保守主義とは何か(弐)

dobaideshobai

■保守主義と国家
例えば、『広辞苑』に言う「旧来の風習・伝統を重んじ、それを保存しようとすること」という一般的な意味ではなく(現在のロシアで旧共産党を支持する勢力を「保守」と呼ぶということではなく)、「保守」を歴史的にある特殊な内容を持った社会思想として捉えるとき、「保守主義」の内容は(すなわち、「左翼」の対概念としての「保守」の内容は)前節までの考察で一応提示できたと思います。要は、「保守主義」とは、世界と社会と歴史についての総合的で体系的な理論ではなく、ある歴史的に特殊な特徴を持った「社会認識のための姿勢」「社会改革を実践する際の態度」であり、その基盤は「人間存在の有限性」「自己の歴史的特殊性」に対する確信に遡り得る「実存主義的な価値相対主義」「経験主義的な現実主義」であると。

而して、現在、保守主義は資本主義やグローバル化の昂進に拮抗すべく自己の再規定と再構築を迫られている。そして、言わばこの保守主義の危機は資本主義とグローバル化の波濤に洗われている保守主義の苗床たる国家の揺らぎに連動している。私はそう考えています。

◎「左翼」の対概念としての「保守主義」の構造
保守主義の心性:「人間存在の有限性」「自己の歴史的特殊性」の確信
保守主義の基盤:「実存主義的な価値相対主義」「経験主義的な現実主義」
保守主義の形態:「社会認識のための姿勢」「社会改革を実践する際の態度」
保守主義の内容:「反教条主義」「反観念論」「伝統の尊重」
「人為的権威の懐疑」「政治または法の作用する対象領域の肥大化の嫌悪」


本稿の結論の一つを先取りして述べれば、「左翼」の対概念を超える「保守主義」の積極的な意味の核心は「ある社会に自生的な伝統に格別の価値を認め、政治的と社会的な諸問題をその伝統が担保する法規範または道徳規範を格別に尊重して解決しようとする態度」である。ならば、近代の国民国家(≒主権国家)成立以降の社会において国家は「伝統」の地理的妥当領域を画する<管轄単位>であり、現下の主権国家(≒国民国家)の揺らぎは保守主義に対する資本主義やグローバル化からのラディカルな挑戦であることは間違いない。換言すれば、「保守主義」はインターナショナルな概念であり得るけれども、具体的なその内容は(現在においては)国民国家毎に異なり各主権国家の枠内でのみその効力を保持する。ならば、国家の揺らぎは保守主義の危機に他ならない。

国家の揺らぎと保守主義の変容の連動は、しかし、常態であった。伝統に根ざした(普遍的で抽象的な人権などではない、ある社会の固有のメンバーの奪われざる権利を定めた)コモンローの至高性を認め、それを司法が護り得ることを当然と考える「法の支配」のアイデアを中核とした保守主義が英国で誕生した16世紀末から17世紀初頭はウェストファリア条約(1638年)により現在に至る(国内においては最高の他国との関係においては独立の主権を持つ、ホッブスの所謂「可死の神」としての)「主権国家」の理念が地上に蒔かれた時代でもあり、それはまた資本主義がその輪郭を人類史の中で現し始めた時代でもある。而して、所謂「違憲立法審査権制度」に保守主義が結晶するアメリカ合衆国建国(1783年)の前後、18世紀末から19世紀初頭にかけてはフランス革命(1789年)によって現在に至る「国民国家」が人類史上始めて成立した時代なのですから(★)。

歴史は繰り返す。「ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現われる、と言っている。ただ彼は、「最初は悲劇として二度目は茶番として」とつけ加えるのを忘れた」とはマルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の冒頭のセンテンスですが、現在それが受けている人類史規模の試練を保守主義が克服した暁にはこれまた人類史を画する新しい<国家類型>が成立しているかもしれない。そんな予感がしなくもない。もちろん、それが「悲劇」でも「喜劇」でもないことを祈るばかりですけれども。いずれにせよ、本稿の冒頭に記した如く、保守主義とは恒常的な伝統の再構築の営みであり保守主義の危機は保守主義にとっての好機でもあり得る。蓋し、このこともまた国家概念の変遷と英米の保守主義の連動を巡る歴史が示唆していることではないでしょうか。

この状況認識に基づき、以下、資本主義やグローバル化から国家と保守主義が受けている挑戦の構図を概観したいと思います。而して、その作業は前節で暫定的に措定した「左翼」の対概念としての「保守主義」を超えて保守主義の本性を手繰り寄せる作業の前哨になるはずです。

★註:国家
「国家」は統治の制度や機構としての「国家権力:state」と、その国家権力が統治する政治社会のメンバーやそのメンバーの社会的と文化的な統合としての「国家/国民:nation」の二つの語義を含んでいる。もっとも、「国家」という日本語は古代においては「天皇」御一身を指す言葉であり(実は、明治初年1868年に制定された仮刑律でも「謀叛の罪」を規定するに際して「国家」を「天皇」の語義に使用しています)、また、戦国期から江戸期に亘る近世では「大名の領地と領民たる(統治の客体としての)国と、それらを支配する家(「家中」:統治の主体としての大名と大名の家来衆)」をあわせた言葉として現在の「藩」とほぼ同じ意味でも使用されてきました。

いずれにせよ、ウェストファリア条約によって明確な国境線(border)と最高独立の主権(sovereignty)が実際の各国家(特に、神聖ローマ帝国内のドイツ諸邦)に確認されるまで、また、フランス革命とその後のナショナリズムの勃興により、原則、ある一つの主権国家に専属する国民の概念(nation)が発明されるまでは、国境は「フロンティア:frontier」として幾多の政治社会の<権力の磁場>が緩やかに重なる空間であり、また、国民も同時に複数の政治社会のメンバーであり得ることが欧州でもむしろ普通だった。而して、日本でも明治維新によって「主権国家」「国民国家」が成立するまではこれと同様。要は、現在の「国家概念」を過去に投影してもあまり意味はないということです。

尚、今でいう「主権国家」の概念が確立したのは、ウェストファリア条約から一世紀後のフランス革命による「国民国家」の成立を踏まえた(ウェストファリア条約から二世紀を経た)「ドイツ国家学」によると考えた方が無難であり、畢竟、「ウェストファリア条約による欧州主権国家体制の成立」とは後付で認定された<神話>と考えるべきだと思います。



■資本主義と国家
私は「儲けるためには何でもやる人をヤクザと言い(もっとも、三代目の田岡組長以来「菱」では薬物はご法度です!)、儲けるために合法なことなら何でもやる人のことを企業と呼ぶ」とよく若い同僚諸氏に言っています。この認識は私の資本主義理解と通底している。

「限定されたマルクス主義」と私が呼ぶ、現在の社会思想の共有財産としての「資本主義の運動法則の説明」は、『資本論』本文冒頭、第1巻4章・11章の「資本主義的生産様式が支配する社会の富は「巨大な商品集積」として現れる。だから我々の研究は商品の分析から始まる」「資本としての貨幣の流通は、自己目的である。・・・したがって、資本の運動は無制限である」「資本主義的生産過程を推進する動機とそれを規定する目的は、できるだけ大きな資本の自己増殖である」に明らかなように、資本主義社会は主要な生産が商品生産の形態で行なわれる社会であり、資本主義の運動法則は「商品生産→商品と貨幣との交換」のプロセスを無限に繰り返し、より大きな資本集積を目指すものだという認識に収斂すると思います。畢竟、資本主義下の資本の運動にはシステム内在的な限界はなく、よって、資本の自己増殖プロセスは(その資本集積の限界を定めるという意味での「計画性」を欠いて)無限に拡大する活動である。而して、資本主義は国境に遮られず、文化的環境や生態学的環境を破壊する危険性がある、と。私はこの認識は基本的に正しいと考えています。

近代のレッセフェールの時代は、個々の国民は国家の政治社会のメンバーであると同時に(取り敢えずは非政治的な)市場の参加参入メンバーでもあり、また、政治と経済から切り離される生態学的環境の住人でもあるという性格を帯びていた。けれども、主要な国家が大衆民主主義の社会に変貌した第二次世界大戦以降、就中、世界システムとしての資本主義が全世界を暴力的に均質化しつつある1989年-1991年の社会主義崩壊の前後からは、市場はその非政治性をかなぐり捨てて、かつ、生態学的環境もまた政治や経済と相互に無縁ではなくなってきている。これが、現下の国家と資本主義を巡る大枠の状況だと思います。

ドイツ国家学の泰斗イエリネックは「領土」「国民」「統治権」の三者を「ある政治社会が国家であるために欠くべからざる要素」と看做した。イエリネックの三要素に着目した場合、世界システムとしての資本主義は、現下、(人・物・金・情報の流通を促すことで)生態学的環境や産業構造の自生的棲み分け秩序としての領土を変貌させ、社会を多民族化することで国民自体を(社会学的と遺伝学的の双方において)変貌させ、かつ、個々の主権国家単独では解決できない多様で錯綜した諸問題を次々と惹起させることで国家主権の権威と権限を縮小化させつつあると言えるのではないでしょうか。

川勝平太『日本文明と近代西洋』が明確に論じているように、国境を超えた商品が購入されるために「命がけの跳躍」(『資本論』第1巻3章)をしようとも、その跳躍が実を結ぶか否かには購入する側が保持している物産を巡る<使用価値の体系>の中にその舶来品が適切に自己の居場所を占め得るかどうかが決定的な役割を果たす。畢竟、寿司が行き渡るまでのアメリカ社会では鮮魚を食べる習慣はかなり限定されており、最高級の鯛やヒラメの生け作りを日本から輸出したとしてもキャットフードにされるのが落ちだった。ことほど左様に、上記の「資本主義の運動法則」を抽出するプロセスでマルクスが斬り捨てた商品の(貨幣価値(=価格)に換算される交換価値ではない、個々の商品の個性的な用途や利便性である)「使用価値」の高低の判断はある国民と民族の文化コードであり、すなわち、伝統の一斑を構成している。

而して、けれども、資本主義を動因としたグローバル化の昂進の中で、ある国家に固有の<使用価値の体系>もまた変容を余儀なくされているのかもしれない。もしそう言えるならば、それは保守主義が保ち守ろうとする伝統自体が変容しかねないことを意味しており、畢竟、それは、国内におけるグローバル化の顕現たる「国際化」の中で、(移民・外国人の漸増、国際結婚の増加、ネットを通した情報の世界的均一化と同時化によって)保守主義の担い手、すなわち、伝統を保ち守るべき主体自体も変容を免れないことを意味している。蓋し、これが資本主義から保守主義が受けている挑戦の実相ではないか。そう私は考えています。


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■保守主義が受けている挑戦
世界システムとしての資本主義とグローバル化の昂進にともなう国家の揺らぎ。すなわち、主権国家の権限縮小、産業構造の変動に起因する生態学的環境の変貌、而して、国境を跨ぐ人の移動の増加、ならびに、これらの結果不可避的に生じる、一定程度固有で歴史的に特殊だった(物品に憑依する)物品の<使用価値の体系>の変容は、領土・主権・国民という国家の三要素を(更には、国民の意識内容や価値観をも)文字通り融解させている。

近代主権国家(≒国民国家)成立以降に限定すれば国家/国民(nation)は保守主義の苗床と言える。ならば、保守主義は、現在、それが保ち守ろうとしている「保守主義の客体」と保ち守る「保守主義の主体」の双方についてその基盤を危うくしている。すなわち、保守主義は世界システムとしての資本主義とグローバル化から挑戦を受けている。と、これが前節で提示した私の状況認識でした。

而して、今まで緩やかに使用してきた「グローバル化」という言葉を世界システムとしての資本主義の昂進と区分けして、より狭義に「産業化と情報化の拡大・強化・浸透・深化」を意味するものとして、かつ、「国際化」を「広義のグローバル化(=資本主義と狭義のグローバル化の拡大と浸透)からのある国家と国民(both state and nation)に対する影響」とここで定義するならば、保守主義が受けている挑戦は次のように整理できると思います。

◎保守主義が受けている挑戦の構図
(X1)グローバル化としての世界システム(=資本主義)の拡大と浸透
(X2)グローバル化の拡大と浸透(産業化と情報の均質化・同期化)

(Y1)人の国際化:国内外ともに生じる外国人との共生問題
(Y2)物の国際化:輸入品の安心安全の危惧・国内の産業構造の変動
(Y3)金の国際化:経済活動の不安定化・国内資産の安心安全の危惧
(Y4)情報の国際化:国民の意識内容と価値観の変動

(Z1)主権:国家主権の縮小・制限
(Z2)領土:産業構造の変動に起因する生態学的環境の変貌
(Z3)国民:多民族社会化の昂進
(Z4)伝統:<使用価値の体系>の変容=国民の意識と価値観の変容


蓋し、世界システムとグローバル化によって、(生産力の拡大と既存の生産関係との矛盾が歴史変動の動因だとする、マルクスの「唯物弁証論」風に言えば)産業化によって「下部構造」としての生産力と生産関係も、また、国際化による<使用価値の体系>の変容を媒介にした「上部構造」としての法制度や国家/国民(nation)の意識内容と価値観も揺さぶられている。更に、これら「上部構造」と「下部構造」の二階層構造をその内に包み、他の文明や政治社会からその二階層構造を防御する防波堤としての国家(state)も融解しつつある。本稿の第2節で述べた如く、唯物弁証論と唯物史観は単なるイデオロギー的な仮説(歴史と社会の認識と説明のツール)にすぎませんが、そのツールを用いればこう敷衍できると思います。

而して、ヘクシャー・オリーンの定理(「自由貿易が貫徹されれば、生産要素価格(=賃金率・地代・利子率)は世界中でいずれ同一になる」という主張)は些か机上の空論であるにせよ数学的には正しい。つまり、所謂「従属理論」(先進国の経済的繁栄は後進国の遅れた、そして、先進国によって歪に偏らされた産業構造の犠牲の上に維持されているという主張)には経済史的な仮説を超える意味はなく、先進資本主義国の帝国主義への移行の必然性を説いたレーニンの『帝国主義論-資本主義の最高の段階としての帝国主義』(1917年)の主張は完全に間違っている。畢竟、世界システムとしての資本主義とグローバル化が今後もその拡大と浸透を続けるならば、少なくとも、国際化を通して保守主義の苗床たる国家/国民は人類史的尺度においては均質化に向かっていると言わざるを得ないのかもしれません。

現下の保守主義の危機は個別日本だけの現象ではなく文字通りグローバルなものでしょう。而して、第一次世界大戦終結直後の欧州における伝統の解体と欧州の権威の凋落を予感したシュペングラーが『西洋の没落』(1918年)を書いたのは今から90年前でした。言うなればこの90年間(あるいは、遅くとも、ある意味、人間中心主義的でヨーロッパ中心主義的な西洋社会思想の「鬼子」と言うよりはその最後の正当な「嫡出子」と言うべき、「マルクス=レーニン主義」が崩壊した1989年-1991年からの20年間)保守主義の危機は続いている。そう言っても過言ではない。そして、ヨーロッパ後の社会思想はいまだに具体的には提示されていない。蓋し、それはポスト=ヨーロッパの時代の社会思想を、欧米以外の文化や文明に欧米の眼鏡を通して探す傲慢な態度や不毛な異文化趣味、他方、没落した欧米にさえを劣ったヨーロッパ以外の文化や文明をそのまま次の時代の主役として扱おうとする一層不毛な厚かましさとに原因があるのではないか。私はそう考えています。


■保守主義の応戦
世界システムとグローバル化からの挑戦に対して保守主義はいかに応戦をすべきか。すなわち、伝統の揺らぐ時代の保守主義は何を守るのか? 守るべき伝統にどう優先順位をつけるのか? 誰が伝統を守るのか? これらを意識しつつ「保守の応戦」について以下検討してみます。而して、ある文化と文明を守護しようとする場合、一般的に考えられる応戦パターンは以下の5種類ではないでしょうか。

(甲)反転攻勢-世界征服
(乙)鎖国
(丙)管理社会-異文化・文明の水際管理
(丁1)非管理社会-自文化・文明の競争力向上型
(丁2)非管理社会-ケセラセラ型


これらはあくまでも「応戦パターンの理念型」であり現実の施策と完全に一致するわけではありませんが、喩えるならば上から順に、支那:北朝鮮:スイスおよび韓国:アメリカ:オランダおよび日本が各類型に対応すると言えるかもしれません。

注意すべきは、寛平と寛永に発令された、平安期と江戸期の日本の鎖国政策は、就中、後者は「経済のお付き合いは貿易収支が大幅な赤字に陥り貴重な金銀が流出しない程度にはやりますが、政治上のお付き合いは原則的に勘弁してください」という一種の管理貿易制だったこと。更に、日本のそれとは異質な<使用価値の体系>が憑依した物品も、それらが日本の<使用価値の体系>の中に位置づけられる限り(そうでなければその商品は「命がけの跳躍」に失敗するでしょう。)江戸期を通して少なからず流入していたことです(あるいは、五島列島や肥前、壱岐対馬や薩摩の人々は「フロンティア」たる東シナ海で江戸期を通じて交易に従事していた事実です)。要は、江戸期はもちろん、(90年あるいは20年前の)世界システムとグローバル化の動向が本格化する以前とそれ以後とを比べた場合、人・物・金・情報の移動が各国/国民の<使用価値の体系>に及ぼす影響の度合が格段に大きくなっているということ。正に、量が質に決定的に転化したということです。

今更言うまでもなく(私が尊敬してやまない、小平先生が支那の改革解放を決断せざるを得なかったように)、この人類史規模の世界システムとグローバル化の拡大・浸透を鑑みるとき(貿易やエンターテーメントコンテンツの流通、あるいは、技術移転のみならず、金融・環境・人権・安全保障の諸問題に端的に現われているように)現在では世界のどの国も他国と無縁ではありえない。このことを想起するならば、所詮、(甲)は「風車に挑んだセルバンテスの騎士」をそう大きく超えるものではないでしょうし、(乙)は「頭隠して尻隠さず」の類の愚行、而して、(丙)は「蟷螂の斧」であり、ならば、(丁2)「座して死を待つ」ことを潔しとしない保守主義にとって、現下、真面目に検討に値する応戦オプションはアメリカ型の(丁1)しかないと思います。

蓋し、保守主義の立場からは、日本では(丁2)から(丁1)への路線転換が求められている。而して、自己の文化と文明の競争力を向上させること、すなわち、他の幾多の<使用価値の体系>との競争において勝利するほか日本の伝統が日本国民の伝統として生き残る道はない。而して、この保守主義を担い、守るべき伝統内部の優先順位を決める者は、日本の伝統や日本に一定程度固有の<使用価値の体系>を自己の行動と認識を律する規範や価値と捉える<日本人>以外にはありえない。そう私は考えています。

挑戦と応戦。保守主義の敵の正体と応戦の戦略メニューを一瞥した今。本稿の主題たる「保守主義の概念」と「再構築されるべき保守主義の内容」について考察する準備が整ったと思います。而して、その考察は今までのような「保守主義」という言葉を巡る受身の検討ではなく、そうあるべき保守主義としての「保守主義の本性」を積極的に規定し再構築するもの、すなわち、これまでも何度か先取りして記してきた「ある社会に自生的な伝統に格別の価値を認め、政治的と社会的な諸問題をその伝統が担保する法規範または道徳規範を格別に尊重することで解決しようとする態度」という保守主義の定義を根拠づけ、そのような「再構築されるべき保守主義の内容」に肉付けする作業になるはずです(★)。

マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』(1845年)の最後に「哲学者は、これまで世界を様々に解釈してきたにすぎない。大切なことはそれを変革することである」と書いた。蓋し、正に、我々、社会主義の崩壊と「マルクス=レーニン主義」の破綻後の時代に、而して、我々の伝統が世界システムとグローバル化からの挑戦を受けている時代に生きている保守改革派は「世界を変革するための社会理論」を希求獲得すべきである。そう私は確信しています。


★註:定義論
この世に普遍的で唯一絶対の「保守」や「伝統」の意味など存在しません。また、概念自体の真偽を直接判定することはできず、演繹と帰納、論理と経験を通して人がその真偽を判定できるのは「Aは・・・である」という命題の真偽に限定されます。要は、「迂回生産」よろしく、ある言葉を巡る命題を通して人はその言葉の正しい「概念」あるいは「定義」に接近できるにすぎない。而して、ここで言う「正しさ」も、言わば賞味期限付きで遂行論的な、かつ、その当該の問題を解決するに足る情報とスキルを持つ「専門家」の<政治的多数決>によって定まる間主観的なものにすぎない。

これが、基本的に私が採用する分析哲学の定義論のエッセンスですが、具体的には、ある言葉の定義はその言葉を含むある命題が(イ)どのような意味内容を運ぶための言明として使用されたのか、(ロ)語義や命題が通常の人間の経験と整合的かどうか、加えて、(ハ)そこで使われる当該の言葉の語義や命題の構文形態が通常の言語使用の慣習から許容されるものかどうかという、機能的・経験的・慣習的な基準から間主観的かつ漸進的、恒常的に臨時で遂行論的なものとして確定されるしかないのです。

而して、緩やかには、『広辞苑』の「保守」の説明等が慣習的検討(=辞書的定義)、また、本稿の本節までの考察が「保守主義」を巡る経験的検討(=言語の経験分析)、そして、次節以降が「保守主義」を巡る機能的検討(=遂行論的規定)と言えると思います。尚、この註に関しては和書ではありますが碧海純一『新版法哲学概論』(弘文堂・1989年)の第二章の熟読をお薦めします。



<続く>



(2009年2月21-22日:yahoo版にアップロード)

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