完全攻略夫婦別姓論-マルクス主義フェミニズムの構造と射程(上)

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目次
◆はじめに
◆赤本 夫婦別姓論の基底 <夫婦別姓論の根拠を覗いて見てみれば>
■夫婦別姓論の根拠を覗いてみる
■「家族」と「夫婦」の幻想性を検討してみる
■「家族」と「夫婦」の幻想再生産の検討

◆青本 夫婦別姓論の射程 <幸福の青い鳥は自分の2LDKにいた>
■思想的混合物-その名はフェミニズム
■フェミニズムの思想基盤の検討(以上、(上)所収)
■フェミニズムの思想基盤に走る断層(以上、(中)所収)
■フェミニズムは玉葱の皮である
■フェミニズムの躓きの石としての性差と性欲
■幸福の青い鳥は<家族物語>の中にいた(以上、(下)所収)



◆はじめに
夫婦別姓を巡って様々な議論が展開されています。私は、夫婦別姓に関しては原則反対。ただし、「通称」として婚姻前の姓や離婚前の姓を名乗る行政法的や商法的な余地を認める法制度の改革は必要かもしれない。しかし、(選択制にせよ)夫婦別姓を容認するような民法や戸籍法の制度改革は妥当ではないと考えています。而して、本稿は私の「夫婦別姓」を巡る主張の基盤となる「家族」と「フェミニズム」に対する理解を整理したものです。畢竟、本稿は、夫婦別姓の「制度」ではなくどちらかと言えば夫婦別姓の「論議」に焦点を当てたものであることは最初に明記しておきます。

本稿は2部構成。すなわち、夫婦別姓論の根拠を概観する第1部(赤本)、♂&♀の性差理解から夫婦別姓論を検討する第2部(青本)の構成です。もって、「フェミニズムに反対する立場は国家主義的で古い考え方である」「フェミニズムの正しさは議論の必要もないくらい自明なことだ」などとノタマウ、そう、ファシスト的でさえある現在のフェミニズムの行動様式や思考様式を相対化して、もってフェミニストという名のファシズムを攻略するためのベースキャンプを設営できればと念じています。尚、以下の「註」は些かマニアックな補足説明。興味のない方、御用とお急ぎの方は飛ばしていただいて結構です。


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◆赤本:夫婦別姓論の基底 <夫婦別姓論の根拠を覗いて見てみれば>

■夫婦別姓論の根拠を覗いてみる
夫婦別姓を推進する論議の背景には以下のような「夫婦」や「家族」や「性差分業」に関する考え方が横たわってはいないだろうか。すなわち、

(1)「家族」や「夫婦」は幻想に過ぎない
<夫婦>なるものは、法的な制度=擬制に過ぎず、実体として(現実に)存在するのは、<男>と<女>という個々の人間(個人)に過ぎない。かつ、夫婦同姓の現状は、結局、「家族」という法的な擬制を維持するためのイデオロギーの反映に過ぎず、本来は実体のない<夫婦>なるものや<家族>というものを、何かありがたいもの、個人とは別個に独自の価値を持つものと誤解させるものである。畢竟、個々の人間を離れて存在する「家族」や「夫婦」なるものは存在しえず、「家族」や「夫婦」なるものの本質はそれを構成するとされる個々人の物理的と精神的な関連性の総和に過ぎない。

(2)幻想再生産の背景
では、何故に、「家族」や「夫婦」の本質を誤解させるような擬制が堂々とまかり通っているのか? それは、(a)儒教的な意識構造(封建的な意識構造)と(b)資本主義的な支配構造、ならびに(c)男が女を支配することが当然と考える男(=ロゴス=ファロス=男根)を世界観の中心に据える所謂ヨーロッパ中心主義の世界観の重層的な存在である。<男>による<女>に対する性差に基づく抑圧/支配構造を維持するために、そのような封建的と資本主義的と西欧的な三重の「抑圧/支配構造」を維持するためにそのような擬制=イデオロギーが有効だからである。


■「家族」と「夫婦」の幻想性を検討してみる
「家族」や「夫婦」が擬制=幻想にすぎないことは自明である。このことは「国家」や「国際社会」が擬制であること、所謂「想像の共同体」であることと同値である。しかし、この意味での擬制は、「巨人軍なるものは読売ジャイアンツと契約している個人事業主である選手や監督、コーチの総和に過ぎず、存在するのは個々の人間以外にはない」とか「天皇制とは天皇を<天皇>と考える人々の意識と行動の総和に過ぎず、天皇制なるものはそれらの人々の意識と行動以外になんらの実体もない」、ということと同じであり、この擬制論=幻想論で否定される事柄と否定されない事柄があるのではないだろうか? 

「夫婦」や「国家」が幻想に過ぎないとしても、それらは正に幻想や擬制そのものとして実体的な影響を人生や社会や国内外の政治に及ぼしている。この幻想の持つ実体的な影響力が無視し得ないからこそ、夫婦別姓推進論者は家族や夫婦の幻想性を批判しているに違いない。ある擬制はそれが幻想であるからといってその存在意義までも否定されるわけではない。ある擬制の存在意義はその擬制の幻想(=イデオロギー)としての性能・効能・機能に収斂することになろう。

例えば、「人間はいずれ死ぬものだ」という命題が正しいとしても、「人生には何の意味もない。なぜならば、人間はいずれ死ぬものなのだから人生なるものは一時の幻想に過ぎない」という主張が正しい訳ではない。夫婦や家族の幻想姓をアゲツラウことでは夫婦別姓論は何の説得力も獲得しないし、夫婦同姓論がいささかでも否定されるわけではない。それは、人生の意義が所詮自己幻想(パラノイア的な幻想性)に過ぎないことで否定されるわけではないことと同じである。

所詮、夫婦なり家族は所属する草野球チームのユニフォームなりチーム名に過ぎないのかもしれない。しかし、所詮、野球は一人ではできない。野球の試合に出場するにはニフォームがあれば便利だろうし、野球のチームに所属することが不可欠である。而して、ユニフォームやチームが所詮記号や幻想や擬制に過ぎないとしても、野球のゲームをエンジョイするにはそのチームやユニフォームは不可欠である。ならば、人生というゲームに参加し、生涯の七難八苦を乗り越え、そして、自己の個性を華咲かせ感動に満ちた人生を各人が享受するために、「家族」や「夫婦」という幻想や記号を使用することが有効であるならば「家族」や「夫婦」という擬制やイデオロギーの意義は何ら批判される筋合いはない。


■「家族」と「夫婦」の幻想再生産の検討
「家族」や「夫婦」の幻想は、男女の性差による役割分担を当然のことと了解させる封建的な支配のイデオロギーであり、自立した存在として生きたいという女性を抑圧する社会の仕組みを上部構造の面でサポートしている。また、この男女の性差による分業体制は、資本主義的な疎外と搾取構造を補強する仕組みでもある。なぜならば、男が搾取され疎外されるにせよ、彼は家庭で女を抑圧することでその労働力を再生産することが可能であり、彼の労働力再生産に資本側は特別なコストを割く必要がないのだから。と、大体このように夫婦別姓論の論者は主張しているように見える。さて、この見解は正しい認知であろうか? 「正しい」と、実は、私は考えている。

しかし、その性差に基づく役割や資本主義的な疎外構造や搾取の仕組みは邪悪で倫理的に許されないような悪いことであろうか? 私は、必ずしも邪でも悪でもないと考える。蓋し、夫婦別姓論は、男女の性差に基づく役割分担や資本主義的な疎外構造、はたまたヨーロッパ中心主義が悪であることを自説の正しさの根拠としている。しかし、夫婦別姓論が「性差による役割分担や資本主義的な疎外構造は悪である」との論証に必ずしも成功しているとは私は考えない。はたして、善なる生産関係や正義に適った分配構造なるものが社会制度として存在しうるものだろうか? 夫婦別姓論の論者は自分の価値観や願望を基準にして、言わばご自分が作ったその<価値空間でのみ妥当する基準>から神でも悪魔でもない人間の作るこの社会の生産関係や分配構造を批判しているだけではないだろうか。

「家族」も「夫婦」も幻想であり擬制でありイデオロギーである。しかし、その幻想性・擬制性・イデオロギー性は「家族」や「夫婦」の存在意義を何ら減じない。ここで、私が尊敬してやまない小平先生の言葉を転用させていただければ、「黒い幻想も白い擬制も鼠を取るイデオロギーはよい幻想であり、鼠を取らないイデオロギーは悪い幻想である」。蓋し、現在の「家族」や「夫婦」という幻想が個々人(♂&♀)をしてその人生を感動的に送らしめ、個性を華開かせることを個々人に可能にせしめ、活気と隣人愛に満ちた日本社会を具現する上で有効であり、日本を尊敬される国としていく上で役立つならばその幻想性はよいイデオロギーであり、よいイデオロギーに担保された法的制度である。而して、私は「家族」や「夫婦」というイデオロギーは結構、よくできた幻想でありそれに担保された法制度は充分に尊重されるに値するものであると考えている。

家族や夫婦という共同幻想を否定し、産む性と産めない性という生物学的な差異を生物学的な差異としてのみ位置づけ、ジェンダーを捨象した等質な個々人のみを社会の構成要素と考える夫婦別姓論も、それがある種の社会と個人の幻想に依拠する擬制であることは夫婦同姓論となんら変わらない。なぜならば、生物学的な差異に起因する文化的な差異を捨象することはある種の価値観(♂も♀も等価値で等質であるべきだという価値観、)を待ってはじめて可能になるある特殊な世界と社会の見方に過ぎないからである。

染色体の差異も♂と♀の生殖器の差異をも捨象することは間違いなく事実の記述ではなくて、ある御伽噺(フェアリーストーリー)の提示に他なるまい。ならば、小平翁の顰にならった先の言葉がここでも聞こえてこよう。すなわち、「黒い幻想も白い幻想も鼠を取るイデオロギーはよい幻想であり、鼠を取らないイデオロギーは悪い幻想である」、と。


womendane



◆青本:夫婦別姓論の射程 <幸福の青い鳥は自分の2LDKにいた>

■思想的混合物-その名はフェミニズム
この第2部青本では夫婦別姓論のとる男女の性差についてのものの見方を軸に夫婦別姓論が依拠する思想の根拠につき検討する。夫婦別姓論が依拠する人間観や社会観が立法論や法解釈論に反映される場合の言わば有効射程距離を見積もるのである。要は、夫婦別姓論の主張がはたして家族制度改革に関する政策提言としてどこまでは根拠がありどこからは別姓論者個人の願望や思い込みにすぎないのかを究明するわけである。

尚、夫婦別姓論が依拠する世界観や人間観を本稿では便宜上「フェミニズム」とひと括りにして話を進めさせていただくが(★註)、本稿において「フェミニズム」とは「男女同権」を越えて実現可能な総ての社会の領域と場面で男女を<同じもの>として取り扱おうという主張とその基盤となる思想と定義しておく。夫婦別姓法制化を支持し、女性を蔑視攻撃し、「男子らしく」とか「女子らしく」という伝統的な言葉使いを言葉狩りによって糾弾する、およそ、ジェンダー(gender:文化の中で形成される性別の観念)の反映と理解されるようなすべてを批判せずにはおかない現在の日本におけるジェンダーフリー推進グループの思想が本稿でいう「フェミニズム」の典型である。

男女の性差についてのものの見方は、「人間とは何か」「人間がつくる社会はどのようなものであるべきか」等々の人間観や社会観、総じて世界観といわれる思想の体系の中に位置づけられて初めて具体的な社会変革の主張に反映され立法や法解釈のロジックのパーツとなりうるのではないか。本第2部で夫婦別姓論の検討の一環としてフェミニズムの人間観と世界観の妥当性の根拠を検討するゆえんである。

フェミニズムは思想のごった煮ではないか。フェミニズムは思想的な混合物、すなわち、思想の本籍地も現実への適用可能な領域も異なる本来異質な世界観と価値観の寄せ集めではないか。それは、近代立憲主義の「均質かつ平等なる人間」という人間観を含むかと思えば、他方、資本主義批判の哲学に導かれ家父長制を批判する。更に、ポスト構造主義の洗礼を受けて以後のフェミニズムは、ヨーロッパ中心主義批判の社会思想をも援用するという具合である。

もちろん、多様な思想や理論を組み合わせ取り組むべき社会的な課題の種類によって言わば構築主義的に最適な理論のセットを運用すること自体は何ら非難されるべきことではない。ホワイトヘッドは言っているではないか、「総てのヨーロッパの哲学はプラトン哲学の脚注にすぎない」、と。所詮、市民革命のイデオロギーといいマルクス主義といい、または、ポスト=構造主義といえどもそれは人類全体の思想のカタログの中ではヨーロッパの哲学というある特殊なカテゴリーに属している。しかし、思想を構成するアイテム間に両立不可能な関係があるとすれば話は別。思想を構成するアイテム間に両立不可能な関係があるような場合にはその思想は破綻していると言わなければならないだろうから。而して、私はフェミニズムにそのような破綻を感じている。

★註)フェミニズム(feminism)
フェミニズムは「男女同権主義、女性解放または女権拡張の運動・思想・理論」の意味で使われている。紀元前5世紀は古代ギリシアのアリストファネス『女の平和』にフェミニズムの泉源を求めるのは極端としても、ウルストンクラフト『女性の権利の擁護』(1792年)、フーリエ『四運動の理論』(1808年)、トムソン『人類の半数である女性のうったえ』(1825年)、エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』(1884-1891年)等々を前史として、第二次世界大戦後「女性の性格は社会的に作り出されたもの」と考えるヴィオラ・クライン『女性―イデオロギーの歴史』(1946年)およびシモ-ヌ・ドゥ・ボーボワール『第二の性』(1949年)が現在に至るフェミニズムの黎明期を開いた。

本稿でフェミニズムと言う場合にはこの黎明期以降の男女同権論や女性解放論を主に念頭に置いている。すなわち、1960年代半ばから70年代後半(日本では1970-1977年)所謂ウーマンリブの運動に端を発するフェミニズムの潮流。すなわち、80年代前後の所謂女性学の潮流。80年代半ばから本格化したフェミニズム論争(性差の相対化、あるいはフェミニズム自体の相対化の運動)を通過した後の、男女同権を越えて実現可能な総ての社会の領域と場面で男女を<同じもの>として扱おうという思想とその主張を本稿ではフェミニズムとして主に念頭に置いている。



■フェミニズムの思想基盤の検討
フェミニズムには3個の思想の基盤があると私は考えている。すなわち、(A)近代立憲主義的な人間観と世界観、(B)資本主義を批判するマルクス主義的な人間観と世界観、および、(C)ヨーロッパ中心主義を批判するポスト=構造主義的な人間観と世界観の3者である。フェミニズムの取る性差理解を批判する予備作業として、できるだけフェミニズムに引きつけながらこれらの思想内容につき一瞥しておく。

●近代立憲主義的な人間観と世界観
平等かつ均一なアトム的な個人こそが社会的な価値の唯一の主体である。国家も民族も家族も擬制、つまり、想像の共同体にすぎない。国家権力の役割は、社会的な価値の唯一の主体たる個人と個人の尊厳性から演繹される基本的人権を護ることにある。国家権力は基本的人権と基本的人権の現実的な細目であり基本的人権を実効的に確保するための諸々の権利を、国家と個人の間にある所謂中間団体(部族や封建領主や地域社会や企業や教会、等々)から護るための必要悪である。

●資本主義を批判するマルクス主義的な人間観と世界観
近代における国家は市民社会の支配勢力(ブルジョアジー)が人民を支配するための装置である。国家とはエゴイステックな欲望が赤裸々にほとばしる市民社会の支配勢力(ブルジョアジー)が中立を装う公的な権力を行使することによって自己の支配を貫徹するための暴力装置/イデオロギー装置にすぎず、国民や民族、家族という概念はこのような支配を補強するための擬制でありイデオロギーにすぎない。

屋外では資本家と労働者(男性)が労働の価値を争点に生産物の配分の比率を争い、屋内では家父長と女達が労働力の再生産および生命の再生産のための営為の価値を争点に家屋内の指導権を争っている。性的分業体制は資本主義体制が歓迎しその維持強化を望むものである。なぜならば、男性プロレタリアートは労働において疎外され搾取されるが、自らの家庭に帰れば家父長制的な支配構造の恩恵を享受する。男性プロレタリアートは家父長制によってその母や妻や娘から労働力再生産に必要なサーヴィスを無償で受けとることができるからである。而して、無償で労働力が再生産される所のこの家父長制的な支配構造の温存強化をブルジョアジーが支持することは当然である。ゆえに、資本主義社会において女性は資本主義的な抑圧と家父長制的な抑圧の2重の圧制下にある(★註1)。

●ヨーロッパ中心主義を批判する人間観と世界観
性別(gender)は文化によって形成され社会の中で人間に与えられた記号にすぎぬ。社会にビルトインされた性的差異を割り当てる文化的コードは歴史的に社会の中で形成されたものであり、「男」と「女」という性別(gender)はそのような文化が与える恣意的な規定性である。確かに性差(sex)は存在する。しかし、同性間の個体差と性別の差異に基づく性差がいかほど違うというのか。ならば、性の差異(gender)は人間本性にとって自明のことではなかろう。

このような人間観から見るならば、近代以後の自由・平等を唱道する人権思想も哲学も文学も法律も文化的な性(gender)を前提にしたいわれなき女性蔑視のメッセージが編み込まれたテクストにすぎぬ。それらは、一見価値中立的という意味で「透明なテクスト」であるかに見えて、実は、男性優位と女性蔑視の価値観が編み込まれたテクストである。それらは、一見、ジェンダーを超越した「人間」の視点から書かれているように見えるけれども、実は、<男>の視点から書かれている(ということは、<女>の視点からは読めない、)「不透明なテクスト」である。それは、<男>の視点からしか読み取れない炙り出しが組み込まれたテクストである。

畢竟、<男>の視点はロゴス中心主義的でありファロス(男根)中心主義的である。それは中心と周辺を隔絶することによって成立するパラノイア型=偏執症型の<男の論理>に貫かれている。そして、他者の介在なしにアプリオリに実在するイデア(実体概念)の実在を前提に構築された、ロゴス中心主義的でファロス中心主義的、かつ、パラノイア型の思想こそヨーロッパに典型的な思考パターンであった。

而して、女性の解放は<男の論理>からの<人間>の解放、ヨーロッパ的の思考様式からの世界の解放を意味している。なぜならば、それは<男の論理=ヨーロッパの思考様式>から女性を解放するだけでなく男性も含む総ての人間を<男の論理=ヨーロッパの思考様式>から解き放つことを志向しているからである。

では、<男の論理>からの全人類の解放はいかにして可能か。それは、<女の論理>による<男の論理>の包摂によって達成されよう。多様な価値を適宜使い分ける、否、多様な複数の分裂した<自分>を分裂したままで生きて行くことを可能にするスキゾ型=分裂症型の<女の論理>を基盤にパラノイア型の<男の論理>をもその一部に組み入れることによってである。(★註2)。

★註1)マルクス主義におけるフェミニズムの眷属
マルクス主義フェミニズムの基礎には、もちろん労働価値説等々のマルクス主義の経済哲学が横たわっており、かつ、マルクス主義経済哲学の周辺にはアミン等の従属理論やアンドレ・ゴルツ、ポランニ兄弟、イワン・イリ一イッチ等々から打ち出された広い意味のエコシステム論が控えている。

そしてなによりもマルクス主義の疎外論が黎明期前の女性解放思想に与えた影響は大きい。労働者(もちろん『経済学・哲学草稿』を執筆している時にマルクス自身は主に男性の労働者を念頭に置いていたと思う、)はその労働において4個の疎外(Entfremdung)を受けるとマルクスは語る。曰く、労働生産物からの疎外、生産活動そのものからの疎外、類的存在からの疎外、および人間関係からの疎外である。黎明期の女性解放思想はこの箇所を自分なりに引きつけてこう考えたのだと思う。すなわち、

家父長制支配下の女性は、その「家事労働」において疎外されている。なぜならば、(a)「労働」の成果は家父長のものとなり自分のものにならない(労働生産物からの疎外)、(b)「労働」自体家父長から命じられたものである(労働活動そのものからの疎外)、(c)生命を再生産し家父長を含む男性の労働力を再生産するという生活と生存のためだけに「労働」がなされ、自由な意識活動や自由な対象化活動への道が遮断されている(類的存在からの疎外)、(d)このような労働成果・労働・人間の本来あるべきあり方からの疎外を強いる家父長制下において、女性と男性は潜在的な敵対関係に入らざるを得ない(人間関係からの疎外)。このような疎外論を援用した家父長制理解は黎明期の女性解放思想や1970年代後半までの初期のフェミニズムに対して社会認識の足場を提供したと思われる。

尚、家父長制批判への疎外論の援用に対する初歩的な批判に私からここで応えておく。すなわち、(b)に対する「自発的に喜々として家事を行う女性がいるではないか」という反論と(d)における「夫婦や家長を含む家族・親族が仲がよいケースはいくらでもあるではないか」という批判についてである。これらの批判は成立しない。なぜならば、資本主義体制下の(男性)労働者でも自分の仕事が好きで好きでたまらないという者も少なくなかろうし、また、資本主義体制下でも労働者(男性)と資本家の関係が極めて良好という場合も少なくなかろう。(b)の場合の要点は、労働者(男性)も家事労働者も資本家や家父長の出す命令に反することが許されていないという点にあり、(d)における問題点は労働者(男性)および家事労働者の利害と資本家および家父長を含む男性の利害が本質的に対立するという点にあるのだから。


★註2)ヨーロッパ中心主義批判の思想
ヨーロッパ中心主義批判の思想は中世リアリズム論争に端を発し(ということはその源泉は古代ギリシアの哲学にあり、中世イスラーム世界の中で育まれた。)、19世紀末から20世紀初頭にかけての数学の存在論的革命の中で既に結論は見出されていた。カントールの素朴集合論とデデキントンによるその定式化を前哨にし、ヒルベルトによる公理主義、ブラウアーの直観主義、ラッセルとホワイトヘッドによる論理主義という数学基礎論の構築がその思想の数学における表現である。日本におけるポスト=構造主義の旗手浅田彰さんが影響を受けたとされるブルバキ『数学史』とワイルダー『数学基礎論序説』は数学の存在論的革命の経緯を記述する教科書にすぎない。

人間の行動パターンをパラノイア型とスキゾ型に大別して理解するアイデアは、浅田彰『逃走論』(1984年)によって日本では一般的になったと思う。しかし、概念の実体性の否定、唯名論的思考による存在論の再構築は別にポスト構造主義の手柄というわけではない。否、イデアの実体性を主張する概念実在論を否定する哲学的な作業は、実質的にはフレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインを通じてシュリックおよびカルナップに至る論理実証主義と現代の分析哲学派によって成し遂げられたと私は考えている。いずれにせよ、ヨーロッパ中心主義への批判がヨーロッパの哲学によってしか成し遂げられなかったことは、際物のエスニシズムが日本でこれ以上跳梁跋扈することを防止するためにも記憶されておくべきことだろう。


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大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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