斉藤小百合「二つの靖国参拝違憲訴訟」

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『法学セミナー』(2006年2月号・日本評論社)に面白い論考が掲載されていた。恵泉女学園大学助教授の斉藤小百合さんの記事、「二つの靖国参拝違憲訴訟」(pp.60-64)である。

◆「斉藤小百合」はいいんじゃない♪
首相の靖国神社参拝を巡る憲法論について、おそらく違憲論を支持されていると思われる斉藤さんと私は結論を異にしている。「二つの靖国参拝違憲訴訟」で著者が俎上に乗せておられる、昨年、平成17年9月29日の東京高裁判決と同9月30日の大阪高裁判決に関する私の考の要点は次の通りである(詳しくは下記URLを参照いただきたい)。

①内閣総理大臣の靖国神社参拝は「私的な行為ではなく公的な行為」であり
②国の最高政治指導者たる首相が、国のために散華された英霊に感謝の誠を捧げるのはその当然の責務である。なぜならば、

③「政教分離原則」なるものは、元来、英米法・ドイツ法を継受した我が国の憲法典においては(「普遍的な人権」と「アトム的な国民」の概念によって人工の国家制度が構築可能と考えるフランス流のカルト的な憲法論とは異なり)、国家権力に一切の宗教的なかかわりを認めないというものではない。実際、津地鎮祭最高裁大法廷判決も政教分離の問題は、「国家と宗教の完全な分離は不可能に近い」ことを前提に<許される国家の宗教的活動の範囲>を合理的に定めることに収束すると考えているではないか。更に、

④実定憲法の核心たる、<フィクションとしての国民国家=日本国>を形成する国民の国家意識-憲法意識を鑑みれば(それらは、歴史的に特殊な伝統と文化と歴史によって肉付けされた)、それは<国民国家=日本国>を<皇孫統べる豊葦原瑞穂之國というイデオロギー>をしてその憲法規範体系の基底としていることは明らかである。ならば、首相が神道形式を援用した施設に参拝することも(それが他者の信教の自由を現実的に侵害しない限り)、憲法の要請でさえあれ、豪も、憲法に反するものではない


首相の靖国神社参拝の「違憲判決」について考える(上)(下) 

斉藤小百合さんと私とではその結論に180度の違いがある。しかし、憲法論議も企業経営も結果がすべてではない。プロセスの方が結果よりも数百倍重要なこともままある(というか、結果がすべてだからこそ、結果を左右するプロセスが大事と言うべきか)。

私は「二つの靖国参拝違憲訴訟」を読んで、結論はおそらく正反対ではあるにせよ、実に参考になった。しかも、著者の勤務先、恵泉女学園大学と言えば、私の地元、小田急線新百合ヶ丘駅から15分足らずではないか! と、ある種の連帯感さえ感じてしまった。


◆斉藤小百合さんとKABUはシャム双生児?
「斉藤小百合」はいいんじゃない、と感じた理由はシンプルである。それは、首相の靖国神社参拝を巡る憲法判断に関する、斉藤さんの<政治一元論>とも言うべき直截で剛直な議論である。そして、ご自分の主張の妥当性が「靖国神社をめぐる問題が「大問題」である由縁(ママ)は、いわゆる近代立憲主義の拠って立つ国家観が21世紀の現代社会においても有効な指標たりうるのか、という根源的な問題」(同書, p.63)の是非にかかっていると述べられるその潔さにも好感を抱いた。

政治一元論を貫徹しつつ、いわば近代立憲主義の賞味期限がいまだ切れていないことに賭けて繰り出される剛直な論理;それは、自玉の堅固さを信じ敵玉を捨て身で詰ましにかかるプロ棋士を連想させた。嘘ではなく、斉藤さんの論旨の平明さと明晰さに私はしばしば喝采を叫んだ。例えば、政教分離判断に関する通説判例の判断「目的効果基準」(★)の援用は「あまり有益ではない」とされる次のコメントなどである。

「本件のように首相の靖国神社参拝問題のような事例に関して政教分離原則の判断を行う際、従来の「目的効果基準」では、問題の本質を捉えきれないと考える。なぜなら、本文でも記したように、また大阪高裁判決が指摘するように、当該行為の主たる目的はまさしく「政治的なもの」、世俗的なものだからである。「行為の目的の宗教的意義」を詮索するのはあまり有益ではない」(同書, p.64)

★註:政教分離判断における目的効果基準
目的効果基準は、国家や地方自治体の機関の行為に関して「その目的が宗教的意義をもち、その効果がある特定の宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等」になっているかどうかに着目して、現行憲法20条3項にその行為が抵触したかどうかを判断しようというもの。アメリカ法を参考に、この基準をさらにブレークダウンした具体的な判断基準が幾つも提案されているものの、「目的効果基準」は判例の採用する立場といえる。



私は著者の問題の捉え方に共感する。首相の靖国神社参拝を宗教性の観点からどれほど精緻に分析しようとも問題は解決しない;そこでは、宗教や信仰のなんたるかを理解しない水掛け論的な憲法論が繰り広げられるか、はたまた、法のなんたるかをイメージできないままでする真理告白的な宗教談義が繰り返されるか、あるいはその両方であろうから。その通りだ! 現行憲法20条3項の主意は、あくまでも、<許される国家の宗教的活動の範囲>を超える公的機関の行為の制約なのだから。

ならば、コロンブスの玉子かもしれないが、逆転の発想とも言うべき、(宗教性の有無強弱ではなく)政治が係われる限界の確定から靖国神社参拝を巡る政教分離原則の規範意味を明らかにする方途が遥かに生産的である。而して、これが斉藤小百合さんの議論を<政治一元論>と私が呼ぶ所以であり、著者はこの政治一元論と近代立憲主義の連携でもって首相参拝違憲論を基礎づけられる。そして、その狙いは形式論理的には成功していると思う。

近代立憲主義とは何か? 東京大学の長谷部恭男さんの表現を借りれば、それは「共約不可能な価値選択」の領域には(個人が抱く世界観や人生観という個人に任せられるべき価値体系の選択に関しては、たとえ、民主的な手続きを尽したとしても)国家権力は介入すべきではないという社会思想である。それは、価値相対主義あるいは権力の自己抑制の思想を基盤にしており、そこには国家権力が最低限果たすべき領域に国家や法の守備範囲を限定すべきという主張が内在されている。

而して、これらの観点から斉藤さんは、首相の靖国神社参拝の政治性を認定し、かつ、それは<許される国家の宗教的活動の範囲>を超える事態と考えられるようである。私は、しかし、著者の主張に共感はするが同意できない。それは彼我の<憲法の概念>の違いと<法の守備範囲>に関する理解の差に起因すると思う。

近代立憲主義が考えた「憲法」も、必ずしも、歴史・文化・伝統と無縁ではない。また、その「憲法」は抽象的で普遍的な「人権」によってのみ編み上げられているわけでもない。この経緯は、著者、斉藤小百合さんのご専門である英米憲法(すなわち、独立宣言当時の政治情勢と社会状況のタイムカプセルとも言うべきアメリカ合衆国憲法や形式的意味の憲法を持たないイギリスの憲法規範)だけでなく、人権宣言と1791年憲法以来のフランスの憲法を一読すれば自明のことであろう(尚、憲法に関する私の基本的理解に関してはとりあえず下記の拙稿を参照いただきたい)。

政治と社会を考えるための用語集(Ⅱ) 憲法 

憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)(下)
 

畢竟、近代憲法が、その中核イデオロギーたる<国民国家の神話>の基盤の上に立てられるものである限り(社会学的な観察からだけでなく)憲法の理念もまた、歴史的に特殊で個性的な<フィクションとしての民族のアイデンティティ>をその必須のパーツとして含むと考えるべきではなかろうか。ならば、我が神州の近代的国家の意識形態たる<日本国>に殉じ散華された英霊を祀ることは現行憲法の要請と解すべきである。


私も長谷部さんや斉藤さんと同様、近代立憲主義は共役不可能な領域への越境の自制を法と権力に要請していると考えている。しかし、近代立憲主義理解の正にこの点を根拠に、私は首相の靖国神社参拝を司法は判断すべきではないと思う。蓋し、(それが他者の信仰の自由を侵害しない限り、あるいは、他者の受忍限度を超えるものではない限り)そもそも法は法が定めるべき領域以外の政治や道徳や私事に容喙すべきではない、と。

おそらく斉藤さんは、国家権力の絡む事項は(=権力の分配構造の変容ならびに権力の分配と権力行使の全過程を巡る事態は)憲法の制約下におかれるべきと考えておられると思う。そう推測する。そして、もしこの「斉藤小百合」理解が満更間違いではないとするならば、それは「憲法、否! 法に対する過大なクレーム」だと私は考える。

それは、フランス流の<法律=理性の万能観>に依拠した妄想にすぎない、と。英国分析法学の始祖ジョン・オースティンが提唱した、政治の則としての道徳;それは、奥平康弘さんが「政治家の責任」を法的責任と政治的責任に配分される手並みに通じると思うけれど、政治的影響力なるものは法ではなく道徳的な政治責任の領域の範疇ではないか。それは法ではなく選挙と世論を通して制御されるものであろう、と。

著者が喝破された通り、(イ)首相の靖国神社参拝は政治的な行為以外のなにものでもない。けれども、(ロ)それは、(法学方法論的思索から導かれる憲法の概念から見て)現行憲法の要請に沿ったものであるか、少なくとも、(ハ)近代立憲主義の要請する法の制約的な運用からは司法の判断に馴染まない行為である。言わばこの<挟み撃ち的考察>からは、靖国神社参拝違憲訴訟なるものはそもそも法がその解決を目指す紛争としては成立していない。そう私は考える。

蓋し、著者の政治一元論に私は共感を覚える。また、首相の靖国神社参拝という事態にフランス流の「いわゆる近代立憲主義の拠って立つ国家観が21世紀の現代社会においても有効な指標たりうるのか、という根源的な問題」を感じる点でも著者と私は同じである。けれども、私は「いわゆる近代立憲主義の拠って立つ国家観などは今までも有効ではなかったし、21世紀の現代社会でも有効ではない」と考える。この点で私と著者はおそらく180度異なっている。畢竟、このイシューに関して、斉藤さんと私は背中合わせの<シャム双生児>なのかもしれない。


(2006年1月28日:yahoo版にアップロード)


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