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完全攻略夫婦別姓論-マルクス主義フェミニズムの構造と射程(下)

sengyoshufu



■フェミニズムは玉葱の皮である
フェミニズムは思想の混合物である。現在の先鋭化した日本のフェミニズムにとってそのどの思想基盤からも、天皇制や日本型の儒教的家族道徳が男性優位かつ女性蔑視の考えとして批判されることには変わりない。しかし、フェミニズムに日々突きつけられている諸々の現代的や国際的な思想課題に対しては、フェミニズムはその課題や問題の性質に応じて自己の政治的な主張を押し通すのに最適な思想のアイテムを適宜使い分けているのではないか。私にはそう思われるのである。

フェミニズムは玉葱の皮である。考えれば考えるほどフェミニズムとは玉葱の皮であると私は思う。その心は。フェミニズムの思想的なアイテムを一枚一枚剥いていくと何も残らない。フェミニズムを形成するアイテム間の関連は希薄であり、フェミニズムの政治的な主張や法律的な解釈はフェミニズムの思想基盤とは論理的には無関係なフェミニスト自身の願望や勝手な思い込みからなされたものにすぎない。而して、その法制度論的な主張は涙なしには語れないほど醜悪なものである、と。要は、フェミニズムは自己の主張を貫くために、つまり、男女同権を越えて実現可能な総ての社会領域と場面で男女の取り扱いを同じにするために使えるものなら何でも使うというタイプの社会思想、否、社会思想の姿をした政治イデオロギーなのかもしれない。

フェミニズムは政治イデオロギーでありその主張の核心はフェミニズム思想の基盤から必ずしも演繹されるものではない。この認識からはフェミニズムの中での路線闘争は、正に、古の講座派と労農派の論争とパラレルである。

蓋し、フェミニズムが実現しようとする将来の日本社会の姿は、実は、フェミニスト各自がフェミニズムとは別途調達したイデオロギーに規定され、かつ、路線闘争の分枝は各論者が日本社会における反フェミニズム勢力の強固さと日本社会に組込まれた勢力基盤個々の構造をどう評価するのかに左右されているのだが、男女同権を越えて実現可能な総ての社会領域と場面で男女の取り扱いを同じにするという彼等の目標自体には差はない。すなわち、フェミニスト達は同床異夢の関係にあるが、彼等が現在の日本社会を成り立たせている日本の文化や伝統を破壊する壊し屋である点ではフェミニスト間に差はないのである。ここで、赤本以来検討してきたフェミニズムに内在する問題点を整理敷衍しておく。   


●フェミニズムは「家族」や「夫婦」を共同の幻想にすぎないと考える 
   
△「家族」や「夫婦」が幻想であることは正しいだろう。しかし、その点では「国家」や「国際関係」も幻想にすぎない。問題は、ある事柄の幻想性ではなくその幻想性の効能ではないだろうか。要は、役に立つ幻想は良い幻想であり役に立たない幻想は悪い幻想である。■    
    
●フェミニズムは「家族」や「夫婦」の幻想性が資本主義的な疎外構造と搾取構造を下支えする   と考え、その幻想性は男女の性差に基づく(genderを理由とした、)分業を女性に(否、女性にも男性にも、)強いる人間性に対する桎梏と考える  
  
△資本主義的な生産関係のあり方を男女の性差(gender)が下支えしていること(性差に基づく分業が資本主義的な社会関係に組込まれていること)は事実であろう。しかし、それが<悪>であり<邪>なこととして否定されるべきかどうかは自明ではない。厳しく言えば、資本主義が嫌なら資本主義的でない社会を形成するか非資本主義的な社会に逃げるかない。そして、そのような意見が明らかに少数である日本社会に生きているのならば、資本主義的な生産関係や分配構造を自明の悪という前提で論を組み立てたとしてもフェミニストと同じ宗派に属する者以外にはなんらの説得力もないに違いない。■   
    
●フェミニズムは「家族」や「夫婦」の幻想性は、家父長制、すなわち、儒教的な封建的意識の残滓であり、それらは資本主義的な疎外構造を下支えしていると考える  
  
△近代日本社会では家父長制の抑圧と資本主義的な抑圧による二重の支配に女性が晒されていると理解することはある意味で正しいだろう。しかし、儒教や封建的な意識構造が<悪>であり<邪>なこととして否定されるべきかどうかは自明ではない。他方、近代立憲主義が抽出する均質でアトム的な個人を社会における唯一の価値の主体とするアイデアは社会思想の歴史とメニューの中では、寧ろ、特殊なものである。個人の尊厳や基本的人権の尊重は歴史的にはとても「人類普遍の原理」などと呼ばれ得る代物ではない。■    
    
●フェミニズムは男女の生物学的な差異(sex)を認めるもののその性差(sex)が社会関係に組込まれることを激しく忌避する。生物学的な差異、それに基づく性行為や性欲の存在は認めるものの生物学的や社会学的な理解を超えてその結果(快楽や妊娠、夫婦の一体感と家族の連帯感の涵養等々、)が人生において意味や価値のあることと捉える見解をフェミニズムは痛烈に批判する(1970年代後半までは、京都大学あたりのフェミニストグループではスカートを穿いているだけで批判されたらしい。「あんた、<女>みたいなカッコーしてんやん!」、と。)    

△フェミニズムには自己の性的なアイデンティティーの確立に葛藤する思春期特有の悩みを回避する心性があるのではないか。それは葛藤を回避し結果を先送りする思想ではないか。フェミニズムは性欲も対幻想も生物学的と社会学的な範疇で処理する。男女はそれ以外の領域では均質な同じ人間とフェミニズムは考える。

要約しよう。フェミニズムは、男と女の性差を生物学的な範疇に還元することで、♂と♀という性差(sex)以外の社会的な差異(gender)を逆に幻想として解体できると考える。私にはこのフェミニズムの立場は「目をつむれば世界はなくなる」と語る議論と異ならないと思える。フェミニズムはこのような観念的な言辞を多用し、自己の性という実存的な事柄から目をソラシ、而して、性差(gender)に起因する運命から自分が自由な存在であるかの如く考える所の思春期のお嬢様/お子様の議論にすぎないのではないだろうか。■ 
   
    

私にはフェミニズムは玉葱であると思われる。その思想の基盤は近代立憲主義であり、マルクス主義であり、ヨーロッパ中心主義批判の社会思想である。しかし、フェミニズムの政治的な主張はこれらの思想基盤を適宜援用しつつ以下の如くに展開されているのではないだろうか。すなわち、

イ) 重層的な抑圧から人間(♀&♂)を解放すべく
ロ) 均質なアトム化した個人を想定し
ハ) そのような個の想定に際して零れ落ちる<女性性>なり<男性性>を人間本性にとっての過剰として捨象する。而して、
ニ) フェミニズムはそれらの過剰を行政と司法の力で社会的にも切り捨てることを画策する。「男女差別があるのは社会が悪いんやんか、そやからな、その悪弊はな法律と行政の責任においてな改善されなあかんねん」、というのがフェミニストの常套句なのも頷ける


要は、イ)の主張のためにはマルクス主義を、ロ)の主張のためには近代立憲主義とヨーロッパ中心主義批判の社会思想を援用する。また、ハ)を述べるためにはヨーロッパ中心主義批判の社会思想のアイデアを準用し、ニ)の正当化のためには三つの思想基盤総てを借り出すという具合である。

ウーマンリブのフリーセックス運動は「誰とも気が合えばニャンニャンするのが自然で当然」との主張ではなく「性に纏ろいつく因習や固定的なイメージや考え方から自己を解放しよう」ということだった。このことからも想像できるように、1970年代後半までのフェミニズムは、社会を変えるために個を変革する運動であったのに対して現在のフェミニズムは個を変えるために社会を変革しようという極めて操作主義的な倣岸不遜な思想である。識者が現在の先鋭化したフェミニズムを指して「文化大革命」を画策する不逞の輩と喝破される、蓋し、所以であろう。

私はこれらの雑多な思想基盤と個々のフェミニストの政治的イデオロギーを「玉葱」として統合しているものをフェミニズムに内在する所の、ある特殊な人間観とユートピア的な社会観ではないかと考えている。ある特殊な人間観とは、自己の性的なアイデンティティーを認めたくないという思春期で立ち止まっている者に特徴的な人間観であり、ユートピア的な社会観とは、生物学的な差異(sex)を捨象した均質な人間が男女同権の主張の範囲を遥かに越えて社会生活を営みうると考える社会観である。  

国際的な競争がまさにヒートアップしている21世紀のこのメガコンペティションの時代に、他方、目も眩まんばかりの多様な民族の文化や民族の一体感が世界の諸国民の中に現存している国際社会の現状を前提にして、現在の生産力や国際競争力を損なうことなく男女同権を越えて均質な男女が共生できる社会を夢想するものをユートピア思想と言わずして何と言おうか。また、思春期的の言辞は思春期にある若者が自己の実存的課題に悩みその課題への真摯な回答を素直に語る時にのみ思春期特有の清々しさを他者に感じさせるだろう。

これに対してフェミニズムの言辞や論理(もしフェミニズムに論理なるものがあるとするならばだが、)は剥いたばかりの玉葱の皮がそうであるようにそれを読むものを戦慄させ涙を流させずにはおかない。その思想基盤に走る断層の深さと、フェミニストがフェミニズムの思想基盤とは別所から調達してくる政治的なイデオロギーの陳腐さと醜悪さゆえにである。 


dolechan



■フェミニズムの躓きの石としての性差と性欲
フェミニズムは性差(gender)と性欲を人間にとっての<過剰>と考える。性差と性欲は人間が社会生活を営む上での余分なもの、そうフェミニズムは捉えている。性差(gender)は均質なアトム的な人間(♀&♂)にとっては確かに過剰な属性であろう。しかし、人間(♂&♀)は一人では生きていけない。而して、実際には性差(gender)は人間(♀&♂)の<不足>を埋めるものである。そして、この<不足>を埋めるための人類の経験と智恵が婚姻と家族の制度に他ならないのである。蓋し、性差(gender)を<過剰>と捉えるフェミニズムが婚姻や家族に対して露骨な敵愾心を隠さないのも当然であろう。

性欲をフェミニズムは単なる生理現象と理解する。正に、「事務処理」である。性欲が湧きあがればそれを解消するだけである。それは、髪が伸びれば散髪に行き、空腹を覚えれば食事をすることと何ら本質的な差異はない。しかし、性欲も人間存在(♂&♀)に<不足>なものを補う営為ではないだろうか。要は、反フェミニズムの立場からは、人間(♀&♂)は性差(gender)を越えて、否、異なるがゆえに互いの<不足>を補いあうという意味で対等なのである。それは非対称的であるが(あるがゆえに)対等なのである。他方、フェミニズムは人間(♂&♀)は均質であるがゆえにこそ対等と考える。

人間は「男」であるか「女」であるかのいずれかである。その規定性を捨象するためにフェミニズムは性差(gender)と性欲を<過剰>として切り捨てる。蓋し、観念的な考えを好む人にとっては観念的な認識の対象世界こそがリアルな世界である。恐らく、フェミニズムにとっては性差(gender)が捨象された世界こそが(それは反フェミニズムから見れば人間存在から性差(gender)が剥ぎ取られた空虚な世界であるのだろうけれど、そんな世界こそが)現実的なのかもしれない。もちろん、フェミニストがどんな世界にリアリティーを感じようともそれは論者の自由である。しかし、その世界認知はフェミニスト以外の者にはなんの説得力も持たないことは言うまでもない(★註1)。

家族も夫婦も擬制であり想像の共同体にすぎない。しかし、それらは想像上のものであり、幻想にすぎないとしても<共同体>ではある。「人は女に産まれるのではない。女になるのだ」というボボワール『第二の性』の主張は正しい。女は社会において作られるのだろうしその経緯は男も同じであろう。「人間」という普通名詞は辞書か六法全書の中にのみ存在する。

何が言いたいのか。それはこうである。女も男も社会的にその属性を与えられる社会的存在(a gender)にすぎないけれども、人間(♀&♂)は<男>か<女>というユニフォームを着ることなしには社会の営みに十全には参加できない。加えてこの不条理と不正義に満ちた人生の七難八苦を乗り越え人生において自己の個性を華開かせ感動的な人生を具現することはこのユニフォームを着ることなしには難しい、と(★註2)。

人は一人では生きられない。それは、生活資料(衣食住等々の物質的資材、)を生産獲得するための社会的分業が人間の社会生活に不可欠であるという意味でもあるが、同時に、生命の再生産のための性的分業の不可避性をも意味している。夫婦と家族の制度が形成する男女の社会的な性差に基づく分業こそこれらの社会的分業と性的分業が見事にブレンドされた人類の叡智ではないだろうか。フェミニズムの思想はこれらの分業の必要性を等閑視している。

フェミニズムは対自然関係においても対社会関係においても目に見える形での分業の必要を考えないでよいようなある意味恵まれた立場(ある意味不幸な立場、)からの社会認識ではないか。すなわち、私は現在の先鋭化したフェミニズムを、その主張のラディカルさや言辞の激しさ、論理の傲慢さとは裏腹に、「先進国の都市生活をするホワイトカラー」のひ弱な世界認識にすぎないと考えている。フェミニズムとは言わば都会のワンルームマンションからの人間観であり社会観にすぎない(★註3)。

★註1)フェミニズムによる性欲の矮小化と抽象的人間像の肥大化
例えば、関西で活躍されている深江誠子さんは、娘の深江たみさんと一緒にフェミニズムの普及活動をされておられるが、誠子さんはたみさんが小さい頃からコンドームを渡していたそうである。正に、生理現象としての性欲を処理する性的な事務処理において自分を傷つけることのないようにとの(妊娠や性病を考慮しての)フェミニズム的には周到かつも暖かい親の配慮なのだろう。

しかし、前にも書いたように、ウーマンリブ運動が提唱した「性からの解放」とは性にマツワリツク社会的な感情と意識の体系から自己を解放しようというスローガンであり、特定の異性と特定の感情を持続することを相対化することは(まあ、要するに、気が合えば誰ともニャンニャンすることは、)その性からの解放のための手段の一つでしかなかった。

而して、それはそれでいいのだけれど、性からの解放は多分、人生や社会の最大の問題ではない。親の介護、やりがいのある仕事(もちろん専業主婦業はその最たるものである。)を通して社会に貢献することと自己実現の重要性は性からの解放のそれに優ることはあっても劣ることはないのではないか。畢竟、もし、人生の課題が性からの解放以外に目白押しだとするならば、人生の諸々の課題をバランス良く解決しながら自分の一生を歩ききるための智恵として婚姻や家族の制度は結構うまく出来た制度だと私は考える。

ならば、深江さん、男女(♂&♀)の等質性を主張するために性欲や性差(sex)が邪魔だからといって性欲や性差(sex)を矮小化すべく、性を振り回して周辺の皆さんにあんまり迷惑かけなさんな。子供にコンドームを持たせるのは勝手だけど、そんなん世間に言いふらすことじゃないでしょう、と。そう私は考える。


★註2)ゲイ・レズビアン・ホモセクシュアル
同性愛者(性的自己同一性の先天的不適合者も所謂文化的不適合者もここでは区別しないでおく。)は、自己に与えられた生物学的な性差(sex)を拒否するが、文化的な擬制としての性差(gender)を熱烈に歓迎する。ただ、その性的役回り(the gender)が社会から与えられるものと同性愛者が希求するものとが異なっているだけである。そう、世間では青のユニフォームを着るように促されているのに、自分は赤のユニフォームが着たいというようなそれだけの違いである。これに対して、現在の先鋭化したフェミニズムはユニフォームを着ること自体を拒否する。


★註3)人類の財産としての性差
平成14年『正論』8月号は「フェミニズム批判大特集」を組んだ。その中に大変共感できるコメントがあった。東京女子大学の林道義先生の寄稿記事である。以下引用する。
「フェミニストはジェンダー(文化的性差)を頭から「悪いものと」決め付けている。

しかし文化的に培われてきた性差は、人類の大切な文化的財産であり、人間にとって必要な智恵の結晶である」(林道義「「男女平等」に隠された革命戦略 家族・道徳解体思想の背後に蠢くもの」241頁)。「子供は抽象的な「大人」になるのではなく、必ず「男の大人」か「女の大人」になるのである」(242頁)。「ジェンダーからフリーになろうとするのは大きな間違いであり、ジェンダーは人間にとって必要な文化なのである。身体的本能的な区別をもとに文化的な具体化と洗練化の結果できあがったものであり、生得的な部分と後天的な発達とが結合したものである」(242頁)。「整理すれば、ジェンダーフリーは二つの根本的な間違いを犯している。「性差は文化によってのみ出来上がる」と考えている点と、「文化的性差はなくすべきだ」と考えている点である」(243頁)。
 


recruitgirl



■幸福の青い鳥は<家族物語>の中にいた
アリストテーレスが語るように「人間は社会的な(ポリス的な)動物」である。人間は一人では生きられず、社会(ポリス)における生活を運命づけられている。ならば、他者から与えられる規定性(すなわち、「他人が君を見る見方」や「社会が私の性質として理解する事柄」等々、)は社会的な存在としての人間にとって寧ろ本質なのではないだろうか。

ならば、家族や夫婦が幻想であり擬制であることはそれらの社会的意義や有用性を否定する根拠には必ずしもならないだけでなく、それらの制度が与える<幻想の共同性>は社会的存在としての人間の本質でさえある。人間はその人類史の経験の中で、夫婦や家族という<物語>を生きる生き方を編み出した。この<家族物語>は幻想にすぎないとしてもそれは人類史の中で推敲を重ねられた文化の結晶である。

ポスト=構造主義が教えるように、多様な自分と多様な人生をスキゾ的(精神分裂病的)に軽やかに生きる生き方も、あるいは先進国の都会のワンルームマンションで暮らすホワイトカラーには魅力的でリアルな提案に聞こえるかもしれない。しかし、断片的な人生をモンタージュ(montage:断片的な場面をつなぎ合わせて新しい一つの画面を組み立てること。)のように継ぎはぎするような生き方がはたして人間性の本性に適ったものなのだろうか。蓋し、フェミニズムの提案する生き方が世界観の一つにすぎず、フェミニズム的な世界観とは別の選択肢を我々が持っていることだけは確かである。

再度記す。家族や夫婦は幻想にすぎぬ。これは正しい。しかし、本当の自分を発見しようとしてそれらの擬制が与える社会的な規定性を一枚一枚剥ぎとた結果何が残るというのだろう。私は人間(♀&♂)の本性を社会的な規定性自体の中に見る。すなわち、社会的や文化的な規定性が編上げられたものが<自分>に他ならず、本当の自分とはそのような社会的規定性以外には存在しないと考えている。畢竟、ここにもう一つの玉葱の皮剥きをする愚がある。

蓋し、ヨーロッパ中心主義を批判する社会思想が教えるように、パラノイア的(偏執症的)な自己幻想には何の普遍性もない。けれども、パラノイア的幻想に普遍性や必然性がないこととパラノイア的な自己幻想や対幻想や共同幻想が無意味であることとは同じではない。

而して、ポスト=構造主義も、否、ポスト=構造主義こそが<自分>とは文化的な規定性の体系に他ならないことを喝破したのであり、だからこそ多様な社会的な規定性を適宜使い分ける生き方をポスト=構造主義は提案したのではなかったか。曰く、「適宜、生活の場面場面で人生の段階段階で多様なユニフォームを使い分けたらどうだろう。そうすることで今までより感動的で快適な人生を送れるようになるかもしれないよ」、と。ならば、現在の日本に蔓延する先鋭的なフェミニズムはこの点ではポスト=構造主義とは無縁である。なぜならば、それは裸で街を歩くことを提案しているに等しい主張なのだから。

フェミニズムはユニフォームを脱ぎ捨て、モンタージュよろしき断片的な人生をスキゾ的に生きる生き方を提案する。私は人間(♂&♀)が、しかし、そのようなモンタージュ、すなわち、社会的場面の断片ごとに様々な役柄を演じるということを生涯に渡って継続できるような存在ではないと思う。限りないモンタージュの断片が作る<自分>を演じるのに疲れた時。本当の自分に幸福を与えるために本当の<自分>、すなわち、スキゾ的な自分とともにモンタージュの如き人生を生きるのに疲れた時。幸福の青い鳥は自分の2LDKの部屋で見つかるのではないか。それは、パラノイア的な自己幻想と家族幻想への回帰であり、断片的ではない<自分の物語>への回帰である。そして、それは「遊動空間」から「実動空間」への回帰でもある。

物語といい実動空間といい、それらが擬制であり幻想であることには変わりはないが、それらは民族が作り上げた歴史と文化とによって公共的な属性(間主観性)を獲得している家族と夫婦の物語である。そのような民族の文化と歴史に基礎づけられた<家族物語>の中で人間(♀&♂)は効率的に幸福を発見することができるのではないか。私はそのことを疑わない。蓋し、幸福の青い鳥は自分の2LDKにいた。


第1部赤本と第2部青本を通じて、夫婦別姓論の基盤たる現在の先鋭化したフェミニズムの分析を行った。畢竟、フェミニズムの性差理解(feminists' outlook in gender)は正しい一点を突いているかもしれないけれど、その社会思想の帰結は自明なものではない。蓋し、ヨーロッパ中心主義批判の哲学によって社会において実体的とされてきたものを解体し尽くした後に残るものがあるのではないか。それは、夢と愛なくしては生きていけない人間の現存在であり、それは、家族と民族の物語の中でのみ自己のアイデンティティーとプライドを確認できる社会的動物(ポリス的動物)としての人間の現存在である。





(2002年4月20日-7月20日:海馬之玄関サイトにアップロード)

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