松尾光太郎 de 海馬之玄関 FC2版 | 皇族の政治的発言と憲法の規範意味
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皇室典範の改正に関する三笠宮寛仁親王殿下のご発言を巡ってここ数日世間が騒がしい。皇族は政治的な発言を差し控えるべきかどうか。朝日・産経の両全国紙が社説で論じたからである。私はいくら個人のBLOGとはいえ、皇室に係わるイシューを興味本位で語るのは好ましいこととは思っていない者である。しかし、ネット上には、憲法4条1項の理解どころか憲法の基礎的な理解もできていないもの、到底そうとしか私には思えない主張も少なくないようである。蓋し、皇室と憲法の関係につき私の考えを記すことにした所以である。

●憲法3条  
天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

●憲法4条 1項 
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。


「皇族は政治的な発言を差し控えるべきかどうか」を判断するためには何を考えればいいのだろうか。すなわち、論点の確定であるが、私はそれを次の2点と考える。

・現行憲法は皇族の政治的表現を制限しているのか
・憲法はそもそも政治的表現を制限可能なのか


先回りして結論を述べれば、現行憲法は皇族の政治的発言を無制限に制限しているわけではないし、いずれにせよ、その制限には立法による根拠づけが必要である。また、(現行憲法も含む)憲法一般に関して、政治的な影響力を帯びるすべての発言や行為を憲法が制限するなどということは不可能である;それは、物理的にだけでなく法概念論的にも不可能である、と。

蓋し、「寛仁さま 発言はもう控えては」と朝日新聞が(自己の政治責任において)主張するのは勝手だけれども、それは現行憲法の規範意味からも法一般の本性からもサポートされない根拠薄弱なものである。この帰結を敷衍する前に問題の朝日新聞と産経新聞の記事を引用しておく。


●朝日新聞社説(1) 2006年2月2日
「寛仁さま 発言はもう控えては」

皇位継承のあり方をめぐり、天皇陛下のいとこにあたる寛仁(ともひと)さまの発言が相次いでいる。

昨年、会長を務める福祉団体の機関誌に随筆を寄稿したのに続き、月刊誌「文芸春秋」などでインタビューに応じた。さらに産経新聞と、同社が発行する雑誌「正論」にインタビューが載った。(中略)

小泉首相から皇位継承のあり方を諮問された有識者会議は、女性天皇やその子の女系天皇を認める報告書をまとめた。政府はこの報告書に沿って皇室典範の改正案を準備中だ。寛仁さまの発言は、この報告書や首相の方針に異を唱えるものである。

だれを天皇とすべきか。皇位継承は天皇制の根幹にかかわる問題だ。国民の間で大いに論議しなければならない。皇族にも様々な思いはあるだろう。(中略)

今回の一連の寛仁さまの発言は、皇族として守るべき一線を超えているように思う。寛仁さまはインタビューで「皇族は政治にタッチしないという大原則があります」と述べている。その大原則に反するのではないかと考えるからだ。

憲法上、天皇は国政にかかわれない。皇位継承資格を持つ皇族も同じだ。(中略)天皇制をどのようなかたちで続けるかは国の基本にかかわることで、政治とは切り離せない。(中略)たとえ寛仁さまにその意図がなくても発言が政治的に利用される恐れがある。それだけ皇族の影響力は大きいのだ。(中略)そろそろ発言を控えてはいかがだろうか。


●産経新聞社説 2006年2月3日
「朝日社説 「言論封じ」こそ控えては」

寛仁さまが月刊誌などで皇位継承について発言されていることに対し、朝日新聞は二日付で「発言はもう控えては」という社説を掲載した。同じ言論機関として、違和感を覚える社説だ。(中略)

朝日は「一連の寛仁さまの発言は、皇族として守るべき一線を超えているように思う」とした上で、「天皇は日本国民統合の象徴だ。国民の意見が分かれている問題では、一方にくみする発言は控えた方がいい。これは皇族も同じである」「そろそろ発言を控えてはいかがだろうか」と書いている。

寛仁さまの発言を批判することは言論の自由の範囲内であるが、その発言を封じようとする社説は、言論・報道機関として、守るべき一線を越えているように思われる。(中略)

寛仁さまが言わんとしていることは、安易に女系を認める前に、いろいろな選択肢があり、あらゆる手を尽くすべきだという趣旨だ。それでも男系維持が難しければ「女帝・女系の議論に入っていけばいい」「最終的には皆さんのご判断を待つ」(雑誌『正論』三月号)とも言っている。(後略)


●朝日新聞社説(2) 2006年2月4日
「皇室典範 ここは冷静な議論を」

皇室典範の改正問題で、政界が騒がしくなってきた。(中略)気がかりなのは、こうした議論のなかで皇族の発言が注目されていることだ。自民党内の改正先送り論の高まりについて、同党の細田博之国対委員長は「宮さまが否定的な見解を公表されたことも大きく影響している」と語っている。

宮さまとは三笠宮家の長男、寛仁(ともひと)さまのことだ。昨年来、月刊誌などで女系天皇に異を唱える発言を繰り返してきた。

私たちは、一般論としては皇族であっても自由に発言するのが望ましいと思う。だが、戦後の憲法で国民統合の象徴とされた天皇には、政治的行為や発言に大きな制約がある。皇族もこれに準じると解釈すべきだろう。(中略)

私たちが2日の社説で寛仁さまに「もう発言を控えては」と求めたのは、皇族としての制約を超えると考えたからだ。皇室の総意であるかのような誤解も与えかねない。細田氏の言うように、政治に具体的な影響を及ぼしているとしたら、なおさら見過ごすわけにいかない。

この社説に対して「言論機関が皇族の言論を封じるのか」という反論も寄せられた。しかし、皇族だからこその言論のルールがある。それを指摘するのはむしろ言論機関の責務ではないか。ここはぜひ冷静な議論を望みたい。



◆現行憲法と皇族の政治的発言
憲法京都学派の最後の総帥・田畑忍先生の筆法に倣えば、「憲法上、天皇は国政にかかわれない。皇位継承資格を持つ皇族も同じだ」「憲法で国民統合の象徴とされた天皇には、政治的行為や発言に大きな制約がある。皇族もこれに準じると解釈すべきだろう」という朝日新聞の主張は成立しない。

なぜならば、全百三条の憲法のどこにも「天皇以外の皇族もまた国政に関する権能を有しない」などとは書かれていない。また、現行憲法19条と21条は「何人も」や「すべて国民は」あるいは「国民は」という主語(=人権享受の主体)を明記することなく「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定しており、而して、政治的な表現の自由は普遍的なものであり皇族にも外国人にも保障されている。そう現行憲法は捉えていると考えられるからである。

法解釈において条文の文言をより重んじる昔懐かしい京都の薫りを紹介したけれど、その帰結は重要な視座を提供していると思う。旧憲法から現行憲法への移行に伴い天皇主権から国民主権への変更がもしあったとしても、その事実や国民主権の原理なるものから、誰に対してであれ憲法条規に何の根拠もなく人権を(しかも、これまた昔懐かしい「人権のダブルスタンダード論」から見ても、「人身の自由」と並んで最大限尊重されるべき「政治的表現の自由」を)制限することなどできはしない。そのことを憲法の京風解釈は示していると解するからである。

憲法改正直後から、天皇の政治的行為を巡っては次のイシューが主に論議されてきた。

(甲)天皇の行為には憲法に明記されている「国事行為」と純然たる「私的行為」のほかに、国の象徴としての行為たる「公的行為」が憲法上認められるのかどうか(4条1項参照)
・・・通説:「公的行為」は認められる

(乙)「天皇の国事行為」に対する「内閣の助言と承認」とはどのような意味なのか:それらは一体のものか個別に行われなければならないのか(3条参照)
・・・通説:論争にあまり実益がなく曖昧ではあるが、「助言と承認」は一体であるとする見解が有力

(丙)「天皇の国事行為」として憲法7条が列挙している事項や6条の「内閣総理大臣の任命」「最高裁判所の長たる裁判官の任命」。あるいは((甲)で「天皇の公的行為」を認める場合には)公的な行為の実質的な決定権者は国のどの機関なのか? また、その根拠は何か?
・・・通説:議院内閣制の本性を鑑みて憲法に特に明記されていないものに関しては原則「内閣」と解する

しかし、憲法が定めている天皇の地位に伴う天皇の人権の制約についてさえ、憲法第1章「天皇」の1条〜8条、あるいは、99条「天皇又は摂政は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」という明文の規定がカバーする範囲以外の事項に関して消極的な研究者は少なくない。少なくとも、国民主権の原理なるものだけを根拠に、天皇の人権制約の範囲を広く解する見解が憲法研究者のコミュニティーで特に有力というわけではない。ならば、ましていわんや憲法に条規が皆無の(「摂政」以外の)皇族においておや、である。

而して、私は「現行憲法は皇族の政治的発言を無制限に制限しているわけではないし、いずれにせよ、その制限には立法による根拠づけが必要である」と考えるのである。これは、外国人の人権、あるいは、選挙権や被選挙権のない未成年者の政治的な表現の自由の保障と憲法的には何ら異なることはない。

畢竟、「寛仁さま 発言はもう控えては」と言うことが現行憲法や国民主権の原則を根拠にして主張できるとするならば、それと全く同じ法的な根拠をもって「外国人の皆さん 発言はもう控えては」とか「おいそこの高校生 未成年者が政治の話しをBLOGに書くのは100年とは言わないが3年早いんだよ」とも言えることになろう。


蓋し、三笠宮寛仁親王殿下が、一連の朝日新聞の社説からお受けになられた精神的ダメージや名誉の棄損に対して民法の不法行為(709条)と並んで憲法13条・21条を根拠とした一種の憲法訴訟を提訴されることはまずないだろう。ならば、皇族の政治的発言の制約の憲法論議は、皇族の方々の人権を制約する法規や行政機関の行為の合憲性判断が、唯一、その戦場になる可能性があると思う。しかし、皇族への選挙権と被選挙権の制限に関する選挙関連の諸法規を除けば現実に皇族の方々の人権を制約する法規はそう見当たらず、よって、「現行憲法は皇族の政治的発言を制限しているか」の検討はこれでゲームオーバーになる。

「私たちが2日の社説で寛仁さまに「もう発言を控えては」と求めたのは、皇族としての制約を超えると考えたからだ」「細田氏の言うように、政治に具体的な影響を及ぼしているとしたら、なおさら見過ごすわけにいかない」「皇族だからこその言論のルールがある」という朝日新聞の社説を読むとき、私はある特殊な憲法理解がこの主張の底に横たわっていると感じる。それは、天皇制は国民主権と矛盾する→国民主権は現行憲法の理念である→皇族制度はあくまでも現行憲法の例外規定にすぎない→天皇のみならず皇族の人権の制約には憲法の明文規定は不要だ、というような主張である。

しかし、このような議論は現行憲法の条規からその主張を根拠づけるのに成功しない限り、大人が真面目に相手にするようなものではない。彼等は、自分が勝手に造作した空中楼閣ともいうべき国民主権論だけを根拠にして勇敢にも、現行憲法が明記する「天皇」と「表現の自由」に挑戦しているのだから。畢竟、皇族の政治的表現を制限できるという主張はどう考えても、憲法の文言より自己の願望か妄想を上に置く法的な思考とは無縁な政治論にすぎない。


◆憲法は政治的発言を制限可能か
政治的影響力なるものは完全に制御できるものだろうか。皇族の政治的影響力の話しからは外れるけれど、私はある知人から公立学校の英語教育に関して次のような主張を聞いたことがある。

「英語を公立学校で教えること自体、アメリカの帝国主義的なイデオロギーを子供達に注入するものだ。それは、人倫と道徳に反する所のアメリカの世界支配を助けるものだ。ならば、日本では英語に替えて(強制的に!!)エスペラントを公立学校で教えるべきだ。なぜ「強制的」かと言えば、保護者や子供達に選択を任せていては彼等の大多数は結果的に英語を選択するだろう。それでは、いつまでたっても現状の改革はできないからだ。これは一種の「アファーマティブアクション」(=現状の不平等を是正するために一時、人為的に被抑圧・被差別者を行政が優遇すること)である」、と。

こうのたまう道徳心溢れる論者もこの世の中にはおられるのである。週刊金曜日の読者的なこのエスペランティストの目には、公立校の英語の授業でさえ政治的影響力を発信するメディアに他ならない。まして、ネスレが欧州の植民地支配の正当化の象徴であり、コークやマクドナルドやケンタッキーフライドチキンがグローバル化した世界を覆うアメリカの文化支配の象徴として、イスラム圏を始めアフリカやラテンアメリカ諸国ではその政治的影響力を警戒されているのは常識ではないか。何を私は言いたいのか? 

それは、一体、ある人の表現行為について憲法が(というより、「法が」と言うべきか)政治的影響力を無制限に制限することが可能なのだろうか? そういう問題提起である。不可能と私は考える。理由は物理的や社会学的なものと法概念論的なものの二つである。簡単な話しだ。

憲法や法が規制できるのは精々ある行為者の表現行為にすぎない;しかるに、政治的影響力なるものを感じる/受けるのはその表現行為の受領者なのである。すなわち、皇族の表現行為を原則禁止する、かつ、皇族の行為を物理的に24時間×365日監視下に置くのでもない限り、皇族の政治的影響力を制限するには、逆に、1億2千万人の国民の方を24時間×365日(しかも、この場合には物理的にだけではなく心理的・精神的にも)管理下に置かなければ不可能だからである。

抑圧的な独裁制はその強面の外面とは裏腹に自由な言論を基盤とする民主制よりもその支配力は脆弱だ。このことは政治学のイロハの「イ」の認識であろう。而して、その最大の理由は上で書いたような独裁支配(=朝日新聞的支配か?)の高コスト体質にある。実際、ビルマのアウンサンスーチー女史は1990年5月27日から現在に至るまで断続的とはいえ長期にわたり自宅軟禁の状態に置かれているけれども、女史の政治的影響力と世界的な名声はいやましに大きく高くなっているではないか。

まして、前節で考察したように、現行憲法下においても天皇を除く皇族の(実は、憲法に明文の規定がある事項を除けば「天皇も含めた皇族の」と言うべきだろうが)政治的な表現の自由が憲法的に無制限に制約されるわけではない。更に、それをブレイクダウン、かつ、インカーネトした法規も存在しない以上、現行憲法体系が皇族の政治的表現行為を封殺することは朝日新聞的な言論弾圧のファシズムを持ってしても物理的に不可能であろう。これが「ある人の表現行為について法が政治的影響力を制限することは不可能」と私が考える物理的と社会学的な理由である。


法概念論から見て、「ある人の表現行為について法が政治的影響力を制限することは不可能」とはどのような事態か。この説明に入る。これまた簡単な話しである。

物理的に不可能なことを法は誰にも要求しない。有名な法諺に「炎の中に手を入れてはならないという法は存在しない」というのがあるが、要は、皇族の政治的影響力を制限する法規が制定されたとしても(かつ、皇族の方々が政治的表現行為を差し控えられた場合にも)、皇族の政治的影響力はなくならない。すなわち、そのような法はその法規が向けられる皇族・国民、そして、その法規を運用する行政機関の三者のすべてに対して法として機能しないということだ。物理的と社会学的な理由の補足説明のように感じられるかもしれないけれど、この経緯には物理的と社会学的な事態だけではなく法理論的なものが含まれている。

例えば、朝日新聞の次のような主張:「天皇制をどのようなかたちで続けるかは国の基本にかかわることで、政治とは切り離せない。たとえ寛仁さまにその意図がなくても発言が政治的に利用される恐れがある」「私たちが2日の社説で寛仁さまに「もう発言を控えては」と求めたのは、皇族としての制約を超えると考えたからだ。細田氏の言うように、政治に具体的な影響を及ぼしているとしたら、なおさら見過ごすわけにいかない。ここはぜひ冷静な議論を望みたい」を読むとき、私は言わば<現行憲法の贔屓の引き倒し>的な心性を感じる。

蓋し、<憲法の理念は守られるべきであるから憲法の理念は具現可能である>というお子様の感性である。而して、憲法フェチともいうべきこの感性は、憲法を含む法規範にはできることとできないことがあるという平明明晰な事実を失念していると思われる。そして、不可能を要求する法規範は(物理的・社会学的に)機能しないだけでなく法規範としての尊敬をも国民から勝ち取ることはできず、すなわち法的な効力を欠き法ではない。ならば、この憲法フェチの心性は、結局、彼等が妄想する(彼等の願望にすぎない)国民主権原理なるものが法規範ではないことを白日の下に曝すことに至るに違いない。法概念論によるこの補助線を用いて、最後に、「ある人の表現行為について法が政治的影響力を制限することは不可能」という主題を敷衍する。


現行憲法はその41条で「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である」と定め、また、43条1項では「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と定めている。よって、国民の人権を制約するには国会で成立した法律(少なくとも、政令・条例に効力を付与する法律)が不可欠である。しかし、国民の人権を制約する法律の内容を閣僚の私的な政策懇談会や政党、はたまた、業界団体やNPOが実質的に構築することは(それらが最終的に国会で審議され成立する限り)憲法に違反しないし、また、それを法で禁止することなどできはしない。それは政治に影響を与えるにしても私的な行為だからである。

また、現行憲法99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と謳っている。而して、通説判例ともに、この規定の定める義務を法律的義務というより政治的・道徳的義務と考えている。しかし、この義務を、例えば「人権・平和・国民主権という憲法の基本理念を変更することを国務大臣や国会議員に対して禁止する憲法保障の規定」と解する研究者もおられないではない。

けれども、憲法研究者や極一部の国民が考えるにすぎない、ある特殊な「憲法の基本理念の内容」を根拠にして、その内容に反する憲法改正案を時の国務大臣や国会議員が国会で審議し成立させることを(物理的や社会学的にだけではなく)禁ずることはその行為が憲法96条の憲法改正条項に従う限りできない。その国会における改正作業は憲法が豪も制限することのできない事柄である。まして、そのような憲法改正を国務大臣や国会議員がTVや街頭で国民大衆に訴える行いを(それが何らかの法規に反しない限り)禁じることなどできはしない。それは政治に影響を与えるにしても私的な行為だからである。

さて、三笠宮寛仁親王殿下が今回そこで「皇位継承のあり方をめぐり発言」された媒体の中には、殿下ご自身が「会長を務める福祉団体の機関誌」が含まれていたとのことである。実際、皇族の方々は日本赤十字社の名誉総裁などの「福祉団体」や文化事業プロジェクトの多くで名誉職についておられる。ならば、皇族の方が小学校や中学校のPTAの役員に就任されたり、あるいは、各自がお住まいの町内会等の役員に就任されることを法は規制できないだろう。なぜならば、これらは純然たる私的行為だからである。

このような私的活動と世に政治的な影響を与える活動や表現との距離は皆無である。ならば、法が皇族の政治的な影響を何らかの明確な基準でもって制限することは不可能と考えるべきである。蓋し、この経緯が、「法概念論から見て、ある人の表現行為について法が政治的影響力を制限することは不可能」と私が考える理由である。尚、憲法に関する私の基本的理解に関しては、とりあえず下記の拙稿を参照いただきたい。


・政治と社会を考えるための用語集(2) 憲法
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/858520.html

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)(下)
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-12.html
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-13.html



(2006年2月4日:yahoo版にアップロード)

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2007.10.24(16:29)|憲法・国家論コメント(1)トラックバック(1)TOP↑
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