安本美典『日本語の成立』

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◆『日本語の成立』
 安本美典(講談社現代新書・1978年5月)


15年くらい前に、「万葉集は韓国語で読める」とか「古事記には韓国語の暗号が込められている」とか主張する書籍がブームになったことがあります。実は、これはさして目新しいことではない。大和朝廷の成立前後の時期、当時の北関東以西のこの列島の西部に勢力を持った勢力は実は(当時の)朝鮮半島の人々と言語的に近しい関係にあった/朝鮮半島の人々自身がこの列島西部を支配したという言説は江戸期から間欠泉よろしく繰り返し主張されてきました。大東亜戦争の戦後でもフロイトの紹介者として高名な安田徳太郎(医師)が昭和30年に出版された『万葉集の謎』(光文社)などが有名です(本書・p.28ff)。

而して、「万葉集は韓国語で読める」とかの妄説がマスコミを賑わした際に、過半の比較言語学-歴史言語学の専門家は笑い飛ばすだけで有効な反論を行わなかったと記憶しています。あるいは、40年程前、「「邪馬台国」はなかった。あったのは「邪馬壱国」だった」という、文献学の基本的な手続きも省略した古田武彦氏の著作『「邪馬台国」はなかった』が世に出たとき、多くの文献古代史学の専門家は適切な批判を怠った。

もちろん、学問的には「万葉集は(古代)韓国語で読める」や「邪馬台国はなかった」などの主張は相手にするに値しないものではあるでしょう。しかし、当時の専門家の消極的な対応が、その後今に至るまで根拠薄弱(否、根拠を欠落させた)歪な歴史認識が我が国に蔓延する原因となったことは否定できないと思います。その点で、その主張自体には正直私も首肯できかねる部分のあるのですが、本書の著者、安本美典氏の比較-歴史言語学と古代史の分野での業績は、日本をいかがわしい謬論から守護したものとして高く評価されるべきであろう。私はそう考えています。閑話休題。


学説史を紐解けば、大野晋氏をほとんど唯一の例外として、日韓の韓国語・朝鮮語の専門家も比較言語学の専門家も(前者として李基文氏や河野六郎氏、後者としては服部四郎や村山七郎氏や松本克己氏、あるいは、岸本通夫氏や川本崇雄氏)、日本語と韓国語・朝鮮語がそれほど近い言語とは考えないのが大方の認識と言えると思います(本書・p.36ff)。少なくとも、今から1,500年前の継体天皇の御世から飛鳥の時代に(当時の)日本人と朝鮮半島の人々が意思疎通するのに通訳を必要としなかったなどと考える専門家はほとんどいないと言ってよいと思います。

一応、言語教育の専門家の端くれとして私も(比較言語学は完全に畑違いではありますが)、日本語の起源、特に、日本語と韓国語・朝鮮語との関係についてはずうっと興味をもってきました。そして、本書『日本語の成立』は私にとって日本語の来歴や韓国語・朝鮮語と日本語の歴史的な関係を考える上で一番参考になった書籍です。本書は、基本語彙・音韻・文法の三領域に統計学の手法を適用して、著者にとって謬論としか思えない説を蹴散らしながら日本語の成立の経緯に迫るもの。正に、本書は知的冒険の書というべきでしょう。

内容的に見れば本書の中心は膨大な世界の多数の言語に関するデータ収集と統計学を駆使したその分析にあります。実は、サンプルと母集団の定義や少数量サンプルから導き出される統計分析の精度の理解は(統計学の専門書を読んでも今ひとつピンとこなかった時期に)、私はこの書籍を通して学びました。けれども、統計学とかに興味ない方はそんな部分は飛ばして読めばいい。そして、統計学のいかめしい鎧を脱いだとき、本書が読者に提供する数万年に及ぶ日本語の歴史のパースペクティブは「ビューティフル」の一語につきます。結論は同書の第3章第4節以下に書かれています(p.183ff)。

(1)日本語の歴史は印欧語のような系統樹モデル(分裂論)で考えるべきではない
(2)日本語の歴史は多数の河川が大河に流れ込むモデル(流入論)で考えるべきだ
(3)日本語の基層には韓国語・朝鮮語との共通の祖語:古極東アジア語があり
(4)その基層の上に、6~7千年前にインドネシア語・カンボジア語が流入し
(5)更に、ビルマ系江南語が2千2~3百年前に流入
(6)その後、西暦紀元前後から継続的に中国語が流入して現在の日本語が成立し

つまり、著者の安本さんによれば、どんなに時代を繰り下げたとしても韓国語・朝鮮語と日本語は6千年前には各々独自の道を歩み始めたわけであり、その分枝から4千5百年以上を経過していた継体天皇や推古天皇に天智天皇の御世に(当時の)一般の日本人と朝鮮半島の普通の人々が通訳なしで会話ができたなどということは考えにくいということになります。それは、英語とドイツ語が今から約2千年前にそれらの共通の祖語から分裂を始めたと考えられていることを想起すれば思い半ばに至りましょう(参考:本書p.58ff)。

注意すべきは「6~7千年前にインドネシア語・カンボジア語が流入」とか「ビルマ系江南語が2千2~3百年前に流入」、あるいは、「西暦紀元前後から継続的に中国語が流入」と言う表現です。それは「日本語の基層には韓国語・朝鮮語との共通の祖語」があるという表現を常に意識してされるべきです。私は何を言いたいのか? それは、あくまでも「流入」したのは現在の各々の言葉の祖先たる当時のインドネシア語・カンボジア語やビルマ系江南語に中国語であったと言うこと。つまり、「猿が人間の祖先だった」という命題は進化論からは間違い(ミスリーディングな表現)であり、「猿と人間は共通の祖先から進化の過程のある段階で分枝した」と言うべきであることと同じです。よって、古極東アジア語なるものの存在を認めるにしても、朝鮮語は日本語の祖先でもないし、その逆でもないのです(★)。

★註:
私は(「当時の」という形容句を付けながらも)、2千年や7千年前のこの列島の住人を本稿で「日本人」と記しています。私は、「日本」や「日本人」というアイデンティティーがこの列島に成立したのは、おそらく6世紀から7世紀であろうと思っています。よって、それは現在の日本語の素になった言葉を話した人々という程度の意味にすぎない。これは蛇足かもしれませんが、国家・国民のアイデンティティーと言語の起源は少し油断すると混同されがちなのでここに老婆心ながらコメントしておきます。



私は、日本語の成立に関する安本さんの「流入論」は実に説得力のある見解だと思っています。そして(安本さんご自身はそのアプローチにむしろ批判的なようですが)、川本崇雄さんや岡田英弘さんが唱えられているピジン語としての日本語というアイデア。つまり、ピジン語(言語の融合によって生じた新たな言語:特に、被支配的な地位に置かれた人々がその文法や音韻法則の言語メカニズムの上に支配的人々の言語の語彙を借用して形成する言語)の成立事例として日本語の成立を考えることにロマンを感じています。少なくとも、紀元前後の中国語と(当時の)日本語とは新たなピジン語としての次世代日本語を作ったのではないか。いずれにせよ、本書『日本語の成立』は一読する価値ありです。本書を含め絶版・品切れでもあるかと思いますが、図書館や古書肆で見かけられた際には、本書の簡易版の『日本語の起源を探る』(PHP・1985年3月)、『卑弥呼は日本語を話したか』(PHP・1991年2月)ともども一読を推薦します。


(2005年7月7日:英語と書評 de 海馬之玄関にアップロード)


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日本人の起源

こんばんは! 亀レスです。
ボクも、この本、ワクワクして読んだ記憶があります。 やはりわれわれの父祖・同胞のルーツには興味がありますから。
ブログ主さんの解説、勉強になるとともに、ほぼ同様の感想を持ちました。
11月3日の深夜NHK(サイエンスZERO)で、この分野の専門家が出演して、分子人類学(ミトコンドリアDNA)立場からも、縄文人・弥生人の「二重構造」が検証されていました。実に興味深い内容でした。
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