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「政治とスポーツは別?」☆北京オリンピックの哲学的考察

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チベットや東トルキスタンにおける支那の人権抑圧を鑑み北京オリンピック開会式への要人の参加取り止めやオリンピック自体のボイコットを求める声が世界中で湧き上がっています。それに対して、支那政府は「政治とスポーツは別だ」と反論している。「スポーツを政治に結びつけることは避けるべきだ」、とも。

「政治とスポーツは別だ」という命題は、しかし、論理的に正しい命題でしょうか。あるいは、論理的に正しいとしてもそれは諸国民を拘束する行動規範としての妥当性を備えているでしょうか。本稿ではこのことを原理的に考えてみたいと思います。尚、若干マニアックと思われる内容は註欄で記述しました。而して、逆に、KABUの哲学的立場を押さえておきたいという向きは下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

哲学と将棋のアナロジー遊び
 
哲学と地ビールと
 
帝国とアメリカと日本
 
和書限定-法哲学の入門書紹介 でも、少し古いよ(笑) 


◆命題
「政治とスポーツは別だ」は何を主張している命題なのか。記号論理学の煩わしい、そして、実はそう多くの知見を与えてくれるとは限らない作業は割愛して、この「AとBは異なる」(「A≠B」)という命題形式から検討してみましょう。

「A≠B」が正しい言明かどうかは、「A」と「B」の意味内容が定まらなければ判定できないように感じられます。まして、「BをAに結びつけるべきではない」という言明に関しては、例えば、「不当解雇」と「倒産」、「日教組・全教の反日教師の解雇」と「教育現場の改善」のように論理的には明らかに「A≠B」である二項について、「BをAと結びつけるべき」ケースがあるのだから、「A」や「B」(=「政治」や「スポーツ」)の意味内容の確定が「政治とスポーツは別だ」という主張の論理的意味と社会的妥当性を考究する上で死活的に重要なことは間違いないでしょう。

他方、しかし、「Aとは何か」(=「政治とは何か」)の問いは哲学的には解答不可能な問いなのです(★)。つまり、「政治」や「正義」のような抽象名詞だけでなく「憲法」や「貨幣」、はたまた、「胡錦濤主席」や「和歌山城」のような個物を指し示すタイプの名詞に至るまで、観念の形象たる任意の「A」について「A」を「A以外のすべて」から区別するメルクマールはこの世に存在しない。重要なのは、そのようなメルクマールを「発見発明するのが技術的に困難」というのではなく「発見発明することは哲学的に不可能」ということです。

★註:実念論と唯名論
長らく、西洋哲学的思索の正しさの基盤は「What is A?」が解答可能であること、すなわち、この世で唯一の普遍的な「A」がアプリオリに認識可能であるという想定でした。そのような実在を「実体」と呼びますが、西洋哲学の基盤は、「事物や事象を表す個々の言葉がその実体と対応している」という予定調和的の前提(畢竟、「実体」としての「父と子と聖霊」の実在を確信したキリスト教の組織神学)だった。

この前提を支持する論を<リアリズム>(概念実在論:略して「実念論」)、他方、(「この世に存在するのは個々の事物や事象にすぎず、名詞は慣習的に人間が使用してきた単なる名称にすぎない」として)この前提に疑いを持つ立場を<ノミナリズム>(唯名論)と呼びます。畢竟、前ソークラテース期から(中世イスラーム世界で育まれて、15-16世紀の西洋世界に逆輸入された)19世紀に至るまでの西洋哲学とはこの「実念論と唯名論を巡る論争」にすぎなかったとも言える。

けれども、19世紀後半-20世紀前半、この論争は唯名論の勝利で決着する。すなわち、「Aとは何か」は解答不可能であり、人間に可能なのは「AはBである」という命題が論理的-経験的に多数者から支持されるかどうかの判定だけだ、と。

この帰結は、19世紀後半の「数学の存在論的な改革」(=集合論を嚆矢とする数学基礎論の成立)の衝撃を端緒として、論理実証主義を触媒とする(現代哲学の主流)分析哲学によって成し遂げられた。そう私は理解しています。尚、実体概念の不成立の的証明に関しては、品切れ中だとは思いますが、渡辺慧『認識とパタン』(岩波新書・1978年、90頁以下)の一読をお薦めします。



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◆定義
この世に普遍的で唯一絶対の「政治」や「スポーツ」の意味など存在しない。ならば、「政治とスポーツは別だ」という命題が正しいかどうかは、(1)その命題自体がどのような意味内容を運ぶための言明として使用されたのか、(2)そこで使われる「政治」と「スポーツ」の語義や「AとBは別だ」(「A≠B」)という構文形態が通常の言語使用から許容されるものか、加えて、(3)「政治」と「スポーツ」の語義や「政治とスポーツは別だ」という命題が通常の人間の経験分析と整合的かどうかという、機能的・慣習的・経験的な基準から間主観的かつ漸進的に判断されるしかない(★)。

★註:定義論
ここで私が採用している、間主観的に(=その当該の問題を解決するに足る情報とスキルを持つ「専門家」の間における多数決によって)機能的・慣習的・経験的な視点から重層的に命題に使用されている語彙と命題自体の意味を漸次(=螺旋階段を登る要領で)確定するという手法は分析哲学の定義論を踏まえたもの。この点に関しては和書ではありますが、碧海純一『新版法哲学概論』(弘文堂・1989年)の第二章の熟読をお薦めします。


例えば、「旧憲法に違反する(日本国)憲法は無効」という主張などは、「憲法の概念」の(=「憲法」という語彙に関する)機能的・慣習的・経験的な観察を怠った妄想と言うべきでしょう。日本国憲法が「憲法」として機能している限り(=「憲法」の定義から導かれた属性である、最高の授権規範&制限規範として機能している限り、下位法とは異なり)国法秩序と国家権力の正当性と陣容を確立構成する憲法が他の規範によって「違法」や「無効」などとされることはないからです。畢竟、「旧憲法に反して無効な憲法」なるものは「新憲法として有効」なだけであり、ある規範体系が「憲法」の定義を満たしている限り「無効な憲法」という概念自体がそもそも成立しない。

面白いことに、そのような所謂「憲法無効論」の論者は時に「偽札はそれが貨幣として流通しているからといって真札になるわけではない」と主張しているらしい。しかし、ケインズの「マクロ経済学における貨幣の定義」を持ち出すまでもなく、(機能的・慣習的・経験的な観察からは)貨幣の定義は、(a)公信力、(b)一般的な交換可能性、(c)社会の全域での流通性である。つまり、「貨幣」のこの定義からは、「偽札」であろうが「支那から輸入した銭」(唐銭・宋銭)、あるいは、文字通りの「貝殻」であろうがそれらが(a)~(c)を継続的に満たしているのならばそれらは立派な「貨幣」である。ここでも重要なことは、「その偽札は論理的に真札と考えられる」のであって、「偽札と真札の区別が技術的に困難だから偽札が真札として扱われてもやむをえない」ということではないということです。

而して、新しい憲法が「憲法」の定義を満たす場合には、旧憲法こそ「憲法」としては最早使えない「古物」であり、(残念ながら)新憲法が「真憲法」。繰り返しますが、本稿の論旨において重要なポイントは、「日本国憲法が制定されてから60年の事実の積み重ねによって新憲法が「真憲法」になる」のではなくて「機能的・慣習的・経験的な観察から得られた「憲法」の定義に新憲法が合致し始めた時点から新憲法は現行の実定憲法であり、他方、旧憲法は残念ながら「古物」になった」ということ。


◆意味
「政治とスポーツは別だ」という支那政府の言明は公共的な情報空間に放たれた。ならびに、「政治」と「スポーツ」という観念形象に公共的な意味を付与するものは言語使用の慣習とそれを定礎する「専門家」の言語使用経験にほかならない(★)。これらを踏まえれば、支那政府が諸外国に向けてなした言明の意味がその話者の意図に拘束されるはずはなく、かつ、この言明に関しては、その意味を判定をするに足る知識とスキルを備えた「専門家」とは初等教育を修了した世界中のほとんどすべての人間である。私はそう考えます。

★註:観念形象と帰属点
20世紀最高の法学者の一人、ハンス・ケルゼンは、国家をも含む人間集団を、価値や評価の「帰属点」として整理しました。而して、(法学における唯名論の代表的論者でもある)ケルゼンの帰属点(Zurechnungspunkt)が実体概念ではないことは当然。畢竟、それはある価値や評価が結びつけられる表象の単位として人間の観念の中にのみ存在する形象なのです。

例えば、サッカーのワールドカップで、高原がゴールしても俊輔がゴールしても「日本代表」に1点が入る。しかし、「日本代表」自体には誰も触ることはもちろん見ることもできはしない。それはサッカーのルールブックとサッカーの慣習が意味的世界に作り上げた帰属点なのだから。尚、帰属点を私的に設定することも可能ですが、公共的なコミュニケーションにおいては(再度記しますが)、帰属点に公共性を付与するものは言語使用の慣習とそれを定礎する「専門家」の言語使用の経験なのです。



前項で述べた定義論を踏まえ、「政治」を「権力の分配構造とその分配の全過程」。「権力」を「公的な資格において他者の行動を左右する、実力に担保された威力」。他方、例えば、『広辞苑』に従い「スポーツ」を「遊戯・競争・肉体的と精神的鍛錬の要素を含む身体運動の総称」と定義する場合、「政治とスポーツが異なる」ことは自明。しかし、他方、「スポーツとビジネスは別だ」という命題もこの意味で同様に正しいけれど、昨年2007年にMLBが約6682億円の売り上げを上げたとされることでも明らかなように、「スポーツ」と「ビジネス」は極めて密接な関係にあることも事実。

ならば、「ビジネスとスポーツは別だ」という命題と同様、「政治とスポーツは別だ」という命題を支那政府が、「スポーツを政治(あるいはビジネス)の観点から認識することはできないし、政治(ビジネス)をスポーツのアナロジーで理解することもできない」という意味で使ったとすればこの命題は論理的-社会的に間違いと言うべきでしょう。

而して、「政治とスポーツは別だ」という支那の主張が、「オリンピックを契機に開催国に対して政治的に不利な行動を取るべきではない」という意味であるならば、それは<スポーツに結びついた政治的主張>以外の何ものでもない。蓋し、チベット問題を理由に北京オリンピックに反対するのも、チベットや東トルキスタンにおける支那の人権侵害に目を瞑り反対しないことも共に<政治的な効果>を帯びる点では同じなのです。畢竟、「政治とスポーツは別だ」という命題は支那の人権侵害を理由に北京オリンピックに反対する世界中の人々の行動を毫も拘束するものなどではありえない。私はそう考えています。


チベットに自由を!

東トルキスタンに自由を!




(2008年4月3日:yahoo版にアップロード)

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