人権と民主主義は国境を越えるか

rokumeikan


0:国境を越える人権と民主主義
人権と民主主義は国境を越えて遍く世界に広まる。このような認識がいまだに日本では熱く語られている。もちろん、「人権と民主主義が国境を越えて世界中に広がってきた」という主張であれば、私もそれはマクロ的には正しい認識だと思います。現在、『世界人権宣言』(Universal Declaration of Human Rights, 1948)以下の国際人権法が世界の政治に及ぼしている影響力は第二次世界大戦前の国際人道法に比べれば隔世の観がありますから。畢竟、ヘーゲル的の言辞を借用すれば、「人権と民主主義の理念は時代精神となり第二次世界大戦後の人類史に自己を顕現した」と言えるでしょう。

1:人権と民主主義の現実化の実相
第二次世界大戦後の世界における人権と民主主義の現実化は、しかし、ソヴィエト・ロシアの戦車とアメリカの戦闘爆撃機に乗って世界に広まったものでもある。そしてなにより、それらは皇軍兵士の背嚢に運ばれてアジアの旧植民地に浸透した。グローバル化の進行著しい現在、経済と経営のデファクトスタンダードであるアメリカ流の経営スキルと国際経済のルール、例えば、知的財産法とコンプライアンスの制度がマクドナルドのハンバーガーとマイクロソフトのOSに伴われて世界に浸透したと言えるとするならば、第二次世界大戦を契機とした人権と民主主義の人類史規模での伝播もまた、アジアの旧植民地解放に連なる我が皇軍の世界史的なインパクトと戦後冷戦構造下の米ソの正当性競争のプロセスにその具体的な展開の相を見ることも十分可能だからです。

人権と民主主義は国境を越えた。しかし、「人権」や「民主主義」の意味内容は現在においてもそれほど明瞭ではありません。また、人権や民主主義が国境を越えたのは、おそらく、正義に餓えた諸国民の祈りが天に通じたからでも歴史の発展法則なるものの結果でもない(少なくとも、それらの価値の絶対的な正しさや歴史の必然性によるものだけではない)。人権や民主主義が国境を越えたのは、おそらく、それらの社会思想的価値をデファクトスタンダードにしてしまう方が自国の国益に有利な欧米諸国の打算の結果であり、他方、日本とトルコを除く世界の多くの非欧米地域で人権や民主主義を受入れるための社会経済的の環境が漸次整った結果であろうと私は思います。

簡単な話です。朝鮮半島の付け根の国、(私は自国民の1~2割を餓死せしめるような政治体制は近代的な意味での「国家」とは呼べないと考えていますが、)その北朝鮮を想起すれば明らかなように、人権や民主主義を独裁国家が自発的に受入れるはずはない。ならば、多くの独裁国家や欧米とは異質な文化伝統を保持する社会が人権と民主主義を漸次受入れてきたのはその体制維持のためでしかないでしょう。すなわち、人権と民主主義を受入れなければ貿易も投資も制約される、あるいは、開発援助も受けることが難しい、更には、人権侵害と非民主的な政治状況を理由に他国からの内政干渉を受けかねない現実があればこそ、近代西欧の周縁領域にもそれらは漸次広まった。人権や民主主義の価値に絶対的・普遍的な正しさなど存在するはずもないことを鑑みるとき、私にはそうとしか思われないのです。

ならば、非欧米の後進民主主義国と社会にとって(つまり、それらの国の支配層だけでなく民衆にとっても)「人権」と「民主主義」は欧米から押しつけられた<不平等条約>であり、あるいは、<鹿鳴館>に他ならない。「人権」と「民主主義」が、単なる政治哲学的価値のone of themや統治機構を構成し運用するルールのone of themに止まるものではなく、当該の国家社会(=国家規模の社会)における人と人との社会的な関係のあり方を規定する社会規範でもあることを鑑みれば、「人権」と「民主主義」の<不平等条約性>や<鹿鳴館性>はあるいはその国の政治支配層に対するよりも民衆に対しての方が一層抑圧的なのかもしれません。


2:国境を浸食するものと国境を堅牢にするもの
人権や民主主義のアイデアは、しかし、徹頭徹尾、ある国の国内法秩序を媒介にして初めて(人々の行動や思想や認識を拘束する)実定的な価値や規範として機能する。要は、民主主義や人権の内容は国境を越えて広がるかもしれないけれど、結局、それらはある国内法秩序にインカーネート(incarnate)されるのでなければ、現実に人々の行動を拘束する社会思想的な価値や社会規範として実効性を帯びることはない。しかし、逆に言えば、多くの非欧米社会の人々にとって<不平等条約>であり<鹿鳴館>に他ならない人権や民主主義も、当該の国内法秩序に組み込まれるや否やその国民の人権やその国家社会の政治制度になる。

この認識から導かれることは、ある民族と国民にとって欧米式の(実は、フランス式の教条主義的な)人権や民主主義を国内法秩序の不可分の構成要素として(as an integral part of the domestic legal system)受入れなければならない義務も義理も全くないということ。加えて、人権と民主主義が「デファクトスタンダード」である現実は否定できないにせよ、ある国の人権や民主主義の内容はその当該の国家社会で特殊歴史的に形成された文化的な価値体系および当該の主権国家の国力に左右されるということです。

而して、昔懐かしい「世界同時革命論」よろしく、現在の世界において共時的に、普遍的な人権と民主主義の内容を世界のすべての国家社会と諸民族に要求するが如き大東亜戦争後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する勢力や国際的人権利権集団として悪名高いアムネスティー等の傲岸不遜な言動は、それらに共鳴するプロ市民活動家のヒューマンな善意(笑)などとは別の意味で、 文字通り、欧米先進国のイデオロギーの押し売りにすぎない。そう私は考えています。

繰り返しますが、人権と民主主義の効力は国境を跨ぐことはない。例えば、教育を受ける権利や労働基本権の内容と現実的な水準、それどころか、国籍取得の要件や難民認定要件さえもが個々の国の国策と国力に左右されるものであることは自明のことでしょう。他方、人身の自由や表現の自由の具体的内容も個々の国家社会の治安状況ならびに歴史的に形成された特殊な文化的価値観のあり方をパラメーターとする函数でしかない。畢竟、憲法典の効力を含み、ある法規範の効力を担保するものが究極的には国民の法的確信の内容であることを否定しない限りそれは当然のことなのです。

実際、イスラームの国でも「アル・クーラン」や「ムハンマド」を冒涜する表現行為が許されるべきだと考える方が法概念論の勉強不足と言うものでしょう。あるいは、甲子園球場の一塁側でタイガースの選手に暴言を吐くことは法律論以前に世間知らずの愚かな行為に他なりません。他方、地下鉄車内で撒布するためにサリンを製造している、または、西濃運送の事務所に忍び込んで他人の鯨肉を窃取しようとしているカルト的テロリスト集団の通信の秘密も一切制限されるべきではないなどの主張は、憲法の人権論の通説的理解からも無条件に正当化されるものではないのです。蓋し、人権といい民主主義といいそれらは絶対的な価値でも普遍的な価値でもありえないだけでなく、寧ろそれらは個別の主権国家の法体系とその国家社会の価値観を他の政治社会から画然とさせるものとも言える。畢竟、人権と民主主義は国境を浸食するものであると同時に国境を堅牢にするものでもあるのです。


3:人権と民主主義の歴史的相対性
人権も民主主義もその根拠において相対的であり、また、その効力においては国境に規定されている。この経緯は現在において、更に3重の意味で一層その色彩を強めているのではないか。そう私は考えています。すなわち、人権と民主主義の(1)成立期に遡る相対性、(2)現代社会の大衆化と情報化に起因する相対性、そして、(3)現在の国際競争の進行に起因する相対性の三者です。

我が国の憲法研究者の中には、「国家は必要悪であり、その国家から国民の基本的人権を護ることが憲法の役目である。而して、国家に権威と権力を与えるものは独り国民であり、国家権力は国民民意に沿い人権を護る限度においてその公権力としての威力を保つことが許される」と考える向きもまだあるようです。

近代憲法の成立時、すなわち、人権と民主主義が近代憲法の原理となった際に、近代憲法思想のイデオローグ達はこのように国家と人権および民主主義の関係を考えた。蓋し、(a)平等なる国民の身分制的な桎梏となっている教会やギルド等の「中間団体」の影響力を国民国家の実力によって粉砕すれば、(b)その段階で人権を侵害する意図と能力の双方を備えうるものとしては唯一国家権力だけが残る。ゆえに、(c)国家の権力行使に人権という足枷をはめ、国家の意思決定プロセスを国民自身が国民代表を通じてコントロールすることにすれば、主権国家の領土内に人権を侵害する意図と能力を持つものはなくなる。而して、このフランス流の憲法思想が『フランス人権宣言』(Déclaration des Dorits de l'homme et du Citoyen, 1789)の16条「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」に結晶した、と。(実は、下に挙げた拙稿をご一読いただければ明らかなように、ここで書いた「民主主義」の意味は現在の視点から捉え返した20世紀的なものなのですが)私はフランス流の憲法思想を概略こう理解しています。

しかし、アメリカ独立戦争とフランス革命の硝煙と喧騒の中で明文化され公共化された人権と民主主義の理念は、民主主義や人権の社会思想史の中では寧ろ特殊なものにすぎません。「伝統と慣習に基礎づけられた人権と民主主義」という英国流の社会思想からは、人権や民主主義と国家権力とは必ずしも原理的に対立するものではないのです。

而して、人権と民主主義を国家権力と原理的に対立するものと見る構図を前提に編み上げられたフランス式の人権と民主主義のイメージは極めて歴史的に特殊なものにすぎないし、他方、ロベスピエールの恐怖政治からナチスドイツのホロコースト、2千万人を優に超えるスターリンの粛清や総計億に達する毛沢東の殺戮、而して、クメールルージュの大虐殺に至るフランス流の民主主義の<前科>によってすべての民主主義のアイデアの有効性が否定されるわけでもない。尚、この点に関する私の基本的な考えについては下記およびそこにリンクを張っている拙稿をご参照ください。


民主主義とはなんじゃらほい
 
人権を守る運動は左翼の縄張りか? 保守主義からの人権論構築の試み
 
戦後民主主義的国家論の打破(上)(中)(下)
 
憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)(下)
 


911ss


4:大衆・情報化社会が及ぼす人権と民主主義の変容
理性的討論で優劣をつけようもない信仰の営みに容喙する教会組織の聳立、自由な経済活動の桎梏と化したギルド的組織の攅立等々の「中間団体」の跋扈、加えて、新たな国際政治状況に拮抗するための国民国家形成の必然性という18世紀後半のフランス社会が直面していた歴史的特殊性を鑑みるならば、「国家から国民の基本的人権を護ることが憲法の主要な機能であり、他方、国家に権威と権力を与えるものは独り国民の総意である。ならば、国家権力は 民意に適い人権を護る限度においてその存在が正当化される必要悪にすぎない」とするフランス近代憲法思想のイデオロギーは満更非合理ではなかったと思います。しかし、21世紀の現在、国民の人権を侵害する意図と能力を持ちうるものは国家だけに限られない。まして、北朝鮮による拉致事件を想起するとき(18世紀においてもそうであった如く)それは自国の国家権力に限定されるわけでは全くないのです。

20世紀を通して発達した科学技術。20世紀最後のディケードを通して加速した地球規模のロジステイクスの発展およびインターネットの普及。これら大衆レヴェルの情報化社会の現出は、現在、世界のどの国の大学生グループでさえ理論的には(容易にとまでは言いませんけれども)数万人を殺傷可能な生物化学兵器を製造することは不可能ではないのです。また、北朝鮮の例を挙げるまでもなくGDP比で日本の1825分の1以下の国力の国でも(再度言いますが、私は自国民の1~2割を餓死せしめるような政治体制を近代的な意味での「国家」とは呼べないと考えていますが、)核兵器の製造と弾道ミサイルへのその搭載が可能な時代に我々は生きているのです。而して、有力な国際テロネットワークが生物化学兵器あるいは核兵器を既に手にしているか極めて近い将来手にする可能性が高いことは寧ろ常識でしょう。

しかるに、日本の憲法研究者の中には、いまだに「人権は国家権力に対する権利概念であり、自国の国家権力以外の人権侵害主体なるものは憲法的思考の埒外である」と言い切る向きさえある。蓋し、このような言辞は、ケインズが「失業」を経済学的に「発見」する以前、失業者の群れは財の需要と供給の調整プロセスの一形態(完全雇用の一現象場面&部面!)にすぎないと嘯いていた経済学者とそう大きく変わらないと私は考えています。

而して、「人間であることだけを理由に認められる、かつ、その個人が帰属する国家がその国力と文化伝統の範囲内で最大限に尊重し庇護するべき諸権利」をここで<人権>と再規定するならば、現代の大衆レヴェルの高度情報化社会、そして、国際競争も国際的相互依存もグローバル化した国際経済を与件とする世界においては、<人権侵害>の潜在的脅威は国家権力だけではなく(当然、他国政府は言うまでもなく)国際テロネットワークであり、グローバル化した企業活動、更には、大学生の遊び心なのかもしれないのです。

畢竟、これらの状況認識が、近代憲法思想のイデオローグ達が考えた人権と人権保障のイメージが最早リアリティーを失ったと私が断ずる背景であり、現在、人権と民主主義の意味内容が18世紀のフランス流のそれであり続けることなどできはしないと私が考える一つの理由なのです。



5:グローバル化が及ぼす人権と民主主義の変容
国家の安全保障と国民の安心と安全を護るための人権と民主主義の相対化。すなわち、人身の自由や表現の自由の制約、ならびに、国民の知る権利の制約だけが人権と民主主義の現在における変容の相ではない。寧ろ、社会権的基本権と国家の社会統合の維持(本稿では割愛しますが、これらに加えて、持続可能なエコシステムと整合的な社会を実現)の場面でこそ、現在、人権と民主主義の相対化が生じており見直しが迫られていると私は考えています。

例えば、大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する、朝日新聞に代表される勢力は( 学校現場での国旗・国歌の扱いに対する消極的批判的な論調を見るにつけ)、国民国家としての社会統合は国や国民が意識的に努力せずとも自ずと達成されと考えているようです。而して、彼等は社会的弱者の救済による社会的な不公平の是正こそ国家権力の主要なタスクと考えている節がある。

蓋し、戦後民主主義を信奉する論者は、所謂「市民」なるものの性善説に立ち「社会的不公平の存在は国家の怠慢か国家の仕業(実は、中立を装う政治的国家を蔭で牛耳る「国家独占資本」や「アメリカ帝国主義」の仕業)に他ならず、よって、国家と支配者側の責任に帰する社会的不均衡を国家権力と独占資本が自分達の負担で解決するのは当然」といまだに考えているのかもしれません。

けれども、国家の財政もビル・ゲイツ氏の資産と同様無尽蔵などではありません。財政とは国民や法人が払う税金の集積でしかないからです。畢竟、グローバル化した現在の世界では、結局、国民も企業も国際的な競争の中で所得や利潤を得て初めて納税することが可能になるのであって、日本企業が国際的な競争において敗れるのならば日本の国家財政は早晩破綻するしかないのです。而して、幸いにして国家財政が健全に成立したとしても国家はその財政予算の範囲内でしか支出はできない。これは当たり前のことでしょう。

すなわち、社会権的基本権の内容は当該国の国力に、つまり、その国の予算にリンクする類の事象なのです。そして、更に、現代のグローバル化した世界では国家財政はその国際競争力にリンクしており、社会権的基本権の内容も国際競争力をパラメーターとする函数でしかない。

蓋し、20世紀半ばの(就中、1973年のオイルショック以降の)「福祉国家」の成立と前後して「社会権的基本権」を誕生させた国際経済のダイナミックスは、21世紀の個々の主権国家に対して(アメリカを冷戦で圧勝せしめ、かつ、その唯一の超大国アメリカをone of themの大国に正に今追いやろうとしている)グローバル化の激流にその姿を変えつつ18-19世紀的の人権と民主主義の相対化を迫っている。

繰り返しになりますが、大衆レヴェルの情報社会化、および、国際経済のグローバル化の進行の中で人権と民主主義の価値は相対化を余儀なくされ、その規範内容も変容を迫られている。畢竟、人権と民主主義には重層的に作用する相対化要因が働いている。 而して、これらが現在、所謂「夜警国家」のイメージで国家の機能を思念していた近代憲法思想における人権と民主主義のイメージが最早有効性を失ったと私が考える理由です。



6:人権と民主主義を巡る懐古的な空想と未来志向の論理
人権と民主主義は現在変容を迫られている。私のこの視座からは数百年単位の時代錯誤としか思えない朝日新聞の社説があります。「EUと難民――排外主義を防げるか」(2002年7月8日)。かなり旧聞に属するものですが、我々保守改革派が戦うべき「時の流れを止めて、変わらない夢を見たがる者たち」の人権と民主主義の理解を確認すべくここで紹介します。以下引用開始。


欧州連合(EU)域内での難民申請者は、昨年までの10年間で374万人を超える。うち難民と認められたのは約2割である。だが、難民でないとされた人たちのうち相当数が不法滞在を続けている。民族紛争が各地で激化したうえ、人々の移動が容易になったというポスト冷戦の国際事情が、欧州諸国へ流入する難民・不法移民の急増をもたらしている。その結果、各国に宗教や生活慣習が大きく異なる人々の居住地が生まれ、地元住民との摩擦が起こる。それが排外主義諸政党伸長の要因となっている。

EU諸国を支配する主要政党にとっては足元を脅かされた形だ。放置すれば、リベラルな多文化主義は後退し、不寛容な空気が広まる恐れがある。このため、先ごろ開かれたEU首脳会議は、難民・不法移民対策について行動計画をまとめた。(中略)

難民の出身国は、旧ユーゴスラビアやアフガニスタン、ソマリア、イラクなど内戦や民族対立を抱える諸国である。難民問題の根源が、迫害が横行するこうした国々にあることは言うまでもない。難民が母国を捨てる状況を変えるには、政治体制の民主化、対立する民族の対話、紛争後の和解促進などが不可欠だろう。こうした分野でEUやその加盟国が担うべき役割は大きいはずである。 (中略)

行動計画が看板倒れに終わると、失望感から危険な排外主義が膨らむことも予想される。難民・不法移民対策として即効性があるものではないが、EUとその加盟国は行動計画を着実に実施するしかない。その際、人道主義を重んじる欧州らしく、真に保護が必要な難民が排除されないよう、十分に配慮してもらいたい。(以上引用終り)



難民対策のコストは誰が払うべきなのか。この「筋論」や「べき論」は置いておくとして、財政的制約からEU諸国がそのコストを負担できなくなったとき、新たな難民は論理的には存在しなくなります。そうなれば、少なくとも新たな難民を原因とする「排外主義諸政党伸長」も「リベラルな多文化主義の後退」や「不寛容な空気が広まる恐れ」もなくなるに違いありません。そのような事態が朝日新聞にとって好ましかろうが好ましくなかろうが、難民の一時受入れ、または、半永久的か永久的かは問わずその当該EU加盟国の社会への同化統合コストにEU加盟国の財政が耐えられなくなった場合には「一切の難民受入れの拒否」しか道は残されていないのです。

畢竟、難民を原則受入れるのかどうか、受入れるとしてどの規模でどのようなタイプの難民を受入れるのか、また、(永住許可か就労許可か、はたまた、EU域内で誕生した子とその父母の国籍と永住権はどうするのか等々)どのような形で難民を受入れるのかは、難民受入国が社会統合のコストを含む難民受入れのコスト負担能力の範囲で決定すべき(否、決定するしかない)政策判断なのです。

敷衍すれば、難民の人権確保というイシューは、排外主義反対とか多文化主義擁護とかの国境を越える観念論とは別に、EU加盟国やアメリカ、日本等々の各主権国家がその国力や社会統合の現状のパフォーマンス、ならびに、人的資源の調達という現実に抱えている社会状況に基づき諸国の国境の範囲内で決定するしかない政策課題に他ならない。ならば、朝日新聞のこの社説の基盤を成している人権と民主主義の理解は18世紀的なものであるだけでなく、それは現実の近代主権国家を相対化した空想の中でしか存続しえないものではないでしょうか。

チベットと東トルキスタンにおける支那の人権侵害を見聞きするにつけ、今よりも少しでも人権が実現されることを願わずにはおられない。私もそんな一人です。けれども、そのような状態の具現は結果ではあってもプロセスではおそらくない。畢竟、世界と社会の改革には思想だけでなく理論が必要であり、理論に則った実践が不可欠である。宇野弘蔵的に記せば、人権と民主主義が変容を受けている21世紀とはそのような人権と民主主義の<段階論>が求められている時代ではないのでしょうか。

蓋し、この社説には<段階論的認識>が欠如している。そして、その<段階論>の欠如は、実は、民主主義や人権の思想の源泉に関する誤解と無知に起因するのではないか。畢竟、<段階論>の誤謬は<原理論>に起因しており、<段階論>と<原理論>が破綻していては現実の社会的紛争解決の方途を示す<現状分析>が荒唐無稽に終わるのは必定でしょう。結局、難民問題について何の具体的提言もできていないこの社説を反芻する度にそう私は感じるのです。





(2008年6月19日:yahoo版にアップロード)

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