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政治と社会を考えるための用語集 ――「政治と権力」

naussicaa
【Nausicaä of the Valley of Wind】

◆政治:politics, government
◆権力:power


『広辞苑』では「政治」と「権力」をこう説明している。

・政治
(1)まつりごと
(2)人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。権力・政策・支配・自治にかかわる現象。主として国家の統治作用を指すが、それ以外の社会集団および集団間にもこの概念は適用できる。

・権力
他人をおさえつけ支配する力。支配者が被支配者に加える強制力。

・政治権力
社会集団内で特に政治的機能を担い、その意思決定に他者を制裁を伴って従わせることができる、排他的な正統性を認められた権力。普通、政治的権威、暴力装置、決定と伝達の機能をもつ。その最も組織化されたものは国家権力である。


尚、「国家」について『広辞苑』は 「一定の領土とその住民を治める排他的な権力組織と統治権とをもつ政治社会。近代以降では通常、領土・人民・主権がその概念の3要素とされる」と説明しているけれども、これらの言葉を私なりに要約すれば大体こうなる。

政治とは何か? 
政治とは「権力の分配構造と現実の権力分配の全過程」である。

権力とは何か? 
権力とは「他者の行動を<公>の資格でもって左右できる強制力」のことである。

国家とは何か? 
国家(権力)とは「それが統治する領土と住民の範囲内で、排他的かつ最高の<公>の権威と最大の強制力を持つ政治権力」であり、国家とは「ある国家権力が統治する領土と住民をカバーする社会的に統合された政治社会」である、と。



而して、昔、かの田中角栄元首相は政治と権力について問われたときに、「政治は力。力は(議席の)数。数は金」と喝破されたと世に喧伝されている。また、支那では「政治権力は(鉄砲の)銃口から産まれる」としばしば語られるらしい。蓋し、これらの箴言や諺も『広辞苑』の説明と実は矛盾するものではないし、加えて、我々が「政治」や「権力」という言葉を通して日頃イメージしている社会現象の特徴や少なくとも現象のある側面を実に的確に言い当てているのではないだろうか。敷衍しよう。


政治は単なる暴力による支配ではない
権力は単なる強制力ではない


政治は単なる裸の暴力による支配ではない。また、権力は単なる強制力ではない。蓋し、二重の意味でそう言えると思う。第一に、政治も権力も最終的には国家の公的権威と強制力による支配に担保される現象であること。よって、任侠筋の(特に、その任侠筋組織内部での)暴力や威力は比喩的な意味で「政治的」や「権力的」ではありえたとしても政治や権力そのものではない(★)。第二に、政治も権力も物理的や心理的な強制力だけではなく、被治者の自発的な従属に支えられているものであること。それどころか、政治も権力も、時には、支配されている当該の国民に対して自身を支配する something のために(すなわち、支配機構たる国家権力や国家のために)自己の生命や財産をさえ喜んで差し出すまでの正当性と正統性を帯びることも珍しくはない。それは、客観的な観察者から見れば<SM的な倒錯した従属>の関係に映るかもしれないが、他方、「自分を支配する something のための自己犠牲に誇りを感じる」というこの現象は、人間性の深いところに根ざしていると考えることも可能だろう(★)。

政治と権力を巡る、一見倒錯したこのような関係は、しかし、現実社会ではそれほど奇異なものでも特殊なものでもない。このことは、例えば、『風の谷のナウシカ』の中で、ナウシカが間違いなく王族であり支配側であるにもかかわらず、風の谷の人々から敬愛され献身的な奉仕を受ける設定に(おそらく、大東亜戦争後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する「天皇制廃止論者」などの極めて例外的な人士を除けば)、違和感や不自然さを感じる向きはほとんど皆無と言ってよいことからも明らかである。また、(特に、劇場アニメ版では)強圧的な軍事大国と描かれているトルメキア国の(私の大好きな「トルメキアの白い魔女」こと)クシャナ殿下の支配もまた、軍事力の精強にものを言わせた単なる裸の暴力ではないことはそれこそ子供にも理解できることだろう。而して、この「感覚」や「理解」は単なるアニメ作品解釈の問題ではなく、人間存在にとっての権力や政治が帯びている属性と通底していると思う。

政治と権力の本性。人間にとっての政治と権力の意味とは何だろうか。蓋し、政治に権力を与えるもの。権力に権威を与えるもの。つまり、単なる裸の暴力による支配に正当性と正統性を与えるものは政治的イデオロギーであり政治的神話と呼ばれるものである。21世紀の現在では、民主主義がそのチャンピオンであるけれども(★)、国民観念・民族観念もまたいまだに政治と権力に正統性を付与するイデオロギーや政治的神話としての機能を果たしている(★)。

★註:多元的国家論 Vs 一元的国家論
政治や権力の存在を国家以外の社会;国家の内部の企業や官公庁や夫婦から国家外部の国際社会にも見出す立場を多元的国家論といい。政治や権力を、原則、国民国家に特有の現象と考える立場を一元的国家論という。この両者の対立は端的には、何をもって「政治」や「権力」と考えるかという言葉の問題にすぎない。しかし、この語義選択の違いの底には、「国家も様々な社会の一つにすぎない」とばかりに国家の相対化を指向する多元的国家論者の願望と、国家に道徳的や伝統的価値をも付与したい、あるいは、国家を道徳的価値や伝統的価値の原泉と受け取る一元的国家論者の情念の差異が横たわっていると思われる。

私自身は、両者の視点を併用しているけれども、現実の政治問題や国際紛争を解決する枠組みとしては一元的国家論の有効は明らかであり、他方、近代国家成立以前の<古代帝国>や<中世社会>を考え(あるいは、国民国家ー近代主権国家の次の時代の社会思想に想像の翼を広げる際には)多元的国家論の思考枠組が些か使い勝手がよいと思っている。要は、「多元的国家論 Vs 一元的国家論」の問題は、「あれかこれか」ではなく「どちらの道具がその日の料理には使い勝手がよいか」という程度の合目的的な選択の問題だと思う。

★註:支配のコスト
強権的な政治権力は脆弱な政治権力である。独裁国家は常に破綻する高いリスクを負っている。考えていただきたい。(A)その社会の構成メンバーがほっといても政治権力の意向を汲んで行動する社会と、(B)常に秘密警察が社会の多くのメンバーの動向を把握しており、政策や政権に反逆しそうな者が出現した場合には速やかに予防措置を取り、もしその反抗が現実化した場合にはそれを鎮圧した上で見せしめの制裁を加えなければ秩序が保てない社会の両者を。これら(A)タイプと(B)タイプの社会の運営コストを比較想像するだけで、ゲーム理論による論証などを待たずして「支配のコスト」の面での(A)タイプの社会の優位性は明らかであろう。

★註:民主主義は民主主義に非ず?
実は、20世紀後半以降の民主主義なるものは、「比較的小規模集団における直接民主主義における多数派による政治的決定に正当性を与える政治思想」という「民主主義」という言葉の正確な意味での民主主義ではなく、議会主義ならびに国民国家観念と融合し「代表民主制」に変容したヌエ的かつ空虚なイデオロギーにすぎない。

★註:デュープロセスによる正当性付与
21世紀の現在、政治と権力に正統性と正当性を与える代表的なものは民主主義であり民族主義であり国民国家の理念である。けれども、所定の手続きを踏まえた権力行使という経緯もまた、20世紀後半以降、政治と権力に正当性を与えるイデオロギーに昇格したと言ってよいかもしれない。すなわち、現行憲法31条なりアメリカ合衆国憲法修正5条もしく14条に象徴される「デュープロセス」である。

重要なことは、「適正手続の政治価値」は近代になって初めて確立したものではないことだ。それは、例えば、マックス・ウェーバーの語る意味での「伝統的支配」の中にも少なからず混入されているだろうが、英米法起源の「法の支配」のルールの根拠の最大のものこそ伝統の中で蓄積され漸次明確化されてきた伝統的プロセス重視の思想に他ならないからである。作品を取り扱う様式や礼式がそれ自身作品になったということ。礼式の小笠原流や広く茶道の所為を想起すれば、それもそう荒唐無稽な話ではないように思う。而して、「デュープロセスによる正当性付与」こそ、実は、社会的生物としての人類が太古から援用してきた社会秩序維持のための原理だったのかもしれない。私はそう考えている。


godsoldier
【Princess Kushana with her God Soldier】


ドイツの諺に、Macht geht vor Recht.(力は正義に優る;勝てば官軍)というのがある。この諺は上に述べた「政治」と「権力」の意味にかかわらず間違いではない。それは、支那の「政治権力は(鉄砲の)銃口からうまれる」というのが『広辞苑』の定義と必ずしも矛盾しないことと同じである。正義を名乗るほどの秩序を打ち立てることなど力がなければ土台無理な話しなのだ。注意していただきたいのは、ここで私は「負けた方が不正義であった」となどは言っていないことである。争っていた当事者の道徳的な正しさの優劣と争いの後に作られる秩序が保有する正しさの度合いとは全く別の事柄なのだから。

畢竟、世の中はMacht geht vor Recht.なのかもしれない。しかし、この諺を言い換えた、Macht ist Recht.(力は正義である)は間違いである。蓋し、裸の暴力や強制力(Macht)のない所で政治や権力は成立しないだろうが、Machtだけで政治や権力(Recht=正義=正統性と正当性)が維持されることもありえない。ならば、田中角栄元首相が語ったと伝えられる「政治は力」という箴言は(その「力」が「議席の数」という正統性と正当性を帯びたものである以上)、「政治」と「権力」の要諦を踏まえたものと言うべきであろうか。

而して、政治と権力の要諦と言えば、1863年11月19日、南北戦争の激戦地ゲティスバーグ(Gettysburg)でリンカーン大統領が行った演説、"Gettysburg Address" は、民主政治の要諦を簡潔に表現したものとしてつとに有名である。私は、しかし、"Gettysburg Address" は「民主主義」だけでなく「政治」と「権力」の要諦一般をも表現していると考えている。アブラハム・リンカーン大統領は彼がアメリカ国民の使命と考えていることを短く熱く訴えた後、その演説の最後をこう結ばれた、

・・・this nation under God shall have a new birth of freedom, and that government of the people, by the people, for the people shall not perish from the earth.

アメリカ合衆国というこの国民国家に、神の御心の下、新たな自由がうみだされるようにすること、また、(アメリカ合衆国の場合も間違いなくそうなのですが)、人民の人民による人民のための政治(=政府)を金輪際この世から消滅させないこと・・・


政治を動かす主体と政治が目指すべき目的を説いた "by the people, for the people" に対して、連句の最初、”government of the people” は国民自身が公的な政治的支配の正統性と正当性の根拠であるという思想を明示していると一般に解釈されている。ならば、それは単なる民主主義的政治支配の根拠というよりも、国民国家の範囲における政治と権力の正当性の根拠一般をも示したものと言えないだろうか。私はそう考えても満更間違いではないと考えている。



(2005年4月3日:yahoo版にアップロード)

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