鯨と日本の再生

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捕鯨は捕鯨だけの問題ではない。鯨は鯨だけの問題ではない。非論理的な理屈に妥協して商業捕鯨を放棄したことと現在の日本社会の病理現象は通底してはいないか。このような問題意識から私は5―6年前から断続的に幾つかの文章を書いてきました。2007年11月18日、今年度の日本の調査捕鯨船団が下関港を出発したこと、それに対する欧米政府とメディアの批判が例年にも増して強いこと、これらを鑑みてこのFC2版海馬之玄関に捕鯨を巡って書いた旧稿を再録したいと思います。


■鯨と日本
給食の定番といえば鯨の龍田揚げ。鯨の龍田揚げ好きでしたか? 鯨の龍田揚げ、最後に食べたのはいつですか? そして、鯨がおおぴらに食べられなくなった頃から日本は本格的におかしくなったような気がするのは私だけでしょうか。

科学的な根拠も乏しい「鯨を殺すのは可哀想」「鯨を食べるなんて恥を知れ」等々のはちゃめちゃな理屈(?)に押し切られて、「鯨なんか食べられなくなっても、まあいいか」と応じた時から日本はオカシクなったような気がするのです。たかが鯨、されど鯨なのではないか、と。

これは、あるいは、所謂「従軍慰安婦」問題や歴史教科書問題、首相の靖国参拝問題にも通じることかもしれません。けれど、鯨の問題はそれらに優るとも劣らない遥かに大きな問題なのではないか。私はそう思い始めました。なぜならば、日々の食卓に何が乗るかは、国民の一人一人の実生活に「365日×3回」かかわる事柄なのだから、それは、個々人の感性を枠づけるものなのだから、その思想的や政治的な影響力は岩波文庫や朝日新聞、NHKやTBSの日々の反日報道なんかよりも大きいかもしれない。そう思うからです。

「筋の通らないことでも、いいかげんに済ましていいんだ」「正義や大義より高度成長や銭儲けが大切なんだもん」と日本人にそれこそ胃袋レヴェルから思わせた点で、鯨の龍田揚げが給食の定番でなくなったことは大東亜戦争後の日本人の社会的性格(E.フロム、D.リースマンの用語。社会的な行動を左右するある社会のある時代の人間集団に特有の行動パターンのこと)を決定した重大事件ではなかったのか、と。

「外圧には逆らわないようにして、国際関係の交渉ではコミュニケーションのコストを逓減しよう。そして、そいでもってそんな波風の立たない状況下で日本は外貨を効率的に稼げばいいのだ」というバブル崩壊までの戦後日本を支配した社会と政治の欺瞞が鯨をキーワードにすることで理解できるのではないでしょうか。而して、「この基本方針の前には日本の文化や伝統や個人の感傷などは考慮されるに値しない」と、そのように子供達も大人達も鯨の龍田揚げが給食に出なくなった時に刷り込まれたのではないか。私は真面目にそう考えています。

私も、パートナーの寛子さんも、鯨の龍田揚の給食で育ったからそう感じるのかもしれません。日本は、国際的には金持ちになった。失われた90年代を経た今日でも外貨準備高と対外債権の保有高およびGDP的には間違いなく世界有数の豊かな国でしょう。しかし、国民には余裕はないです。親の老後のケアに自信を持っている30代なんか何%いますか、まして、自分の老後なんて。多分、現在の大学生にとって老後などという良い身分の話しは、(恒星進化論で言われているように)あと50億年もすれば太陽が赤色恒星になって膨張し地球が太陽に吸収される話しと同じくらいリアリティーのない事柄ではないでしょうか。要は、明日の自分に自信と希望が持ちにくくなったということです。

現在の日本人の多くが、活気と誇りと目標と理念を失ったこの社会に不安と不満を抱いているように思える。そして、活気と誇り、目標と理念を失った日本が現在の状況に立ち至るにおいては<給食で鯨の龍田揚げを食べられなくなった時期>が大きな意味を持っているのではないか、と。

とにかく、私は<鯨を食べられなくなった日本>には失望しています。だからこそ、鯨の食べられる国に再びこの国を変えたいし、変えねばならないと考えます。そう、日本再生の鍵は鯨だったのだ(?)。

それにしても、最近、鹿児島や長崎に<鯨漂着>のニュースがよく聞かれます。そして、浜辺に打ちあげられた鯨を食べてはダメのお達しも。私も寛子さんも、「変だな」と思います。「鯨を食べてなんででけんとや」「なんでわざわざ捨っとか。もったいなかじゃっか。鯨が可愛そうじゃなかか」と感じます。「鯨も死後人間に食べられて本望じゃなかじゃろか」とも。

もちろん、鯨さんが「本望」と思うかどうか私にはわかりません。けれど、とにかく、「鯨を食べたい」と思うような人間。間違いなく、そんな日本人の私は一人ですし、その伝統に裏打ちされた事実を誇りに感じている日本人の一人です。そんなことを考えている時、ある掲示板で下記の言葉を読みました。下記の3行が目に焼きつきました。ご熟読あれ。而して、共に闘わん!

 くじらが安くなって昔の様に食べられたら

 なつかしい日本にもどれるのかな

 日本のこころがキラキラ輝いていた時代


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■「多様な文化」を前提にした鯨談義を
鯨肉は熊本県の山鹿や鹿本あたりでは普通に魚屋さんに売っています。もちろん、大部分は半乾物や塩漬けですけどね。そして、あまり大きな声ではいえないけれど、その「鯨」大部分は海豚らしいです。「海豚」とは、そう、後の天智天皇である中大兄皇子と大織冠・中臣鎌足のクーデタで討たれた、あの蘇我入鹿の「入鹿」です。

これも、文化の違いでしょうか。同じ山国でも、北関東や信州、福知山や綾部という北近畿ではあまり食されないと聞きますしね。やっぱ、鯨と言えば、九州・四国そして紀州は南紀が本場なのでしょうか。四国は土佐、土佐といえば「司牡丹」、司牡丹といえば「酔鯨」、而して、土佐は山内容堂公、号は酔鯨のご当地ですものね。

日本の中でさえ鯨を巡って多様な食文化がある。ですから、「捕鯨再開や調査捕鯨の続行なんかにそうこだわる必要はないのではないかい」と考える日本人がおられて当然と私は思っています。日本人なら寿司と焼き鳥とすき焼きを好まねばならない、などは全く管理主義的で悪しき社会主義的な物言いでしょうから。それと一緒です。その点、人生で一度も鯨を食べたことのない埼玉は浦和からの留学生に「日本人は鯨を食べている。恥を知れ!」と喧嘩を吹っかけてくるアメリカ人の大学生なんかには日本の多様性を一度教えてあげるべきなのだと思います。

鯨が嫌いな日本人や好きな日本人。鯨にこだわる人とあまりこだわらない人がいる状態がむしろ健全な社会というものではないでしょうか。問題は、そのような価値観と習慣を異にしている者同士での是々非々の話し合いが捕鯨を巡っては困難なことです。すなわち、公共的で科学的な事実をもとにした議論、文化の多様性を認め合う寛容さに導かれた討議が捕鯨を巡っては成り立っているとは到底思えない。

あまつさえ、鯨資源の実態を把握し提示するいわば「挙証責任」がいつのまにか捕鯨禁止要求国サイドから、捕鯨推進国サイドに転換されているような馬鹿げた国際捕鯨委員会(IWC)の会議のあり方を私は批判しているのです(本当は、「いつのまに」とかいう曖昧なものではなく、何年何月のどこの会議で「給食の鯨の龍田揚げ」を外国に売り渡した「犯人」(=政治家・官僚)を特定できるはずですけれども)。そのような論理も論拠も、普遍的な国際会議のルールさえ無視される交渉の場で、簡単に日本の文化を放棄してくる日本の官僚や政治家の志の低さに私は憤慨しているのです。その志の低さが、「一果腐りて万果損する」如くに、論理と倫理に対する日本人の尊敬の念を減じかつ損しめた可能性に私は慷慨するのです。

私は「日本の文化」なるものが金太郎飴的に均一であるとも神武天皇以来不変であるとも捉えません。カール・ポパー『歴史主義の貧困』が唯物史観の論理的な基盤を崩壊させ、ドイツ社会史とアナール学派とウォーラスティンが「民族性」なるものが蜃気楼でしかないこと、皮を剥いて行けばついに何もなくなる玉葱でしかないことを喝破した20世紀後半以降、今時、そのように考えるのは国粋主義者か共産党員、朝日新聞の社説子や日教組・全教の先生だけでしょう。「国体」なるものの普遍性を脳天気に夢想する国粋主義者と講座派ばりの唯物史観を捨てきれない自虐史観の論者。彼等は「日本文化」なるものへの評価こそ、一応、正反対ですけれど「日本文化」を均一と捉える共通点を持つ社会思想のシャム双生児なのです。

それこそ、下野と岩代でも、土佐と阿波でも、肥後と筑後でも文化は違いましょう。食文化などその最たるものです。けれども、その多様な文化の中に鯨を食し鯨と共に生きるという文化も小なりとはいえ確固として存在した。また、現在の50代半ばから30代後半の多くの日本人の給食に鯨の龍田揚げが出ていたこと、而して、その世代の仮想共同体では鯨の龍田揚げが<想い出のキーアイテム>の一つであることは間違いのない事実なのです。

畢竟、私は鯨の問題は、日本人が道徳と論理と正義の実現を自己自身の重大事であると再認識するための要路要衝と考えます。鯨は鯨だけの問題ではない。所謂「従軍慰安婦」問題や首相の靖国参拝問題、沖縄の集団自決や「南京事件」を巡る歴史教科書問題、あるいは、外国人の参政権の問題や少年法の改正問題、憲法改正や旧皇族の皇籍復帰等々、多くの「鯨」が日本の再生のために解決を待ち望んでいるのではないか。私にはそう思えてなりません。


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■捕鯨の論理と反捕鯨の理不尽
捕鯨を理屈の通らない理由で放棄した戦後日本は政治が国家の役割を放棄した戦後日本でもある。概略そう上で書きました。もちろん、私は「鯨問題が解決すれば日本が良くなる」とか「鯨を昔のように安い値段で食べられるようになれば懐かしい日本に戻れる」と主張する者ではありません。むしろ逆です。

「日本が良くなれば捕鯨問題が解決するかもしれませんね」そして「日本国民が自分の国を誇りに思えるような状況になれば、鯨を昔のように安い値段で食べられるようになるかもしれませんね」、「捕鯨を科学的なデータに基づく論理的な話し合いで再開できるような政治の機能とパフォーマンスを日本が取り戻すことができたなら、戦後の日本社会で小さくない影響力を持った進歩的文化人や独善的で情緒的な自己の単なる願望をあたかも普遍的な真理や価値であるかのごとく垂流す朝日新聞、すなわち、大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する勢力が国益を日々毀損するような事態は改善されるかもしれませんね」と主張しているのです。

この意味でも鯨は鯨だけの問題ではない。鯨問題の射程を考える上で大変興味深い文章を朝日新聞が掲載していました。平成14年5月19日の社説。以下、引用します。

どちらの言い分(捕鯨派と反捕鯨派のこと。KABU註)にも無理がある。まず、IWC科学委員会が90年に「南極海のミンククジラは76万頭」との見解をまとめたように、一定の捕鯨をしても絶滅とは無縁の種がいるのは確かだろう。反捕鯨派はこの事実を認め、捕鯨を管理する合理的な仕組み(RMS)作りを引き延ばすのをやめるべきだ。

一方、捕鯨派も「数があるなら捕っていい」という手前勝手な主張にこだわらず、限定的な捕鯨構想を示すべきだ。「クジラは捕って欲しくない」という反捕鯨国の感情や価値観も考えるべきだろう。いまの対立はあまりに感情的で、合意を考えない議論ばかりがまかり通っている。(中略)

捕鯨は日本の食文化だという声も強い。だが、沿岸地域のなかに昔からあった捕鯨・鯨食の伝統と、食糧難をきっかけに国民全体が鯨肉を食べるようになった戦後の経験は、区別して論じるべきだろう。(以上社説引用終わり)


科学調査結果を無視した反捕鯨論と、科学調査を踏まえた「数があるなら捕っていい」という捕鯨国の主張がなぜ同列に置かれなければならないのでしょうか。また、捕鯨国は<手前勝手>であり、「クジラを食べて欲しくないという反捕鯨国の感情や価値観も考えるべきだ」と朝日新聞の社説子などに言われる筋合は誰にもないはずでしょう。

究極の所、「鯨を食べたい」と言うのも「鯨を殺すのは可哀想」と感じるのも各自のエゴにすぎず、相手方を納得させ説得するような論理にはなりえません。ならばこそ、「感情論では決着がつかないから、科学的データに基づき政治的な妥協の道を合理的かつ理性的な討論の中で見出しましょう」という段階に進むのが大人の問題解決の態度ではないかと思います。しかし、朝日新聞のこの社説はそんな気はさらさらない。畢竟、この社説は<中立>を装った反捕鯨論にすぎない。

蓋し、「捕鯨をするしない」はゼロかイチかの対立であり、他方、「捕鯨をする」という選択肢の中には無限の段階差があります。反捕鯨論は捕鯨論に含まれているそのような無限の選択肢をすべて否定する。まして、ある種の鯨が増えており当座絶滅の恐れがないという科学的なデータを無視した上での暴論、それが反捕鯨論でしょう。而して、そのような暴論と「どのような捕鯨の仕組みなら鯨資源の持続可能な利用ができるか」を問うている捕鯨論を同列に置くこと自体がすでに中立を装った捕鯨反対論だと私には思えるからです。

次に、「捕鯨は日本の食文化だという声も強い。だが、沿岸地域のなかに昔からあった捕鯨・鯨食の伝統と、食糧難をきっかけに国民全体が鯨肉を食べるようになった戦後の経験は、区別して論じるべきだろう」とはよくもいってくれたね、ものです。

問題は、ある国民が何を食べるかは(他人に迷惑をかけない限り)、その国民自身が自由に選択できてしかるべきだ、ということでしょう。だからこそ、個人的にはぞっとしちゃいますが、私は韓国や支那の人々が犬を喰おうが堕胎した胎児で作ったスープに舌鼓を打とうが日本として口は出せないと考えています。畢竟、鯨肉を食するのは伝統文化的だから認めようとか、戦後の食糧難の一時期の現象にすぎないから駄目だなどとは、反捕鯨国にも朝日新聞にも言われる筋合いは断じてない。

再度書きますが、而して、問題は鯨であって鯨にあらず。それは各民族と国民個々の自己決定権の問題であり、そのような個々の国民と民族の自由をこの国の政治が護る気概と意思と能力とを保持しているかどうかの問題なのではないでしょうか。


この社説のあまりにも読者を馬鹿にした論理の粗雑さに、朝日新聞の社説担当者が本当は<鯨>のことなんか真面目に考えておらず、ただ、商業捕鯨全面禁止から14年目のIWC日本開催に合わせ「アリバイ的」に社説を出したという舞台裏が見え見えの感じがしました。馬鹿にするな。捕鯨に携わった人々、鯨に思い入れを持つ世代と地域の日本人、そして、こんな粗雑な論理を読むために安くはない購読料を払わされている読者を馬鹿にするな、とも。

彼等が<鯨>自体のことを本当は何も考えていないのは確実でしょう。現在、地球上で最大の動物も朝日新聞の社説子様くらいの偉い方からみれば、「まあまあまあ、冷静に冷静に、鯨なんかどうでもいいじゃない。鯨が食べられなければ、牛でも馬でもダチョウでも食べれば」、という程度の存在でしかないのでしょう。鯨も馬鹿にされたもんです。「パンをよこせ」と叫ぶ民衆に対して「パンがなければお菓子を食べれば」と言ったと伝えられるかのルイ16世妃のマリー・アントワネットもこれほど無神経ではなかったでしょう。

朝日新聞の社説子は鯨問題の本質が解っていない。朝日新聞の社説子は捕鯨再開を願う日本人が表面上は鯨を問題にしていながらも、最早、鯨には収まらない問題に憤っていることに全く気づいていない。畢竟、自分の食べたいものを、訳のわからん理屈で外国から禁止されているというポイントが憤りの核心なのです。

喰いもんの恨みは怖いぞ。凄いぞ。まして、理屈の通らない外国の理不尽さと自国の文化を安易に外国に譲り渡した政治家と官僚への軽蔑がそれに加算された場合の恨みは凄いぞ。今に見ていろ朝日新聞。覚悟しておけ朝日新聞。首を洗っていろ朝日新聞ではないでしょうか(笑)。

と、朝日新聞の社説に憤ったので、むしょうに腹が減ってきました。そして、当然、むしょうに鯨を食べたくなった。そこで、我家は給料日前に関わらず今夜は大枚をはたいて鯨ステーキにします。宣言します。朝日新聞に対する憤りを一生忘れないために。而して、捕鯨賛成の読者の皆さん、共に喰らわん、そして、鯨とともに暮らせるような日本にするために共に闘わん。







(2002年5月26日:本家サイトにアップロードした記事を元に新たに作成)


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