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書評☆向坂逸郎『わが資本論』(上)

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【三井三池製作所の工場遺構:1895年】

向坂逸郎(1897年-1985年)は、旧社会党左派、所謂「社会主義協会派」の総帥にして、日本のマルクス=レーニン主義思想の最高峰と目されたマルクス経済学者でした。向坂先生の論壇活動は戦前の所謂「日本資本主義論争」における労農派の論客としてのデビューに始まり(★)、また、我が国へのマルクス主義思想の「輸入」の部面でもこれまた戦前の『マルクス・エンゲルス全集』(改造社・1929年-1933年)の編集と翻訳、『資本論』(岩波書店・1967年:岩波文庫版は1969年-1970年)の翻訳等々巨大な足跡を残している。而して、向坂先生は、多くの後進の学究を育てたのみならず、例えば、「総資本対総労働の激突」と謳われた三井三池闘争(1959年-1960年)を担った組合指導者を手ずから育成薫陶したことでも明らかな如くその実践活動家としての実績も同時代の他のマルクス主義経済学者の追随を許さない。

本書『わが資本論』(新潮社・1972年)はこのように研究者であると同時に政治指導者でもあった向坂先生の自伝を中心とした随筆集。2008年の世界金融危機を端緒とする現下の世界同時不況を契機として、1989年-1991年の社会主義崩壊以降世界的に衰退していたマルクス主義の復活が(少なくとも我が国では「隠れ左翼」たるプロ市民やそれを支援する戦後民主主義を信奉する論客によって)喧伝され始めた向きもある昨今、マルクス主義の荒唐無稽さと、逆に、その手強さとを再確認する上で本書は我々保守改革派にとって好個の素材ではないか。そう思い私と寛子ちゃんの郷里、福岡県大牟田市の同郷の先輩である向坂先生のこの随筆集を紹介することにしました。以下敬称略。また、本書からの引用は頁数のみを記し他書から引用する場合には都度書名を明記します。

★註:日本資本主義論争(1925年-1937年)
日本における社会主義革命の戦略を巡りその前提として「日本の歴史的発展段階をどう理解すべきか」を主なテーマにして、日本共産党系の所謂「講座派」と反日共系の所謂「労農派」との間で大正末から昭和11~12年にかけて(両派が治安当局から検挙され沈黙を余儀なくされ自然終結するまで)断続的に行なわれた論争。大正末年の福本和夫・野呂栄太郎(共に後の日本共産党の最高幹部)の論文著書を嚆矢とし、当時、ソ連率いる国際共産党(第三インターナショナル:通称「コミンテルン」:1919年-1943年)の日本支部であった日本共産党がコミンテルンから実質上下賜された日本共産党の綱領「二七テーゼ」(1927年)と「三二テーゼ」(1932年)に関する賛否の甲論乙駁の中で、経済学と歴史学、而して、日本における社会主義革命戦略論議を遥かに越え文化論・芸術論にまで及んだ一大論争。

この論争において「講座派」は1930年前後の日本を「絶対主義の天皇制が封建的社会に聳えている歴史段階」(要は、明治維新は絶対主義体制の成立)と捉え、「現下」の革命戦略は「封建制と天皇制を打破するブルジョア市民革命」であるべきであり、社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論を唱えた。他方、「労農派」は1930年前後の日本は「十分に資本主義が発達した独占資本主義段階」(要は、明治維新はブルジョア市民革命)であると認識して、よって、「現下」目指すべきは「独占資本とそれを守護する国家独占資本主義体制を打破する社会主義革命」であるべきだという一段階革命論を唱えた。

両派の名称の由来は「講座派」の日本共産党系の論客の多くは岩波書店刊行の『日本資本主義発達史講座』(全7巻)の執筆者であり、他方、「労農派」は雑誌『労農』に論陣を張った論客がその中心を占めたことによる。向坂逸郎は、その師匠筋に当たる(共に、日本における社会主義の父とも言うべきキリスト教社会主義者・安部磯雄を生んだ同志社大学出身の)山川均・櫛田民蔵とともに労農派の中心的論客であった。

尚、「講座派」には属さないけれど、丸山真男・内田善彦等々の戦前の日本を「近代的市民意識が不在の(外面を専ら規制する合理的支配とともに道徳や歴史観を通して人間の内面をも支配しようとする)封建意識の跋扈する遅れた社会」と規定する認識は「講座派=日本共産党」別働隊と看做すべきものである。而して、そのような「講座派-講座派別働隊」的な戦前の日本社会に対する認識は(ニューディル左派を中心にコミンテルンの影響を受けたGHQの赤い占領軍幹部を通じて)占領政策に影響を与えたものと思われる。

畢竟、日本の戦争責任を軍部にすべて押し付けた上で「近代的な市民意識を持たない日本の民衆は愚かがゆえに軍部に騙されたにすぎない」とするロジックは、「日本の軍国主義を懲罰して日本社会に民主主義を根付かせるための戦争」というアメリカの対日戦争正当化のロジックを補完する認識である。つまり、佐伯啓思『国家についての考察』(飛鳥新社・2001年)の主張を借用すれば、それは、日本の民衆から(愚かであるゆえをもって)戦争の責任を免除しつつ、占領の目的たる「(愚かな日本の民衆を)民主主義を担うべき主体としての近代的な市民意識を持った日本人に育成する」ことを論理的に可能にするマッカーサーにとって大変有難い歴史認識だったのだから。



◆向坂逸郎の原点と背景
向坂逸郎はドイツ語の名手として有名ですし、そのマルクス主義理解の水準も(その大部分が社会主義協会の凋落と社会主義の崩壊の中で向坂と袂を分かつことになるにせよ)多くの後進学究を育てたことを見るだけでも、少なくとも日本では同世代のマルクス経済学者の中でも五指に入る。実際、政治闘争的な背景があったにせよ(現在、『蟹工船』ブームとやらでプチバブルの?)天下の日本共産党が『社会主義協会向坂派批判』(1974年)という450頁を越える、これすべて向坂に対する罵声と評すべき書籍を出版せざるを得なかったことは、逆に、マルクス経済学者としての向坂の影響力の大きさを示唆していると思います。

そんな「向坂逸郎」はどのような経過を辿って形成されたのか。まずは、私と寛子ちゃんの郷里でもある大牟田の紹介の部分から引用。この記述にもさりげなく「戦前において日本はかなり高度な資本主義段階に達していた」とする労農派的の認識が確認できると思います。尚、大牟田の現状、而して、「地方再生と日本の再生」に関する私の基本的な考えについては本節末尾のURL記事をご参照ください。

その頃【向坂が小学校に上がる前、1900年前後】日本の資本主義は、上昇線をたどっていた。明治三十年から四十年の間に、大体日本資本主義の支配が確立した。私が生まれたのは、明治三十年である。七歳で小学校に上がった。三池炭鉱が、【三池藩の】藩有から国有となり、さらに三井資本に明治二十一年に払い下げられた。この時以来「三池」は、三井資本の宝庫となった。大牟田の人口は、払い下げの直後の明治二十三年には一万一千ぐらいであったが、私の生まれた明治三十年頃一万七千人位となった。昭和三十年ごろからは二十万をこえている。このようにして大牟田の人口は増大して行った。しかし、三井炭鉱の「合理化」とともに人口は減少しはじめ、今日では十八万ぐらいとなっている【2009年3月現在・12万8千】。(p.16)

私どもが少年時代に用いた大牟田地方の方言を、いまの大牟田の子供たちは使っていない。(中略)今日の大牟田地方の独特の方言の変化は、テレビやラジオより何十年か以前に、三井資本によって導き入れられた。資本主義と言語の変化という問題は、全国的に面白い問題であると思う。プレハノフには、フランス革命と言葉の変化を取り扱った論文があった。(p.18)


向坂家は代々柳川立花藩の支藩にして徳川幕府の天領に隣接することで「親藩」格とも言うべき存在だった三池藩の藩士の家柄でした。而して、向坂自身も自己の原初的なアイデンティティーについて「私の家は、父祖代々の三池藩士であり、町の主たる人物で、大牟田村以来の旧来の人々のうちには、私の祖父の寺子屋で学んだ人々が沢山あった。私は正に町のエリートであり、誇り高い若者であった」(p.42)と率直に語っている。

本書にも書かれている通り(pp.9-13)向坂の祖父は、一度佐幕に傾いた三池藩を脱藩して倒幕の事業に馳せ参じ、而して、その後、戊辰戦争での功績ゆえに招かれた明治政府に仕える道を選ばず生涯を郷里で教育に尽した人物とされています。手許にある『大牟田市史』(1976年)も、「明治元年戊辰歳-七月十三日 東征出兵与諸藩倶攻撃奥岩城平城兵士傷者三員 浅手 士族 向坂多仲」「同七月十四日 薄手 向坂多仲」(中巻pp.2-3)と現在の福島県いわき市での戦闘に参加したことを記しており、更に、向坂の祖父多仲(号は「黙爾」)が寺子屋を運営していたこともその所在地:塾開設年:塾主宰者:生徒数:教授科目の順に「下里:明治10年:向坂黙爾:20人:筆道・読書・珠算」(下巻 p.479)と記録しています(「筆道・読書・珠算」とは今で言う「書き・読み・算盤」の当時の名称です)。

向坂は三井物産に勤めていた父君の仕事の関係と自身言う所の学業成績の不振を原因として中学(≒現在の高校)を数回転校する。1910年(現在の三池高校が設立されるのは1917年であり当時大牟田には旧制中学はなかったので)最寄の県立八女中学に、その後、北海道の小樽中学、而して、1912年、学業を放棄して絵画と文芸に耽溺していたその生活態度の乱れを危惧した母君の意向で父方母方双方の親族の目が行き届く九州に<強制送還>された。その際、母君の郷里である福岡県柳川の伝習館中学への転校を成績不振ゆえに拒否されたことから改心して、八女中学の旧知の校長先生に「これから本気で勉強しますから、どうぞ転校させてください」(pp.28-29)と一念発起して学業に打ち込むことを約して八女中学への復学転校を許されることになる。これを回想して向坂はこう記しています。

中学三年生のとき【旧制中学三年生であり向坂が15歳の時】勉強をしようと決心してから、私はずっと今日まで勉強した。本もよく読んだ。それ以来私は、自分で、すぐれた頭脳をもって生まれたと思ったことはない。ただ、自分のように才能にめぐまれていない者は、勉強する外に人生を、劣等感をもつことなく、たのしく送ることは出来ない、と単純に考えたようだ。(pp.29-30)

中学上級生のころ、『朝日新聞』に出ていた河上肇さんの「日本民族の血と手」その他を読んだ。これは私を大変刺戟して、学者になりたいと思った。しかし同時に、私のように頭の悪い人間は学者などという偉い仕事は出来まいと思った。次に考えついたのは、県知事なら自分も出来るだろう、ということであった。(中略)【「末は博士か大臣か」の】博士や大臣になれる自信はないものだから、県知事を選んだのかも知れない。(中略)それでとにかく熊本の第五高等学校【現在の熊本大学の前身】にはいった。(p.34)

中学上級の時代に、学者の仕事に興味をもったが、自分の能力ではそんなむずかしいことは出来まいと思いこんでいた(中略)、なってみれば、少しもむずかしいことではなかった。要するに一つのことをどこまでもつづけるという根気さえあれば、学者などという仕事は誰にも出来るのであった。(p.44)


・アーカイブ☆地方再生と日本再生を郷里で思う(上) ~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/39061156.html

・B29とバブルと地方の再生☆地方再生を賭した自民党総裁選
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/49555553.html

・郷里で考える地方再生と医師の育成
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/20967989.html

・Omuta, my Hometown
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/3835445.html



lenin



◆運命的邂逅:ドイツ語とマルクス主義
向坂を「向坂逸郎」というブランドにしたもの。向坂をしてマルクス主義経済学者・社会主義運動指導者の道に進ませたもの。戦後の日本社会で雨後の筍の如く叢生した有象無象のマルクス主義者や、所謂「進歩的文化人」と言われた講座派別働隊に比べて極めて個性的な存在として「向坂逸郎」をあらしめたものは何か。語学研修屋の端くれである私は、それは向坂の際立ったドイツ語力とそれを駆使してマルクス主義の数多の原典を丁寧に読み込み思索を重ねた、謂わば「平凡の非凡」と評すべき超人的な意志の力であろうと想像しています。

而して、「【中学の上級生の頃】学究生活というのが面白く思えたが、自分に学者になる能力があるとも思えなかった。もつとも、実際なつてみると、大したことではない。根気さえあれば、誰にでもなれる」(『現代随想集27巻』(創元社・1955年)所収「独立と自尊」p.321)と、向坂が都度繰り返す「自分は学者になれる頭脳を持っているとは思っていなかった」「学者というのは根気さえあれば誰にでも務まる」というのは彼の謙遜ではなく率直で正直な感想なのかもしれません。そして、おそらくそれは真理でしょう。もっとも、しかし、それは本当の所はそう「誰にでもできること」ではないと私は思いますけれども。さて、向坂とドイツ語の出会い。本書にはこう書かれています。

【1915年9月に入学した】高等学校は、ドイツ語を主としてやるクラスであった。ドイツ語は、一週間十二時間から十四時間ぐらいあった。(中略)これはいかんと思った。隣席の秀才たちは、【当時は中学の卒業が3月、旧制高校の入学試験と入学は各々6月と9月だったので】三ヵ月の休みを利用して、ドイツ語を、少しはやってきている。私はなにもやっていない。そこで覚悟をきめて、クラスで最もドイツ語のできる奴になってみようと志を立てた。幼稚な私にふさわしい志であった。が、正直なところ、その頃の私には、このていどの志しか立てられなかった。(p.33)

ドイツ人の教師は、グンデルトという先生であった。日本語のよく出来る人で、第一次世界大戦【1914年-1918年】で、ドイツ軍がパリに迫ったときまでは、大変きびしい人であったが、ドイツ軍が敗けはじめると、日本人にもやさしくなったと生徒たちの評判であった。(中略)私は小島伊佐美先生にドイツ語をたたきこまれた気が、いまもしている。ただドイツ語だけでなく、およそ学問の仕方を教わったように思われる。(中略)小島先生の教えられる新しい語句をことごとく暗記した。そして、その暗記をくり返した。私はあまり記憶のいい方ではなかったので、くり返しくり返し、暗記をやった。このようにして、一学期ぐらいの間に、ドイツ語の最も出来る男になった。(中略)クラスで最もドイツ語のできる人間になることくらいのことは、苦労というほどのことではない。しかし、どんなことでも、少しは苦労なしに楽しみはないことを知らなければならない。わずか三千メーター位の山頂をきわめるにも、苦しみはある。(pp.36-38)

私は、ドイツ語の勉強が私の一生の生活を支える手段となったこと、また生涯を不動にし、たのしくした思想への道を拓くものとは、その頃考えることは出来なかった。むろん、高い目標をかかげていたわけではなかった。目的は、ただ、一クラス四十人位の中で、いちばんドイツ語の出来る生徒になるという低い名誉心を満足させるていどのものであった。私はとくに語学の才能がめぐまれている人間ではなかった。だから、勉強する外には、私の目標を達成することはできなかった。それをやっただけである。(pp.38-39)


現在なら「詰め込み教育的」と批判されかねない主張かもしれませんが、教育とは所詮「詰め込みのプロセス」を経ることなしには個性と才能が花開くことは断じてない。この教育の鉄則が向坂のこの回想には籠められていると思います。今はもうどこに行ってしまったか誰も知らないポストモダンを喧伝していた輩等々、情報処理スキルとしての語学力にまかせて欧米の最新の動向を紹介するだけの現在の左派系知識人と向坂とはやはり別物と考えるべきでしょう。而して、「向坂逸郎」ブランドのもう一つの基盤、マルクス主義との出会いをドイツ語に没頭していたこの高校生は経験します。


<続く>


(2009年4月4日:yahoo版にアップロード)

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