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応報刑思想の逆襲☆裁判員制度を契機に司法の「常識化」を推進せよ(下)

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■刑罰を受ける権利
自己が引き起こした犯罪を償う権利を大東亜戦争後のこの社会は看過軽視してきたのではないか。少年や精神障害者の刑事事件の報道に接するたびに私はそう感じます。また、それらの事件に対する人権派のコメントを目にするとき、私はそのヒューマンで優しい言葉の裏側に、ある種の傲慢さと知的な怠慢を感じないではない。

すなわち、人権派ののコメントに私は、「刑罰が免除/減刑されるのだから加害者側には文句はないでしょう」「被害者遺族の憤り? 死刑を求める厳罰化の世論? 少年を実名報道しろ? 強制猥褻・強姦罪の累犯者はデータベース化してその転居ごとに各市町村に自動的に通知する仕組みを作れ/GSP衛星システムで常時所在を警察が把握できるようにしろ? 街頭カメラを増設して欲しい? そんなのは感情論。それらは、そのような主張が国家権力が市民を監視する管理社会を容認する結果になることも分かっていない愚民の感情論にすぎない」というような底意を感じてしまうのです。

これに対して、ちょうど8年前、今でもそれを最初に目にしたときに受けた新鮮な衝撃と感じた共感をくっきり覚えている新聞投書がある。本項のテーマ、「刑罰を受ける権利」ということを反芻する際にはいつも読み返すもの。長野県の55歳の女性NDさんの投書。NDさんの息子さんは20歳のころから人格障害と診断され現在に至っている。家庭内暴力を幼児期から見て育ったのが障害の一因とのことらしい。投書はこう語っています。以下、投書引用開始。

「裁かれる権利 与えてほしい」
精神病は通常の人のストレスの延長上にある病でもあり、だれもがなる可能性のあるものです。国も、ハンセン病政策を真に反省するのなら、「精神病者、即隔離」という考えが、どれほど大きな偏見で、医療的にも誤りか分かるはずです。精神病者とて、自ら犯した罪は分かるのです。私の知る限りの精神障害者と家族は、罪を犯したら通常者と同じく刑事責任を問い、裁判を受けさせてほしいと思っています。裁判を受けさせないのは、保護ではなく、裁かれる権利さえも奪っていると思えます。裁判によって、なぜその病になったかのか、病が犯罪にどうつながったのか、あるいは無関係だったのかを究明し、世の人々に伝えてほしいです。それが精神病を予防する道となり、精神障害者の犯罪の減少、予防へとつながると思います。(朝日新聞・2001年6月20日朝刊・東京本社版、「声」欄より要約紹介、以上、引用終了)


カントは、「人間を主体・目的としてのみ処遇し、道具・手段として扱ってはならない」と語っていますが、現行憲法の基本理念の一つ、「個人の尊厳」は、正に、このカントの主張から基礎づけられると思います。而して、この社会思想の地平からは、<精神障害者&少年≒責任無能力者>というアプリオリな規定は、本質的に人間を馬鹿にした、コトナカレ主義的で官僚的な「思考停止-知的怠慢」の帰結ではないか、とも。

例えば、精神障害者や少年の犯罪に対して実名報道を控える慣行は、終戦後の混乱期や高度経済成長にともない家族形態と地域コミュニティーが揺らいでいた不安定な時期というそれが成立・確立した時点では、世間の不当な偏見から<自分で自分を守れない弱者>を守護し、加害者が社会復帰して自立することを容易にする(過ちから自力更生することを触法精神障害者や犯罪少年達に可能にする)一つの妥当な、<加害者と社会を和解させる制度>であったかもしれません。しかし、それが牢固な慣習となりルーティンとなりタブーとなり形骸化した現在、この弱者保護の慣行は、触法精神障害者や犯罪少年・触法少年から、「精神障害者」や「少年」という記号論的な差異だけを根拠に彼等からこの社会の正規の会員として社会に貢献する機会を奪う<人格を否定する制度の暴力>に成り果ててはいないでしょうか。

蓋し、刑法と刑罰を基礎づけ正当化する論理としての応報刑思想をもう一度見直すべき時期にこの社会は来ているのではないか。而して、罪を犯した自分自身を認識でき、かつ、罪の償いの意味を了解できる者には裁判を通して刑罰を受けさせること。罪も罰も認識し了解できない者には、教育と治療によりその社会への危険性を逓減せしめること。刑法と刑罰の広義の一般予防と特別予防の効果を踏まえるならば、このシンプルな原則を愚直に実行すべきではないでしょうか。この投書を読み返す度にそう私は感じるのです。

而して、人権派がしばしば主張する先述の主張、「少年犯罪・精神障害者による犯罪、通り魔事件や幼児虐待事件の多発に対して厳罰化だけで立ち向かえるわけではない」「家庭や学校、地域の取り組みの強化、犯罪を引き起こす社会の歪みを是正することが大切だ」という主張は、この「刑罰を受ける」権利の観点と地平からは否定的に解されざるを得ないのです。蓋し、そのような主張は、一面で刑罰や刑法に過大な要求を押しつけつつ、そして、その要求が達成できないからといって刑罰や刑事法体系自体の枢要な役割をネグレクトするものではないでしょうか。喩えれば、それは国家権力を全能のものと勝手に想定しておいて、権力の無策非力を声高に非難する類の、朝日新聞的主張とパラレルと言ってよいと思います。

確かに、刑罰や刑法は完全でもオールマイティーでもない。だから、「刑事罰の強化だけで犯罪現象に立ち向かえるわけではない」という認識は100%正しい。また、確かに、厳罰化によっては犯罪は減らないかもしれません(先にも言及しましたが、飲酒運転罰則の強化により飲酒運転は激減しましたが、所謂自然犯では諸外国の例を見ても死刑制度の存置を始め厳罰化によって犯罪が減るとは必ずしも言えません)。けれども、応報刑思想を前提にすれば、刑法と刑罰の重要な機能の一つは社会的な報復を通して被害者感情を慰め社会における法の権威と尊厳を回復すること。ならば、法と秩序への信頼が揺らぎつつある現下のこの社会の現状を鑑みれば、厳罰化は、正に、この日本社会が渇望している施策と言える。そして、この応報刑思想に基づく施策の裏面には、社会が納得する重さの罰を受けることで罪を償う。「刑罰を受ける権利」の擁護の姿勢が存在している。畢竟、この刑罰を受ける権利は誰からも奪われることのない人間の固有の権利ではないか。私はそう考えます。


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■犯罪者は犠牲者と考える「優しい社会」は正常な社会か?
少年や精神障害者、外国人グループによる凶悪犯罪の横行を受けて、厳罰化や少年法の改正を求める世論が強くなっています。実際、加害者の人権は地球よりも重く、片や、被害者や被害者遺族の人権は羽毛よりも軽んじられてきたこの社会の現状を見れば、それは当然の流れでしょう。しかし、他方、凶悪犯罪の横行を目の当たりにしてもなお(よって、再々になりますが)「犯罪は社会的矛盾の顕現であり、加害者も被害者も社会的矛盾の被害者である点では同じです。ならば、犯罪に対しては、加害者を非難し厳罰を求めるだけでなく犯罪を自分達の社会の問題として捉え返してみることが大切です」、などとのたまう人権派も存在しています。

例えば、評論家の大塚英志さんは「長崎幼児殺害事件」について朝日新聞に「考え続ける大人はいるか」(2003年7月19日・オピニオン面)なる論考を投稿しておられた。曰く、

「少年や若者によるどうにも不幸な事件が社会を揺るがした時、それを自身の問題として受けとめるひどく当たり前の立場が戦後社会にはあった。(中略)事件の直接の加害者が法の下で責任を負うことや、被害者やその家族の人権が配慮されるべきことに異論はない。しかし青少年の犯罪を自身の、そして社会問題として受け止めるかつてのありふれた態度が、たった今、この国ではひどく衰退してはいないか。(中略)自身の問題として青少年の不幸な事件を受け止める『社会』は、この国の戦後に確かにあった。そのような社会が、少年犯罪の温床となったのか、あるいは抑止する力だったのか、そこからじっくり考えよう」、
と。

犯罪を自分の問題として捉え、どうすれば犯罪をなくすことができるかを被害者と加害者を含め社会全体で話し合うことが大切、とは何と美しい言葉でしょうか。これを聞いたら、右の頬を打たれたら左の頬も相手に差し出すことを勧めたナザレのイエスも裸足で逃げ出したかもしれません。しかし、犯罪被害者とその遺族の激情を前にしても、社会的矛盾の解決のプライオリティーを冷静に説くそのようなヒューマニズムは、犯罪の被害者とその遺族にとっては無内容かつ不条理な言説を笑顔でもって説く傲岸不遜にすぎないのではないでしょうか。而して、これらの傲岸不遜の基盤には大東亜戦争後の戦後民主主義が垂れ流してきた観念的な人間観と性悪説的な国家観が横たわっているのかもしれません。

身体障害者に優しい社会は、実は、健常者にとってもより快適な社会である。この命題を私はある程度正しいと思います。ホイールチェア-の使い勝手を考慮した駅や歩道は、そうではないブッキラボウな駅や歩道に比べて健常者にとっても心地よいことが多いことは確かだからです。けれども、では、犯罪者に「優しい社会」は犯罪者以外の者にとってもより快適な社会でしょうか? 私は必ずしもそうではないと考えます。犯罪者に優しい社会は正常でも健全でもない、と。否、犯罪者への処罰と社会的非難が曖昧に済まされるような社会は、究極的には1個の社会としては成立できなくなるのではないかとさえ私は考えるのです。

畢竟、苛政は虎よりも猛かもしれませんが、犯罪者に優しい社会は犯罪者を含む誰にとっても非道で不条理な社会なのではないか。蓋し、上記の大塚英志さんの如き、犯罪者に優しい社会を推奨する論者は、大東亜戦争前の健全な教育を受けた日本人が具現していた戦後も1990年前後くらいまでのこの社会の相対的な治安の良好さという社会インフラの上に胡座をかいて、かつ、彼等のその空虚な主張を可能にしてきたこの社会の良風美俗を批判しているだけではないのでしょうか。

しかし、現下の日本社会の治安の劣化、就中、市民が皮膚感覚で感じる治安の悪化はここ十年ほどの『警察白書』が示すデータを見れば思い半ばにすぎるものです。犯罪全体の認知件数の数値とは無関係に、通り魔事件や幼児虐待事件等の理不尽な犯罪の横行、他方、少年犯罪一般の増加と、就中、所謂「虞犯少年≒不良少年」ではない<普通の青少年>によって惹起される凶悪犯罪の増加等、(それはおそらく戦後民主主義が崩壊させてきた)この社会の病理の反映としてカテゴリー化可能なタイプの犯罪の恒常化は一般の市民に治安の悪化を文字通り肌で感じさせるものだからです。ならば、崩壊しつつある日本社会の治安インフラの上に胡座をかいて犯罪者に優しい社会の実現を求めるなどは恐らく正気の沙汰ではない。そして、彼等の戦後民主主義的な主張の基盤に、「国家の性悪説-国家の必要悪説」、すなわち、近代立憲主義の社会思想が横たわっているとするならば、畢竟、近代立憲主義が間違っているか、彼等、戦後民主主義を信奉する論者が近代立憲主義の意味内容を誤解しているかどちらかであろう。私はそう考えています。


■被害者の人権はもともと人権のメニューに掲載されていない?
近代立憲主義とは、憲法とは国家権力の恣意的な運用に対する頚木であり、そして、国家権力とは個人の人権を守るためにのみその存立が許された人為的な統治システムと考える憲法思想と言ってよいと思います。ゆえに、近代立憲主義を採用した憲法典は、権力分立規定と人権規定とを二本柱にして編まれているのが一般的です。而して、(社会保障や経済的規制を内容とする所謂「現代法」の問題は捨象するとすれば)近代立憲主義を基盤とする近代法は、国家権力の恣意的な抑圧から国民の権利をその個々の法域の具体的な場面で守ることを目的としていると述べてもそう大きな間違いはないでしょう。

而して、(我が国に立憲主義を導入した)旧憲法下の刑事法体系の形成以来、今日に至るまで刑法・刑事訴訟等々が加害者の人権を護る条規に溢れながらも、被害者や被害者遺族の人権を護るための条規に乏しいのも当然のことなのかもしれません。否、上記の立憲主義の意味内容からは、「被害者の人権」なるものは原理的に存在しない理屈になる。ならば、存在しないタイプの人権の擁護を裁判所や検察や警察に求めても、それは、彼等、刑事司法制度を担うプロフェッショナルにとっては無理難題というものです。

蓋し、「「近代立憲主義-近代刑事法体系」において被害者の人権は存在しない」という結論は論理的には間違いではない。けれど、近代法の基盤。近代刑事法体系に正当性付与してその効力を担保しているsomethingについて考察を加えるとき、この結論は否定されるべきだと考えます。

畢竟、近代立憲主義は、(α)個人の自由な社会的活動の可能性を確保するために、それまで個人を抑圧してきた様々な中間団体(≒教会・ギルド組織)を国家の権威と権力でもって弱体化させこれらの桎梏から諸個人を解放し、(β)しかる後に、個人を抑圧しうる唯一の存在として残った国家権力自体の行動を憲法によって規制しようとしました。而して、このロジックからも近代法は国家の恣意的な権力の運用から国民を守るシステムであり、近代憲法のイデオロギーは国家権力を<仮想敵視>している。よって、戦後民主主義を信奉する論者が「国家の性悪説-国家の必要悪説」をその立論の前提に置いていることは、近代立憲主義の意味内容から見て特に批判されるべきことではないのです。

他方、しかし、近代立憲主義、すなわち、近代憲法のイデオロギーが「国民」と「国民国家」という政治的神話を構築したこと。つまり、近代憲法が国家権力を仮想敵視するものの、さりとて、近代憲法が「国家」や「国民」という政治的神話を否定していないどころか、それらの表象と相互依存の関係にあることも見過ごされてはならないと思います。

そもそも、近代憲法とは国民国家創出のイデオロギーが法的世界にインカーネートしたものです。アーネスト・ゲルナーが『民族とナショナリズム』の中でいみじくも述べている通り、「民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の方法を通じてではない。確かに、ナショナリズムは以前から存在し歴史的に継承されてきた文化あるいは文化財果実を利用するが、しかし、ナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも多くの場合それらを根本的に変造してしまう」ものでしょうし、ならば、近代憲法とそのイデオロギー的中核である近代立憲主義もまた、近代国民国家の時代という歴史的に特殊な時代背景の中でのみ(しかも、フランス流のエキセントリックな人間観と国家観を受容する極限られた地域でのみ)その<神通力>を保ちうる制度であり政治的神話にすぎなかったのだと思います。

而して、(ドイツ・フランス流の参審制を通して参審制の一バリエーションたる)今次の我が国の裁判員制度に流れ込んだ、英米流の陪審制のエッセンス、すなわち、「コミュニティーの古き良き伝統の精華たるコモンローはコミュニティーのメンバーの手で継承発展されるべきだ」という英米司法の理念を想起するまでもなく、「被害者の人権」が存在しない近代立憲主義的な刑事法体系は唯一絶対のものではない。蓋し、国家を社会統合の中核と捉え、伝統と文化の結晶と見る「憲法-国家」思想と近代立憲主義的なそれとの優劣は論理的に確定することはできず、当該社会の構成メンバーの法意識と法感情と法的確信を通してその当該社会において自生的と遂行論的に優劣が決するしかない事柄だと思います。

要は、ルソーに連なるフランス流の憲法思想だけが近代憲法思想ではない。それどころか、伝統と慣習を重んじながら、国家権力と国民の各々の活動がバランスよく推移する憲法イメージを提供している英米流やドイツの憲法思想が、むしろ、近代以降の世界の憲法思想において間違いなく主潮流なのです。而して、この経緯は、(権力がその実現に与力する理由となる価値と「権利」を定義するならば)「犯罪の被害者の権利」を認める刑事法体系もまた(ドイツ憲法とアメリカ憲法の影響を濃厚に受けている現行憲法において)憲法上充分な根拠をもって成立しうることを意味していると思います。

畢竟、「被害者の権利」をその権利のメニューに含まないような近代立憲主義や刑法思想には、最早、この社会において正当性はなくそれらは放擲されるべきである。私はそう考えていますが、この私見を導くキーワードは「応報刑思想の逆襲」です。次項で敷衍したいと思います。


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■応報刑思想の逆襲
近代国民国家成立以降の刑事法体系は、原則、私人の報復を禁止しました。しかし、これは中世・古代、あるいは、支那の律制や(唐律の影響を受けた日本の律制)において私人の報復が原則認められていたということではありません。文化人類学が教えてくれている通り、どんな社会でも無制限な私人の報復は認められてはこなかったのです。ゆえに、近代の刑事法体系とそれ以前の刑事法体系を分かつものは「私的な報復は国家権力が原則禁止した」という点に収束することになります。

而して、近代立憲主義下の法体系では、国家権力は個人の間の紛争には介入しないことを原則としています。更に、近代刑事法において、法が復讐を禁止するのは私人間における復讐の慣行と復讐の連鎖が社会の安寧秩序を危うくするからに他なりません。よって、被害者や社会が抱く犯罪に対する憤りを封印するかわりに、国家は犯罪と犯罪者に対する復讐を代行しなければならない。復讐を禁じた国家権力には犯罪の被害者に代わって犯罪の加害者に復讐する権限が与えられており復讐する責務を負っている、と。再々になりますが、これが刑法と刑罰に巡る応報刑思想のラフなスケッチです。

蓋し、近代国民国家における国家権力による加害者への報復は、個別の事件の被害者/被害者遺族の感情を宥めることにその根拠と役割を限定されていません。応報刑思想によれば、刑法と刑罰の機能は「法の権威と尊厳に対する社会的な空洞化の、これまた、社会的な治癒と回復」だからです(また、「近代立憲主義下の法体系では、国家権力は個人の間の紛争には介入しないことを原則とする」ことを想起してください)。逆に言えば、例えば、一審の死刑判決が確定した(大阪教育大学池田小学校事件に関して)「ある被害者遺族の中には「控訴や上告と続く時間の中で加害者が反省し、自分の犯した罪を恐れるようになってから刑に服して欲しい」と記者に語る方もおられる」などという朝日新聞的な論理は、この刑事司法の本質を全く理解していないものと言えるでしょう。刑事手続への被害者参加が応報刑思想からは望ましいこととは別に、あくまでも、刑事司法は被害者のものでも加害者のものでもないのですから。

ならば、国家権力がその復讐の責務を怠るようであれば、俄然、復讐の権利と責務は被害者と被害者遺族、ならびに、法秩序に対する信頼を踏みにじられた社会のすべての構成員に与えられることになるのは必定ではないでしょうか。この経緯を確認しておきます。

(a)国家権力が自力救済(復讐)を社会の構成員に対して禁止した段階で、社会の法秩序を維持するための法の権威と尊厳を維持する権限と責務は国家が一旦は独占することになる

(b)近代国民国家のみならず、どのような国家社会も被害者や社会一般が懐く犯罪と加害者への怒りを宥めること、すなわち、加害者に厳格で速やかな報復を加え、法と秩序の権威と尊敬を回復させることをその重要な機能としている。而して、私的制裁を一部容認していた社会に比べ、近代国民国家が担っている犯罪に対する報復の使命は遥かに重たいものとなる

(c)国家権力が上記の責務を果さないのなら、法の権威と尊厳を回復し法秩序を維持する権利と責務は被害者と被害者遺族、ならびに、義憤を感じた社会の全構成員のものとなる

(d)国家権力は、よって、(c)の如き<万人の万人に対する戦い>の事態を防ごうと思うならば、その実体法(刑法)においても手続法(刑事訴訟法)においても犯罪の加害者に対する十全な復讐の契機を織り込まなければならない

(e)犯罪の被害者の権利は、近代立憲主義からは権利と認められないかもしれないが、(公的暴力を独占し、かつ、法域を私敵領域と公的領域に峻別した)近代国民国家の本性からは固有の権利性が認められる。更に、近代立憲主義を戴く近代国民国家も国家である限り、人倫に根ざす被害者の復讐の権利は近代立憲主義下の憲法秩序においても充分な人権性を認められなければならず、もしも近代立憲主義がその人権性を認めないものであるならば近代立憲主義の憲法体制は憲法秩序としての正当性を失い、而して、その憲法は効力を持ちえないからである


蓋し、裁判員制度はこのような復讐の契機を刑事司法に流し込むための水路です。よって、裁判員制度が成功するかどうかは、犯罪と犯罪者に対するこの社会の憤激が、法の定めるデュープロセスを遵守しつつ裁判員裁判の評決にいかに反映されるかにかかっているでしょう。而して、裁判員制度が適切に作動するならば、この社会の法体系の権威と尊厳は漸次回復されるかもしれない。それは正に、司法の「常識化」の推進と呼ぶべきかもしれませんが、私はそうなることを期待しています。

けれども、「どのような社会でもどのような時代にも最適な制度」は存在しない。まして、(例えば、犯罪少年の実名報道のマスメディアによる自主規制等)この国の刑事司法と刑事法の体系には戦後民主主義の数多の悪弊が付着している。そして、法治主義を遵守する限り、それらの悪弊の打破までも裁判員制度に期待すべきではない。畢竟、国民の常識と整合的な刑事司法と刑法体系は、やはり、世論の粘り強い喚起と立法によらざるをえないと思います。

そして、もし、現在の日本の刑事司法が犯罪に対する報復の機能を十全には果しておらず、他方、社会の安寧秩序の維持にも問題のあると感じる国民が多いのであれば、刑事法体系のみならず、(日本の刑事司法制度をそのようにシャビーなものにしている原因の一つが現下の刑事法体系が基盤としている刑法思想にあるとするならば)、戦後民主主義的で近代立憲主義的な刑法思想に批判を加えることもその「世論喚起」の主要なテーマになるに違いありません。蓋し、裁判員制度がそのような世論喚起の営みの苗床になることを私は期待しています。

而して、いずれにせよ、「国民の常識を体現可能な刑事政策」を国民は渇望しており、戦後民主主義が歪めた犯罪と刑罰の関係の是正がこの社会にとって焦眉の急であることは確かだと思います。蓋し、犯罪からの日本社会の解放は、戦後民主主義からの日本社会の解放に他ならない。と、そう私は考えています。尚、本稿に関しては下記の関連拙稿も併せてご一読いただければ嬉しいです。

・野蛮な死刑廃止論と人倫に適った死刑肯定論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/56484072.html

・山口県光市の母子殺人事件に死刑判決を☆
 戦後民主主義の非人間的な刑罰観を排して応報刑思想を復活せよ
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-144.html







(2009年6月4日:yahoo版にアップロード)

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