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橋爪大三郎『愛国心の根拠は何か』の根拠を問う

orekimirect
【俺は、君のためにこそ死ににゆく】



●解題
本稿は5年前に弊サイトにアップロードした記事です。当時は、憲法改正国民投票法の制定と並んで(これはその再起を念じての叱咤激励の呼称なのですが)「根性なしの安倍前首相」の最大の功績の一つ、教育基本法改正(2006年12月)に向けた議論がいよいよ真剣味を帯び始めた頃。教育基本法が改正され、その新教育基本法に基づく学習指導要領が制定された今から思えばもう随分前のことのように感じてしまいます。

けれども、本稿はgoogleでもYahooでも「橋爪大三郎」または「愛国心」をキーワードにした検索ではいずれも2年半余りTop5位以内にランクされていた論稿であり、古くからの同志読者からはブログへの収録を促す要望をこれまで何通かいただいていました。而して、ブログ運営といえども客商売。本稿は、「愛国心」なるものについて演繹的にではなく帰納的に考えた私の論稿としてはほとんど唯一のものであることもあり、(一部加筆修正の上)ここにアーカイブ記事としてブログに搭載することにしたしだいです。以下、アーカイブ記事。


hasizumedebu



■はじめに
東京工業大学の橋爪大三郎さんが教育基本法改正の動きを批判する論稿を書かれた。『論座』(朝日新聞・2003年9月号)所収、『愛国心の根拠は何か』である。原稿用紙20枚足らずの小品。けれども、それは実にラディカルで手堅い論稿。

私は、『言語ゲームと社会理論』(勁草書房・1985年)以来の橋爪ファンであり、実際、私のウィトゲンシュタインと構造主義の理解は橋爪さんの影響を少なからず受けている。『愛国心の根拠とは何か』には、しかし、私は全面的には同意することはできなかった。『愛国心の根拠とは何か』はその扱われている思索の射程内ではパーフェクトかもしれないけれど、その射程を越える重要な事項があるのではないか。そう思うからである。

蓋し、橋爪さんが愛国心の対象として措定される国家の概念が私には狭すぎるように感じられた。愛国心の対象は文化とも民族とも原理的に疎遠な人為的な国民国家に限られるものだろうか。もしそうなら、愛国心を涵養する愛国心教育とは橋爪さんが喝破されるように「政治的国家に関する教育」、すなわち、「民主主義の教育」に他ならなくなるだろう。そして、日本の文化伝統を中核とした愛国心なるものを涵養すべく教育基本法を改正するなどは、愛国心の育成という教育政策の目的からは「本質を外れている」という橋爪さんの主張は肯定されなければならなくなる。畢竟、『愛国心の根拠とは何か』の妥当性の根拠は、国家の概念に収束する。以下、『愛国心の根拠とは何か』を要約紹介したうえ、国家の概念について私見を整理し、もって、『愛国心の根拠とは何か』の根拠を吟味したい。


■『愛国心の根拠とは何か』の要約紹介
『愛国心の根拠とは何か』は、『論座』(9月号)の特集「フォーラム 愛国心って何だろう」の巻頭論稿である。同稿は、副題「個人と国家の関係をとらえ直す」を冠し解題を伴っている。すなわち、「「愛国心」という言葉は、いろいろな意味や感情を込めて語られる。だから、それは、つかみどころのない、えたいの知れないもののように映る。元来、愛国心はどこから発したのか」、と。以下、本編を要約引用する。

愛国心は、近代国民国家の成立とともに始まった。
大革命の結果、フランス共和国が成立した。その武力は、絶対王政下の傭兵というわけにはいかず、徴兵制にもとづく国民軍となった。自由という価値(イデオロギー)のために戦う、近代的軍隊の誕生である。自由に価値を置き、その自由を保障してくれる国家のために、命を投げ出す。自由を享受することと、税金を納め兵役につくこととは、いわば引き換え(契約の表うら)になる。自国のために戦う兵士たちは、自国の掲げる理念へのコミットメント、すなわち、愛国心がなければならない。(中略)しかし、フランスで徴兵制が可能になったのは、アメリカ独立戦争の経験を参考にしたからではないかと思う。(9頁上段)

今日、国民軍や愛国心の存在は、当たり前にもみえる。
けれども、そうしたものは、なかなか生まれにくかったということを理解しておくべきだろう。国家は、人為的に構成された、あくまでも世俗的な団体である。それに対して、人びとが信奉する価値は、伝統的なものや、宗教的なものであろう。要するに、国家とは関係がない。国家が理念を掲げたり、国家の理念に人びとが一体感を感じたりするというのは、むしろ、不可解な現象なのだ。(9頁下段)

愛国心は、個人が、公共的なものにいかに関わるかという問題だ。(中略)「公共」という場合、人びとの関係はいわば他人同士(違う家族の人びと)である。だから、言論によって意思疎通したり、法律・貨幣・契約・制度などによって互いの関係をつくり出したりすることが、「公共」の場では大切になる。(10頁上・下段)

人びと(人民)が自分たちの政府を組織している状態は、尊敬に値する。人びとは、このことを誇りに思うだろう。愛国心が、もしも根拠を持つとしたら、それは、この国の政府は自分たちが組織したのだという点にもとづく以外にないと思われる。近代国家は、世俗の国家である。単に自分がそこに属するからというだけでは、国家を愛する理由にはならない。(11頁上・下段)

そこで議論になるのは、いったいどの範囲の人びとが、政府を組織し、国家を構成すればよいのかという問題だ。これには解答がない。フランスはなぜ、フランスなのか。ドイツはどこからどこまでなのか。現在、地上にさまざまな国家が存在するが、多くが分離独立運動を抱えている。国家が国民をうみ出し、国民が国家をつくり出す。この関係は、ニワトリとタマゴのようなものである。現実には歴史の偶然によって、個々の国家が生まれるほかなかった。(11頁下段)

だが国家は、まったく恣意的に生まれるとも言えない。
多くの国家は、実際には、人種や民族や、文化や伝統や、言語や宗教やといった、人びとの同質性や特殊性を基盤にして形成された。あるいは、伝統的に存在した前近代国家を再組織するかたちで、形成された。このため、多くの国家は、公共サーヴィスを行うという世俗的な役割のほかに、民族や文化や伝統などの具体的な内容をともなう「共同体」としての色彩を受け継ぐことになった。(11頁下段)

国民が、自分たちの国家を肯定しようとする運動が、ナショナリズムである。(中略)
ナショナリズムは、国民国家ならかならず必要なものである。いっぽう、具体的な内容(民族や文化)をともなったナショナリズムは、害悪をもたらす可能性が大きい。なぜならそれは、少数者を排除し、差別や迫害の標的としがちだからである。(11頁下段-12頁上段)

プレ近代から近代に移行する時期の日本の驚くべき点は、日本の存在(日本人の存在や領土の範囲)が自明とされ、疑われなかったことである。(中略)明治維新が成功したのは、天皇をシンボルとして用いることができたのが大きい。天皇は、日本のナショナリズムに、具体的な内容を(民族主義、伝統主義、文化的優越主義、・・・)を与えることになった。そして構成された国家は、まったく世俗的なもの(丸山眞男のいう中性的国家)ではなしに、共同体的要素、宗教的要素を含むものとなった。(12頁下段)

ナショナリズムに、具体的な内容を盛り込めば盛り込むほど、その内容を引き受けられない人びとに対する差別を、必ず帰結する。アメリカの掲げる「自由」(そのもとで個々人の多様性を許容する)は、そうした差別をうまない、いまのところ最善の工夫のひとつである。(13頁上段)

歴史や文化を教え、日本人としてのアイデンティティを育む教育をしようと思うなら、同様に、日本人でない日本社会の構成員の歴史や文化も、教えなければならない。(中略)多文化主義で補完しなければ、日本人のアイデンティティは偏ったものとなってしまう。(中略)これらのこととは異なったレヴェルに、政治的国家に対する国民の関係があるということを、学校教育ははっきり教えるべきだろう。政治的国家に関する教育とは、わかりやすく言えば、民主主義の教育である。(13頁上段・下段)

愛国心が大切だと、スローガンのように叫んでも、なんの意味もない。教育基本法を改正することも、問題の本質を外れている。大事なことは、「公共」の新たな概念をもとに、個々人と政治的国家の関係をとらえ直すことであり、それに基づいて、民主主義をきちんと教育することである。(13頁下段) 以上引用紹介終了。



■『愛国心の根拠とは何か』の根拠は妥当か?
近代国民国家は、すべからく人為的な国家にすぎず、それは個々の諸国民にとって、国家内の社会生活に参加し、国際政治というゲームに参加する際に必要な<チーム>や<チームのユニフォーム>にすぎない。而して、ある人が(もちろん、受け入れ先のチームがあるという前提付きではあるけれど、)、「来年は現在のチーム(例えば、日本)ではなく、好条件をオファーしてくれる別のチーム(例えば、米国)でプレーしようと」考えることも、近代国家とその国民の間ではなんら問題ではない。

否、国民の概念自体が、人為的で世俗的な近代国家の成立と同時に(一枚のコインの表とうらの関係として、)、誕生した。大革命が産み落としたフランス共和国やプロイセン主導のドイツ帝国の成立までは、一人のフランス人も一人のドイツ人も地球上のどこにも存在しなかったのである。畢竟、ある任意の近代国家の正規メンバーが当該国家の国民であり、また、当該国家とはその国民が形成する共同的な幻想や共同的な法体系の観念に他ならない。橋爪さんの『愛国心の根拠とは何か』が基盤を置くであろうこのような国家観と国民の概念に私は全面的に賛同する。

しかし、橋爪『愛国心の根拠とは何か』には、国家と国民の関係に関して私は2重の意味で過度な単純化の弊害を見出すのである。すなわち、人為的で世俗的な近代国家はその苗床となった「前近代国家」の影響を完全には払拭できないのではないか。そして、もし近代の国民国家が「前近代国家」に憑いている民族的・文化的・伝統的な要素を少なくとも法律や行政の部面においては完全に払拭できたとしても、そのような人為的=人工的な国家も時間の経過の中で他の諸国民に対しては、一種、特殊で独特な民族的・文化的・伝統的な要素(共同体的要素)を帯びる<共同体>に変容してしまうではないか。そのような変容の進行は(例えば、アメリカ憲法が物神化しているとしか思えない現在のアメリカ合衆国を想起すれば、)不可避であり、神ならぬ身の人間には押し止めることはできないのではないか、ということである。


■人間は人為的国家という枠組みに収まりきれる存在ではない
20年近く昔のことだけれど、同志社大学で行われたあるセミナーの懇親会で橋爪さんとご一緒したときに、橋爪さんの言葉で今でも印象に残っているものがある。すなわち、「完全な自動翻訳機ができるとしたら、天皇制はなくなるでしょうね」、と。

私はこの命題の真偽については今でも結論を出せないでいるけれど。民族の文化や伝統なるものが、煎じ詰めれば、民族の構成員の行動の傾向性の中にしか存在せず(例えば、正月になれば神社にお参りにいくとか、男の子が産まれたら5月5日には鯉幟を立てるとか、)、その行動の傾向性を担保しているものは言語が媒介する世界観や世界像に他ならないことまでは正しいと思う。

ならば、ある言語を(例えば、日本語)をあるアルゴリズムに従って完全に他の言語(例えば、北京語や英語)に移行できたとするならば、日本語が形成している日本人の世界観や世界像もまた北京語や英語が各々形成している世界観や世界像とコンパチブル(共約可能)ということであり、日本文化の核心たる天皇制も自動翻訳ソフトのアルゴリズムの上では特別な要素ではなくなり解消して行くことになる。まあ、このような帰結も、満更、荒唐無稽ではないのかもしれない。もちろん、橋爪さんが「完全な自動翻訳機ができるとしたら、天皇制はなくなるでしょうね」という言葉で本当は何をおっしゃりたかったのかは不明だけれども。

完全な自動翻訳ソフトの開発は可能か? 私は、実は、かなり懐疑的である。その理由は、いたってシンプル。(a)言語は常に変化していること(しかも、総ての部分が他の全体と相互作用を繰り返しながら常に変動していること)。(b)フッサールが喝破した如く、「意識が何ものかに対する(言語の形式を取る)意識である」とするならば、翻訳とは「ある人間の意識」の公共化に他ならず、而して、(完全な翻訳か否かを判定するのは人間でしかないのに、言語は1個の人間のキャパを遥かに超えた有機的な統一体であり)生身の人間はその翻訳の正しさというか、翻訳アルゴリズムの能力を判定することはできないことである。その点、円周率を小数点以下50億桁とか500億桁までコンピューターが計算で求めた成果の判定や詰め将棋ソフトの性能判定とは事情は全く異なる。

言語の恒常的な変化、言語が人間の意識自体であり、他方、言語は判定者たる人間存在のキャパを超える存在であること。これが「完全な自動翻訳機ができるとしたら、天皇制はなくなる」という命題の真偽に私がいまだに首肯できないでいる理由である。

言語が自生的な存在であり変転極まりないものだとするならば、ある言語が最終的に担保しているある民族の世界観や世界像もまたそうなのではないか。蓋し、前近代の国家の共同体的要素や、ある人為的国家に時間の経過と共に次々と憑依してくる共同体的要素を、国家=国民という近代国民国家の教科書意的な理解で否定し尽すことは不可能。私はそう考えている。畢竟、人間存在は人為的国家という枠組みに収まりきれる(一旦収まったからといって未来永劫そのままであり続ける)ようなお行儀のよい存在ではないのではないか、と。


orekimisq



■『愛国心の根拠とは何か』の教育基本法改正論批判は妥当か?
私は、橋爪さんの立論に半ば賛成で、半ば反対である。
国家が世俗的存在を超える共同体的な要素を払拭できないにせよ、近代国民国家は人為的国家であり、近代国民国家は前近代国家を苗床にしながらもそれを再編しそれを超える存在として形成された経緯は尊重されるべきである。

人類は、その生産力と生産関係の二重の発展段階において、かつ、対自然関係・対国家関係・対国際関係・対社会関係というエコシステムの総ての領域で、最早、前近代国家が提供する社会関係と人間関係では現下の諸問題に対応できなくなっている。蓋し、地球環境問題や核兵器の拡散の状況、あるいは、益々グローバル化の進度を加速する国際経済のありさまを想起すればこのことは誰しも否定できないことだろう。

ならば、法と行政の主要な部面において民族的要素・文化的要素・伝統的要素を消去することは無理としても薄めることは不可避であろうし、国家の社会統合の根拠としては、伝統に裏打ちされた民族性なるものと並んで、公共的サーヴィスを行う国家権力を国民自らが形成し運営しているという経緯(支配の自同性)をも国民の一体感の根拠と位置づけることは妥当であろう。これが、橋爪さんの立論に私が半ば賛成すると記した所以である。

私は、民族的要素・文化的要素・伝統的要素が軽減されるのがむしろ適当な「法と行政の主要な部面」として、所謂、人身の自由、思想良心の自由、表現の自由、経済的自由という<国家からの自由>の領域を想定している。これは、就中、理性的な討論によっては共約不可能な「信教の自由」を中核とした思想良心の自由の領域では国家権力が一定の内容を国民に強制することには近代憲法においてはなんの正当性も見出し得ないということであり、他方、国家への国民と市民の社会統合にかかわる日本国民(永住外国人たる日本市民)のアイデンティティーとプライドの供給にかかわる国家の教育権、ならびに、国家の政策や方針の決定に関わる参政権や国家のサーヴィスを受ける権利たる社会権は除くということである。

何故か。私は、橋爪さんとは異なり、近代国家が完全に人為的で世俗的な国家になることは不可能であると考えているからである。而して、戦争で散華された英霊に感謝の誠を捧げるシステムである靖国神社を国家護持することは憲法の概念から演繹される憲法規範の要請ですらあり、その意味では「神道は宗教に非ず」なのである。畢竟、支配の自同性とともに日本の民族的要素・文化的要素・伝統的要素を加味した2重の契機による国家権力の正統化と正当化が、現実的なだけでなく政治思想的にも妥当な方途であると思っている。

国家は、<便宜的なチーム>や<ゲームに参加するために必要なチームのユニフォーム>であると同時に、民族的要素・文化的要素・伝統的要素という共同体的要素を孕んだ<運命共同体>でもある。このことは現実の国家と人間のありようを見る場合、不可避の認識なのではないか。ならば、参政権や社会権の主体をこのような<運命共同体の成員>に限定することは、世界のどの国からも批判されることではないだろう。蓋し、橋爪大三郎『愛国心の根拠とは何か』に私は半ば反対せざるをえないのである。

自動翻訳ソフトの例で説明した通り、国家なるものが人為的国家や世俗的国家に完全になりきることに私は懐疑的である。現在のエコシステムの発展段階においても、結局、国家は人為的であると同時に自生的な2重人格者的存在であることを止めることはできないのではないか。また、近代国家の諸国民は、ある国家で支配の自同性が貫徹されているからといって、当該の人為的国家のメンバーであることにだけプライドを感じ、アイデンティティーの根拠を見出すことは難しいと思う。

ならば、日本人以外の日本社会の構成者(日本市民)に対して、教育においても多文化主義的な視点から行政の支援がなされるべきことは当然であるけれど、他方、「日本は、日本の伝統と文化に価値を置く日本人がマジョリティーとして支配する国である」という認識を日本市民が持ち、日本市民の子女に公教育を通して教育することは、世界のどの国からも、毫も批判される筋合いのないことであると私は考える。


結論を書く。『愛国心の根拠とは何か』の教育基本法改正論批判は妥当か。私は、人為的国家の一員としてのプライドを涵養するという愛国心教育の契機は重要だと思う。その点、橋爪さんの言われる「政治的国家に対する国民の関係があるということを、学校教育ははっきり教えるべきだろう。政治的国家に関する教育とは、わかりやすく言えば、民主主義の教育である」という主張に私は賛同する。けれども、このような民主主義教育と並んで、日本の民族的要素・文化的要素・伝統的要素への帰属意識や一体感を涵養する教育もその重要性は否定されないと思う。近代国家の苗床としての「前近代国家=日本」を愛する心は、人為的国家を愛する心と並存可能であると考えるのである。蓋し、2つの愛国心教育。否、2重の愛国心教育を現在の日本社会は希求してはいないか。下記の愛国心教育のタイアップである。すなわち、

愛国心Ⅰ:人為的国家=日本の一員としてのプライドを涵養する民主主義の教育
愛国心Ⅱ:伝統的共同体=日本の運命共同体の一員としてのアイデンティティーとプライドを涵養する日本文化・伝統・歴史の教育


大東亜戦争後の日本の戦後民主主義教育は、教育における戦前の「民族的要素・文化的要素・伝統的要素」の残滓や侵入を激しく批判するもののようでありながら、橋爪さんが喝破されたように、それは民主主義(言語と法と契約を媒介としたディスクールを通しての合意の形成)とは異質な<共同体>を志向するものにすぎないと私も思う。

畢竟、大東亜戦争後の戦後民主主義は、世界の中で戦後の日本社会でしか通用しない特殊な「自由」と「平等」、「平和」と「民主主義」に共感するグループの中でしか説得力を持ちえない、「異質なものを排除」する<共同体的な世界観>だったのだろう。また、戦後民主主義が跳梁跋扈し猖獗を極めた時期に形成された戦後民主主義的な教育観はその純粋結晶にすぎない。ならば、橋爪『愛国心の根拠とは何か』は、ある意味、戦後民主主義的な教育観に対するラディカルな批判でもある。私は、その戦後民主主義批判の点において橋爪大三郎さんの主張に激しい共感を覚えている。


尚、本稿が扱った領域に関する私の基本的な考えについては下記拙稿をご参照ください。

愛国心教育などは愛されるに値する国になってから言いなさい?
 
国を愛することは恋愛ではなく人としての嗜みである
 
首相の靖国神社参拝の「違憲判決」について考える
 
憲法と教育法学と愛国心
 

人権と民主主義は国境を越えるか
 
民主主義とはなんじゃらほい
 
人権を守る運動は左翼の縄張りか? 保守主義からの人権論構築の試み 


戦後民主主義的国家論の打破(上)(中)(下)
 
憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)(下)



(2008年7月21日:yahoo版にアップロード)

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