政治と社会を考えるための用語集 ――「国家」

heibayou
【The Terracotta Army of Emperor Qin Shi Huangdi】


◆国家:state, country, nation;commonwealth, republic

(1)国家の字義
白川静『常用字解』によれば、「国」は「口(都市をとりかこんでいる城壁の形)の周辺を戈(ほこ)で守る形」、「武装した国の都」という意味であり、「家」は「家を示す宀(建物の屋根の形)の下に、犠牲(いけにえ)として殺された犬を加える。(中略)家はもともと先祖を祭る廟(みたまや)であるが、これを中心として家族が住んだので、人の住む「いえ、住居」の意味となった。家族によって家柄が構成されるので、住居としての建物の意味だけではなく、家族・氏族のあり方をも含めて家という」らしい(★)。

★註:修身・斉家・治国・平天下
漢語では「国家」も「家国」あるいは「家邦」も同じ意味である。それは「ある人の故郷やある人が属する国」を意味する。「国」と「家」、そして、「国家」の語義を調べてみると、四書の一つ『大学』で孔子が打ち出した社会思想;修身・斉家・治国・平天下の意味もよく理解できる気がする。天下泰平のためには(天下を構成する)国々がよく治められなければならないし、国をよく治めるためには(国を形成している)各氏族や家族が正しい秩序に従っていなくてはならなず、家族がそのような秩序によって統制されるためには家族メンバー個々が正しい身の処し方(儒教のルール)を体得しなければならない、と。

現在の目から見れば、修身→斉家→治国→平天のプロセス(特に、斉家→治国の移行には)少なからず飛躍というか我田引水的なものが感じられるけれど、孔子(や孔子に仮託して『大学』を編纂した儒家)にとって、このプロセスはすべて、祖先の御霊を祭る礼という価値に貫かれたものであり髪の毛1本ほどの隙間もそこには存在していないのだろう。何を価値の内容と考えるかは別にして、ヘーゲルが人類史の発展の中で<価値=自由の精神>が漸次現実化する経緯を思念したのに対して、儒教は<価値=祖先の霊を祭る行動の正当性>の現実化を共時的かつ空間的に捉えている。祖先の霊が世代を超えてつながること自体の孕む歴史性を鑑みるならば、儒教はヘーゲルの世界認識に共時的な側面(資本主義の構造分析)を加えたマルクスの社会思想に似ていると言えるかもしれない。



(2)国家の語義
『広辞苑』によれば、「国家」とは、「一定の領土に居住する多人数から成る団体で、統治権を有するもの」らしい。領土・国民・統治権を国家の三要素とするこの考えは近代国家学の完成者イェリネックが定式化したものである。国家とは何か? つまり、国家の正体や行動原理についてはこのイェリネックの<定式>はほとんど何も語ってはくれないけれど、「国家」なるものを世の森羅万象から切り取ってきて思考のまな板に乗せる上では(特に近代の国民国家成立以降に限定した場合)、この<定式>は大変優れたものである。それは、見ることもできず触ることもかなわない「国家」を我々が確実に認識するための<試薬>である(★)。

★註:イェリネック余滴
「国家とは領土・国民・統治権(国家主権)を備えた社会集団」というアイデアが人口に膾炙しているわりにはイェリネック(1851-1911)の主著『一般国家学』(Allgemeine Staatslehre)を読んだことのある方はそう多くないと思う。私は、自分のお気に入りの法学者ハンス・ケルゼン(1881-1973)がイェリネックの下で研究していた際、この師匠にあまり評価されなかった(口の悪い長尾龍一さんによれば、イェリネックはケルゼンの主張をほとんど理解できなかった!)ということからイェリネックにあまり良い印象を持っていない。しかし、『一般国家学』は間違いなく傑作である。



(3)国家の本質
国家とは何か;国家の正体や本質は何か? ホッブスによればそれは「可死の神」;崩壊する可能性はあるものの、国家が国家として存在している限りその領土内では無制限の権力を行使してその領土内の人々の運命を決定する力を持つものらしい。ヘーゲルによれば「現実化した絶対精神」であり、ケルゼンによればそれは「法体系そのもの」、そして、マルクスにとって国家とは「暴力装置であり、市民社会から分離し公的な装いに飾られつつも市民社会の支配階級(ブルジョアジー)の欲求と利益を貫徹するためのイデオロギー装置」。はたまた、多元的国家論者ラスキに言わせれば「国家も世にある継続的な社会集団の一つ」にすぎない。正に、百家争鳴。

長尾龍一『リヴァイアサン』(講談社学術文庫)は国家のイメージを3個に整理分類している;①共同体としての国家、②利益集団としての国家、③暴力装置として国家の3分類である(同書16頁参照)。この分類法を借用すれば多様な国家観も比較的きれいに整理できそうである(さしずめ、①共同体説>アリストテーレス・ヘーゲル;利益団体説>ホッブス・ラスキ・ケルゼン;暴力装置説>マルクス・朝日新聞、という所か。尚、中韓の「中華思想」は国家観というよりも天下=帝国=宇宙に関する社会思想だと私は考えている)。  

長尾・国家論分類のポイントはこの3分類自体ではない。その要諦は、いずれの国家論も「国家とは超自我の虚焦点である」というフロイト的な国家観(日本では、50歳以上の方には吉本隆明的な「共同幻想論的な国家観」と、50歳未満の方にはベネディクト・アンダーソン的な「想像の共同体的な国家観」と言った方がわかりやすいかもしれない。)をその思考の前提にしているという主張である(同書17-19頁:尚、老婆心ながら補足しておけば、「虚焦点」とは、各自が自己の内面の中のものにすぎないあるイメージを共通に社会に投影する経緯というくらいの意味です)。すなわち、国家とは、個々の国民が自分の行動を制御する無意識的な道徳心を(これまた各自が、しかし、共通に)社会に投影したものである、と。私は長尾さんの主張にほぼ同意する。

簡単な話だ。例えば、「国家を見せてみろ」という人がいたとして、彼/彼女に国会議事堂や最高裁判所、刑務所に税務署、富士山麓の陸上自衛隊演習や横須賀の護衛艦隊を見せた所で、それらは単なる建物や装備や人員にすぎないと言われるだろう。それではと、内閣総理大臣に触らせて・・・。結果は多分同じである。国家なるものは、結局、人間の思考の中にだけ存在するものであり、ある社会の中の人々が(同床異夢であるにせよ)国家なるもののイメージを共通に抱き(あたかも、ネーティブアメリカンの人々が自分達で作ったトーテムポールに自分達の行動を左右されたように)、自分達の国家のイメージに自分達の行動を左右されるという社会現象の中にのみ国家は観察されるということである。

ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』が小気味よく描いたように、国家とは人々の意識と習慣の中に存在する<想像の共同体>である。それはフィクション(擬制)にすぎない。すなわち、国家の正体を3分類のいずれと考えるにせよ、<想像の共同体>であって初めて国家は3分類のいずれか(共同体・利益団体・暴力装置)として機能しうる。畢竟、「本質」と「正体」という言葉を前者が後者の前提という意味に使えば、国家の全体像はこう把握できる。


国家の本質=想像の共同体・共同幻想・超自我の虚焦点

国家の正体=共同体∨利益団体∨暴力装置

国家の定義=領土∧国民∧統治権




(4)国家の意味
国家は幻想にすぎない。それは、地球市民や国際社会が幻想にすぎないのと同じである。しかし、国家は擬制=幻想にすぎないけれども、社会を構成するメンバーが国家という幻想を抱いているということは間違いのない事実であり、国家という擬制に基づいて社会の(否! 世界中の)人々が生活していることも明確な事実である。

畢竟、この意味での国家の幻想(擬制)性の指摘は、「巨人軍なるものは球団と契約している個人事業主である選手や監督、コーチの総和に過ぎず、存在するのは個々の人間以外にはない」とか「天皇制とは天皇を<万世一系の皇孫たる天皇>と考える人々の意識と行動の総和にすぎず、天皇制なるものはそれらの人々の意識と行動以外になんらの実体もない」、と言うこととパラレルであり、その主張は正しい。

つまり、この擬制論=幻想論は絶対に正しいがゆえに、逆に、擬制論=幻想論だけで国家を巡る諸現象についてそう多くの情報が得られるわけではない。この経緯は、トートロジーの「中島みゆきさんは中島みゆきさんだ」という命題は絶対に真であるがゆえに、その命題だけでは「中島みゆきさん」の素晴らしさや魅力について何も知りえないことと同じである。よって最後に、「国家=擬制」「国家=幻想」という国家の本質論を超えて国家の意味について考えてみる。


国家が幻想にすぎないとしても、正に、幻想や擬制そのものとして実体的な影響を国家は人々の人生や運命に及ぼしている。逆に言えば、幻想にすぎない国家が持つ影響力が無視できないからこそ、大東亜戦争後の戦後民主主義を信奉する朝日新聞を始めとする勢力は「国家主義」を批判し、神代から平成の御世まで連綿と続く日本の文化的伝統に対して比較的低い評価しか下したがらないのではなかろうか。

幻想はそれが幻想すぎないからといってその存在意義までも否定されるわけではないのだ。而して、ある擬制の存在意義はその擬制の幻想(=イデオロギー)としての性能・効能・機能に収斂する。そして、この点において(どう控えめに見ても)、国家や日本という幻想と国際社会や地球市民という幻想の性能の優劣は明らかであるように私には思われる。もちろん、前者の勝ちである。このことは、国際社会や地球市民が幻想ではあるが擬制とは言いがたい現状の帰結でもあろう。

再度記すが、国家は幻想であり擬制にすぎない。国家は所属する地域のフットサルや草野球のチームやユニフォームにすぎないのかもしれない。しかし、フットサルも野球も一人ではできない。フットサルのゲームに出場するにはユニフォームがあれば便利だろうし、野球のプレーが楽しみたければ野球のチームに所属することが不可欠である。而して、ユニフォームやチームが記号や幻想にすぎないとしても、何かのゲームをエンジョイするにはその記号や幻想は有効なのであるのなら、その幻想や擬制の機能と価値は肯定されるべきであろう。

国際競争の渦中に放り込まれながら社会生活というゲームで七難八苦に対面する運命を課されているのが人間存在である。社会生活というゲームの中で自己の個性を華咲かせ感動に満ちた人生を享受したいと切に願っているのが人間存在ではないのか。ならば、「日本国」や「日本人」という幻想がそれらの過酷な運命から個々の日本人を護り、個々の日本人の願いを実現することに少しでも有効なのであれば、国家や家族という幻想を社会的に確立強化すること、例えば、「日本人たる自分」や「豊葦原之瑞穂國=神州に住まう外国人たる自分」というアイデンティティーとプライドを個々の日本人や日本市民が体得するような教育を徹底することは何ら批判されることではない。

日本人のアイデンティティーに貫かれた(日本人のアイデンティティーと神州不滅というイデオロギーを前提として、それらの幻想や擬制に従う日本人と日本市民の行動を価値ある正当なものとした)、<修身→斉家→治国>の国家論は、よって、現在でも有効なのかもしれない。少なくとも、個々の主権国家の行動に世界の秩序が圧倒的に依存している現在の国際情勢を<治国→平天下>の移行はよく示している。私はそう考えている。

尚、国家を幻想と考える思考にとって避けては通れない論点が外国人論であり、国家を超える(平天下の部分そのものたる)帝国への考察であろう。これらについては下記拙稿を参照いただきたい。

外国人がいっぱい

揺らぎの中の企業文化

帝国とアメリカと日本



(2005年4月15日:yahoo版にアップロード)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
戦後民主主義を批判する営為の一環として、ブログランキングに
参加しています。結構、真面目に取り組んでいます。よろしければ、
下記リンク先【FC2ランキング】及び【人気blogランキングへ】
にクリックを二つお願いいたします。

fc2rankbanner
(↑)【FC2ランキング】

img35475
(↑)【人気blogランキングへ】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★



スポンサーサイト

テーマ : 国家論・憲法総論
ジャンル : 政治・経済

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

KABU

Author:KABU
大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
yahoo版のミラーブログ。
2007年9月10日以降の新記事を随時、厳選した過去の自薦稿を漸次アップロードしていきます♪

百人一首 de 海馬之玄関
問い合わせ先
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
使用状況de電気予報
人間が好きになる名言集

presented by 地球の名言

人生が輝き出す名言集


presented by 地球の名言
夢を叶えるための名言集


presented by 地球の名言
仕事が楽しくなる名言集

presented by 地球の名言

全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

ブログ内検索
検索 de 記事リスト
最新の記事
最近の記事
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2ブログランキング
fc2rankbanner
miniTube