~8世紀に大量の所謂帰化人を受け入れたことによって始めて現在にいたる日本文化を形成し得た。国際派の経済人、中野正夫はこの米国と日本における他民族共生の心性をこう分析している。

★ 中野発言
日系アメリカ人2世、3世の人達は、「自分はアメリカ人であり日本人ではない」と規定している。アメリカ人であることに誇りを持っている。これは、日本にいる在日韓国人とアメリカの日系人を比べると、その意識に大きな隔たりがあるという事例である。(後略)これはなぜなのか。アメリカにいる日系2世、3世はなぜ日本人であることを否定し、アメリカ人であることを誇りに持てるのか。もちろん様々な社会的プレッシャーということもあっただろうが、真にアメリカ人であることに誇りを持ちえたからではないだろうか。(中略)つまり国民の一般的な意識として様々なルーツの存在と、その様々なルーツを持つ人達がアメリカ人になり得る道が用意されていたということだ。日本においてはその道が閉ざされていた訳だ。その結果として、在日韓国人は日本人であるよりも韓国人としてのプライドを持つということになった訳である。私はここで、この在日韓国人の人達の意識というものの存在は、いかに日本という社会が、アメリカ社会に比べて、個人がその国家に帰属することによってよりプライドが持ちにくい社会であるかということを考えざるを得ない。<チャレンジャーズ7号 1991年>



在日韓国人・朝鮮人一世の中には強制的に日本へ連れてこられた方もいよう、そう、彼等の総てが日系移民のように最初から自分の意志で帰化を目指して太平洋を渡ったのではないことは前提に置かれねばならないとしても、中野のこのスケッチは示唆に富む。自分を日本民族や韓民族の一人と意識することと、自分を日本国や米国の正規の構成員と規定すること、ましてや日本国や米国の構成員であることに誇りを感ずることは全く異なった次元の事柄なのだから。

多様な文化的背景を持つ人々を統合する社会的コストと個々人に課されるところの思想的労力は、現在の米国や五胡十六国の乱以後隋・唐の統一にいたる中国の歴史を見るまでもなく大変なものである。社会のアノミー状況(その社会を統合していた価値・社会規範の正当性が崩壊することに起因する社会の無秩序状態)とそれを収拾し秩序を維持することは面白いの一言では済まないのかもしれない。面白さはコストと個々人の熱意を前提にしているのだろうから。アメリカにおけるこの面白さの対価について、石川好は『ストロベリー・ロード(下)』の中でこう述べる。

★石川発言③
アメリカ人を名乗っている男や女が、異なる人種やあるいはかけ離れた年齢差の相手とも平然と結婚にうって出られるのは、恋愛の感情と同じ程度あるいはそれ以上に"アメリカ人は平等主義者であらねばならない"という、この国の社会の深層に流れる強迫観念が、人々を駆り立てている結果ではないだろうか。(後略)では、すでにアメリカ人として生まれているはずの彼らが、なぜ、常に、"アメリカ人であること"を問題にせざるを得ないのだろうか。もしかしたら、人は、この大陸に渡り、帰化を許されてアメリカ人であるのでもなく、この国で生きていくこと、あるいは生きていく方法を学ぶ過程で、アメリカ人になっていくのではないだろうか、と。<『ストロベリー・ロード(下)』>



多民族の統合には膨大なエネルギーが必要だ。
だから、外国人労働者の受入れに賛成するのが進歩的で、反対するのが反動的で否定されるべきだとは簡単には言えないだろう。問題はここ10~20年に恐らく訪れるであろうところの、現在よりもはるかに多くの日本人が外国人とお隣りどうしで住まわなければならない状況を見据えて、肯定派の論者には社会の一定程度固有の価値規範や文化が崩壊した後のアノミー状況に耐える角度を日本人にさせ、それと引き換えにどの様なメリットが導入によって達成されるかを説明し、アノミー状況を収拾し得る水準の思想を構築提示することが要求されている。また反対派には、単なる問題の先送りではなく、国境の消失する現代の状況においてもアノミー状況を惹起させることのない、言わば世界水準の日本と日本人の自己同一性を再構築することが要求されている。而して、双方とも日本の国際化に拮抗し得る思想の構築を課題としている。

ここで一つ注意しておきたいのは、単に外国人が隣に住むからといって、すぐに日本の文化なりが変わるとは考えられないことである。外国人は、文字通りコレラやエイズウィルスではない。隣にだれかが引っ越してきたからといって、君や君の家族の生活習慣や価値観が変わるわけではあるまい。変わるのは、外国人と日本人の数年に渡る生活レヴェルでの交渉の結果としてであるに違いない。

つまり、日本の固有の文化なり日本と日本人の自己同一性なりは、実体的なものではなく現実の日本人の生活の中に習慣として始めて見られるものなのだ。また、日本の文化なりが変わることは、天照大神が天上で自由の女神やシバ神や何やらに替わるのではなく個々の日本人の生活習慣や価値観が変わることに尽きるのであるが、この変容は個々の日本人にとって必ずしも端的に悪ではない。

この文化や自己同一性の存在する位相を見誤ると、異人が日本に上陸しただけで「神国」が汚れるとか、小錦が横綱になれば大相撲がよって日本の伝統文化が崩壊するとか、アメリカ人とセックスしただけでハイカラなアメリカ人に自分がなったとか思い込む所の、明治維新の際の攘夷論者や現在六本木や広尾や横須賀によくいる輩と同じになってしまう。小錦が大関になっても相撲界は変わらなかったし、恐らく曙や武蔵丸が横綱になっても変わらないだろう。それは、彼等が大部分の日本人の現実の生活に直接はなんの係わりも持たないからである。

畢竟、幕末の攘夷論において、異人が神国を汚すと捉えられたのは、皇国史観に連なるこの思想が、実は、空虚な天皇概念に依拠する内容のないものであったことと、皇国史観なるものが自然主義的な神話構成を特徴としていたことを示している。つまり、天孫たる天皇を中心とするこの神話は、天皇という「裸の王様」をありがたがる人々の範囲内のみで神通力を持ちうるのだが、この神通力の人的限界の存在は(特に「神国」よりも、より強大な国家の存在と、そしてその国家の国民の現存は、)この神話の正当性の無根拠さを白昼の下に曝す。そして、外国人は端的に国家の神通力の人的限界に外ならない。ならば、攘夷論のイデオローグにとって、外国人は魔術的な存在ではなく、むしろ日本社会を統合している価値や社会規範を空洞化させるリアルな脅威であった。1991年の今日、今更攘夷論でもあるまい。けれども、現在展開されているほとんどの「外国人の論議」はこの攘夷論や六本木レヴェルを脱するものではないと私は思う。

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[四]
今、世は国際化の時代と呼ばれている。
しかし、国際化とは強い円をアタッシュケースやハンドバッグに詰め込んで、パリやローマでショッピングすることでも、フィリピンやタイで現地の魅力的な女や男を買うことでもない。国際化とは、民族や国民の自己同一性やある国家に一定程度固有の社会規範が存立の危機に立たされることである。しかも、国際化の時代・ボーダレスの時代では、国際政治における強者・列強も弱者も古の「鎖国」や「栄光ある孤立」や「モンロー宣言」によってこの相互依存の状況、即ち、国際化のゲームから降りることはできない。だから、あと30年後の「日本史」の教科書なるものがもし存在するとするならば、88~89年に九州へ漂着した中国からの偽装難民や本物のヴェトナムのボートピープルは、ペリーの四隻の黒船や厚木基地に降り立ったマッカーサーよりもより本質的に日本が開国=国際化する上での象徴的な事件であったと記述されるかもしれない。

日本の国際化とそれにともなう日本人の意識の変容を検討する上で、海外旅行者・海外留学者のここ10年くらいでの激増は興味ある現象である。今年は、年初の湾岸戦争の影響にも係わらず、つい一千万人を超える日本人が海外に渡航するのは確実視されている。つまり、1991年は国民の1割が外国人に成る経験をする年なのである。また、米英のMBA(経営学修士号)取得を目指し留学する日本人は間違いなくここ五年間で3倍にはなっている。

「海外に行くと、皆愛国者になって帰ってくるものさ」と昔、同志社大学のある政治学の講師に聞かされたことがあった。愛国者になるか否かは別として、「自分は日本人なんだなぁ」と自覚する機会が外国に行くと多いのは事実である。

東洋人なんか一人もいないようなアメリカの中西部で偶然に日の丸を見掛けた感動や、2週間ぶりに日本に帰って久しぶりに日本のお金を手にした感動、空港の税関のフロアでゲート前に並んでいる何百人の髪がみんな黒色なのに却って不気味さを覚えた如き体験は、確かに誰もが持っているだろうし、その経験は自分が日本人であることの自覚を誘うものであろう。しかし、この日本人としての自覚が、所謂日本の固有の文化にまで通じていると無前提には言えはしまい。何故ならば、日本という国名が自分の所属している野球やラグビーのチーム名なんかとは質的に違う、何か深い意味を持つものかどうかは個々人によって異なるであろうから。

プラハで生まれカリフォールニアで没した、20世紀最高の法学者の一人、ハンス・ケルゼンは、国家をも含むこの様な人間集団を、価値や評価の帰属点として整理した。帰属点(Zurechnungspunkt)は、実体的に存在するものではない。それはある価値や評価が帰属する点として人間の観念の中にのみ存在する。即ち、ラグビーのワールドカップのゲームで、平尾がトライしても大八木がトライしても、「ジャパン」に四点が入る。しかし、私は平尾や大八木、林を実際に大学の学食で見たことはあるが、「ジャパン」に触ることは勿論、目で見ることもできない。

「ジャパン」とは、ラグビーのルール・ブックとラグビーの慣習が意味的世界に作り上げる所の評価・価値・意味(得点や勝敗)の帰属点である。それは主観的個人的なものに尽きる訳ではなく、社会的かつ公共的な性格を持っている。そして、繰り返しになるけれども、帰属点に社会性・公共性を付与するのがゲームのルールである。つまり、清原がホームランを打てば、西部ライオンズという価値の帰属点に得点が記録される。原が三振すれば、巨人という意味の帰属点に6回裏の攻撃は終了する。中田のトスが冴え、大林のスパイクが決まったので、ニッポンという評価の帰属点のバルセロナ・オリンピックへの出場が決定する。そして日本という国家もこの様な無限にある帰属点の一つに過ぎない。

国家が民族文化の同一性の核心であるとか、人倫の最高段階・倫理的理念の現実性であるとかの、私の如き縁無き衆生にはとんと理解できないありがたいものか否かは別にして、少なくとも意味の帰属点としての国家を設定して、ある社会的事件なり事態をそれに結びつけることにすれば思考の経済にも役立ち便利である。即ち、湾岸で実際に戦ったのはアメリカの若者とイラクの青年であったのに、湾岸戦争は「アメリカ」と「イラク」の間の戦争として了解される。米国や英国、フランス、シリア等々の「国々」の兵士の行動は、帰属点としての「多国籍軍」の活動として把握される。米国のパイロットのイラクの民間施設への攻撃は、正義の観点からは「全人類」への邪な行いなのかもしれない、と。

帰属点を個人的に設定することも可能である。しかし、他社との係わりの中で、即ち社会的や政治の文脈で帰属点が使用される場合には、帰属点を巡る意味づけのルールが自生的にせよ人為的にせよ、とにかく社会的・公共的に定立されていなければならない。そしてある意味では、言語や法、性・家族関係を規定するルールは、すべて帰属点を巡る帰属のルールを定めているとも解せよう。

「海外に行くと日本人としての自分を自覚する」ことは価値や意味や評価の帰属する点としての日本を意識することである。勿論、ここから更に進んで日本固有の文化なりに思いを至らしめる場合も少なくはないだろう。しかし、一方で、「日本」が帰属点に過ぎないこと、そして帰属点を帰属点たらしめている意味づけのルールの存在とルールの相対性に、自覚的か無自覚的にかは別にして、今後日本の人口の1割以上が毎年毎年対面して行くことも確かなのである。

国際化の時代は、外国人が日本社会の構成員になる側面のみならず、日本人が「外国人」となる通路からも、所謂日本文化の独自性なるものや民族の自己同一性という神話と神話の説得力や神通力を最も基本的なところで弛緩させていく。この民族の自己同一性や国家の国民統合の原理の危機が、個々の日本人の危機では必ずしもないことは当然としても、この国際化の観点からは、「世界同時革命」や「万国の労働者の団結」は冗談抜きにリアルなものである。


民族問題と外国人の問題は重要な点で関連している。
アメリカ国民は実に多様な独自の言語と習慣と宗教とを、即ち文化を持つ人々によって形成されている。日本の社会もアイヌ人等の少数民族や在日韓国人・朝鮮人を中心とする百万人以上の「日本人」以外の民族を含んでいる。民族問題が、人為的で制度的な国家の統合原理たる理念・イデオロギー・社会規範と非人為で自然的な民族固有の価値観や社会規範が衝突し調整不能に陥ることに始まるとするならば、民族問題は国家の内におけるアノミー化の危機であり、外国人の問題は外からのアノミー化のそれと解される。両者とも、しかし、既存の国家の統合原理の正当性と効力(社会規範と世界観の妥当性と実効性)を問う契機をはらむ点では同じなのである。

アメリカ合衆国は多民族国家であるが、法の支配の理念とマックス・ウェバーの言う「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のエトスは国民統合の理念として未だに強い拘束力を持っている。韓国における儒教思想や日本における天皇制をプロトタイプとする所謂縦型社会の交通形態は近代国家流の法治主義思想とならんで、現役の国民統合の原理であろう。この様に人為的な国家には、政治哲学・法哲学的及び社会学的の双方の角度から観察し抽出され得る、理念としての国家・国民統合の原理が憑いている。

このような現実の政治的な、よって人為的な国家の国民支配・人民統合の根拠=神話に対して、民族の問題は根本からの反省を迫るのである。ソヴィエト・ロシアや中華人民共和国、ユーゴスラヴィア等の所謂社会主義国における少数民族問題や民族国家への分裂の傾向、アメリカ合衆国等の人為的国家としての条約国家における先住民族の権利の問題は、この人為的国家の理念と自然的民族文化との主導権争いの典型例である。ナポレオン戦争後の民族国家成立、第二次世界大戦後の諸民族の近代国家形成を見るまでもなく、民族は人為的国家を形作る動因でもあるが、民族(特に少数民族)は国家を引き裂く契機にもなる。これは、ウィルソンの提唱した「民族自決権」の理念と方針だけでは解決できない問題なのである。総ての民族が国家としての独立を達成したとして、その様は国家の内はたしてどれくらいが、国家権力の公共的機能を行使しガバナビィリィティーを発揮することができるだろうか?

私の最も尊敬する政治家の一人、マーガレット・サッチャー前英国首相は、「総ての人為的国家は民族によって解体される危機を常に持つ」と語っているが、これは人民への支配や抑圧の制度としては国家の総てが見事に機能するとしても、公共的機能をも果たせるものは少ないことを見通した発言である。民族は人為的国家を引き裂き新たな民族国家を形成する要因であるが、この運動はそこで終了するという性格のものではない。これに対して外国人の問題は国家が人為的国家であることを全うすることの問題に収束する。民族と外国人の二つの視座からの既存の国家への吟味は、全く反対の方向から成されることになる。しかし、ともに国家を補足する射程を持っている。

自然発生的な民族と慣習的な妥当性を持つ文化・社会規範の前には、人為的な国家の統合原理は結局は無力なのであろうか? 外国人の問題は民族の問題を経由してついにこの一点に至るのかもしれない。「世界同時革命」や「万国の労働者の団結」はある面でリアルであるとしても、それは様々の民族によって結局また引き裂かれる運命にある何番目かの人為的国家を形成するだけなのかもしれない。しかし、少なくとも外国人の問題は現在不可避の課題を我々に突き付けていることだけは明らかであろう。(了)

1991年5月15日 湘南平塚にて



【編集後記】
本作品は、1991年当時、私が関わっていたある同人誌(『社会批判雑誌ソシエテ』第2号)に基調として寄稿したものである。我ながら文章も生硬いし論旨も難渋かつ不明確。そして、私の天皇制や国家に対する評価もこの10数年である程度変化している。そのような<若気の至り>の旧稿を、12年後の今、弊サイト海馬之玄関に搭載するのは、しかし、原稿保存のためだけではない。それは、外国人問題を国家論として捉える思想的姿勢はいまだに有効と考えていることと基本的な思索の立場に変化がないことによる。2003年2月28日、時はまさに12年ぶりにイラクと米国の激突が取り沙汰されている。そのような時世を見ながら、「国家とは何か」、「日本とは何か」、「日本人とは何か」をあらためて考える契機としてアップロードする。これを読まれた方から何がしかのフィードバックがあれば大変嬉しいと思います。尚、同時にアップロードする『揺らぎの中の企業文化』は本稿の続編である。よろしければ続編と併せてご一読いただきたく存じます。


武州新百合ヶ丘にて平成15年2月28日記す



(2003年2月28日←1991年5月15日:本家サイトにアップロード)

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