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護憲派による自殺点☆愛敬浩二『改憲問題』(壱ノ巻)

aikyo


改憲派にとって便利な書籍が上梓された。愛敬浩二『改憲問題』(ちくま新書・2006年4月)。改憲派の典型的な主張を網羅した上でそれらに対する護憲派からの応答をコンパクトに示すものだ。

著者は護憲派の理論武装に貢献しようとされたのだろうか。そう思う。しかし、その出来栄えは残酷なほど支離滅裂である。蓋し、本書は一世代前の護憲派の主張が、実は、ある特殊な国際情勢認識と絶対平和主義という価値観を共有する仲間内でしか通用しないものであることを悲しいほど赤裸々に告白する一書になっている。

本書を読了した今、<護憲派の最終防御ライン>と私が呼んでいる東京大学の長谷部恭男教授の主張しか、最早、大人が真面目に相手にするに足る護憲論は存在していないと確信した。愛敬『改憲問題』を称して「一世代前の護憲派の主張」と記した所以である。尚、長谷部さんの主張に関する私の基本的な理解についてはとりあえず下記拙稿を参照していただきたい。

憲法改正の秋-長谷部恭男の護憲派最終防御ラインを突破せよ!

長谷部恭男教授の<憲法9条改正不要論>の検討

井上達夫教授の<憲法9条削除論>の鮮烈と無為徒食の憲法学者の有害無比な生態
 

畢竟、『憲法とは何か』(岩波新書・2006年4月)および『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書・2004年4月)で長谷部さんが示された理路、即ち、

(1)法規範の分析(下位概念たる準則と原理の導入:プリコミットメント論)
(2)立憲主義からの憲法が実現を期す価値の制約(信仰、あるいは絶対平和主義のような比較不能な価値を国家権力は強制も禁止もすべきではないという指摘)
(3)ゲーム理論と古典的政治哲学からの平和と戦争を考えるモデル枠組みの提示
(4)憲法改正と解釈が帯びる現実の東アジア世界への政治的メッセージ性の予測


これら(1)~(4)を基盤とする、
①憲法9条は国の行動の理念や大枠の方針を示すルール(原理)にすぎず、それは国が必ず遵守しなければならないルール(準則)を定めたものではない
②よって、自衛隊は憲法に違反せず
③憲法9条を改正しなくとも国防にこれと言った支障が出ないはずであり
④ならば、「いままで、原理を示すものとして扱ってきた条文、したがってとくに改正する必要もないとしてきた条文を、いまになってことさら改正しようとすることがどのように受け取られるか、どのようなメッセージを周辺諸国に送ることになるかという政治的意味合いを」(前掲、『憲法と平和を問いなおす』, p.174)考えれば憲法9条の改正は国際政治の場に無用な軋轢を生む事柄ではないか

こう述べられる長谷部さんの「お穏和な平和主義」は、内田樹さん流に言えば、成熟した大人のクレバーな見識ではあろう。他所でも書いたことだけども、私はこれを「中庸を得た見事な主張」であり「これが冷戦構造下の世に問われたのなら諸手を挙げて長谷部さんを支持し喝采を叫んだ」とさえ思う。

実際、個別的自衛権だけでなく集団的自衛権も現行憲法は認めており、内閣の閣議決定だけで集団的自衛権の行使は可能と考えている私にとって、現行憲法9条の下で日本に許されないことは、直接の脅威をわが国に与えるものではない、けれども、同盟国アメリカに対する脅威に対処するケースにほとんど限定される。例えば、ビンラディン艦隊を大西洋はロードアイランド沖で我が優秀で勇敢なる海上自衛隊が迎撃する等の場合だけである。そう考えれば、長谷部さんの主張は数多の空理空論的護憲論とは異なり、その現実性も高いと評すべきであろう。敵ながら天晴れ!


◆『改憲問題』の蹉跌
さて、どのような点を指して本書『改憲問題』を「残酷なほど支離滅裂」と私は考えたのか。それは次の4点である。

(甲)憲法の妥当根拠の脆弱性:
 人権と平和の普遍性の詐称、プリコミットメント論の誤用!
(乙)安全保障認識の恣意性:
 「戦争は起きない」となぜ断言できる、占い師でもあるまいに?
(丙)世界観の変遷の看過:
 人権・平和の意味内容は国民の法的確信で決まる!
(丁)憲法改正の説明責任の所在:
 国民の気分で憲法改正が実現するとしても誰がそれを批判できる?


これらについては最後に検討するとして、その前哨としてしばらく『改憲問題』をそのおおよその章立てに沿って一瞥する。神は細部に宿る。大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を基盤とし、国民を半世紀以上も騙し続けてきた一世代前の護憲論の意味内容と、その<裸の王様>がなぜ半世紀もの間、「王様は裸だ!」という告発を受けないできたのか;その意味を『改憲問題』のディテールを吟味する中で反芻したい。その退屈な作業も戦後民主主義を完全に打破する上では無駄ではなかろうと思うから。尚、私の憲法と安全保障に関する基本的な考えについては下記拙稿を参照いただければ嬉しい。 

 

<改訂版>自薦記事一覧:保守主義の憲法論と社会思想

 -憲法学の再構築と占領憲法の破棄・改正を求めて

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5f7bef87927eae129943ca8b5bb16a26


・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)


政治と社会を考えるための用語集 憲法

戦後民主主義的国家論の打破☆
 国民国家と民族国家の二項対立的図式を嗤う(上)(中)(下)

 
立憲主義と憲法の関係☆憲法は国家を縛る「箍」である

人権を守る運動は左翼の縄張りか? 保守主義からの人権論構築の試み
 
「改憲をめざす内閣」は憲法違反か?
「改憲をめざす内閣」は立憲主義と矛盾する?


 
 本書は一世代前の護憲派の理論を縦糸に、そして、改憲派が持ち出してきた代表的な主張を横糸にして編まれている。後者は次の7個(同書, pp.25-27)。各項目に付した章番号は主に俎上に乗せられている本書の該当箇所を示している。
(1)改憲が必要な一般的理由
・日本国憲法は「押しつけ憲法」だから(1章)
・日本国憲法は「古い憲法」だから(4章)
・改憲は国民主権の発動(4章)
・憲法改正論議をタブーにしてはいけない(2章)

(2)とくに九条改正が必要な理由
・自衛隊の存在を認めるのが現実的(3, 5, 8章)
・「解釈改憲」は最悪、軍事大国化を抑止するための改憲(5, 6章)
・侵略の危険がある以上、九条を改正すべき(3章)


本書『改憲問題』は、代表的な改憲論の主張を抽出する「ある日の狩田ゼミの風景 -序にかえて」と「まえがき」「あとがき」の他、全9章の構成になっている。即ち、第7章「自民党の「新憲法草案」-どこが問題か、なぜ問題か」と第9章「国を愛すること、憲法を愛すること-「愛国心」を考える」は、改憲論の個別の主張を検討するのではなく、広い現実政治的(第7章)、ならびに、政治思想的な価値(9章)のパースペクティブの中で改憲問題全体を検討する作業にあてられている。

本稿では、より具体的に護憲派批判を行う都合上、7章および9章は必要な箇所で言及するにとどめる。以下、『改憲問題』からの引用箇所の表示はページ数のみ示す(例えば、p.48, pp.65-68, p.55ff:48頁参照, 65頁から68頁を参照, 55頁以下参照)。愛敬浩二「憲法によるプリコミットメント」(ジュリスト・第1289号=2005年5月1日-15日合併号所収、pp.2-8)を始め他の文献から引用する際にはその都度明記する。



◆『改憲問題』の改憲論批判:押し付け憲法論(第1章)
本書では「押し付け憲法論」の定義がそう明確に書かれているわけではない。よって、便宜的に次のような主張を「押し付け憲法論」と想定して話しを進める。

現行憲法は連合国の占領下に、GHQが日本政府に示した所謂「マッカーサー草案」をたたき台にしてGHQのイニシアチブの下制定された。これは、「脅迫による意思表示」にも喩えられる暴挙であり、現行憲法はレイプによって生を受けた不名誉な子供というべきで、その制定に国民の自由なる意思が反映されたとは到底いえない。

この事態は、占領国・地域における占領軍の法規制定を禁じたハーグ陸戦条約附属書陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則第43条「国ノ権力ガ事実上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルベク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ベキ一切ノ手段ヲ尽スベシ」に反する所業であり、他方、現行憲法は旧憲法の主要な内容を変更している点で旧憲法に違反する無効なものである。

よって、独立を回復した日本は法的に無効な現行憲法を政治的にも速やかに改正すべきである、と。


愛敬さんの主張を検討する前に、「押し付け憲法論」に関する私見を述べておく。それは、現行憲法の正統性と正当性の根拠を旧憲法に求める論者でない限り、押し付け憲法論は現行憲法の無効を断ずる根拠にはならないということである。

蓋し、形式的意味の憲法たる現行憲法の効力に関する限り宮澤俊義先生の「8月革命説」(★)は妥当である。またGHQの行為は明らかにハーグ陸戦条約に違反するが、その国際法違反は国内法たる現行憲法の効力には残念ながら(苦笑)影響を与えない。

★註:8月革命説
1945年8月のポツダム宣言受諾によって、法的には天皇主権から国民主権への移行という一種の革命が惹起した(憲法制定権力が交替した)、旧憲法は廃止されないまでも、その条規の意味は(国民主権と整合性が取れるように)変化した。而して、新たに成立した憲法制定権力たる国民が、旧憲法の改正条項(73条)を便宜的に借用して現行憲法を成立させたとする主張。


ならば成立の段階で無効でないのだから、大東亜戦争後60年以上日本国民が憲法を改正してこなかったという事実は現行憲法の効力を担保するものである。現行憲法は改憲が難しい硬性の憲法であるとはいえ(この程度の硬性性は、世界の憲法の中で普通ではないにしてもけして稀ではない)、現在まで改憲できてこなかったという事実は法的意味を持つ。簡単に言えば、現行憲法は「押し付け憲法」ではあるが、それゆえに「無効な憲法」というわけではない。

けれども、逆に言えば、「押し付け憲法だから改正すべき」と考えることが間違いということにもならない。「押し付けられた憲法を戴くのは気分が悪い」と国民の多くが思うならば、政治的にはそれは改憲の立派な理由になるだろう。


押し付け憲法論は、ことほどさように現行憲法の無効を指摘する論理としては成り立たないけれど、現行憲法の正統性と正当性の検討を通して現実政治の場で憲法改正を求める政治的な主張の根拠としては満更荒唐無稽なものではない。而して、愛敬浩二さんも本書『改憲問題』の中で幾つかの「事実」の提示を除けば、現行憲法の正統性と正当性を確認することでもって押し付け憲法論への反論をされている。

結論から先に言えば、『改憲問題』が展開する押し付け憲法論批判の眼目は、現行憲法が具有する価値の普遍的な正当性の一点に尽きている。「大日本帝国憲法(明治憲法)よりも、日本国憲法は「良い憲法」だと判断するから、ポツダム宣言の受諾を原因とする明治憲法の改正(日本国憲法の制定)を支持する」(p.9)ということであり;何をもって「良い憲法」と考えるかは、「憲法や人権の価値」(p.34)がどれくらい盛り込まれているか、そして、人権や自由を現実に保障する「立憲主義」(p.49ff)が憲法にいかに組み込まれているかによって定まるということになろう。

私は、その憲法が保障する人権の種類や範囲、ならびに、それらの人権を保障するための立憲主義の制度が(これは、具体的には憲法裁判所なり違憲立法審査権がその中心的内容になる)どの程度憲法に組み込まれているかをもって、愛敬さんが憲法の良し悪しを判断する根拠の一つと考えられているのであれば、本書の叙述に反対ではない。けれども、憲法の正統性と正当性の根拠は人権と立憲主義に限定されるいわれはないと考える。

蓋し、ある国の文化と伝統を媒介とした当該近代主権国家の統合理念という政治的神話の憲法典への組み込み、そして、それがお芝居にせよ現実に国民が憲法制定に係わったという事実を通しての<支配-被支配の自同性>の演出もまた国家秩序たる憲法秩序の正統性と正当性を担保するものである。ならば、現行憲法はこの点においていささか問題があることは自明であろう。

このような反論に対して『改憲問題』の著者は、近代憲法の正統化と正当化は、普遍的な人権の価値や立憲主義原理によってのみ担われるべきであり、「皇孫統べる豊葦原瑞穂之國」というような歴史的と文化的に特殊な契機には左右されない;そして、現行憲法制定当時の政治状況を鑑みるに(実現したかもしれない政府与党案に比べGHQ草案には)結果としてより豊かな人権規定とそれを担保する上でより明確な立憲主義の制度が組み込まれているのだから、「ほとんどの日本国民が日本国憲法の制定を「涙をのんで」甘受したという想定は不合理であるし、歴史的には完全な誤りである」(p.46);等々と、占領軍が「生まれて初めての自由」をもたらしてくれたと書いた高見順の『敗戦日記』(pp.44-46)を引用しつつ応答されるのかもしれない。

換言すれば、人権と立憲主義は普遍的な価値を持つのだから、それらが組み込まれている限り誰が憲法を起草したかは憲法的には(=憲法の正統性と正当性の度合いを判断する上では)大した問題ではない。そう「一世代前の護憲派」は考えていたのかもしれない。

実際、『改憲問題』が紹介している、「日本国憲法が国会を通過した直後、GHQの憲法起草に携わった人びとに、吉田茂首相から菊の紋章のついた銀杯が贈られたという。「押しつけ」られた当の政府は「押しつけ」に感謝しているわけだ」(pp.43-44)というエピソードは国民が憲法を押し付けられたか否かには何の関係もない事実だと思うけれど、確かに、南北戦争後の南部諸州は北部が構成する残忍なる連邦政府によって、奴隷解放を命ずる憲法を押し付けられた(cf.pp.31-36)。よって、「憲法を「押しつけ」られたのは、日本だけでもあるかのように騒ぎ立てるのは、不勉強というもの」(p.36)には違いない。


人権と立憲主義は普遍的な価値を持つとなぜいえるのか? 『改憲問題』の主張の妥当性は実はこの一点にかかっている。しかるに、「独立宣言において人間の自然的な平等を「自明の真理」と宣言したアメリカは、その理想にふさわしい現実を産み出すのに、二〇〇年間の「妊娠期間」を必要とした」(p.48)という記述を読むとき、愛敬さんを始め一世代前の護憲派はこのことを豪も疑っていない節がある。

「理念は必ず歴史的な事実として実現する」というヘーゲルの弁証法的歴史認識と見紛うばかりのこの主張は、しかし、西欧のごく一部で偶さか観察される憲法史的の事実を除けばそう大した根拠があるわけではない。「人権は普遍的だ」と愛敬さんが1,000回叫ぼうとも、改憲派の私のような<縁なき衆生>には人権の普遍性などは見れども見えずである。ならば、特殊歴史的事実が普遍的に見えるのは、その事実が普遍だからではなくその事実に普遍性を見出したいという論者の願望の影響ではないのか。畢竟、『改憲問題』の押し付け憲法論への反論は人権と平和の普遍性なるものを詐称する誤謬を犯している。

尚、「「国際貢献」と「対米追随」をイコールで結ぶ改憲派が、それにもかかわらず、アメリカによる「憲法の押しつけ」を怨嗟するという逆説」(p.72)として押し付け憲法を巡る愛敬さんの認識は支離滅裂である。現実政治において同盟国アメリカとの連携を維持強化することと、国の基本法たる憲法を国民が自分自身の手で制定し直したいと希求することは何ら矛盾しない。

前者をより強力に推進するためにも後者による国民統合を強化すること、あるいは、後者を恙無く執り行うためにも前者の施策を怠らないことは全く不自然ではない。逆に、愛敬さんの発想こそアメリカとの同盟強化をアプリオリに悪ととらえる原理主義であるか、「現在、鬼畜米英と戦っているのだから、英米起源の文物はすべて敵性の事柄であり廃棄されるべきだ」というようなfetishismではなかろうか。

小結。現行憲法制定のプロセスにGHQからの押し付けがあったことは事実はであるが、それにより現行憲法が無効になるわけではない。而して、押し付け憲法論のポイントはあくまでGHQの押し付けによって棄損された現行憲法の正統性と正当性を理由に改憲を欲することが妥当か否か;あるいは、人権や立憲主義が盛り込まれたことで「押し付けの瑕疵」が治癒されたのかどうかである。畢竟、人権や立憲主義には普遍性が確認できない以上、押し付け憲法論を理由に改憲が行われるべきかどうかは、(法学方法論や憲法解釈論の問題ではなく)日本国民の政治的価値判断が決する政治的問題であると言うべきである。


◆『改憲問題』の改憲論批判:憲法改正論議はタブーか?(第2章)
現在に至るほとんど半世紀の間、政権を担当してきた与党自由民主党はその党是の第一条に「憲法改正して自主憲法制定を目指す」と明記している。これに従い、鳩山内閣は第一党に有利な小選挙区制を導入することで、改憲に必要な議席を得ようとして公職選挙法改正案を提出したし(1956年); 岸内閣は内閣に憲法調査会を設置した(1957年)。そして、昨年2005年11月にはいよいよ「新憲法草案」を自民党は世に問うた。また、民間でも1994年と2004年に読売新聞社は憲法改正の試案を発表している。

これらの状況を鑑みるに、「これだけ多くの人びとが「改憲論議をタブーにするな」と自由闊達に論じることができる社会において、それにもかかわらず、改憲論議が「タブー」とされているとは、どういうことなのか。ちょっと理解に苦しむ」(p.53)と作中で狩田教授の口を借りて愛敬さんが嘆じられることも満更理解できないではない。

他方、世界標準の通説的な法概念論と法学方法論を愚直に展開した好著『憲法第九条』(岩波新書・1982年6月)の中で、「自衛隊は違憲だが合法的な存在である」と述べた小林直樹さんは学界・言論界・護憲運動戦線の中で徹底的に批判された。また、憲法9条に関する憲法変遷論を明記された中央大学の橋本公旦さんの教科書『日本国憲法』(有斐閣・1980年)は上梓後直ちに絶版に追い込まれた。

更に、1978年7月、「諸外国から奇襲があった場合、防衛出動命令が下されるまでの間は法制に不備があるため、超法規的行動を取らざるを得ない」と自衛隊制服組トップとしては当然のことを週刊誌紙上で述べたにすぎない栗栖弘臣統幕議長は更迭された。尚、この発言が軍事的にだけでなく憲法秩序を保障する点からも中庸を得た妥当な議論であることは、栗栖発言からちょうど四半世紀後の2003年6月に有事三法が成立したことを見ても明らかである。

これらの事実を前にすれば「この社会が憲法改正について全くタブーのない社会である」とは到底いえないと私は考える。よって、改憲派の代表的な主張として書き出された7個の事項の中で(pp.25-27)「池上君。黒板に書いてある「改憲論議をタブーにすべきではない」という伏見君の意見は消しておいてください」(p.55)という狩田教授=愛敬さんの<指示>は拙速であろう。

これは私の想像にすぎないけれど、栗栖・橋本・小林の事例に「憲法改正論議のタブー性」を感じない愛敬さんの思考の底には、護憲の主張は絶対に正しいという認識が横たわっているのかもしれない。蓋し、それは更に、人権と平和に普遍性を見る妄想と「戦争は起きない」という思い込みに起因しているのではないか。多くの文化人類学者がレポートしているように「忌避行為(タブー)の背後には、往々にして<前世-現世-来世>を包摂する世界の構成原理であり運動の原理たる精霊の存在が前提とされている」のだろうから。ならば、ここにも人権と平和の普遍性を詐称する誤謬が見出されよう。

小結。憲法改正を巡る議論にはある種のタブーが現存する。それは、民主主義や立憲主義、平和・人権・国民主権は正しく、「戦争」や「戦争を巻き起こす国家」ならびに「戦争を遂行するための武力や愛国心」は悪であるという認識をアプリオリに正しいとする護憲派の妄想に起因する。彼等は、これらを証明も説明も不要なほど自明なことと捉えるがゆえに、その前提を巡る議論に関しては「不存在の挙証責任は改憲派にある」とする態度で臨みがちである。而して、「議論の余地さえない」という一世代前の護憲派のこの論争態度こそがタブーの正体であろう。それは、例えば、改憲派が弱い立場に置かれている教職員組合や労組の地域分会では改憲派にとっては「論理的で理性的な議論の強者からの一方的打ち切り」に他ならないこと、即ち、タブーに他ならないことを想起されたい。

蛇足ながら、護憲派の最終防御ラインたる長谷部恭男さんは、ゲーム理論と古典的政治哲学からの平和と戦争を考えるモデル枠組みを提示することで、護憲派側から改憲論を巡るこのタブーを崩壊させたと言える。蓋し、私が長谷部『憲法と平和を問いなおす』の登場をメルクマールにして護憲派を一世代前と後に区切る所以である。


(2006年5月20日-5月21日:yahoo版にアップロード)



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