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首相の靖国神社参拝の「違憲判決」について考える

yasukunitemple1


「小泉首相靖国参拝「違憲」」(毎日新聞)、「首相靖国参拝は違憲」(産経新聞)等々、平成17年9月30日の新聞夕刊と翌10月1日の朝刊各紙には<違憲判決>の4文字が躍っていた。9月30日に大阪高裁(大谷正治裁判長)が出した、首相の靖国神社参拝は公務であり、かつ、それは憲法20条3項の禁止する宗教的活動にあたるという判決を受けたもの。

ネットでは今でもこの「違憲判決」に言及する記事が溢れており、首相の靖国神社参拝の是非が同じく争われた9月29日の東京高裁判決と10月5日の高松高裁判決を報じた新聞記事はよほど注意して探さなければ見落としかねない扱いだったから(例えば、読売新聞では、東京高裁と高松高裁判決の記事はそれぞれミダシ込みで210字と461字の1本ずつだった!)、この大阪高裁の「違憲判決」のインパクトがいかに凄かったかがわかるというものだ。

私に言わせれば、しかし、大阪高裁のこの「違憲判決」や昨年(平成16年)4月に出された福岡地裁の「違憲判決」などは<違憲判決>などではない。ある掲示板に投稿した記事を自家投稿収録してその趣意を示しておく。

簡単に申し上げます。今回の判決は、国側勝訴であり、「違憲の判断」部分など判決書のインクの紙魚と同じです。法律的にはそういうことです。

次に、「政教分離原則」などという言葉が独り歩きしている感がありますが、フランスや旧社会主義諸国の「厳格な政教分離」などは日本が継受した独英米の憲法の内容とは異質なものであり、また、習俗として「首相や公務員」が靖国神社に参拝することは、津地鎮祭最高裁大法廷判決(昭和52年7月13日)が打ち立てた所謂「目的-効果基準」から見ても、明らかにある特定の宗教を擁護する目的と効果がそこに認められるのでもない限り(結果として、ある特定の宗教を援助する結果になろうが)、豪も、日本国憲法が定める政教分離原則に抵触することはありません。

一体、社会が孕むすべての紛争を「裁判」制度を通して解決するとか、憲法典を紐解けば国家とすべての国民の間の紛争が(これまたすべて)解決できるなどと考えるのは妄想でしかないでしょう。それは、積極的な憲法判断を司法に求めがちなプロ市民とは一見異質なドイツ流の「法律万能論」や「スコラ哲学風に再解釈された普遍的なローマ法への偏愛」と親和的な、権威主義的で物神崇拝的な態度だと思います。首相の靖国神社参拝の是非を裁判で決着をつけようという発想もまたそのようなものでしょう。<世界市民>なるものを標榜する彼等プロ市民が、実は、中華思想を標榜する中韓朝の特定アジア諸国の走狗であり<唯物史観-反日-反伝統文化の徒>であることと、彼等がこの権威主義的で物神崇拝的な傾向性を帯びることはむしろ必然とも言うべきなのかもしれません。

蓋し、判決を言い渡す上で憲法判断を行う必要がないのにも係わらず憲法判断らしきもの行い、判決書にインクの紙魚をのせた裁判官は資源のむだ遣いを行ったのです。また、それは国民の税金でまかなわれている裁判を私したものであり、言わば「税金ドロボー」「給与ドロボー」に等しい。

この点を鑑みるならば、裁判官に蛇足(=判決文のインキの紙魚)を書かせないために(自由心象主義に一定の制限を加えて)、蛇足を禁止する/蛇足のための無駄な証拠調べを禁止する民事訴訟法や裁判所規則の改正が望まれていると思います。(10月2日・投稿)



人口に膾炙している箴言に「犬が人間に噛みついてもニュースにならないが、人間が犬に噛みついたらニュースになる」というのがある。思うに、大阪高裁の「違憲判決」などはこの「人間が犬に噛みついた」類の事態であり、逆に言えば、東京高裁や高松高裁の判決(そして、小泉首相の靖国神社参拝の是非が争われた一連の判決の中で、首相の参拝を「公的行為」と認めた上でその違憲性を明確に否定した点で私が最も高く評価する、昨年11月の千葉地裁判決)は「犬が人間に噛みついた」ものにすぎず、ほとんど世間の注目を引かなかったのだと私は考えている。しかし、国民にとって重要なのは、現象の圧倒的多数を占める「犬が人間に噛みつく」方であり、それが、世間の注目をどれ程引いたかどうかは現象の重要性の決定にはあまり影響がない。


◆政教分離を分類する
一般に「政教分離の原則」とは、「国家権力(=政府・地方自治体)と宗教を隔て、政府の宗教的中立性を確保することによって、「政治上の権力」(=統治権力)の運用が宗教によって歪められることを防ごうとする制度である。それは、豪も、政治的活動と宗教の分離を意味しない。それどころか、政教分離原則は、国家が宗教に係わることを否定しておらず;また、特定の宗派(=教会)と国家が癒着すること/国家が特定の宗派(=教会)を迫害することをのみ禁止すると考える憲法(イタリア・英国・ドイツ、等々)や理解も世界では有力なのである。

畢竟、政教分離の問題は、私がよく言う「書かれている憲法たる憲法典」と、片や、書かれていない憲法規範と憲法典との総体たる<憲法>の違いが出やすい典型例である(これについては下記拙稿を参照いただきたい)。そして、立法趣意や立法事実論の是非は別にして(★)、諸国の憲法が宗教と国家権力の関係をどうとらえているかは、諸国の歴史や文化によって千差万別である。

政治と社会を考えるための用語集(Ⅱ) 憲法 

例えば、諸国の政教分離制度は、(甲)「非宗教性」の規定や「厳格な政教分離」を定めるパターン;(乙)宗教や特定の宗派を国家と対等なパートナーとして尊重し「国家と教会が条約/協定」を結ぶパターン;そして、イスラム諸国を除けば、そのほとんどは無宗教や他の宗派への寛容を謳いながらも、(丙)特定の宗派を国教として認めるパターンの三者に分けて理解されるのが一般的である。そして、論者の多くは、アメリカとフランスと日本の憲法を「厳格な政教分離」を定める(甲)のグループに分類している(★)。

文理上は確かに、アメリカ憲法もフランス憲法と並んで「厳格な政教分離」を定めているようにも思われる。しかし、アメリカ憲法自体、立憲当初は国民のすべての生活領域にコミットする目的で作られたのではないし;そして、地域共同体の具体的な慣習や宗教行為に当初からそれは寛容だったから、米仏両国の政教分離の内容はかなり様相が違っている。蓋し、憲法典だけをどれほど注意深く読もうとも、我が国の現行憲法の第20条3項なり第89条の規範意味を確定することは難しいのである。

★註:立法事実論
憲法が制定される際に憲法制定者が念頭に置いていた事実(立法事実)はどのような手続きを用いれば特定できるか、そして、立法事実が否定する憲法解釈は「妥当な解釈ではないのか」を巡る議論。これはある意味、西欧におけるローマ法継受の長い伝統の中で常に問われていたテーマであるし、また、シュライエルマッハーからディルタイに至る近代解釈学とハイデガーを経由してガダマーに至る現代解釈学が法学方法論に投げかけた主要な課題であった。

我が国の憲法方法論が立法事実を向自的に課題としたのは、しかし、J・イリー”Democracy and Distrust”等が巻き起こした1980年代のアメリカの議論に刺激を受けて以降のことと思われる。詳細は別稿に譲るけれど、私自身は、憲法規範は時間の流れに伴い、近代国民国家のアイデンティティーを規定するというその自己同一性を保ちつつも常に変化するものととらえており、「立法事実」に解釈の資料以上の重要性を認めない。

★註:市販テクストに見る政教分離の分類
宮澤俊義『憲法Ⅱ 新版』(有斐閣・pp.358ff), 芦部信喜『憲法 第三版』(岩波書店・p.149), 佐藤幸治『憲法 第三版』(青林書院・pp.498-500), 伊藤正巳『憲法 第三版』(弘文堂・pp. 269-270),辻村みよ子『憲法 第2版』(日本評論社・p.226;本書は上の(乙)を「条約/協定」の有無によって更に二分割しており、かつ、その社会でのカソリック教会の持つ社会学的影響力を踏まえて多くの論者が(甲)に分類するフランス憲法を(乙)に含ませている), 長谷部恭男『憲法 第3版』(新世社・pp.198-199;本書の白眉は、政教分離原則の思想的根拠を平明にスケッチした記述だと思う(pp.200-202)。一読をお薦めする)
 


◆政教分離を遠心分離する
憲法20条2項および3項、ならびに、憲法89条が規定する現行憲法の政教分離原則を、通説と判例は「制度的保障」の規定と考えている。つまり(白黒はっきり言えば)、それは人権そのものではなく人権を確保する便宜のために作られた制度にすぎず、その具体的内容は人権規定そのものに比べれば法律等でより容易に決める/変更することができる。しかし、制度的保障といえどもその条項に明示的に反する国家の行為が違憲であることも間違いない。残念ながら、「政教分離は制度的保障にすぎない」からと言って首相の靖国神社への参拝が無条件に合憲になるわけではない。

では、政教分離を正当化している憲法思想的な根拠は何か? また、憲法思想からは首相の靖国神社参拝は政教分離の精神に反すると考えるべきなのだろうか? 本稿では、このように議論の少し川上側にポジションを取って大阪高裁「違憲判決」を検討する。

政教分離原則の基盤は(イ)アトム的で抽象的な国民概念、(ロ)国家と国民の間に介在する中間団体の否定の二つと私は考えている。フランス憲法1条に曰く、「フランスは、不可分の非宗教的、民主的かつ社会的な共和国である。フランスは、出生、人種または宗教の差別なく、すべての市民に対し法律の前の平等を保障する。フランスはすべての信条を尊重する」、と。

教会やギルド等の中間団体の桎梏から脱して、また、国家の暴走を阻止しつつ自由で平等な市民が(その自己責任に基づいて)生活していけるようにするにはどうすればよいか? フランス革命から現在の第5共和制に至るまでフランス国民が選んだ方途が、強力な中央集権国家の構築とそれによるすべての中間団体の解体であり;他方、厳格な人権規定によって国家の暴走や権力の濫用から市民を護るというアイデアであった。フランス人権宣言16条はこう謳っている。「権利の保障が確保されておらず、また、権力の分立が定められていない社会は、憲法を持たない」、と。

中間団体の解体と強力な国家の構築、そして、人権の保障はフランス憲法においては三位一体の関係にある。そして、この三位一体の憲法思想を底礎するものこそ、非宗教的-非伝統文化的で人工的な人間観:私の言う「アトム的で抽象的な国民概念」に他ならない。

70年代後半、我が国でも「具体的な顔の見える個々の市民(=ピープル)が主権の主体か」、「抽象的な政治的神話としての国民(=ナシオン)が主権の主体か」という議論が闘われた。しかし、国家が最高独立の主権国家であり法的な存在である限りは(特に、他国や他国民との関係では)その国民も抽象的で法的な政治的神話の世界の住人(=幻想としての共同体の、そのまた幻想としてのメンバー)という側面を失うことはない。フランスが貧しい第三世界のすべての<市民>にフランス人権宣言の保障を与えることもできないし/与える気などさらさらないことを鑑みればこの事態は明らかである。


◆政教分離は神道を狙い撃ちするものではない
政教分離原則の内容は諸国の文化的伝統によって異なっている。イスラムの女生徒からスカーフを奪い去るような野蛮なフランス流の厳格な政教分離の制度などは、世界の政教分離のむしろ例外に属しているのであって、それは豪も普遍性など持っていない。そして、旧憲法と現行憲法の立法の経緯を鑑みるならば、現行憲法が採用した政教分離の制度はドイツ法と英米法の流れを汲んだものと考えるのが相当である(それは、宗教を大切なものと考える地域社会の感情に憲法的な価値を与えるものである)。よって、我が神州における政教分離の問題は、通説・判例が共に認めるように「国家と宗教の完全な分離は不可能に近い」(津地鎮祭最高裁大法廷判決)ことを前提に<許される国家の宗教的活動>の範囲を合理的に定めることに収束すると考えるべきであろう。

現行憲法20条と89条が起案されたについては、大東亜戦争前の「国家神道」のあり方に対する批判があったことは第90回帝国議会(=所謂「制憲国会」)の議事録を紐解くまでもなく否定できない事実であろう。しかし、制憲過程やGHQの意向がどうあれ、平成の御世に生きる我々にとって、政教分離の規範意味を抽出する上で重要なのは、現行憲法の条規であり、書かれていない憲法たる「我が豊葦原瑞穂之國の文化的伝統と我が神州がそこに存在している歴史的な位相」以外にはありえない。

ならば、国家神道の解体と現行憲法20条と89条によって神道がその優越的な地位を失った以降は、神道も日本基督教団に集うプロテスタント各派もカソリック教団も、ルター派も日蓮正宗や創価学会も、天理教団も大本教団も霊友会も神理教団もすべて、全く同じ立場にたって現行憲法20条と89条によって規制され保護されるのである。逆に、明確な憲法条項を欠いているのに(立法事実などの根拠薄弱な議論を援用して)、平成の御世も17年目に入った今、神道を他の宗派に比べ不利に扱うなどということは明確な憲法違反である。蓋し、現行憲法の政教分離は神道を狙い撃ちしたものではあったけれど、それは現在、神道を狙い撃ちするものと考える理由はない。


◆首相の靖国神社参拝は憲法的な責務である
現行憲法の政教分離は神道を狙い撃ちするものではない。否、現行憲法はある意味神道的言語で綴られた近代国民国家のイデオロギーを組み込んでいると解すべきである。現行憲法はその第1章「天皇」に八箇条を割いて、天壌無窮、皇孫統べる神州の国柄を明示しているではないか。また、明治の御一新に際して、我が神州が「天皇制」イデオロギーを中核とした国民国家を形成したことを否定する論者はいないだろう;現行憲法体制の移行に際して、便宜上、天皇陛下の権力性は軽減したものの国家統合のイデオロギーの核心を神道のパラダイムに裏づけられた天皇制イデオロギーが担い続けていることは否定できない事実である。憲法1条曰く、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」、と。

ならば、個人の信仰の流儀としての神道は他の宗教各派と同様に政教分離原則の規制を受けるだろうが近代国民国家日本を形成し日本国民を創出した、皇孫統べる神州という政治的神話;ならびに、日本社会を統合するイデオロギーに形を与えている<神道のパラダイム>は最早、政教分離原則が規制する宗教ではないと考えるべきである。これはヘーゲルの語る意味での絶対精神の具現として<神道>を理解する提案である。蓋し(単純な時代錯誤や冗談ではなく)、「神道は宗教にあらず」なのである。

神道をこのように理解する時、首相の靖国神社参拝は(それが、政教分離に関する目的-効果基準の則を遵守している限り)、政教分離に反する憲法違反の行為などではなく、むしろ、靖国神社は九段の社に参拝し、国のために散華された英霊に感謝の誠を捧げ祈念することは日本の政治指導者に憲法が要請している責務とさえ言えると私は考える。蓋し、昨年11月の千葉地裁判決が判じしたように、首相の靖国神社参拝は公的行為であり、かつ、それは憲法に違反するものではない。

これまでの考察で私は、政教分離が国や民族の文化によって多様な内容を持つこと;フランス流の野蛮な政教分離原則は、地域社会の伝統や人間関係を法外の領域に追放するものであり、それは、ドイツや英米の憲法とも我が神州の憲法とも無縁な社会思想に基礎づけられていること;よって、国家が一切の宗教会派と結びつくことだけでなく、非宗教的であることを要求するフランス流の厳格な政教分離原則は現行憲法の第20条3項と89条とは無関係であることを示した。そして、近代国民国家日本誕生の場面に遡り、かつ、その近代国民国家統合と日本国民の理念が大東亜戦争の敗戦によっても豪も変更されていないことを踏まえるならば、個人の信仰と切り離された(目的-効果基準に従う限りの)国家と神道のかかわりは憲法の要請でさえあれ憲法違反などにはならないことを見出した。


◆「違憲判決」は「インクの紙魚」である
最後に、「人間が犬に噛みついた」大阪高裁判決の検討に入る。第一に、この判決は「違憲判決」などではない。Not「違憲判決」, but 「シンプルな国側勝訴判決」であり、判決の「インクの紙魚」の部分は、今後の他の判決に法律的には何の影響も与えない「蛇足」にすぎない。ある判決が先例としての拘束力を持つのはその結論(主文の命題)に直接影響を与える部分に限られる;即ち、英米法で言う所のレイシオ・デシデンダイ(ratio decidendi)だけが法的拘束力を持ちうるからである;それに対して、所謂傍論(英米法で言う所のオビタ・ディクタ=obiter dicta)は、将来の裁判所の判断に実質的な影響力を持つことがあるとしても、極論すれば、法的にはなんの意味もない文章である。

前にも書いたように、社会が孕むすべての紛争を司法が解決できるとか/解決すべきとか考えるのは妄想であり;それは、司法-裁判所に対する贔屓の引き倒しの類である。違憲立法審査権を司法に与えた現行憲法においても(あたり前のことだが司法は立法機関ではなく)、個別的案件を法律的に解決する途上で、紛争を解決するために適用される特定の法規の意味を確定することをその本分とする。だからこそ、選挙で国民に選ばれたわけでもないテクノクラートが司法を担う制度が合理性を持つのである。

民事訴訟のイロハの「イ」であるが、司法判断に馴染む案件は「法律上の訴訟」に限定される;それは、①当事者間の具体的な権利関係の存否に関するものでなければならず(法律問題となりうる狭義の事件性)、②裁判を通して紛争が一義的に解決されるものでなければならない(法律性)。裁判は裁判所たる裁判官が自己の学識や思想を表明するメディアではなく(結果的にそうなる場合があることは否定しないけれども)、第一義的に紛争の解決を通して社会に法的安定性と現実具体的妥当性をもたらすべき公的サーヴィスである(★)。

ならば(事件性もなく法律性も乏しい)、紛争の解決と無関係な論点に判決が言及することは司法権の濫用である。それは、国民の税金で賄われ有限なキャパシティーしか持たない裁判制度自体の自殺行為でさえある。法解釈の技術が言及する資格のない「神道は宗教か否か」等の案件や統治行為に属する政府の行為に関係する案件、あるいは、裁判制度が最終的に解決し得ない案件について趣味的に判決で触れることは、裁判官による裁判制度の私的運用であり、それは裁判に訴えるべきでない多くの案件が裁判所に持ち込まれる事態を誘発して、早晩、裁判所の業務処理のキャパを圧迫するだろうからである。

極例外的な目立ちたがり屋の裁判官が趣味的な判決を出すことは、更に、司法の紛争処理システムが帯びるべき(手続き的な)法的な安定性を掘り崩す弊害を伴うだろう。「人間が犬に噛みついた」ような異常な少数の判決の一方では(ほとんど報道されることもなく)、「犬が人間に噛みついた」真っ当な裁判が淡々と出されていることを考えてみて欲しい。多くの裁判では形式的に粛々と棄却されている案件が、極少数の裁判では憲法判断らしきものがなされ(再度言う。「人間が犬に噛みついた」そんな判決にも係わらず、政治的にはともかく)法的な紛争の解決にその憲法判断は何の影響も与えないのである。ならば、「人間が犬に噛みついた」大阪高裁判決は、裁判官の自己顕示欲の発露に被告・原告の双方が付き合わされたものと言うべきであろう。そして、そのお付き合いの対価は、税金と資源の無駄遣いだけではなく、手続き的にせよ法的安定性の劣化という極めて高価なものである。

蓋し、私はこのような言わば「税金ドロボー」と「公的裁判制度の私的流用」に等しい「違憲判決」は(法律的には無意味な「インクの紙魚」としても)許されるべきではないと考える。この自由の国においては法律的には馬鹿げた主張でも誰かがそれを裁判で争おうとすることを止めることはできないのだから、「インクの紙魚」を裁判官が書くことを制限する必要はなおさら高いと思う。民事訴訟法140条(口頭弁論を経ない訴えの却下)、181条(証拠調べの要しない場合)、および、253条(判決書の必要的記載事項)等々の改正、あるいは、請求の予備的併合と選択的併合の規定を厳格にする等々、蛇足を封じるためにやれることはいくらでもあるのではないか。

マルクスの『ユダヤ人問題によせて』の言い回しを使わせてもらうならば、「間違った法論理の流通が問題なのではなく、間違った法論理の権威化が問題」なのだ。そして、大阪高裁判決のような馬鹿げた「違憲判決」からの日本国民の解放は、社会のすべての紛争を司法が解決できるし/司法が解決すべきであるという噴飯もの戦後民主主義的な法思想から日本が解放されることによってのみ達成されるのではないか。私はそう考えているが、そもそも政治とはそのような一般的な紛争処理のシステムであり、本来、三権分立の意味とはそのようなものではなかろうか。

★註:民事訴訟法の訴訟物論争
大東亜戦争後の日本の民事訴訟法学を彩る(訴訟物の範囲を巡る)新訴訟物理論と旧訴訟物理論の対立点は一言で言えば、裁判制度というインフラのパフォーマンスをいかに向上させるか;事件の一回的と統一的解決をはかることで(一見、トレードオフの関係に見える法的正義の構成要素たる)法的安定性と具体的妥当性をいかにバランスよく実現するかであったと思う。この理論的な延長線上に、迅速な裁判を具現するための数次にわたる民事訴訟法の改正が行われた。蓋し、紛争解決に無関係な憲法判断を行った大阪高裁の判決は、訴訟物の範囲を曖昧にするものであり迅速な裁判の実現にも逆行する点で民事訴訟法学と民事訴訟制度が実現を目指す法的正義を否定するものと言えよう。



(2005年10月9日:yahoo版にアップロード)


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