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護憲派による自殺点☆愛敬浩二『改憲問題』(参ノ巻)

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◆『改憲問題』の改憲論批判:「不磨の大典」批判・批判(第4章)承前
●憲法解釈の方法としてのプリコミットメント論の思想的破綻
プリコミットメント論は実定憲法の理解とは全く無縁か? 否である。そして、この点を究明することで『改憲問題』の破綻は一層鮮明になると思う。

民法・商法等の私法も、あるいは、行政組織法や「国旗・国歌法」のような法的定義を定めるにすぎない諸法も、国家による強制の契機を備える所の法体系の不可分なる一部として観念されるならば、私法を含むあらゆる立法行為は、「事前に」「国家が自己の行動選択の範囲に」「なんらかの制限を加える」ことに他ならない。

古の箴言に曰く、「強者の意思が法」、と。ならば、国民と国家の行動の基準(行為規範)であり、他方、裁判の基準(裁判規範)たる法に飢えているのは権力から疎外された弱者の方に違いない、一応そう言えるからである(尚、憲法が国家権力を縛る「制限規範」であるだけでなく、同時に国民を社会的に統合する(国民を拘束する)規範でもある点については下記拙稿参照)。

立憲主義と憲法の関係_憲法は国家を縛る「箍」である?
 

本書『改憲問題』の著者、愛敬浩二さんが提唱される「憲法解釈の方法としてのプリコミットメント論」という際物ではなく、一般的なプリコミットメント論と憲法の関係を考察する場合、では、プリコミットメント論は上記のような、「事前・自己・拘束」といった法一般が分有する性質に加えてどのような内容を実定憲法の理解に供するだろうか。 

簡単である。それは、(甲)立憲主義および硬性憲法に対する合理的説明(正当化)の根拠を提供し、ならびに、(乙)侵略戦争の禁止条項や集団的自衛権を定めた条約の遵守、あるいは、国家の一部が国家から離脱することを禁ずる憲法規定を基礎づけるものである。

即ち、プリコミットメント論は、民主的に表明された国民の赤裸々な意思が常に同時に自動的にその時々の国家の意思として取り扱われることを拒否する所の、民主主義の例外的制度(立憲主義および憲法の硬性規定)を正当化する論理であり、他方、個別の国家単体ではディールしえない(プレーヤーとして敵と同盟国と中立国が登場する)安全保障にかかわる国家の行動指針を正当化する論理;あるいは、国家の分裂を防ぎ自己同一性を維持する原則を正当化する論理として作用する。この点においてプリコミットメント論は憲法理解において実益を持っている。そう私は考えている。以下、敷衍する。


憲法の改正が通常の立法手続きとパラレルな憲法(軟性憲法)に対して、法規の改正に比してより厳格な手続きを憲法改正に要求する憲法を硬性憲法という。よって、「硬性憲法」という概念は改正手続きに着目した憲法の分類にすぎない。また、「立憲主義」を、憲法に規定されている基本的人権や人権を保障するための制度(三権分立、就中、司法権の独立と違憲立法審査権)は、端的な民主的な手続きによっても制限されるべきではなく、それらを制限する立法や行政の行為は司法による合憲性審査に伏されるか、さもなくば、憲法の改正を要するという憲法理解のアイデアとしてここでは考えておく。

これに対して、憲法におけるプリコミットメントを法一般の性質とも、立憲主義および硬性憲法とも異なるものとして広くプリコミットメント論を理解しようとする場合、憲法理解の道具としてのプリコミットメント論は、前世代が憲法に組み込んだ立憲主義や硬性憲法の性質、即ち、人権規定や人権を保障するための諸制度、ならびに、憲法に硬性性を与える厳格な改正規定を法体系全体の中から切り取り説明し正当化する形式論理的な認識枠組みに他ならない。尚、ここでいう「正当化」は立憲主義や硬性憲法を担保する憲法規定の存在理由を明らかにするという形式的論理的な意味にすぎない。このような広義のプリコミットメント論は立憲主義や硬性憲法というそれ自体は非民主的な憲法規定や憲法現象を説明し正当化する論理である。

ところで、「硬性憲法」という概念自体は諸憲法を分類するカテゴリーにすぎないとして、しかし、立憲主義も憲法理解に適用されたプリコミットメント論も、前世代が憲法にビルトインした自己拘束という点では同じである。確かに、後者は前者を説明(正当化)できるが逆は真ではない;プリコミットメント論の方が立憲主義よりも理論の抽象度が高いとはいえる。けれども、それは喩えれば、豆腐(=憲法)を1センチ四方で賽の目にするのか3センチで行うのかの差でしかないのではないか。畢竟、プリコミットメント論と立憲主義はどう異なるのだろうか。

これまた簡単である。それは、「立憲主義」という用語を維持する限り、立憲主義とプリコミットメント論は次の二点で異なると解される。即ち、守備範囲の差異および妥当根拠の差異である。

・守備範囲の差異
立憲主義をも基礎づける抽象度の高い広義のプリコミットメント論でも説明可能な憲法規定の中で、立憲主義プロパーの守備範囲たる人権と人権保障のための司法制度以外の領域、畢竟、侵略戦争の禁止条項や相互安全保障条約の遵守規定、あるいは、国家の一部が国家から離脱する離脱権の禁止規定がいわば狭義のプリコミットメント論の固有の守備範囲として残ることになる。

尚、憲法9条は安全保障という国家権力の作用のあり方行われ方を定めたものである限り、実は、平和的生存権なる新奇な人権概念でも持ち出さない限り、9条の護憲論を立憲主義からサポートすることはできない。よって、護憲派がプリコミットメント論を援用するのは(立憲主義とプリコミットメント論の守備範囲の差異を鑑みるならば)十分理由のあることなのである。

・妥当根拠の差異
立憲主義の妥当性の根拠は、一般的には、普遍的人権(=天賦人権の思想)であるとされる(尚、前に紹介したように長谷部恭男さんは、国家が容喙すべきでない私事の聖域化のアイデアで立憲主義を基礎づけられる。卓見である)。それに対して、プリコミットメント論は、「持続的統治を困難にする行為」を事前に制限することで国家秩序の安泰をはかることをその妥当根拠とする。

蓋し、立憲主義が人権の価値に依拠するに対して、プリコミットメント論は国家制度の存続を確保する機能主義的な発想を基盤に据えている。前者が国家内の紛争解決ゲームのルールであるに対して、後者は(国家内の紛争解決ゲームを可能にする)国家と言う<ゲームの場>を成立確保するためのルールであると言えようか。


さて、長谷部さんはプリコミットメント論の機能主義による正当化のアイデアを立憲主義の正当化にも拡張されているように思われる。蓋し、普遍的な人権の価値から立憲主義を基礎づけるのではなく、国家制度の存続を確保する手段としての<国家が容喙すべきでない比較不能な価値の領域の聖域化>による立憲主義の正当化の試みである(『憲法と平和を問いなおす』cf.p.44ff)。

実際、表現の自由の相対性を白日の下に曝したムハンマドの風刺画問題、西欧流の民主主義の普遍性なるものに疑義を呈したイラン大統領からの米国大統領への書簡等々を見るまでもなく、その根拠がかなり怪しい「人権や民主主義の価値の普遍性」などに妥当性の基盤を置くよりもプリコミットメント論の妥当根拠とパラレルな機能主義による立憲主義の正当化はクレバーな選択であろう。

この点、次のような主張を見る限り、愛敬さんもあるいは同じ認識なのかもしれない。即ち、「絶対平和主義を擁護する論者の中には、私の迂遠な九条擁護論を読んで、「プリコミットメント論なんか新奇な説を利用しないで、従来どおり、九条の歴史的意義と理念の普遍性を語ればいいではないか」という感想を持った方がいるかもしれない。しかし、私がプリコミットメント論を魅力的だと思うのは、憲法を人為的な技術・装置とみて、硬性憲法(=立憲主義)の「効用」を合理的に議論するスタンスをとっているからである。現代日本の改憲論議の状況をみると、この思考法法は案外、重要なものかもしれない」(p.117)、と。

畢竟、理性的な討議によって合意することが不可能なテーマに起因する社会的紛争には公権力は容喙しない方が賢いということである。その経緯は、民主主義の限界と鏡像関係にある。即ち、「今は少数であっても(政治的判断をする上で必要な情報が公開されており)理性的討議を通していずれ社会の多数派になれる」という期待が全くないのならば、民主的な決定は少数派にとって民主的ではない。なぜならば、それは「我々の決定」ではなく常に「奴ら多数派の決定」だからである。そこには、民主的意思決定に正当性を付与する単一の<我々の社会>は存在しない(尚、民主主義の意義と限界と条件に関しては次の拙稿を参照いただきたい)。

政治と社会を考えるための用語集(1) 民主主義 

民主主義とはなんじゃらほい
 

「持続的統治を困難にする行為」を禁止するというプリコミットメント論は、国家の秩序の崩壊を防ぐ機能を持ち、かつ、民主主義の限界をカバーする点で機能主義的に再構成された立憲主義とパラレルである。その点を踏まえられてか、愛敬さんも、「国民の間でも論争のある事項についてもあまりに厳格な自己拘束をすると」(p.118)その厳格な規定事態の法的妥当性が堀崩されかねないというエルスターの懸念を引いた上でこう自問されている。

憲法を準則と原理に仕分けして、憲法9条を権力行使の方針を述べたルール(原理)にすぎず、それは自衛隊を禁止する厳格なルール(準則)ではないという(長谷部さんの)立場なら問題は少ないけれど、「絶対平和主義をプリコミットメント論にもとづいて擁護しようとする者にとっては、エルスターの議論は難問を提起する」(cf.p.118)、と。

では、著者は絶対平和主義を捨てるのか、はたまた、プリコミットメント論を放棄するのか? この答えは第6章のお楽しみらしいが(p.119)、なんとそれは、「九条が「準則」と了解されているからこそ、実際の政治過程で九条が「原理」として機能するという側面を軽視すべきではない」(p.153)というものである。これは、少なくとも憲法改正の正当性を論じる上では尻抜けとも言うべき回答であり、「護憲のためなら何を言っても許される」という発言に等しいと思う。

整理する。いかに愛敬さんが、民主主義を「持続可能で討議的な自己統治」と規定しようとも、天使でも野獣でもない人間存在にとって討議不可能な領域は社会生活に無限に広がっている。ならば、愛敬さんの「民主主義と立憲主義を仲立するもの」などのプリコミットメント論理解は、平和ボケの憲法研究者の寝言にすぎないと言えよう。畢竟、民主主義が国家を分裂させる要因であるに対して、プリコミットメント論は国家の分裂を防ぐための憲法規定を正当化する根拠だからである。『改憲問題』はこのことを看過している。本章には憲法9条の正当化に関してプリコミットメント論の誤用があると断じた所以である。



◆『改憲問題』の改憲論批判:「神学論争」批判・批判(第5章・第6章)
第5章・第6章の中心テーマは、護憲・改憲の立場を問わず語られる「「解釈改憲」は最悪だ」という主張。特に、「これ以上の軍事大国化を抑止するためにも改憲は必要」という主張への反論である。そして、これらを検討する上で、第3章に引き続き「自衛隊の存在を認めるのが現実的ではないか」という問いも再度俎上に乗せられている。自衛隊の装備購入や自衛隊の海外派遣の際に繰り返えされてきた浮世離れした神学論争のような憲法9条談義は無意味なのか、これがこの二章を貫く中心軸である。

●神学論争の政治的意義
「神学論争」を巡る、本書『改憲問題』の著者、愛敬浩二さんの主張は明確である。それは、「神学論争をやめるべきか否かは、具体的な政治状況の下で、自分がいずれの立場に立っているかによって決まる」「よって、問題は「神学論争をやめるか否か」ではなく、自衛隊の海外での軍事行動を広く容認するか否かである」「浦田一郎は、政府の憲法解釈は「憲法九条とその下で成立した世論や学説と、安保・自衛隊の現実のあいだにあって、軍事力の展開を正当化すると同時に、それに一定の制約を課してきた」と評している」「神学論争をやめてしまえば、この「一定の制約」をも解除することになる」(cf. pp.130-134)というもの。

換言する。「カンボジアに自衛隊が持参する重機関銃は憲法が禁ずる武力かそれとも憲法が禁止していない武器か」「自衛隊が派遣されるイラクのサマワ地域は戦闘地域か否か」など、それが傍目にはいかに滑稽な「浮世離れした神学論争」に見えようとも、逆に、このような神学論争を経なければ自衛隊を海外に派遣できないという現実を維持しているものが現行憲法9条の効能である。よって、神学論争をやめるということは、実は、現実政治に対する憲法9条のこの「一定の制約」を放棄することに等しい。それは、これまた現実政治の上では「自衛隊の海外での軍事行動を広く容認する」という政治的判断に与することに他ならない、と。そして、この認識は間違いではないと私も思う。

神学論争の意義をかく踏まえつつ憲法9条の解釈につき著者はこう述べられる、「九条が「準則」と了解されているからこそ、実際の政治過程で九条が「原理」として機能するという側面を軽視すべきではない」(p.153)、「だからこそ、九条は絶対平和主義的に解釈されるべきだと私は考える。憲法九条がその出発点から、自衛隊との相互依存性を容認する内田流の「おじさん的」思考(★KABU註:内田樹『「おじさん」的思考』(晶文社・2002年4月)参照)で理解されていたら、彼のいう「巧妙な政治的妥協」など存在しなかったのではないか」(p.160)、と。

而して、護憲派の重鎮樋口陽一さんの指摘を引用した上で著者はこう第6章を結ばれている。樋口老師曰く、「戦後憲法学は「非現実的」という非難に耐えながら、その解釈論を維持してきた。・・・その際、過小に見てならないのは、そういう「非現実的」な解釈論があり、また、それと同じ見地に立つ政治的・社会的勢力・・・があったからこそ、その抑止力の効果を含めて、現在かくあるような「現実」が形成されてきたのだ、という事実である」(p.161)。これを受けて愛敬さん曰く、「この「事実」を軽視する九条論は、決して現代改憲に対する有効な対抗理論とはなりえない」(ibid)、と。

蓋し、神学論争と揶揄される憲法解釈が形成してきた憲法9条の運用事実の再評価。この事実が、①憲法9条の精神を維持強化するための改憲(大沼保昭さん)や②憲法改正国民投票での改憲案否決の主張(今井一さん)、あるいは、③「立憲主義との関係で九条改定の必要性」を説く主張(井上達夫・高橋和之さん);これら護憲的改憲論(著者はこれらを、改憲派とも従来の護憲派とも違う「非護憲派の九条論」と呼ばれている)に対する著者の否定的評価の根拠である(cf.pp.141-143)。そして、それは同時に「「解釈改憲」は最悪だ」「これ以上の軍事大国化を抑止するためにも改憲は必要」との改憲派-護憲的改憲派の論拠に対する『改憲問題』からの反論の根拠でもある。

しかし、この反論の根拠は、神学論争が(あるいは、世界標準の法概念論や世界の国際法の通説からの帰結を無視した集団的自衛権の否定が)、「現実政治において自衛隊の国内外での活動を制約し同盟国アメリカの活動に制約を加えるのならばそれは<正しい憲法解釈>だ」と著者が考えておられることを、著者ご自身が赤裸々に告白されたものでもある。畢竟、それは、「「解釈改憲」は最悪だ」「これ以上の軍事大国化を抑止するためにも改憲は必要」という主張に対する反論自体が、実は、護憲派-護憲的改憲派といういわば身内には通用するかもしれないけれども改憲派に対しては何の回答にもなっていないことの告白でもある。

ことここに至り改憲問題に対する本書『改憲問題』のスタンスは鮮明になる。即ち、「九条改定の問題はあくまでも政治問題」(p.149)である、と。それは、改憲派の改憲理由を(あるいは憲法解釈論の立場からあるいは立法政策論の立場から)論理的に批判するものではなく、絶対平和主義という私的なイデオロギーの立場からする政治的主張にすぎない。ならば、「私のみるところ、改憲派の憲法九条論は、それが研究者によってとなえられている場合でも、学問的な検討に値する議論は少ない」(p.140)とは『改憲問題』、否、樋口陽一さんから愛敬浩二さんに至るまでの一世代前の護憲派にこそ当てはまることであろう。


●神学論争の賞味期限と政治課題としての改憲問題
長谷部恭男さんはプリコミットメント論を踏まえた上でこう書かれている。「第二次世界大戦前において、民主的政治過程が軍部を充分にコントロールすることができず、民主政治の前提となる理性的な議論の場を確保しえなかった日本の歴史にかんがみれば、「軍備」といえる存在の正統性をあらかじめ封じておくことの意義は大きい」(『憲法と平和を問いなおす』p.156)、と。私は長谷部さんとは歴史認識を異にしているけれど、こと大東亜戦争後から冷戦構造崩壊までの、そして、遅くとも<9・11>同時多発テロに至るまでの期間(1945年-1989年-2001年)、プリコミットメントとしての現行憲法9条には意義があったと思っている。

1945年の帝国主義戦争の敗北から東西冷戦構造の中で、日本が「国外で、侵略戦争だけではなく自衛権の行使以外の戦争をしない」「それを担保するために、国外で自衛権の行使以外の戦争をするための戦力は保持しない」というプリコミットメント(=事前・自己・拘束)を定めそのコミットメント(=約束)を内外に発信し続けてきたことは、アジア諸国と旧ソ連に対してだけでなくアメリカの国際戦略からも、そして、日本自体にとっても好ましい国際関係を創造したと思うからである。しかし、それから幾星霜。

1945年11月3日の現実と2001年9月11日の現実は異なり、それらと、2006年5月28日の現実は更に異なっている。戦後長らく極東地域の安定に寄与してきた憲法9条のプリコミットメントが、現在では中韓朝という特定アジア諸国による武力行使または武力による威嚇の欲求を誘発する、ある意味、東アジアの不安定要因になっている;または、国際的テロ組織の活動を容易にすることでそれは間接的に世界全体の不安定要因になっているという国際関係認識も十分な根拠をもって成立するだろう。この認識と一世代前の護憲派や長谷部さんの認識のいずれが正しいかは問うまい。しかし、現在、個々の国民に各自が妥当と考える国際政治の認識を基盤として憲法改正の是非という政治判断が問われていることは間違いないと思う。

『改憲問題』もこの点に関してこう記す。「九条改定は「真空状態」で行われるのではない。さまざまな利害と思惑が錯綜する現実の国際社会を舞台にして行われるのだ」(p.77)、「特定の条件下で、可能な限り、「武力によらない平和」を実現するにはどうすればよいのか。そのために、憲法九条には意義があるのか、それともないのか。私が関心を持つのはこの問題である(だけである)」(p.160)、と。

ならば、日本が置かれている安全保障情勢という「特定の条件」をどう捉えるのか;また、「武力によらない平和の実現」は他の何ものにも優先されるべき価値なのか、それともそれは国民の生存権や国家の主権、在外邦人の生命・身体・財産の保持に道を譲るべきものか、これらの政治的な事実認識と政治思想的な価値判断を踏まえた改憲問題へのアプローチの必要性を著者も肯定されるだろう。而して、2006年現在における政治問題としての改憲問題の位相をこう把握するとき、『改憲問題』は正に<護憲派による自殺点>ものの著作と言えるかもしれない。

なぜならば、それは一世代前の護憲派が依拠してきた絶対的平和主義の価値が、最早、相対的価値でしかないことを逆照射しており;戦後長らく憲法9条を巡る議論のスタイルであった神学論争の政治的意義(それは、日本を取り巻く東西の超大国・アジアの国々と日本のすべてにとって好ましい安全保障情勢を可能にする憲法9条のプリコミットメントを維持するための応分の「負担」だったかもしれない。国内外の政治におけるそのような神学論争の意義)もまた縮小している現実を浮き彫りにしているからである。

いずれにせよ、今まで改憲を阻止してきた護憲派が「特定の政治状況の下で、特定の条項の改定に反対してきた。そこには、現実の政治状況に対する彼ら・彼女らなりの「読み」と、その政治状況の下で九条が持つ「効用」への積極的な評価があったはずだ」(p.99)と記された著者が、現在、国民の多数を占める改憲派も「現実の政治状況に対する彼ら・彼女らなりの「読み」と、その政治状況の下で九条が持つ「効用」への否定的な評価を持っているはずだ」となぜ述べられなかったのか。

この記述の不在こそ、本書の三番目の問題点として世界観の変遷の看過を指摘した理由であるが、もしそれが、絶対的平和主義という絶対的に正しい価値に導かれた護憲派の政治情勢認識は正しく改憲派のそれは間違いと考えられたことの帰結ならば、それは「浮世離れした議論」の比喩である神学論争ではなく、言葉の正確な意味での信仰告白に他ならない。

小結。改憲派が、「時代に即した改憲」「国民主権の発動としての改憲」を求めることを阻止するなんらの根拠も本章の神学論争批判・批判論は持っていない。加えて、それは改憲派に比べて護憲派に不等なハンディキャップ(=非合理な言説の使用の許可)をお手盛りで与える姑息な議論でもある。これが本書の四番目の問題点を憲法改正の説明責任の所在の恣意性と表したこれがその理由の一斑である。


(2006年5月26日-5月27日:yahoo版にアップロード)



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